◆クスリ◆





ぺし、と投げつけられた白い袋。
「ヒルマさん、これ何ですか?」
「ピル」
膨らんだガムとゴムがよく似合う女が投げつけたもの。
「はい?」
「はいじゃなくて、飲め。テメーの生理痛で試合ぽしゃらせるわけにもいかねぇからな。
 秋大会終わるまで飲んでろ。その後はシラネ」
言葉に聞いたことはあっても実物を見るのも、ましてや使用するのも初めてのこと。
「単純に生理止める目的だけで使えよ?」
「はい……でも他の目的って……」
足りない、ともう一枚ガムを口の中に放り込む。
「避妊。中だしされほうだい。副作用は自分で調べろ」
時計の針をじっと見つめて残りの残数を数える視線。
「ヒルマさんも……使ってますか?」
「じゃなかったらどうやってテメーがそれを入手すっかだな。中に説明プリントしたの入れてある。
 ミスなくちゃんと使えよ糞チビ」






自分の身体を守るのは結局自分だけになる。毎日同じ量の薬を飲み込んで鏡を覗いて。
(もうすぐ合宿だから、他の薬も貰いに行かなければ……)
坊主頭の女子はどこに行っても目を引いてしまうから、結局面倒でもウイッグを被ることになる。
素面であるけば白血病だ何だと言われてしまうのも余り良いことではない。
「一休、ちょっと今日の練習休ませてもらう。用事があるんだ」
ボールを掌の上で廻しながら雲水を待っていた一休が首を傾げた。
「用事って、どっか行くんですか?雲水さん」
「病院に。あ、どこか悪いとかじゃなくて」
「…………それ、俺も一緒に行っちゃダメっすかね?」
神龍寺の二年生は個性的な面子が多い。この細川一休もその一人だ。
「ゴクウさーん!!俺も雲水さんと一緒に休みまーす!!」
手早にユニフォームを脱ぎだしてバッグに詰め込む。そのまま帰宅してしまおうという算段だ。
「阿含が来たら一休は雲水とデートに行ったって言ってやるよ!!」
「あー!!それ以外の言葉でたのんまーす!!」
駆けだしてしっかりと隣に並ぶ。
女子にしては高身長の雲水よりも少し小さな彼は、人懐こい性格だ。
「雲水さんっ!!準備出来ました!!」
敬礼よろしくにこりと笑えば、同じように笑う唇。
連れだって歩けば鳴き始めた蝉の声。
「荷物持ちますよ、雲水さん」
差し出された手に断ってしまうのも彼の気持ちに失礼だと、小さなトートのほうを手渡す。
「え、おっきい方持ちますよー。折角雲水さんとでかけられるのに」
「こっちには着替えが入ってるからな。校区外に出たら着替えようかと思って」
神龍寺の道着姿は目立ってしまう。近隣では珍しい男子校というのもあって雲水は帰り道に着替えることも多い。
「スカートとか……うわ、見たい!!鬼見たい!!」
「上着羽織るだけだよ、一休」
ぽふ、と頭に乗せられる手。この指先が狂いの無いコントロールでボールを操る。
フィールドに立つ一人の選手として見ても雲水の能力は高いほうだ。
天才の名を冠する弟の影にはなってしまうものの、神龍寺ナーガを纏める鉄壁の軍師。
「こういう弟が欲しかったな」
耳の奥で鳴り響く蝉の声に眉を寄せる。夏の暑い日は好きじゃない。
「ちょっと着替えてくるよ」
駅前の雑居ビルのベンチでぼんやりと雲水を待つ。
こんな風に二人で出掛けられることはまず滅多にない。できればこれを機に増やしていきたいところだ。
「あ…………」
見慣れた黒髪のボブと、少し大きめの黒のジャケット。
「なんか雰囲気違うッすね……そういう雲水さんも綺麗っす……」
「どこにでもいるぞ、この程度は」
フィールドに常に居るはずなの薄めの色素。どこか色が白いのを益々強調してしまうようなジャケット。
髪に留まる銀色の蝶はポケットにも一羽留まっていた。
「正直、阿含さんと双子ってのも信じられないってか……見た目だけだったら絶対に違う」
入学式の日、やけに綺麗な坊主姿の少年だと思った。
自分と同じ学年だから年は当然一緒なのにどこか大人びた影のある表情。
呼ばれた名前で彼が彼女であることを知る。
金剛阿含の名前は良くも悪くも有名過ぎたのだ。そして、その双子の姉がいるということも。
「でも、中身やっぱ似てるっていうか……雲水さん気付いてます?喧嘩するとき阿含さんとそっくり」
神龍寺に入学したての頃は本物の女子ということでちょっかいを掛けてくる輩も多かった。
しかしその大部分は一週間で静かになった。
躊躇なく相手を殺しにかかる拳を持つものが彼女の隣に立っている。
金剛雲水に近付くにはそれなりの覚悟と強さは必要だということだった。
入学以前はもっと頻繁に襲撃される機会が多かった。身内、しかも女というのは往々にして狙われやすいものだ。
細腕で抵抗などできないだろうと高を括った連中を沈めていく少女の拳。
「自分の身は自分で護らなきゃならないからな」
狂うこと無く殴りつけ謝罪の言葉など聞こえ無いと足元が赤く染まるまで踏みつける。
弟に押さえつけられること減らすために始めた武術はいつの間にか立派な武器になっていた。
それでも弟に抵抗出来ることなどはないのだけれども。
「阿含さんが女だったら、やっぱそうなのかなーって思った感じってか……」
「あそこまで喧嘩慣れはしてないけどな」
「みんな阿含さんの事、怖い怖いって言うけど……俺もナーガのみんなも、怖くないっちゃ嘘になりますけど、
 怖いだけじゃなくて一緒にいて楽しかったりぞくぞくしたりとかあるし」
一呼吸おいて一休が続けた。
「でも、それって雲水さんがいるからだな、って。俺、神龍寺入って毎日鬼楽しいっすもん」
チームを纏める司令塔として、天才をも時にこっそりと操る双子の片割。
時々雲水が阿含に仕掛ける小さな悪戯に、ものの見事に天才は全てはまるのだ。
「……って、病院って此処ッすか?」
それは男子には余程の事では無い限り用の無い場所。
看板に書かれた文字の「婦人科」で、改めてこの男装のチームメイトが女子なのだと痛感する。
「どこか近くで時間潰してるか?」
「んー……うーん……いや、行きます。付添?なんか彼氏っぽくないですか、俺?へへっ」
「そうだな。この時間だとそう人もいないだろうし中で待ってても大丈夫かもしれない」
擦りガラスのドアを開けてそっと入り込む。
肌に感じる冷房の心地よさに思わずため息が漏れた。







「うえ、雲水と糞ホクロじゃねぇか」
診察室から出てきたのは泥門のQBであり悪魔の二つ名を持つ女。珍しく一人で服装も制服では無い。
「ヒルマ」
「あー……そっか、オメーも必要だもんな、雲水。ってか、俺が紹介したんだしな、ここ」
こくん、と頷く姿。フィールドの外まで敵対関係を持ち込むのは恐らく阿含と一部の人間くらいだろう。
同じ年代同じ性別、加えて弟の阿含をある程度理解してるとなれば友好な関係を築いていた方が良いに決まっている。
「融通利くもんな」
「ああ」
受付にカードを提出すれば程なくして呼ばれる名前。
雲水を見送って隣に座ったヒルマに視線を向けた。
「……………………」
いつも威嚇するように逆立てられている金髪は珍しく下ろされて、襟足の長さとふわふわさが目立ち始める。
焼けたことの無いような肌と長袖から覗く細い手首。
シャツ越しにも分かるくっきりとした胸のふくらみは健全な青少年なら息を飲んでしまう。
「雲水さん、どっか悪いのかな……」
「あー……オメー知らねぇのか、雲水がなんでここ来てるのか」
「だって、病院なんて具合悪くなきゃ来ない場所だし」
つん、と額を小突く指先に目を閉じる。
「俺も雲水も、ここにはピル貰いにきてんだよ。大会中『お腹痛いんで見学させてくださぁい』なんてくだらねぇからな」
男には無い身体の事情を無に帰して、男子の中で闘うために必要な秘密。
「ピル……?」
「生理止めてんだよ。俺も雲水も。そっか、神龍寺男子校だもんな。飲んでる奴は居ねぇわな」
副作用の太りやすさをも練習や鍛錬で押さえ込んで体系と筋力を維持すること。
神龍寺名物の滝壺修業も雲水は男子に交じって普通に受けていた。
「ま、俺と雲水はそれと避妊の都合ってのもでかいけどな」
「……やっぱ、うん……だとは思うんですけどね……」
双子の弟の感情は独占欲では片付けられないもので、嫉妬など押さえ込む必要は無いと姉に手を伸ばす。
分かっていても恋心は止められないもので叶わないものでも諦めることもできない。
「俺はまだあれだけど、雲水の場合は洒落にならねぇ」
近親だからこその危険など、彼の前では無意味に等しい。
自分を守るのは自分なのだと寂しそうに呟いた唇。
「昔っからお姉ちゃん大好きで重度のシスコンだとは思ってたけどなぁ……ありゃ病気だ」
頭の後ろで手を組んでヒルマが脚を投げ出す。
「かえってオメーみたいな能天気なのが雲水の男だったら、あいつもお姉ちゃん廃業するんだろうけど」
細かな気配りでチームの中心になる雲水は、考えてみればナーガの保護者にも似ていた。
練習嫌いの阿含を引き摺って来るのも雲水であり、叱責できるのもまた彼女だけ。
「お、薬上がった。んじゃ、雲水に後で連絡するって伝えとけよ」
立ち上がるヒルマを改めてまじまじと見つめてしまう。
何度か見たことのある雲水の身体つきよりもずっと女性的なフォルムが美しい。
「何ガン見してんだよ」
「あ……その……」
一個人として捉えてみれば整った顔立ちと柔らかそうな唇にどきり、としてしまう。
「ま、精々ブン獲れるようになるこったな。あの糞ドレッドぶち殺して」
ちゅ、と悪戯に額に唇が触れる。
「!!」
「おー、可愛いねぇ。真っ赤になりやがって」
ヒルマも雲水もまだ十七歳なのだ。自分と同じ年のはずなのにずっと年上に思えてしまう。
「さ、先に帰っちゃいますか?」
「雲水待ちてぇとこだがよ、迎えが来てんだわ。ちゃんと伝えろよ、細川一休」
ぱちん。閉じられる左目。敵対するだけではなくもう少しだけ話を聞きたいと思わせる女。
入口に見えた影が手を軽く上げれば同じように彼女も応える。
(俺って人生経験浅いな……)
男子校である神龍寺に入学して以来、色恋沙汰には遠くなった。
付き合っていたはずの彼女も卒業とともに疎遠になり、部活一辺倒の高校生活かと諦めも抱いていた。
同じクラスの少し前の席、今時珍しい潔すぎるような坊主姿の少年の姿。
自己紹介の時に聞こえた声は男子のそれとは全く別物の柔らかさ。
推薦枠とは別物の特例措置での入学の疑問はすぐに解けることとなる。
遅れて教室に入ってきた少年は彼女の前の席に座りこんだ。
「雲子ちゃんもー、俺とー、アメフト部ねー」
「酒臭いぞ、阿含」
「アぁ?だってお祝いでぇ、ピンクぃドンペリ飲んじゃってぇ」
天才と呼ばれる少年の名は金剛阿含と言う。力無きものには興味もくれず嘲笑うその唇。
その悪鬼のように恐れられる彼がもっとも加護するのが双子の姉だった。
正しく言いかえれば加護ではなく束縛と慕情を絡ませた黒い感情。
離れるのが嫌だと力ずくで入学の許可をもぎ取ったのだ。
それほどまでに欲せられる才能と一種のカリスマ。
「お前がどこでどんな女と何をするのも勝手だが……」
伸びた手が彼の顎に触れて力が籠る。
「一度アメフトをすると決めたのなら、卒業まで俺はそのつもりでいるぞ。阿含」
「あーん?俺とか可愛くなぁい……そんな可愛い顔してンのに。いつも見たいに可愛い声聞かしてよ」
周りに誰がいようともそれは彼にとっては路傍の石と同じ。
神に愛された天才は暴力的な強さを振りかざし、その手に同じ遺伝子を持つ少女を抱く。
「阿含」
すい、と伸びた細い指が彼の両頬を包んだ。
「はぁーい。なぁに?キスしてくれんのぉ?わーい」
にこやかな笑顔の姉と弟。
「一遍死んでこいッ!!」
そのまま固定して鮮やかに決まるヘッドバット。ぐらついた身体に連射で決まるコークスクリュー。
最悪の天才と言われる金剛阿含と同じ遺伝子を持つもう一人の存在。
顔に合わない獰猛性を隠して彼女はもう一度弟に締め技を喰らわせる。
「あ、あの……そのくらいでいいんじゃ……」
「この程度で死んでくれるような可愛い弟なら、愛せたんだがな」
この一件で雲水を特別枠の女子と見る人間は激減した。腐っても金剛阿含の実姉だと。
(だったなぁ……雲水さん鬼綺麗で鬼怖かった……)
怠惰な弟と勤勉な姉。しかし二人の強さは本物でもあった。
阿含の力を存分に発揮させるための土台を作れるのが、雲水だったのだから。
欠かさぬ練習と鍛錬。男子生徒も逃げ出すことのあるアメフト部の荒行をすべてクリアしていく姿。
一年生にして正クオーターバックの位置に着いた実力は彼女が自分で勝ち取ったものだった。
「一休?」
ふいに掛る声に顔を上げれば視線が重なりあう。
「どうした?待ちくたびれたか?」
「入学初日の雲水さんのこと思い出してました」
「何かしたか?」
「阿含さんにヘッドバットかけて殴り飛ばして……」
人差し指を唇にあてて、何やら思案顔。そんな行為はほぼ日常で一々覚えても居ない。
「あの程度で死んでくれるなら、可愛いんだがな」
やっぱり同じセリフを口にして思わず笑ってしまう。
薬袋を受け取って鞄の中に詰め込む。自分の知らない彼女を少しだけ覗くことのできた放課後。
もう少しだけ近付きたいと、半歩分だけ身体を寄せた。





付き合わせた礼だと入ったコーヒーショップ。
キャラメルラテとチーズケーキを選んで奥の方の席に。
「いっぱい飲まなきゃ駄目なもんなんすか?」
銀色のフォークがケーキのかけらを静かに突き刺さった。
「毎日飲まなきゃならないのと。臨時用だな」
「臨時って……何かあるんすか?」
そのままフォークを彼の口元に近付けて、にこりと笑う。
「どっかの馬鹿が勝手に捨てた時用とアフターピル」
「アフター?」
思わず食いついてそのまま飲み込む。レアよりもベイクドが彼女の好みだ。
どう説明しようかと少し考えて、口を開く。
「中に出されても一定時間内に飲めば殺傷能力を発揮する、と言えばいいのか?」
「中に……出されて……出されて!?」
「ああ。どっかのもじゃもじゃ頭は面倒だってゴムは使わない。まあ、他所じゃどうだかは
 分からないが。裁判沙汰と性病貰ってきたらはっ倒すとは言ってあるけども」
淡々と語るのが余計に生々しさを増長させてしまう。
チームメイトとの猥談よりも目の前の彼女の一言の方が濃い。
「阿含さん……結構サイテーっすね……」
もう一口、と向けられたフォーク。きっと、彼にもこうして食べさせることがあるのだろう。
伸びた指先が一休の唇の端に触れる。
「ゆっくりと食べればいい。ついてる」
この人は本当はどんな生活をしてどんな道を進みたかったのだろう。
天才と呼ばれる弟を活かすことを選ぶまでの葛藤と恐怖は自分が想像するものなどきっと凌駕している。
「俺だったら絶対にもっと大事にしますよ」
「みんな同じこと言うんだな。有難い限りだが」
緑色のストローが唇に触れる。
「みんな?みんなって誰っすか!?」
テーブルに手を突いて思わず身を乗り出せば、部活では見せないような顔で雲水が笑った。
「ゴクウと弥勒。ニュアンスが一緒なら山伏先輩もだな。男子校だからまあ、仕方ないって言うか」
チームメイトはみんなライバル。その中でも一際最凶と呼ばれる相手が彼女の右手を取るのだ。
恋はまさしく戦争で積み上げられた屍の上に悪鬼は荒々しく座るのだろう。
彼女を縛りつける細い糸。まるでマリオネットに絡むかのようなそれ。
その色は白から赤に塗りかえられ、意味を変えていく。
「雲水さん」
硝子越しの光はその色を変えて彼女に影を差す。放課後の空に掛かる月はどこまで白く透明に近い。
ロンググラスの中で氷が冷たい音を立てて季節を告げて。
「好きです」
「奇遇だな。同じことを考えてた」
「ええええええええっ!?じゃあ、俺達両想い……ッ」
耳まで真っ赤に染まって慌てふためく。
「だから」
差し出される左手。
「私を連れ出してくれ。此処から」
低く沈むその声は今まで聞いたことの無い音階。
彼女が縛られるのは地中深いその場所。旧い地獄のような監獄に座る悪鬼の姫。
伸びた牙を隠して毎夜訪れるものを飲み込むように。
「…………っ…………」
「冗談だ。この間呼んだ本にそんな台詞があってな。大体、私とどうのこうの起きたら大怪我で済めば
 軽い方だしな。それに、うっかり結婚してみろ。あれが義弟だぞ。私が男だったら絶対に嫌だな」
あの透明の月を壊すような笑い顔。
「ここのケーキも美味しいな。買って帰ろう」
あの一言は彼女の判断基準なのだろう。躊躇なくこの手をとれるのかどうか。
「夏合宿には阿含も引き摺って行こうとは思ってるんだが……脱走しそうだ」
一年の夏合宿は初日から脱走を阿含は図った。右手に荷物を引っ掴み左腕には眠る姉を抱いて。
合宿継続に突き付けた条件は二人部屋にしろ、の一言。
翌日から雲水は寝不足と格闘しながら合宿の日程をこなす羽目になったのだ。
「今年は山伏先輩たちとトラップを仕掛けておこうと思ってな。就寝時間過ぎたら大人しくしてる方がいいぞ」
がり。氷を齧る音。
(目が……本気だ……むしろこの人、殺る気だ……)
壮絶な姉と弟の喧嘩は今では神龍寺の名物の一つになった。
「まあ、それで死ぬような弟だったら随分気楽なんだがな」
悪戯のような殺し合いもきっとこの二人の日常の一部なのだろう。
手を伸ばせば届く距離なのに、酷く遠い。
触れられそうな錯覚の真昼の月のようなこの思い。
「!!」
後頭部に感じる指の圧力。
「あっれぇ〜?一休こんなとこで何してンの?」
「あ……阿含さん……」
ぎり、とノブでも回すかのように動く拳。
「病院に付き合ってもらっただけだ。一休から手を離せ、阿含」
右手でグラスを持って薄い唇が氷に触れる。飲み込んでがり、と噛み砕いた。
「帰ろ、雲子ちゃん。捜しまわったら疲れちまった」
僅かに乱れた呼吸からすれば探し回ったのは嘘ではないのだろう。そんな些細なことにも気が付けるのに。
右手を掴む左手。
「………………」
彼の左手が彼女の右手を掴む。ただそれだけの当たり前の行為。
(さっき……雲水さんが俺に出したのは左手だった……)
そんな些細なこと。彼にとって一番大切なのはどうあっても彼女である。
強すぎる弟を持った姉は己にも同じ強さを求めるようになった。それは二人を縛りつける何かに変わって。
引きあうのは血だけではなくもっと奥深いところ。
だから彼女も彼を完全に拒絶はしないのだ。
「よく此処だって分かったな」
くぃ、と右手が左手を引けば促されるように椅子に座る。羽織っていたシャツを背凭れに引っ掛ければ同性でも見とれるような身体。
「あー……まぁね。その辺は愛の力ってヤツ?」
微かな汗の匂い。いつもよりも絡ませた指の強さ。
「そう言うことにしておいてやるよ」
「雲子ちゃん、喉乾いた」
「同じのでいいか?」
「お・ま・か・せ」
解いて席を立った雲水を視線だけで見送って、阿含はもう一人に視線を向けた。
にやり、と笑った唇とその瞳。
「誰に断って雲水とお出かけしてンの?一休」
「……雲水さんにちゃんと言いました。それに、阿含さんは雲水さんに優しくない。俺だったら
 もっと大事にします。ちゃんと護ります。嫌だっていうこともしません。阿含さんよりは泣かせません」
どうしても一度ぶつからなければいけない壁なのならば。
「雲水さんが好きです」
勝率の少ない賭けでもそれがゼロで無いのならば、どこからでも手を伸ばしてインターセプトを決められる。
それが細川一休というプレイヤーでもあるのだから。
「だから?」
穏やかな低い声。茶化すこともなく逸れることも無い視線。静かに外されるオークリー。
「俺から雲水を盗ろうってか。流石はコーナーバックの天才様だな、細川一休」
たった一つだけ大切なもの。硝子越しのこの光も、生きるために必要な酸素も。
彼にとっては彼女以上の価値など無いのだ。
「お前、俺があいつに優しくねぇって言ったな?」
テーブルに肘を突いて左の手に顎を乗せて彼が笑う。
「あいつがお前に優しいってのはなんでだろうなぁ?正確には、俺以外に優しい。何でだ?」
「阿含さんが雲水さんを傷つけるからです」
「違うな。あいつはどうでもいい連中には優しいんだよ。俺だけがどうでもよくないから違う」
呼吸さえも奪うような言葉。
空気が喉をじりじりと締め付ける。
「でも……阿含さんは雲水さんの弟だ」
忌まれる恋は叶えるわけにはいかない。
「だから?」
これ以上深入りすれば恐らくは戻れなくなってしまう。
「細胞爆発して、俺と雲水になって。羊水も共有して。一緒に産まれてきて。一番最初に知った女で。
 ちっちぇ時から可愛かったなぁ……こいつ育ったらどんな女になるんだろうって思った」
胎内でゆっくりと目を開けて。最初に入ったもう一つの命の姿。
小さな親指を銜えてまだ閉じたままの瞳の彼女。
きっとそこで恋に落ちた。生まれる前から始まっていた。
「綺麗だろ?俺のお姉ちゃん」
ぱきん。右手の関節が上げる不協和音。
「なぁ、一休。俺からお姉ちゃん盗らないでくれよ。世界に一個しかねぇんだからよォ」
声も出ないような静かな殺気と狂気。
金剛阿含の本質は暴力的な気質よりも絡め取るような狂気なのだと今更ながらに気付いてしまう。
「俺の大事なモン、盗らないでくれよ」
その声に込められた恐ろしきは呪詛。
他に何も要らない。貴女以外に価値など見出せない。誰も何も二人だけでいい。
胎内でそっと手を伸ばして抱きしめた最初の暖かさ。
同じように小さな手が覚束ない動きで触れてくれた。
「何をやってるんだ、お前は」
頬に触れるグラスの冷たさに阿含が顔を上げる。
「どうせ何も食べてないんだろ?夕食までのつなぎだ。まったく……一休で遊ぶなど何度言ったら……」
ため息交じりの女神が笑う。
「雲子ちゃんにもっと優しくしろって説教されてたの」
三人分のグラスと一人分のマフィン。
「……優しい阿含だと……気持ち悪い……」
「えー、俺優しいじゃん。何でそういうこと言っちゃうかなぁ」
甘いはずのカフェラテがどうしようもなく苦い。この感情の行方と重なる様に。
「うわ、甘ぇ……雲子ちゃんも女の子だからこーいうの好きだよねぇ」
「黙って飲め」
「はぁい」
この二人の間に入るには火傷程度で済むなら軽い方だろう。
焼きつくされて存在すらなかったことにされてもおかしくは無いのだ。
嫉妬されも許されない。そんなものがあるとは知らずに生きていた方が幸せだった。
「あ”ーーー、あっちぃ……」
「そんな髪してるからだろ」
「いやん、好きなくせに」
「気持ち悪い」
恋の迷路の中心に彼女は佇み、赤い空を見上げる。右手に約束を携えて。
全方位に張り巡らされた罠を掻い潜り左手を伸ばせる存在。
(失恋よりもずっと性質悪い……こんなの……)
ビアズリーのパズルのように、二つが一つであるべきものが別れてしまった。
悔しいのは彼女の隣に彼が居ることが何よりも似合ってしまっていることなのだ。
真昼の月に溶けていく思いは螺旋を描いて。羽虫のように昇りつめて砕けて。
破片が降り注ぎ飲み込んでまた恋をする。
叶わないと知りながらも何度も、何度でも。








繋がれた左手と右手。
「薬貰いに行ってたのか?」
定期的な通院はもはや義務にも近く、それを阿含は咎めることも止めることもしない。
抜けられない迷路にはまったままの二人で居たいと願うように。
「ああ。無くなりそうだったし……ヒルマに逢ったぞ」
「言ってたな。糞ホクロと一緒にいるって聞いて走ってきた」
きゅ。少し強く絡ませて自分の方に引き寄せる。
「飲まなきゃなんねーのかよ、それ」
言葉だけ。その行為が必要なのは誰よりも理解しているからこそ。
「必要だろ。それとも他の投手でも良いなら私は飲まないぞ」
「嫌だね」
分かっている。本当は違う理由だということも。
それを言ってはいけないことも、それを止めてはいけないことも分かっている。
他の女ならば簡単に縛りつけることのできる行為も彼女にとっては最も恐れることなのだから。
泣かせたいわけでも傷つけたいわけでもないのに、もっと優しく抱きしめたいのに。
この左手をどうしたらいいのかが分からない。
「阿含?」
何も知らなくていい。何も聞かなくていい。気付かれないようにもう一度、夜を止めてしまえばいい。
ほんの少しの動揺も戸惑いも全て知られてしまうから。
本当に怖いのは全てを見つめられてしまうことで。
「なぁ」
暗くなり始めた帰り道は昔の記憶を引き出しから取り出してしまう。
「俺の事、嫌いか?」
時折彼はひどく弱った声でそんなことを問う。
「死んだ方がいいって思うか?」
いつかの夏の日。忘れられない夏の日。
目の前が真っ赤に染まって真っ白に変わったあの日。
「俺なんかいなくなれば、お前は幸せになれるか?」
「……………………」
「なあ」
永遠に抜け出せない迷路でいい。二人だけで居たいだけ。
「一休と何を話したかは知らないし、聞かないけどもな」
右手がぎゅっと絡まって。
「夕飯は阿含が食べたいのを作るよ。それで機嫌を直してくれないか?」
オレンジは闇に溶けてやがて赤を孕んだ黒に変わりゆく。
まるで酸素に触れた血液が黒になるかのようなその錯覚。
「阿含」
手を解く。
一瞬だけ、まるで世界の終りでも来たかのような表情と絶望を抱いた瞳。
逞しい背中を抱いて、子供をあやすように二三度軽く叩く。
「何か怖いのか?お前は昔からその癖がある」
狭い道はきっと誰も通らない。かごめかごめの格子の奥。菱形と四角が幾何学に変わる。
「どうなってもどんなふうになっても、お前は私の弟だ」
「……………………」
抱きしめたいのに、腕が動かない。
記憶の奥にある彼女はこうして抱きしめてくれた。
「……弟じゃ嫌なんだよ……」
「だろうな。それも知っている」
「じゃあ、なんで」
囚われたのは果たしてどちらなのだろう?
「なんでだろうな。私もどうしたらいいか分からない」
姉はいつもそうだった。最後の最後には弟を庇っていた。
どんな時も彼女は彼の味方だった。
「そう簡単に答えの見つかる人生も面白くないだろう?」
彼女の人生を奪った自覚も、壊した責務も、嫌というほど理解している。
誰にでも優しいことは誰にでも優しくなく、全てが等価値で特別が存在しない。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「やっぱ無理。呼べねぇ……雲水……」
「どっちでもいいけどな」
昔は女言葉だった彼女。今はどちらかといえば男言葉になってしまった。
小さな歪みはゆっくりと籠を作り彼女を其の檻に閉じ込めてしまう。
「何が食べたい?阿含」
首の匂いに引き寄せられて、薄い背中を抱きしめる。
「雲水」
「は?」
「雲水が食いたい。足りない。全然足りねぇ」
満たされたいのは胸の奥。
「夕食だと言ってるだろ。馬鹿」
「晩飯に食いてぇんだよ。夜食と朝飯もな。明日は土曜だ」
左手が僅かに震えて頬に触れた。
路地裏。袋小路。灰色の壁。薔薇色の世界。
「……んー……」
甘えるようなキス。
「可愛い弟がこんなにお願いしてんンのに?」
「可愛い?どこにそんな弟が居るんだか……」
「目の前。可愛い弟兼、大事なコイビトっしょ?」
世界で一番危険なクスリはこの腕の中にある。
飲み込んでしまえるのはきっと自分だけだろう。
「豪華な晩飯に相応しい場所行っちゃおう、雲子ちゃん」
「誰が認めると言った!!」
「俺の好きなモンって言った。だから食いたいもん言ったし、好きなモン言ったんだけど?」
不安与えるのも彼女であり、消してくれるのもまた彼女であり。
「帰るぞ!!」
振りほどこうとするのをきつく抱きしめる。
「好き。おかしくなりそう」
肩口に埋まる小さな顔。
「まだマトモだったのか?」
「ひっでぇの……こんなに愛してんのに」
「ああ、やっぱりおかしいな」
骨を溶かして肺腑を腐らせて神経を切り裂いて脳細胞を侵食して。
甘くて甘くて眩暈を起こすその薬は此処にある。








18:49 2010/07/24











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