◆三分の一の純情な感情◆
降り行く雪に見るのは誰の影かと彼女は呟いた。
「どうかしたのかい?ピサロ」
「何でもない…………ここから見る雪も悪くは無いと……」
銀の髪に触れる指先の細さ。
透き通るようなその肌に彼女の胸は痛むだけ。
「冷たい風は体に悪いから」
そっと窓を閉めようとする手を青年のそれが止める。
吐く息も白くこの小高い丘にも冬がやってきた。
入り口の存在しないこの塔に住まう恋人の元へ、魔族の皇女は時折訪れる。
「君に心配ばかりかけてしまうね」
「そんなことも……ああ、私がずっとここにいられれば……」
折り重なるため息は彼女をよりいっそう美しく彩ってしまう。
憂う赤い瞳も、黒衣に携えられた銀の長剣も。
人形のようだと揶揄するものもいれば聖女のようだと崇める者もいる。
皇女デスピサロは二つの顔を持ち、微笑には常に血の匂いがした。
「ピサロさま、僕もロザリーもずっと待ってたんだよ」
「あはは。私もヤンカシュに会いたかったよ」
スライムを拾い上げて小さなキス。
そして彼は彼女の額に唇を優しく押し当てた。
「ロザリー、私と一緒に居て怖くない?」
あの日、彼女は彼の命を拾った。
亜麻色の髪と瞳を持つ穏やかな青年は魔族の皇女と恋に落ちる。
この小さな密室が二人だけの幸せな空間。
「どうしてそんなことを?僕が一度でもピサロを怖いなんて思ったとでも?」
外套を脱ぎ捨てて、長椅子に座り込む。
ブーツに施された銀の装飾と王族の紋章の美麗さ。
「人間なんて要らない。魔族もエルフもどうしてこんなに遠慮しながら生きなきゃいけないの?」
「お願いだから物騒なことは考えないでおくれ、ピサロ」
「ロザリーがそういうなら我慢するけども……また、誰かがあなたにひどいことをするなら
私もうちの軍全部を率いるつもりよ」
茨道の恋は二人を責めるように燃え上がる。
触れた唇の熱さはそのまま罪のようにさえ思えた。
彼が意識を取り戻したときに見た風景は鮮やか過ぎる赤。
細身の少女が己身の丈ほどの剣を振り、かつて人間だったものを残骸へと変えていた。
「大丈夫?怪我はない?」
返り血をきれいだと思ったのはこれが初めてだった。
透けるような肌に飛んだ赤い体液。
「エルフの男なんて珍しいね。丸腰でこんなところを歩いちゃ危ないのに」
差し出された手をすんなりと受け取るにはまだ心の準備ができなくて。
そうしているうちに少女は手のひらの血に気付いてマントで拭う。
「ごめんなさい。血が付いたままだったわ」
銀髪から僅かに除く魔族特有の耳。
薄い唇の奥に隠された鋭利な牙。
「私ピサロ。あなたは?」
「……エルフに名前なんて必要ないからね」
「ごめんなさい。お詫びに安全なところまで一緒に行くから」
青年の胸ほどの小さな背丈。
ブーツを鳴らして彼女はどこかご機嫌な様子。
耳に揺れる金色の飾りがその人の身分を静かに告げた。
鞘に刻まれた紋章は正真正銘の魔族の王家のものだったから。
「ピサロさんはどうしてこんなところに?」
並んで歩けば彼女が魔族などと誰が思うだろう。
柘榴石の瞳がぱちくりと瞬く。
「お父様が煩いからちょっと抜け出したの。お月様に誘われてお散歩して……そしたら
人間の匂いがして、あなたがいたの」
魔族にとって人間は家畜に過ぎない。
エルフにとっての恐怖が人間であるように魔族はその上に降臨する少数なる絶対君主。
「そうだ、あなたのお名前を考えたの」
「僕の…………?」
「そう。私の秘密の部屋がある場所の名前。そこに連れて行ってあげる」
二度目に差し出された手を受け取って指先を絡ませた。
感じる体温は自分たちと何一つ変わらないものなのに、彼女は遥かに遠い存在。
「素敵な場所よ。ロザリーヒルっていうの。ホビットと私の友達のモンスターしかいないのよ。
そうだ、そこに住んじゃえばいいよ。私、話し相手がほしかったんだ」
おそらく、本来の彼女は闇そのもの。
すべてを奪い食らう絶対なる王族。
それでも彼にとってはたった一つの希望の光。
「ロザリー。あなたのお名前」
凛と光る銀色の恋の矢が二人を射抜いたのはこの瞬間だったのだろうか?
「私のこともピサロって呼んで、ロザリー」
胸を病んでいる彼に必要な清浄なる空気と安静な空間。
彼女は時折訪れてはたわいもない話を好んだ。
「ロザリー、雪が降りそう。寒いもんね」
闇夜に散らした銀の粉。まるでその星を模したような彼女の髪の美しさに青年は目を細めた。
赤はこの世界で最も美しい色だと彼は知る。
彼女のその瞳に。
「ピサロさん、風邪を引きますよ」
白い指先が暗闇に示す道。
「あ、雪…………ロザリー、雪だよ!!」
隣に並ぶ青年の声など聞こえないのか、彼女は淡雪に手を伸ばす。
手のひらで消えていく白のそれはまるで人間の命のよう。
「ロザリー、私…………王位を継ぐことになったの。この間の武術大会で決まったわ」
「ああ……ずいぶんとひどい怪我をしていたけれども……」
「あなたたちを守るの。私……人間を……」
「ピサロさん」
頬に触れる青年の手の冷たさ。
包み込むそれに瞳を閉じた。
「僕はあなたの綺麗な手が血に染まるのは好きじゃありません」
亜麻色の瞳が赤に重なる。
世界中で最も触れ合ってはいけなかったであろう二人の手。
「あなたは僕に名前をくれた。なによりも僕に命をくれた。僕は……あなたと静かに
ここで過ごせればそれが一番に幸せです」
白い季節の風に吹かれて胸が苦しくなる。
この痛みを知ることができたことを幸せと思えばいいのだろうか?
「どうしてそんなに人間に優しくなれるの?」
それはきっと誰しもが思う疑問。
「私たちを迫害し、忌み嫌う人間を」
この体に剣を突き立てるその存在。
「あなたを殺そうとした。人間にとって私たちは……」
「それでも命は等しく尊いと思うのです。あなたが僕を救ってくれたように」
少女の冷たい指先を取って青年は優しく握った。
流れる血の暖かさは同じなのに、何かが違う。
無垢であるがゆえに生まれる殺戮。
「人を殺めるのならば、僕を殺めてからにしてください。ピサロさん」
困ったように見上げてくる真紅の瞳に宿る光。
その光が輝きを増せばきっとこの世界などたやすく滅んでしまうだろう。
「ロザリーは私の大事な話し相手だもの……そんなことできないわ」
「あなたに飽きられないようにしなければいけませんね」
「飽きることなんてないわ。だって……」
少女の手が青年の頬に触れる。
どくん。心臓が張り裂けそうな感覚。
「こうしているととても幸せになれる。どうしてなんだろう……他に何にも欲しくない……」
きらり。揺れる耳飾。
黒の外套に舞い散る美しい銀糸。
「ロザリー、冬はどうしてこんなに綺麗なんだろう」
雪は大地に飛び散った赤黒い血を全て消し去ってくれる。
まるでその罪を全て許すかのように。
「ほかの人がどう思っても」
まるで母親が子供を抱きしめるように青年は少女を優しくその腕で包む。
「僕にとってはあなたがいるからこの世界が綺麗に思えました」
少女が纏うのは血の匂い。離れることの無い赤は瞳をも蹂躙した。
「街の灯も星空も……あなたがいるから全て綺麗に思えるんです……」
重なる心音にピサロは静かに瞳を閉じた。
抱擁一つでこんなにも幸福感に包まれて息さえもできなくなる。
「だから、あなたがここにいてくれるだけで僕も幸せなんです」
柔らかな髪が頬に触れて。
「あなたは王位を継ぐ方……僕との戯れもいずれは許されないことになるでしょう」
「王位なんて要らないの……でも、王位があればあなたを守れる。だから、私は誰よりも
強くなろうとした。私が女だからだと文句も言えないように強くなればいいだけで……
誰がどんなふうにしたって、私はきっとここに来る。誰にも止めさせない」
凛と白いこの空気に溶け込む声。
この小さな体に閉じ込められたその力に世界はいずれ震撼する。
「ねぇ、ロザリー」
青年の背を抱く細い腕。
「私、あなたのことがきっと好きなんだと思う」
「僕はあなたのことが好きですよ」
「もっと素敵にいってくれるかと思った……!!」
掠めるようなキスに少女の動きが止まる。
「綺麗な雪です。でも、あなたはもっと綺麗です、ピサロさん」
唐突な恋は甘く切なく激情的。
「僕も、これでも男ですから」
「驚いて死にそう…………」
「一緒に心中でもしますか?」
「それでもいいかもしれないわ」
額に触れる唇に閉じられる瞳。
硝子細工のような睫と目尻の水晶の涙。
「時間だけはたくさんあったんです。だからこれを作りました」
永遠なんて必要なくて。ただこうして穏やかに笑いあえれば。
「でも、あなたの指に合うかどうか……少し大きいみたいですね」
青年から指輪を受け取って少女はそれをチェーンに通す。
彼女の髪と同じように輝くりんとした銀。
「ありがとう、ロザリー」
世界を狂わせる恋は始まったばかりで、まだこの先の運命など知りもしないまま。
その剣はおろか彼女はいよいよ鮮血に染まり行く。
「ピサロさん、雪が綺麗ですよ」
細い肩をそっと抱き寄せれば、少女は静かに青年にその身を預ける。
世界中に二人きり。そんな錯覚さえも覚えるこの瞬間に。
「そうね……ここから見る風景がすごく好き……」
ため息も溶けていきそうな銀世界。
「ねぇ、ロザリー。ひとつだけお願いがあるの」
「なんでしょう?」
「ピサロさんじゃなくて、ピサロでいいわ。私、あなたの前ではただのピサロだから」
「はい」
触れ合った指先。
狂い行く悲しい世界に降る雪だけがただただ幸せを彩った。
この感情も何もかもまだ成長し切れなくて。
だからこそ、恋は恋として咲き乱れるのだろう。
戦乱はまだ生まれる前のこと。
彼と彼女は出逢ってしまった。
1:02 2007/12/29