◆閉ざせし雲の通い路◆
「チョコレートが欲しいんです」
「今、政務中なんだけども……そんなに急ぎの用事?」
少し不満げな青年を制して少女は山のような書類に手を伸ばした。
「チョコレートねぇ……ごめーん!!だれか御茶請けにチョコレートお願いして
いいかなーーっっ!?」
若き主君の声に一斉に従者たちが雪崩れ込む。
復興途中のサマルトリアを取り仕切るのは麗しい王女。
「リトリア様!!ぜひ、私めに!!」
「いいえ!!私に!!」
先の大戦を終えて少女は王族としての指揮を取ることとなる。
亜麻色の髪に翡翠の瞳はこの国を象徴していた。
サマルトリアの王族は代々緑眼を引き継いでいる。
妹姫となるレムリアも同じ瞳だ。
「ついでに彼も一緒に引き取ってもらえれば」
「待て!!それが未来の夫に対する言葉か!?」
「今忙しんだ。予算の決議と人員配置……父上はもう引退決め込んだみたいにしてるし」
手元の小鈴をならせばわらわらと彼は従者たちに引きずられていく。
相手がどんな立場であってもこの城で彼女の言葉は絶対だ。
まだ自分の中で余裕を持てるほど傷は癒えてはなくて。
だからと彼の思いをそのまま受け取ることもできない。
伸びた髪が日差しに揺れる。
(チョコレートねぇ……僕が貰う方なんじゃないかな……)
ふと視線を移せば立てかけられた剣と引っかけたヘッドゴーグル。
冒険の日々は今も色あせることなく鮮やかすぎる。
ためいき一つを風にのせて、リトルは再度書面に目を通し始めた。
「アスリア様、いかがなさいました?」
噴水の縁に座り込んで、ぼんやりとする青年の傍らに佇む少女。
一見すれば違和感のない光景だが彼女の靴底は大地に触れてはいない。
亜麻色の波打つ髪に翡翠の瞳の第一皇女。
「レムちゃんか。お稽古もう終わったのか?」
「今日はお休みです」
空中浮遊は絶えず魔法力を放出し続けなければならない高等魔法の一つ。
まだ幼さの残る彼女が苦も無くそれをやり遂げてしまうのはその血の強さ。
サマルトリアの紋章の刻まれたケープには漆黒のリボン。
ひらひらと揺れるドレープが愛らしい。
「私も箒で飛んでみたいです」
「基本原理は一緒だぜ。放出する点を変えればいいだけだし」
「でも、箒をもってません……」
しゅんとする少女の頭に手を乗せる。
「作ってみっか?」
「はい!!」
午後になってもきっと恋人は激務から解放されることはないだろう。
いずれは自分の義妹になるのだから、関係は良好に越したことはない。
手際よくまとめて魔法をかける。
一種の生体操作で空飛ぶ放棄は作られるのだ。
それは後の世に錬金術として名を変えて伝えられるように。
おとぎ話のような魔法の世界がまだここには広がっていた。
「練習してきます!!これでいろんなところに行けますね!!」
「横に座っても良いんだぜ」
「すごい!!こんな風になれるなんて!!」
ふわり、とドレスの裾が舞い上がる。
空飛ぶ箒を操る姫など前代未聞だろう。
世界を救ったロトの血は伊達ではなく、彼女にも脈々と流れている。
(さて……チョコレート……)
この体が男であって、彼女の心もまた男のまま。
いくら身体が少女のままでもその内側までは変えられない。
(そういうもんだよな……俺らは男同士の恋愛みたいだ……)
ばりばりと頭を掻いて、ため息をひとつ。
飛ばせばベラヌールまででも一瞬で行けるだけの速さはある。
水の都に居る菓子職人たちは芸術品を作り上げる腕前。
(よっしゃ!!今ならまだ行ける!!)
箒に跨って大地を蹴りあげる。
ここで退くのは男としても名折れであり、女としても恰好がつかない。
狙うはその心のどまんなか唯一つ。
彼の描く軌跡は星となって地上に降り注ぐ。
それは大魔導師にしかできない芸当の一つ。
ロマンティックな流れ星は恋人たちの必需品。
降り注ぐ七色の星は誰かの心を幸せにしてくれる。
「リトル!!」
「どうかしたの?決議書もできたし話くらいなら聞けるけど」
風に煽られてぐしゃぐしゃになった髪に、少女の手が触れた。
「風邪ひくよ、いくら君でも」
「あー……そのだな……」
「?」
「どうせ貰えねぇんなら……俺が渡そうと思って……」
きっと、ラーの鏡が此処にあればそれは美しい光景を映し出しただろう。
なんとも滑稽で奇妙な二人の姿。
「そっか、そんな日だったね」
受け取ってその手を取る。
「冷たくなってるよ」
暖かい紅茶とスコーンの香り。
招かれて改めて見直せば自分が飛び去った時と少しだけ違う室内。
「だからかなあ、うちの方でもみんな盛り上がってらしくてこの有様だよ」
大輪の薔薇がそちらこちらに飾られて、普段は簡素な彼女の部屋が今日は何とも豪奢に。
真新しいシーツと二つ並んだ枕。
「はい、欲しかったんでしょ?」
手渡されたのは小さな包み。
「昨日の夜、妹に手伝わされたんだ。今頃、あちこちに配りに行ってるんじゃないかな?」
それで彼女が箒を欲しがったのだと納得する。
「朝一番に時計台にも置いてきた。今頃上にも届いたかな?」
いつだって三人一緒だった。
今もそれは変わらない。
「ま、味わって食べることだね」
「……ありがとな……」
「それにしてもひどい格好だね。葉っぱまでくっつけて……ああ、世界樹の葉だ。あんな
遠くまで行ってきたのかい?」
「それに関しては長くなるんだけども、聞いてくれるか?」
「話を聞く時間はできたからね」
隣に居る君のために。
時計の針を一瞬だけ止めよう。
「そんなことも昔はあったね」
いまや世界はロトを必要とはしなくなった。
言い伝えられてきたロトの剣も今や遥かな天空の都へと消え去ったほどに。
「平和って良いことだ。じゃあ、僕はあの子がちゃんと寝てるか見てくるから」
魔道書の山に埋もれる青年に紅茶を置いて、女は静かに立ち去る。
その背中に感じる柔らかさ。それと引き換えに失われた鋭さ。
(なんでかねぇ……俺はこの平和ってものは永年たるもんにゃ思えねぇんだ……)
煙管を咥えてイライラを飲み込もうとしても。
(御先祖さまだって、そんな予感して大当たりしてんじゃねぇか……)
この夜の闇の中に潜む気配を忘れることなどできない。
天空の花の都に住まう竜神はこの世界をどう思うのか。
思うほどにため息ばかり、俯いたとて世界はあるようにしか転ばないというのに。
何もかもが壊れて世界に最後に光など残るだろうかと。
「不安な夜は誰も同じみたいだな」
鏡面にも似た湖を見つめる二人の姿。
女は見事な銀髪と異形たる翼を優美に広げる。
「人間は惑うからな。だからこそ面白いのだろう」
始祖たるマスタードラゴンとして天空に戻った竜神はただ世界の有様を見守ることを選んだ。
それがどうなろうとも、人間が決めることなのだから。
「この先、どうなるんだろうな」
「今は眠ったままの卵が目覚める。それが善となるか悪となるか……曾爺様も基は世界の
卵から生まれた。同じように人の心で魔物など神にも変わる」
触れ合った手に平から感じる温かさ。
ロトとは惑いながら進める者たちの名前だった。
「リラ。あいつらもここに来れるのかな?」
その問いに竜神は静かに首を振った。
「死者はここには昇れぬ。人の罪は翼を奪った」
天空人はその別名を有翼人とも言う。
それでもこの都でも争いは起こるのだから、平和など仮初でしかないのだろう。
「儂と同じ、銀の髪に赤い眼の卵から生まれる。何百年後か……そのころには流石に儂も
朽ちているだろう。その時は次のマスタードラゴンが咎を負うだろう」
マスタードラゴンの守人となった彼は、彼女が死す時に運命を共にする。
魂を飲み込まれ生まれた翼はすでに彼が人間ではないことを証明した。
やがてロトの剣はこの場所で新たな息吹を加えられることとなる。
その美しい刀身に刻まれる名。
古代文字を読み解くものがいれば、きっと小さく笑うだろう。
「んじゃ俺はちょっと卵でもあっためてくるか」
「儂も行こう」
「だな。俺たちの大事な卵だ」
猛き者は己を見失い、人はやがて鬼となるように。
人の罪を許す唯一神として彼女は天空に幽閉された。
その千年の後、生まれ出る二人の女が分かち合う一つの咎の存在。
閉じたのはその瞳ではなく人の心の中の神への思いだろう。
「困ったねぇ。我儘の季節なのかお父様と一緒に寝るって聞かなくて」
「あ、俺行けばよかったな」
「だから、お父様と寝るって」
ナイフを首筋に突き付けて女はにこやかに笑う。
「そうですね……お父様……」
光るナイフは一瞬で赤に染まるように、この世界は絶えず不安定だ。
だからこそ、人は信仰心というものを持ち得るように。
「どうしたの?ずっと難しい顔してるから」
淹れたての紅茶の暖かさは、彼女の心と同じ。
この澄んだ赤を汚さないように思いを紡いできた。
「いや、歴史は繰り返すんだろうなって」
「そうだねぇ。この平和もいずれ打ち崩れる。そしてその頃にボクたちはもう存在しない」
この体に流れるロトの血脈も随分と薄らいできたのだろう。
二人の子供にも確かに受け継がれてはいるが、その力は計れるものではない。
「いいじゃない。気にしなってどうにもならない」
星降る夜に憂うのは、彼が一度国を失ったからなのだろうか。
痛む傷口はまだ癒えないまま。
「あっさりしてんのな」
「それがサマルトリアの血筋ですから。ま、それは良いとしてどうにもならないことを悩んでも
仕方がないし……その先の未来はその先に生きる人間たちが見つめるんだよ」
不意に髪に触れた手。
その柔らかさと無意識の行為にこぼれそうになる涙。
「君はいつまでもお姫様だよ。誰もそう呼ばなくなっても、僕にとってはね」
「……そんなものか?」
「風邪ひく前に寝た方がいいよ。お母様が怖い顔してるって言ってた」
人差し指で眉間を押す。
「ここに、こーんな深い皺寄せてたら綺麗な顔が台無しだよ?」
「んじゃ、大人しく寝ますかね」
流れた月日は流星の如し。
天空に住まう竜神はため息を深く吐いた。
「歴史は繰り返し、血は争えぬか」
銀髪を揺らし、玉座に着くのは美しい青年。
「マスタードラゴン……わが母も人を愛し、私を産み落とした。天空人が地上の人間と
恋に落ちても咎めることは本来は出来ぬが……」
問題はその子を地上に残してしまったこと。
天空の血は人の世で生きるには強すぎるのだ。
「いずれ目覚め、ここに来るだろう。それまでは私は動くことは出来ぬ」
夢の欠片を集めて眠りにつく日々。
その星の光は静かに降り注ぐ。
「アリーナ様は、勇者ロトの系譜の御方。くれぐれもそれをお忘れなく」
教育係の小言に少年は欠伸を噛み殺した。
亜麻色の柔らかな髪に海の色を湛えた双眸。
その細身の体躯にそぐわぬ瞬発力と筋力は、流石はロトとでも言うべきか。
「そんなこと言われたって、僕はどうにもできないよ」
「王族としての自覚をお持ちくださいということです」
強いものと戦いたいという純粋な気持ちは、まさしく流れる血の物。
皮紐を結びなおして中庭へと飛び降りる。
二階のバルコニーからでも苦もなく着地できるようになったのは彼の努力だろう。
「アリーナ様」
「クリフト。お祈りはもう終わったの?」
「ええ。午後からはみっちりと宗教と歴史をご教授いたしますね」
穏やかさに見え隠れする殺気は、新完にはそぐわないもの。
それでも彼女はアリーナの大事な理解者の一人だった。
「勉強ねぇ……」
腕を頭の後ろで組んで、並んで歩く。
「ロトの歴史について少しばかり」
「……じゃあ、聞こうかな。御先祖様はどんな感じだったんだろうね」
それは今や昔のお話。
午後に語り継ぐ恋物語。
17:04 2009/03/14