◆休息と準備,それぞれの現在と少し昔の話◆
姫発逝去から数日が経ち、もとの日常が訪れるようになってきていた。
相変わらず太公望は忙しく動き、軍師としての手腕を見せる。
「御主人、顔色が悪いっすよ」
「大丈夫じゃよ、スープー」
太公望は軍書全てに目を通す。あらゆる知識を用いて聞仲と対峙するつもりだった。
殷の太師、聞仲。
圧倒的な強さの前に己の非力さを痛感させられた一戦。
(わしらにはまだまだ力が足りぬ…)
太公望が目指すのは朝歌の無血開城。
(奢りだろうか…誰も失いたくはない……)
「師叔」
「おお、ヨウゼン。ちょうどいいところに…」
軍師とその補佐。
立場上から言ってもこの二人は親密な仲にあった。
兵の中で太公望が女だというのを知っているのはいるだろうか?
それくらい、編み出す兵法は見事なものだった。
「よう、かばっち」
「僕はかばじゃないっすよ!」
ぐりぐりと四不象の頭を撫でる。
「ああやってご主人とヨウゼンさんが並んでると結構お似合いに見えるっすね」
「…そんなこと無いさ。師叔には俺っちみたいなのがちょうどいいさ」
莫夜の宝剣を取り出し、構える。
「ヨウゼンさん、俺っちの相手してほしいさ」
「君とは一度手合わせしたいと願っていたところ。ちょうどいい」
「師叔、判定してほしいさ」
男のプライドと若干の下心でのぶつかり合い。
「御主人〜」
「まぁ、良いではないか。いい修行じゃ。わしも仕事がありすぎる」
男二人が戦うのに背を向けて太公望は再び群書に目を通し始める。
「太公望」
「こんどは発か。何の用じゃ?」
「これ、おまえのだろ?夕べ俺の部屋に忘れてったぞ」
小さめの眼鏡。
「ああ、すまぬ。探しておったのじゃが発の部屋に忘れておったか」
受け取って懐にしまいこむ。
「道服なんか着ないほうがいいって」
「そうもいくまい。わしが平服をきると誰もわしとは思わんだろうに」
太公望が笑う。
姫発逝去の後、太公望に笑顔の無い日が続いていた。
ようやく笑みがこぼれるようになり、活気も溢れてくる。
「発、おぬしも読まぬか?」
「あ〜、俺に勉強させたかったら床の中で教えてくれ」
肩を抱こうとした発の鼻先を三尖刀と莫夜の宝剣が掠めていく。
「天化、ヨウゼン、わしに当たるではないか」
「俺っち師叔は狙ってないさ」
「僕も太公望師叔は狙ってませんよ」
やれやれと太公望は頭を抱える。
よりにもよって仮にも王となるものを巻き込んでの色恋沙汰。
「喧嘩ならわしの目に付かんところでやってくれ。わしは考え事が山積なのじゃ」
四不象に飛び乗り、その場を去ろうとする。
「師叔!」
「夕刻までは帰る。それまで仲違えは直しておくのじゃぞ!」
時間はあるようで少ない。
自分が関与しなくてもどうにかなる事柄には太公望は触れない。
自分なしでも協議、解決が出来るようにあってほしいからだ。
(聞仲も妲己も勢力を増してくるだろう…時間は無いのだ…)
朝歌では妲己とその妹の喜媚が涼しげに窓辺にもたれている。
「姉さま、喜媚のスープーちゃんはやられり?やられり?」
「大丈夫、太公望ちゃんもスープーちゃんも無事よ、喜媚」
羽衣を纏い、さながら天女のつもりか妲己は優美に妖艶に笑う。
「喜媚、スープーちゃんと結婚するんだっ」
「そうねぇ、太公望ちゃんが居なくなったら喜媚の夢も叶うわね」
喜媚はヨウゼン同様に変化の術の使い手である。
傾世元嬢と如意羽衣の二つを同時に使いこなすほどの実力者。
「そっかぁ、喜媚、スープーちゃんのことが大好き!」
妲己は少し昔のことを考える。
今の身体に宿る前のほんの少しだけ昔のことを。
修行に明け暮れる毎日。
末喜の身体は崩壊寸前だった。
借体形成をしている彼女は身体を交換すれば良いだけの話だろうが、
それすら出来ないほどの崩壊速度。
(わらわもここまでなの…?せっかくここまで来たのに…)
末喜は瀕死の状態。
立ち上がる気力も、声を出すことすら出来なかった。
喉は切れ、血の感触が口腔を支配する。
爪は空しく地を削るだけ。
(こんなところで…死んでしまうの?)
じりじりと照りつける日差し。
耳鳴りとこだまするうわ言。
「女、そこで何をしている?」
目だけで声の主を見上げる。
精悍な顔つきの青年。瞳は凛として輝きを放っていた。
「声もでないか…」
動かない身体で手を伸ばそうとする。
青年はその手を取った。
「仕方ない、俺が拾ってやる」
膝下に手を回して抱き上げる。だらりとした腕を取り、胸の上に組ませた。
「名前は?」
「末…喜…」
「そうか…おれは栄燐」
人間とは妖怪にとっては単なる食料、糧のはずだった。
その人間に救われることなど考える由も無く。
弱りきっていた末喜の看病をし、世話を焼いてくれた。
それは末喜にとっての初めての経験であり、思いもよらない感情に気付かされる。
「栄燐、おかげさまで大分よくなったわ。ありがとう」
大きな手がくしゃくしゃと頭を撫でた。
「目の前で死なれちゃ夢見が悪いからな」
少し照れたような無骨な笑顔。
不思議な心地よさに彼女は陶酔した。
今まで感じたことの無いあたたかさ。
「そうやって笑って方がいい。せっかくの美人なんだから」
粗末なつくりの一軒家。宮中とはまるで別だったがそれでも何もかもが美しく見えた。
彼が居てくれる。
人と関わり過ぎたためか末喜は人に近い心を持つようになっていたのだ。
「わらわは…しばらくここにいてもいいの?」
「居たかったら好きなだけ居たらいいさ」
二人寄り添って離れないように。
寒い夜には暖めあって。
「ずっとここにいようかしら」
「そうだな」
一つのものを分け合う。
それですら新鮮な感覚だった。
雨の激しい晩だった。
冷え切った身体を寄せ合っていた。
「栄燐」
「おお、なんだ?」
「寒いわね」
「ああ」
末喜は自分の胸元に彼の手を導く。
「あったまるかしら、こうしたら」
「…………末喜……」
「寒いのよ」
人間の身体は不思議だ。
妖怪には無い感覚が働くらしい。
その手は豊満な乳房をゆっくりと揉んでいく。
肉の柔らかさは仙女のそれ。
人間の男が一瞬にして堕ちる恐ろしさ。
「あぁん…っ…」
先端を吸われて声が上がる。触れられば感じるのが人間の肉。
軽く歯を当て、舌先で転がすたびに末喜の体が蠢く。
「…ひぅ…んっ…」
腰を抑えられて、腹部を舌がなぞる。
舌先はそのまま下がり、彼女の肉芽を啄ばんだ。
「あああっ!…ひぁ…ん…!…」
ぴちゃぴちゃ淫音が響く。
舌は尚も肉の中に入り込み、末喜の身体を溶かしていく。
「…末喜……」
とろんとした瞳。溶けきった身体。
先端を当てられ、末喜の身体が震えた。
「あああああんっ!!!」
深く貫かれ、芯が狂うような感覚が襲う。
宮中に度々出入りし、歴代の王たちに抱かれてきたがこんな感覚は無かった。
体内で動く塊が末喜を追い込んでいく。
膝を折られ、より深くまで結合する。
不思議な充実感と満足。
堕ちることも、溺れることも、なにもかも。
自分が「人」ではない事すら忘れてしまうくらいに。
どれくらいの日々が過ぎていっただろう。
末喜はいつものように彼の帰りを待っていた。
しかし、いくら待てども彼は来ない。
雨の降りしきる夜。
凍えていないだろうか…落ち着かずに飛び出し彼を探す。
どれだけ探しただろう。
見つけた彼は冷たくなっていた。
身体は鎌で引き裂かれ、内臓が散り、見るも無残な姿だった。
「酷い…どうして…こんな…っ…」
冷え切った頭を抱きしめる。
夕べ抱いてくれたても、指も、もう動かない。
「なんだ、この女」
「高く売れそうな顔だ」
山賊は口々に末喜を揶揄する。
「あなたたちが殺したの?」
にやにやと笑うばかり。
「そう…あなたたちなのね」
末喜は笑った。
この世のものとは思えないくらい妖艶な微笑で。
末喜の姿がゆらゆらと霞み、光を帯びていく。
光の中現れたのは九本の尾を持つ銀色の巨大な狐だった。
赤く赤く光る眼。
爪が山賊の首を刎ね、臓物を掻き出す。
雨が静かに赤黒い血を流し、何も無かったかのように音を奪う。
人の姿に戻り、彼女は彼の身体を抱きーーーーーーーーその肉を口にした。
目も。
耳も。
指も。
一つ一つの感触を確かめながら、骨の一欠けらまで残すことなく。
そして、自分が人にはなれない事を知った。
口の中を満たす血の味は甘く、そして、悲しい味だった。
(もう…人間に深くはいることなんてしないわ…もう…)
小指の骨は甘美な味がした。
彼女は泣きながら、彼を口にした。
雨が彼女の嗚咽を隠してくれる。
仙女の涙が呼んだ雨だった。
「姉さま?姉さま?」
「あら、ごめんなさいね、喜媚。どうかしたの?」
妲己はほんの少しだけ遠くを見た。
今はもう末喜ではないのだ。
自分の名前は蘇妲己。
殷の皇后。
(雨は嫌いよ…忘れたはずのことを思い出させるから…)
長いまつげが伏せる。
「喜媚はいい子ね」
「どうしたの?急に。姉さま」
(大好き…そう言ってあげたかったわ……)
もう、同じ過ちは繰り返さない。
妲己はそっと目を閉じた。
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