◆休息と準備、それぞれの現在と少し昔の話、其の弐◆





乱れきった王政を仕切りなおすかのように、聞仲は不眠不休で政務を行う。
仮眠もそこそこにあらゆる事柄を工面し、
失墜して久しい王家の威信を取り戻そうとしていたのだ。
「なぜ、そこまで殷にこだわるのですか、聞仲」
「道化か…私はお前とやりあうつもりは無いぞ」
「あなたのいいところは無駄なことはしないところですね。とてもよいことです」
雷公鞭を片手に申公豹は姜も朝歌上空を散策する。
太師府の聞仲は彼のいい話し相手だった。
「しかし、殷はもうよみがえりませんよ」
「……そんなことはない」
筆を休めることなく、聞仲は答えた。
「教えてくれませんか?なぜ、あなたがそこまで殷にこだわるのかを」






聞仲は元は殷の将軍であった。
若くしてその実力を認められ、当時の王家の殷王家の軍隊の筆頭に名を連ねるほどに。
そして、聞仲の同期で同じく将軍に登りつめた者がいた。
名は「朱氏」
殷王家唯一の女将軍である。
大柄な彼女は美しい顔立ちではなかったがみなぎる活力と、
あふれ出る生気は彼女に華を添えていた。
長い黒髪を一つに縛り上げ、長槍を片手で操るその動き。
武人とはいえ、目を見張るほど。
「聞仲くん、あたいたちはこの若さで将軍の地位に立ったわ」
「ああ」
「ずっと一緒に殷王家を守って行こうね!」
朗らかに彼女は笑う。
彼女の声は耳に心地よい。
その心地よさに付随する思いの名を聞仲は知る由も無かった。




それは青天の霹靂だった。
朱氏が皇帝に嫁ぐという知らせ。
「朱氏!」
「ああ、聞仲くん、どうしたの?」
べっ甲の髪留めを直し、彼女はいつものように笑った。
「王妃になるというのは…本当なのか…」
「………まぁ、あたい程の上玉を見逃せなかったことかしら」
彼女は少し俯く。
「一緒にこの国を守るという約束は…!」
「聞仲くん」
朱氏はゆっくりと口を開く。
「あたいは…戦場でも王の傍に居るわ。そして、王を…この国を守るの。
一番野蛮な妃になるのよ。武器は捨てない。武人の誇りも捨てない」
離れても、見つめる未来は同じだと彼女は言った。
「聞仲くん」
「朱氏…」
彼女はそっと聞仲に口付けた。
「朱氏!?」
「本当はね、あたい…聞仲くんに抱いてほしかった…でもね…王妃になるのは処女じゃないと…
価値が無いんだって…でも…」
「…………」
「聞仲くん、あたい、絶対に聞仲くんと過ごした日々を忘れないから」




それから聞仲は修行に明け暮れた。
体中が壊死するほどまでに。
その結果偶然にも体内に仙人骨が現れ始めたのだ。
「おもしろいではないか。おぬし、仙人になる気は無いか?」
「仙人…?」
壊死した指先がぱらぱらと崩れ始める。肉体が選択の余地を挟ませない。
「その前に王妃に一言断りたい…」
宮中に身支度をして聞仲は急ぐ。
身体は教主の力でかろうじてだが復元された。
「仙人界に?」
「はい。わたしには仙人なる骨ができかかっているらしいのです」
温和な表情の王は聞仲の申し出を快諾する。
殷にとっても有益であったからだ。
最も、聞仲に対する「信頼」もあったのだが。
「聞仲くん!」
その腕には赤子を抱いた朱妃。
「いろいろ勉強してきたらこの子にも教えてあげて頂戴」
「はい…朱妃」



仙界入りした聞仲はめきめきと力を付けていく。
わずかな年数であの「禁鞭」を使いこなせるほどにまでになっていた。
だが、彼は聞く。風のうわさを。
殷が辺境の民族姜族に襲われ、王都は壊滅状態だと。
(殷が…朱妃!)
取る物も取らずに彼は王都に走る。
焼け爛れた大地。転がる骸。
そちらこちらに鳥にでもやられたのか食い散らかされた肉片が散っていた。
肉の焼け焦げるにおいは吐き気を誘う。
心の弱いものには見せられない光景だった。
「朱妃!朱妃!」
「…聞…仲…くん…?」
瓦礫の下から聞こえるのは懐かしい声。
「朱妃!」
「…聞仲くんだ…あたい…がんばったんだけど…だめだった…」
「それ以上喋っては…」
「この…子は…次の王…殷を…頼むよ…」
「朱妃…」
「最後に…あたいを見てくれるのが…きみで…よかったよ…」
彼女はそれきり目を閉じた。
「朱氏!!!!!」
荒野にただ、男の声が響く。
聞仲と太公望。
解いていけばその因縁ははるかに上ることになる。
しかし、それは本人たちの意思とするところではなく、偶然の産物。
姜族の最後の血を持つ女。
殷の存亡を任された男。
皮肉にも運命は二人の道をこう分けたのだ。



「なるほど、あなたは確かに殷の親ですよ」
申公豹は窓辺に腰掛ける。聞仲はその隣で空を仰いだ。
「どの王もみな私を恐れ、慕ってくれた。いい王も居ればそうでないものも居た。
それでも、みな、私にとっては愛しい者たちだった…」
その血が受け継がれているのだから。
「そしてみんなあなたよりも先に死んでいったのですね」
「下らん話をした」
「いえ…今の私にはあなたの気持ちがわかりますよ…」
雷公鞭を一撫でする。
二人のため息が空に散った。



夜の帳も下りた頃、太公望は清酒片手に軍書に目を通していた。
兵士たちの能力も随分とあがってきてはいる。
しかし、まだまだ殷に対抗するには力が足りない。
あれこれと思案しながら仙人界から持ち込んだ書物にも手を伸ばしていた。
「呂望」
「…申公豹ではないか。何か用か?」
「……………」
何も言わずに太公望の体を抱きしめる。
「どうかしたのか?」
「…あなたに会いたかったんですよ、呂望…」
子供が母親にするように、申公豹は太公望に頬を寄せた。
「初めて他人が居なくなることを怖いと思うようになりました。あなたが立ち向かう男は
あなたを本気で殺そうとしてきます…決して手加減はしません…」
耳の奥、鼓膜に直に浸透してくる声。
「彼は殷の親です。あなたが周の母のように…彼は殷の父なのですよ…」
太公望と聞仲は根本的なところが似ていた。
自分以外への絶対なる忠誠。
自己犠牲精神。
形は違えと己の見るところの目線が同じなのだ。
「私は初めて嫉妬というものを知りました」
耳にかかる吐息。
「自分の中にこんな気持ちがあることを知りました」
それは彼女を抱いた男だけではなく、同じように未来を見つめる聞仲にも当てはまるものだった。
一度嫉妬の炎に焼かれれば其の火は骨まで焼き尽くす。
消えることなく、その身をじりじりと焦がしていく。
「申公豹…」
その頭を同じように抱く。
「お願いです。死なないで下さい…呂望…」
強く抱きしめられて、息が詰まる。
「わしは死なぬ…心配せずともよい…」




裸のまま抱き合って体温を確かめ合う。
互いの心音が感じられるように。
「この傷は…私がつけたものですね…」
指でなぞり、舌を這わせる。
古傷となって
今も尚、身体に残る傷跡。
まるで自分の存在を残すかのように、申公豹から受けた傷は消えずにあった。
「…んぅ………」
「…他の男にも同じ様に抱かれましたか…?」
「!」
柔らかく甘い胸に歯形をつける。
「…っつ…」
逃げようとする手を取り、指を一本一本口に含む。
引き抜かれるときの感覚と淫靡な音は聴覚から官能を直に刺激していく。
「…あなたを所有したいという気持ちは…私の我侭でエゴにすぎません…それでも…」
その手を自分の胸に当てる。
「あなたを思うことが苦しく、幸せに思えるのですよ…」
耳朶を噛まれ、息を吹き込まれる。
焦らす様に舌先が体中を這い、太公望の体温を上げていく。
「あっ…ふ…!!…っ…」
指先で中心を押し広げられ、強く吸われる。
肉芽を舌で突付かれ、太公望はその刺激に悲鳴に近い声を上げた。
逃げようとする足首を掴み、踝に歯を立てる。手と同様にその指を丹念に舐め上げ、
嬲って行く。
小指を噛み切りたい衝動を抑え、軽く歯を当てた。
「…いや…っ…」
真っ赤になった顔が愛しくて、窒息しそうな口付けを交わす。
誰に抱かれても、誰のものにもならないその純潔。
いくら手伸ばしても掴むことの出来ない風の護り人。
「…呂望…」
零れた蜜を指に絡め、まだ、未開発の窄まりに埋めていく。
「!!!」
嫌悪感に声も出せず、太公望は嫌だと頭を振った。
「…やめ…っ…嫌ぁ……」
進入は止まることなく、奥を目指してく。
苦痛に眉を寄せる姿さえも扇情的だ。
白絹の肌は桜色に染まり、浮き出た汗が寝具を濡らす。
身体は従順に反応し、申公豹の指を銜え込む。
「…いいですか…呂望…」
太公望は声を殺すために手で口を覆う。
申公豹の邸宅ならばまだしも、ここは西岐の宮中だ。
いつ誰が来てもおかしくは無い。
かといって申公豹がここで引くわけも無いのは太公望も知っている。
今、出来得る事は自分の声を殺すこと。
「…力を…抜いてください…」
湿った男の分身がゆっくりと侵入してくる。
身体は強張り、拍動が上がって行く。
目尻から零れる涙が痛みを無言で伝えた。
「…あなたを…殺したら私のものになりますか…?」
絡んだ身体は火のように熱くて。
「…それでも…あなたの魂は風の中に在るのでしょうね…」
どんなに強く抱き合っても、
身体を重ねても、
魂まで溶け合うことは出来なくて。
いっそ混ざり合って一つの固まりになってしまえればどんなにか幸福だろう。
「…申…公豹…」
痺れた腕を伸ばし、その身体を抱き寄せる。
「…今だけは…おぬしのものじゃ……」
苦痛に喘ぎながら、精一杯の笑顔を浮かべた。
肌一枚隔てての行為がもどかしくて、愛しくて、泣きそうな気持ちが込み上げてくる。
その眼が、喘ぎながらゆっくりと果てるのを飛びそうな意識を繋ぎとめて焼き付けていく。
一瞬だけでもいい、心も身体もぐちゃぐちゃに溶けたかった。




眠る顔をただ、見つめる。
額に浮いた汗をそっと拭って、張り付いた髪を払う。
出会った頃よりも少し大人びた顔は経験と戦いの中で培われたもの。
「…あなたがその気になれば、この世界はきっとあなたのものになるでしょうね…」
傾世元嬢。持つものに世界が傅くという宝貝。
「…あなたはそれを望まない…」
その眼が、唇が、声が、一つ一つが細胞を侵略していく。
甘く囁いて、二度と逃げることの出来ない蟻地獄のように。
女の身体は最強の武器。
男は知りながら溺れていく。
自分が溺れているとも知らずに。
「…起きてしまいましたか…?」
「…ん……」
少し辛そうに身体を寄せる。
芯に残る痛みはまだ、引かない。
「…なんだ…にやにやしおって…」
「いえ、あなたのことが可愛くて仕方ないのですよ」
「……もういい………」
少し膨れた顔で太公望はあきらめた様に胸に顔を埋めた。
「あなたを守りたい。聞仲からも妲己からも。あなたを傷つけるもの全てから」
「……………」
「この気持ちも私のエゴです。忘れてください」
「…口に出して言われたことを忘れるのは…難しいことだぞ…?」
大きな瞳が見上げてくる。
「あなたがこうしていてくれるだけでも、幸福なんです」
「わしにはおぬしらの気持ちが分からぬ…」
少女と女の間で彼女は揺れ動く。
「きっとこの気持ちを愛と言うのでしょうね」
「…寝る……」
それでも申公豹は笑みを消さなかった。
一瞬だけでも全てを曝け出して身体を預けてくれることが嬉しかった。




太公望が目を覚ましたときにはすでにその姿は無かった。
卓上に詰まれたばかりであろう花と、丸薬。
「…薬を置いていくくらいなら…抱くな」
そういいつつも身体はまだ悲鳴を上げている。
歩くたびに軋むような痛みが脊髄を走り抜けていくのだ。
「…っ〜〜、飲むしかないかのう…」
包みから一つ取り出し、口に入れる。
想像していた苦味は無く、甘い糖衣のような味が口に広がっていった。
「…わしが苦いものは好かぬとしっておった…?」
水で流し込み、何事も無かったかのように着替え、いつもの顔を作る。
(変に優しいところがわからぬ男じゃ…)
髪を縛り頭布で押さえつけ、何も無かったかのように政務に向かっていった。





「どうしたの?にやけて」
太公望の様子を一通り観察してから申公豹は朝歌に向かっていた。
「いいんです。私は今幸せなんですよ。黒点虎」
西岐上空は今日も快晴。
一人幸せそうな仙道の姿が浮かぶだけ。






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