◆殷の太師◆
殷の太師としてその名をはせる聞仲。
無論、それは太公望の耳にも入ってきてはいた。
しかしながらその力の差は歴然である。
朝歌には妲己、申公豹、聞仲の三人が図らずしも紂王を護しているのだ。
聞仲は殷の太師。
それがぐるぐると太公望の頭の中で回り続ける。
(わしが聞仲なら…ここでわしらを討つ。この場所が最も姫昌に圧力をかけるには
いい場所だからのう…西岐目前のこの地で…)
「師叔、どうしたさ?」
「いや、わしが聞仲ならどうするかと考えていた」
四不象の背にもたれながら、太公望は思案をめぐらせる。
「師叔ならどうするさ?」
「ここで討つ。西岐目の前のこの地でな。武吉、ちと見てきてくれぬか?」
「はいっ!」
武吉は砂煙を上げて駆け出していく。
聞仲は抜かりの無い男。ここで何も仕掛けてこないはずが無いのだ。
「お師匠様〜!怪しい四人組がいました〜!!」
「って…津波〜〜!!!??」
「ここ、山の中だぞ!!!??」
あっという間に水流に飲み込まれる。
「御主人、何事っすか!?」
「どう考えても聞仲の追手の仕業にしか思えんがのう…」
太公望は懐から白桃を一つ取り出し、口をつける。
「なにのんきに桃なんか食べてるっすか」
「落ち着くためじゃよ、スープー。わしまで混乱したらそれこそ聞仲の思う壺じゃ」
「お師匠様、僕みんなを助けます!ライフガードのバイトしてたんでばっちりです!」
武吉が次々と救出するのを確認して、太公望は前を見つめた。
「お前たちが聞仲の刺客か?」
「いかにも。道士太公望」
津波の原因らしき男が答えた。
「崑崙の大幹部の一人、太公望。俺の相手をしてもらおうか?」
長髪の道士、高友乾が球体の中から太公望に水の呪縛を放つ。
四不象に指示を出し、太公望はのらりくらりとその攻撃をかわしていく。
「スープー、接近戦に持ち込んでくれ。わしに考えがある」
槍のように降り注ぐ海水は太公望の衣類を掠め、傷を付ける。
太公望と四不象の息は誰にも乱されない。
「ちょこまかと!!」
業を煮やした高友乾が太公望の頭上に巨大な水の塊を作り、叩きつけてくる。
「!!!」
推定重量想像不可能の水に圧迫される二人。
「お師匠様がミンチに!!」
「まじかい…武吉っちゃん」
「僕、視力は10・0なんです!!!」
おろおろとする武吉。
「いや、師叔はそうそう簡単に死なないと思うさね」
高笑いする高友乾。
次の相手は誰だと言わんばかりに武成王の一行を見据えてくる。
「ふう、ようやく接近戦に持ちこめたのう」
打神鞭を構える太公望。
「生きていたか…」
「おぬしにわしは殺せぬぞ」
「どうかな?おれの武器はただ水を操るだけではないぞ」
足元の海水が持ち上がり、巨大な鎌になる。
「………」
「お前なんてこれで十分だ」
二人の戦いを見守るのは二組。
一つは武成王一族。そしてもう一つはのこりの三人。
すなわち聞仲の擁する九龍の四聖である。
「太公望の打神鞭に関するデータはほとんど無い。ちょうどいい機会だ」
「あいつにもいい運動になるしね」
太公望はいくつもの風の刃を出して水の鎌を打ち砕く。
その度に再生され、空を切ってくるのだ。
「この程度の相手に四聖全員がかかることもないだろう」
リーダー格らしい男が立ち上がる。
「高友乾!あとは頼んだぞ。俺たちは西岐を攻撃する」
「おお、太公望くらい俺が一人で仕留めて見せるよ」
「スープー、追うぞ!!」
「そうはさせんぞ、太公望」
水が縄のようになり、太公望の身体を縛り上げる。
「なっ!」
高友乾が面白そうに笑う。
「お前…女か…それならば他の遊び方もあるな」
そのまま、太公望の身体に今度は触手状の水が絡みつく。
「やめんか!!この…」
もがく太公望。しかし、一向に解ける気配は無く、ますます身体を締め付ける。
当たり一面を包み込む水の壁。
半球の水槽にでも閉じ込められた感じでもある。
「しょうがねぇ、俺っちたちも参戦するか…それに」
莫夜の宝剣を天化が構える。
「師叔にあーゆー悪戯していいのは俺っちだけさ」
岩場を蹴って四聖を追う。
同様に宝貝人間も。
戦闘の匂いに敏感な申し子たちでも言おうか。
「俺はあの王魔とかいう男を追う。あいつが一番強い匂いがする」
それぞれがそれぞれの思惑と思案を抱きながらの戦闘。
ばらばらに散り、その結果無事に西岐上空に着いたのは王魔一人。
「聞仲様のためには先の先を読まなければ」
「のう、お主、こんな顔の道士をみなかったかたのう?」
聞き覚えのある声に王魔は振り返る。
「太公望!!??」
「いやいや、わしは本物を探しておるのじゃ。わしの最愛の人だからのう」
三尖刀を一振りして、姿形がヨウゼンになる。
「!!」
「君の相手は僕だよ」
大地の使い手、陽森の相手は黄家の次男天化。
武具の達人は間合いを詰めながらタイミングと好機を狙う。
「親父は師叔とあの水使いを見ててくれ」
鮮やかな動き。才能を殺すことなく天化の師は育て上げた。
大地が盛り上がり、天化を包もうとする。
莫夜の宝剣でその土を切り裂けば、陽森も執拗に仕掛けてきた。
「俺たちの技は大技過ぎて細かいところまで己にかけられないのが難点だよな」
「仙道でもない人を殺めるのは趣旨に反するが…」
岩盤が天化の額を切る。
「あんた達は…早めに倒さねぇと…大事な人を失うおそれがあるさ」
陽森と共に天化の攻撃に移ろうとした高友乾。
そのわずかな隙をつき、太公望は己を縛る水を風で薙ぎ払った。
「しまった」
「言ったであろう?おぬしではわしを殺すことはできんと」
四人対四人。
違う場所での戦闘は凄惨さを増していく。
「!」
「師叔?」
(空気が震えてる…まさか…)
満月は妖しく熟れた赤い柘榴の様。
その汁は血肉の味がするという。
「…来る」
(まずい…まだなんの準備も出来ておらん…)
今戦うのは犬死同然だろう。
しかし、避けることも適わない。
(やるしかないか…はたしてわしの力が通じるであろうか…)
太公望は目を閉じて、大きく呼吸を整えた。
これから来る相手のために。
「太公望師叔!」
「おお、ヨウゼン!!」
空気の緊迫が加速していく。
「!!」
無数の鞭が大地を削り、太公望目掛けてかかってくる。
「…聞仲…」
道士にして殷の太師、聞仲。
「お前が太公望か」
その目は怒りもなく、太公望を見据えてきた。
「何故、姫昌をたて殷を滅ぼそうとする?」
聞仲は語る。
所詮は狐のすることと同じ事と。
仙道の力を持って人間界を支配する。
太公望も目をそらさない。
民の信頼を失い、あまつさえも色に溺れる王にどうして国を繁栄させることが出来ようと。
殷には仙道が溢れている。
このまま行けば大規模な戦争になり、犠牲者も無数にでるであろう。
(もう…誰も死なせたくない……)
失うものはこれ以上は必要ない。
姜族と同じ思いを乳飲み子たちに味合わせることだけはたく無かった。
「手遅れであろう、聞仲。王はすでに王では無い」
「黙れ!」
禁鞭を持つ手に力が入るのが伝わってくる。
「殷は何度でも蘇る!!」
禁鞭は周囲にあるもの全てを破壊しつくす恐るべき宝貝。
空を切り、太公望の心臓を狙って来る。
「!」
「武成王!」
自らの身体を立てに禁鞭を受け止める。
「聞仲…」
かつての親友に彼は言う。
腐った国よりも、信頼を失った王よりも、もっと大事なものがあると。
聞仲は頭を振る。
それは聴きたくない言葉だった。
唯一の親友が自分の元を去った証明になってしまうからだ。
「黙れ裏切り者が!!」
禁鞭を構えなおす。
「やめろ聞太師!これ以上は俺ってが許さないさ!」
「多勢に無勢で申し訳ないが…今、太公望師叔を失うわけにはいかない」
聞仲にその声など届いていなかった。
彼にとって力無き者の声は聞くに足らずだからだ。
「理想を語るにはそれなりの力が必要だ」
禁鞭が空気を切り裂く。
「だが…お前たちにはそれが無い!!」
無数の鞭が大地を、空気を、身体を打ちつけ、切り裂いていく。
防ぐことすらままならない、圧倒的な強さ。
肉を抉り、まるで土に返すように禁鞭は容赦なく身体を突き、叩きつける。
赤子の手を捻るよりも造作なく、聞仲は太公望たちを沈めていった。
(これが…殷の太師…聞仲…)
軋む身体を立ち上がらせて太公望は打神鞭を聞仲に向ける。
(あきらめるわけにはいかない…わしが…皆を守る!)
おびただしい出血。
白い道服は今や鮮やか過ぎる赤。
「誰も…殺させはせぬ…」
「ほう…まだ立ち上がれるか」
四聖すら声を失う聞仲の圧倒的な強さ。
恐怖、弾圧、緊迫、束縛。
絶対的な強さの前に晒される弱き者。
「…もう…誰も……」
太公望の作り出す風の壁は倒れた仲間全てを守るように、強く強く渦巻いていく。
その間にもぼたぼたと零れる血が大地を染め上げる。
太公望の意識は途切れ途切れ。
それでも、宝貝を引くことは無かった。
「!」
口か零れる大量の血液。
目をそらすことなく、聞仲だけを見つめて離さない。
(わしも…ここまでか…?所詮わしには無理なのか…?)
仙界入りしたときから、太公望の願いは変わらない。
仙道のない、平和な世界を作りたいということだけだった。
「う…」
赤と白。
血の匂いと肉の弾ける感覚。
「血を吐くまで宝貝を使い続けたか…太公望」
霞み行く意識の中で最後に聞いた声。
「西岐に与えるには惜しい器だ」
太公望が意識を取り戻したのはそれから一週間後のことだった。
ナタク、ヨウゼンは仙人界に戻り、武吉と天化が太公望の傷の手当てを担当していた。
「お師匠様!」
「御主人!!」
力任せに抱きつかれ、後ろに倒れこむ。
「師叔、目、覚ましたさ?」
「うむ…」
四不象と武吉の頭をなでながら仙界に戻った二人の様子を天化から聞く。
「心配かけてしまったな…」
「それはいいさ。師叔が目、覚ましてくれたから」
寝不足なのかすこし腫れた瞼。
「もっと…強くならねば………」
月は半分に欠け、熱く疼く傷を風が癒すかのように撫でて行く。
「師叔」
「天化か?どうかしたのか?」
「いんや、単なる夜這い」
「…おぬしは………」
いそいそと寝台に上がりこむ。
「心配したさ。師叔…ずっと目ぇ覚まさなかったらどうしようって…」
まだ傷が塞ぎきらない額を舌先で舐めてくる。
天下とて、傷だらけなのだ。
禁鞭は肉を抉る。
「俺っち…もっと強くなるさ…師叔を守れるように」
少年は少女に恋をした。
それが互いに道士だっただけで。
少女は少年の好意を受け入れる。
恋とはまだ、違う思いとして。
「師叔…痛かったらちゃんと言って……」
たどたどしく包帯を解く手。
醜いはずの傷に一つ一つ唇を落としていく。
手の中に収まる乳房に口付けて歯を立てる。
「んっ……」
少し顔を上げて首筋にも。
腹部を滑り落ちた指は、秘裂を伝う。
赤く腫れた傷は皆まで見ずともその痛みが分かるほど。
「…俺っち…ずっと師叔と居たいさ……」
ぬるぬると体液を絡めながら指を出し入れさせる。
「天化………」
泣き出しそうな目。
「でも、俺っち…聞太師から師叔を守れなかったさ…」
強くありたいのは力だけではなく。
「天化、わしは…守られべき存在ではないぞ…」
脆い心。
「どうしたらいいかわかんなかった…」
かりそめに絡めた身体。熱に支配された一時の快楽。
荒い息が夜の闇の中にこだまする。
「わしとて…同じだった…」
脚を割って入り込む。
捩じ込まれた熱さを体内で感じながら太公望は天下の背に手を回す。
「強くなりてぇ…」
「焦らずに…共に歩み行くのでは駄目なのか?」
吹き出た汗を唇で払って、天下は注入を繰り返す。
自分の存在を誇示するかのように。
女の体内は柔らかさと滑り。肉の甘さは身体を侵食していく。
堕落と快楽は仙道にとって最も忌むべき物のはずだった。
隙間無く身体を重ねて、心音を重ねることで感じることが出来る「安心」
互いの肌で知ることの出来る「幸福感」
「…師叔の中…熱くって…気持ちいい…」
人間は身体を重ねることで「愛」というものを感じることがあるという。
仙道には「愛」の定義は無い。
分け隔てなく、平等に物事を見るのだ。
「…くぅ…んっ…て…天化ぁっ…!…」
少し苦しそうに寄せられる眉。
傷口に薄っすらと浮かぶ赤い体液。
鉄と汗と男の匂いが入り混じる。
嘘でもいいから、夢でもいいから、誰か
「この不安定な心を抱いてください」と。
少年は少女の中で果てる。
少女も少年の熱を胎に受け入れた。
(ぐっすり眠りよって…呑気なものじゃな…)
眠る天化の髪をそっと撫でる。先ほどまで自分を抱いていた男は今は夢の中らしい。
離れようにも腰を抱かれ、身を起こすのがやっとだった。
天化の上着から取り出した煙草に火をつけ、吸い込む。
煙が部屋を肺を満たしていく感覚に痺れを覚えた。
明けの刻まではまだ時間が余る。
(手も足も出ないとは…あのことを言うのであろうな…)
絶対的な強さの前に成す術も無かった。
なにもかもがまだ、足りない。
(考えてもどうにもならんな)
吹き抜ける風が肌寒く、天化の胸に顔を埋める。
この一瞬だけ、道士太公望ではなく、呂望に戻って。
ただの少年と少女に戻ろう。
朝が来ればまた、道士に戻るのだから。
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