◆ヴォヤージュ1970◆
「火渡は猫に似てますね」
赤毛を指に絡ませてそんなことを男は呟いた。
ふさふさの尾を持つ上等な赤毛猫だと笑う唇。
「照星さん、今忙しいからあっちいっててくれよ」
マグカップにはカフェオレ。いつもどおりに甘めの彼女仕様。
報告書が終わらないと、がりがりとペンを走らせる。
シャツとジーンズ姿の赤毛の女に構いたがる男は、錬金戦団の最高位に座するほど。
「最近、私に構ってくれないじゃないですか」
「忙しいんだよ。再殺にそういう仕事ぶち込むのもあんただろ?」
残ったカフェオレを飲み干して、二杯目を作るために立ち上がる。
その手を掴んで引き寄せた。
「何だよ」
「報告書は後でもいいですよ」
そのまま座らせて頭を撫でてくる大きな手。
再殺部隊を率いる女も、シルバースキンに身を包む女も多忙な日々だ。
「んじゃいーけどよ。防人も千歳も忙しいみたいでさ」
ぺたん、と彼の足の間に座り込む。
「そうですね。防人も最近、構ってくれませんね……同性愛は非生産的なんですが」
「……にゃろ……浮気しやがったか!?」
発火しそうな彼女を宥める手つき。
「だから、防人より私になさい」
耳の裏に触れる唇。
舌先がそのまま舐め上げて首筋に落ちる。
「ヤダ。防人の方がいい」
シャツの上から乳房に掛かる指先が妖しく動く。
形の良いそれは手の中でもしっかりとした弾力を感じさせるほど。
「たまには私とデートしませんか、火渡」
その言葉にきょとんとして、男を見上げる。
「デ……デート!?照星さんと!?」
「そんなに驚かなくても。防人とはたまにデートしますよ。ま、財布代わりに思われてるんでしょう
けどもその分はしっかりと徴収してますし」
そう言われれば彼女と行くレストランはどことなく彼が好みそうな場所が多い。
「給料日前でまともな食事はしてないでしょう?」
栄養管理をやってのける恋人は任務で席を外している。
煙草と酒にほとんどを消化してしまう彼女にとって給料日前一週間は文字通りのサバイバルだ。
「せっかく綺麗な体してるんですから、もう少し着飾っても良いでしょうし」
「美味い飯……食いたい……」
防人衛が遠征してから一週間が過ぎた。
その間に火渡が口にしたのは冷凍保存していたものがほとんど。
料理には拘る火渡だけあって味は保証されているが、それでも出来たてには見劣りする。
誰かのために作ることは好きでも自分のためにはそうでもない。
向かいに座る誰かが喜んでくれるならば何だってできるというのに。
「いっつも……衛がそーいうのやってくれっから……」
面倒見のいい女はどうしても彼女をどこか甘やかしてしまう。
「じゃあ、出かける準備をしてきますね。三十分後にまた」
「うん」
閉じるドアと時計。
三十分後の約束をもう一度反芻した。
白いシャツにジャケット姿で、いつもの服装とは違う彼。
隣に並んで少し見上げればにこり、と笑ってくる。
「なんかそうしてると普通の人みたいだぜ」
無造作に解かれた赤い髪が肩に触れる。
細い首筋となだらかなうなじ。
「手でも繋ぎますか」
「はぁ!?」
「防人とは繋ぐでしょう?」
「……ん……」
ためらい勝ちに触れた指先が絡み合う。
こんな風に誰かに触れられるのは久々かもしれない。
「照星さんって、戦士になってなかったら何やってた?」
それはほかの選択肢のなかった彼女の言葉。
眼の前で起こった惨劇と助かってしまった命の結果。
「そうですね……教員なんか好きですね。それか弁護士、とか」
彼女も家族を失って戦団に保護されてきた子供のひとりだった。
そしてその時に居合わせた戦士が彼だったのだから。
「火渡は何かありますか?」
その問いに首を横に振る。
彼女の過去は戦団で作られたものが殆ど。
眼の前で両親がホムンクルスに飲み込まれるのをぼんやりと眺めていた。
力なくその場に座り込み生も死も関係ないとただ天を仰ぐ姿。
「戦士でよかったもん。ほかになれねぇし……」
「防人はパティシエなんか向いてるって言ってましたけどね」
「?」
「火渡はお菓子作るのが上手すぎて太っちゃう、って。細かいことも綺麗にするから
パティシエとか向いてると」
意外な言葉に目を丸くする。
その赤味がかった瞳は時折静かに翳るから目を離せない。
「パ……パティシエ!?んじゃあいつは何が向いてるんだろ……」
ぎゅっときつく握ってくる手。
「えーと、えーと……背、高いからモデルとか?でも、そうしたら俺と時間あわねぇし……
え、え、え……消防士?違うし、えーと……」
わたわたと左手の指を折りながらあれこれと考え始める。
その姿がどこか可笑しくて愛らしくて妬ましかった。
「そして私はそこのギャルソンやるんです」
「?」
「って、防人が言ったんですよ。火渡のお菓子を運ぶ仕事がいい、って」
それはきっと見ることない未来視だから綺麗で悲しい。
自分たちにできることは戦うことできっと最後は誰にもわから場所で命を落とすだろう。
たった一人だけが弔ってくれれば良い。
戦士の宿命はそんなものだ。
「そしたら、私はそこの常連になりますね、ふふ」
「……セクハラする客なんていらねー」
それでも思い描くもう一つの並行世界の鮮やかさは心を温かくしてくれる。
人の住む世界に暗躍する人ならざるものを狩る者たち。
錬金術という忌まわしい力を体内に閉じ込めて命が消える瞬間まで戦う。
傷は重なり増え続けるばかり。
「照星サン」
黒髪の彼女よりも少しだけ高い声。
「今まで色々とありがと」
そんなことを面と向かって言われたことなどなく。
「……急にどうしたんですか?」
「んー……なんとなく。俺も防人も生きてるのはあんたのおかげだから」
気付かないうちに彼女はゆっくりと大人に変わっていた。
その細い背中に抱えきれないほどの運命を負って。
君に触れる左手が熱くて苦しい。
「……何が食べたいですか?」
「美味しいアイス!!」
「とびきり甘いのですね、ふふ」
赤によく映えるのはやはり金と銀である。
しかしながら銀を纏う女は離れた場所に。
混ざり合う赤と金は胸騒ぎと高揚を。
「紅茶に蜂蜜を入れて飲むのは好きですか?」
カップに触れる薄い唇。
顎の下で手を組んで彼は彼女にそんなことを問うた。
「うん。ジャムとかも入れるし。なんで?」
「赤と金はよく合う色なんです。赤と銀もね」
人形の目にも似た赤い瞳がちら、と見上げる。
彼は言葉に含みを持たせることが多かった。
その赤が自分を差し、金と銀も誰を差すかが容易に読み取れるように。
「そういえば……防人(あいつ)が聞いてる歌にさ、赤色と金色を混ぜたら黒い空に
なるってのがあってさ……」
意図せずともどこまでも彼女は彼にとって最愛で障害になる存在。
楽園を追われる二人のイヴ。
彼女を飾るものはどれも銀色ばかり。
「その続きは赤いドレスを着た少女が出てくるのでしょう?」
「ああ、うん」
「赤に赤……悪くはないですが些か面白みが足りませんね」
くい、と女の顎先を持ち上げる指。
親指が唇に触れて視線が絡み合う。
「金色だって君には似合うでしょうし」
「んー……あんまりぴかぴかしてても落ち着かないってさ……急になんで……?」
運ばれてきたデザートに触れるスプーンも銀色。
そんな些細なことにすら嫉妬を覚える。
「!?」
ふいに唇に触れた冷たさ。
「もうボケた?照星サン」
「……少し、かもしれませんね」
広がる甘さが現実に引き戻してくれるから。
「何かすげー恐い顔してた。あんま悩みすぎると禿げるぜ?」
「美容院ではそんなこと言われたことないんですけどもねぇ」
「金掛けてるのはわかるけどさ。いっつも良い匂いするし」
少しだけ日に焼けた腕が健康的で。
彼女が業火を操り全てを無に還す力を持つとは誰が思うだろうか。
細いうなじにかかる色は赤よりも紅い赫。
「俺もあいつも照星さんの匂いは嫌いじゃないけどさ」
どうしても彼女たちは二人で一つ。引き離してはいけない存在。
「本当に……小さい頃は二人とも私のお嫁さんになるって言ってたのに。ああ、残念。
信じてこの年まで独身を貫いて……本当にどうしてこの国は一夫多妻制じゃないんだか」
「……マジで死ねよ……」
「嫌ですよ。そんなの」
視界全てが紅色に染まる恐怖はまさしく幻想と。
その中で彼女はまっすぐに標的を見定める。
決して外すことのないその一撃は古の神の持つう槍に似た動きで生命活動を停止させる。
「どうして可愛い二人を残してこの若さで死ななきゃいけなんですか。私は君たちのドレス姿を
見るまで死にませんから」
スプーンに触れる薄い唇。
クリームを舐めとる仕草もどこか淫猥。
「そんな風に考えてくれてんだ……」
「二人とも私の隣です」
「だろうな。残念だけどもその夢はかなわないぜ」
「そうですか……じゃあ、火渡だけであきらめるしかないですね。防人は千歳君と一緒になるでしょうし」
「だったら俺だって偽装結婚で戦部あたりと一緒になる。照星さんはやだ」
じっと見てくる猫に似た双眸。
「そこそこ優雅な生活できますよ?」
「毎日嫌味言われんのやだし、いきなり死なれるのもやだ」
彼女たちが太刀打ちできる相手ならばいい。
どうにもならなければ彼が出撃することになる。
それは生きて帰ってくるのが奇跡だという状態だろう。
「何にもできないで死なれるのも嫌だ。防人とだったら同じ場所で死ねる。戦部も、千歳も」
いつも言いたいことを隠してしまう彼女の小さな本音は。
胸を締め付けるには十分すぎて何も言えなくなってしまう。
戦場に生と死を見出してしまう戦士の自由の一つが死を選択するとと。
与えられた核鉄は己の意思で命を止めることのできる時限爆弾でもあるのだから。
「だから照星さんはやだ」
少しだけ明るくなる声。
「忘れてませんか?バロンだったら火渡も防人も連れていけますよ」
「車椅子の未来宇宙で頼むぜ!!」
「ホーキンスなんかとってましたかね……二人とも」
夕焼けが綺麗だと呟けば美味しそうだと答える声。
並んで歩いて繋いだ手。伸びた影が赤に黒を静かに落とした。
「よくこうやって歩きましたね」
まだそのころの彼女は今よりもずっと幼くて。
遊び疲れて眠ってしまうことも普通にあるくらいのありきたりな子供だった。
負った傷は彼女の心を侵食し、赤色に異常な反応を示す。
全ての赤を黒に変えてただぼんやりと天井を眺める姿。
折られた二色のクレヨン。
玩具に囲まれて人形のようにただ過ごす日々。
「だった?」
「防人と二人。ほんとうによく育ってくれてお兄さんは嬉しい限りです」
知らないうちに随分と綺麗になってしまった。
「兄貴って感じじゃないけど……うーん……」
繋いだ手が暖かい。
「火渡の赤はとっても綺麗な色ですね」
赤を持たない彼は暴れる少女の教育係となる。
無反応と自閉をもつ黒髪の少女と癇癪持ちの赤髪の少女。
腕に噛み傷や切り傷の絶える日などなかった。
泣いて暴れる少女を宥めて抱きしめて眠らせる。
まだ感情を表に出すだけ火渡の方が扱いやすいと彼は感じていた。
目の前でのホムンクルスによる食人行為。
フラッシュバックするものを取り除けば彼女はどこにでもいる子供だったのだから。
厄介だったのはもう一人の少女。
笑うことも何もせずにただぼんやりと過ごすだけ。
一切の反応のない彼女の感情を引き出したのは暴れる少女だった。
『遊ぼうよ』その一言に視線が少しだけ動いて戻る。
『いや』初めて他人に発した言葉。
『一緒に遊ぼうよ』ぬいぐるみを彼女の目の前に突きだす。
『うん』受け取る小さな手。
防人衛が外の世界に触れた瞬間だった。
「あー……脚痛ぇ……」
「そんな高い靴はいてるからですよ。ああ……そうだ。昔みたいにおんぶしてあげましょうか」
「んー……んじゃする……」
背中に触れる柔らかな胸。
二つの影が一つになって過去を刻んでいく時計。
「軽いですね」
「防人よりちびだからだろ」
絡みついてくる腕、暖かな体温。
(照星さんって細いわけでもないんだよな……)
肩に顎を乗せれば触れる頬の柔らかさ。
「照星サン」
耳に掛かる息と声。
彼女たち二人を従えれば怖いものなどなかった。
そして今度は離れてしまう恐怖を知った。
瀕死の状態での帰還も珍しくはない。
「どうしかしましたか?」
「ううん。何でもない」
言えないままの言葉は言えないままにしておいた方が良い。
初恋は実らせずに終わるからこそ甘い思い出に変わるように。
「長生きしてくれよ」
伝えられるのはそんな言葉だけ。
『好き』の一言はこの人にだけは伝えてはいけない。
「できるだけ長生きしてくれりゃいいから」
ちゅ、と頬に当てられる唇も。絡みつく腕も。
もう彼女は立派な大人だった。
嘘みたいに綺麗な紅色はまるで幻想にも似たような優しさ。
あれほど嫌いだった赤は他の二色触れてかけがえのないものに変わった。
どうかこのままこの穏やかな日々を過ごせますようにと祈るのに。
「昔言ったのかもなあ……照星さんの嫁になるって……」
思い出は過去のものだから綺麗であるように。
睦言は夜の帳の中が良い。
広がり始めた闇は彼女の色合い。
離れていても手を伸ばせば触れられるような錯覚。
「火渡……もしも、防人に言えない悲しいことが起きたら私に言いなさいね……」
赤は空に昇り金色に変わり、その光はやがて闇を照らす。
「夜が明けるまでに全部終わらせてあげますから」
「……うん……」
掛かる赤い月は光をうみ、その光は闇に飲み込まれ、赤は黒に触れて消え行き、再び生まれた光は月を映す。
「あー……照星さんのピアノ聴きてぇ……」
「防人が帰ってきたら聞かせてあげますよ」
「んじゃ、あいつと何か作るよ」
ため息は青い蝶に変わって舞い踊る。
「あいつ……いつ帰ってんだろ」
「まだ先ですね。長引いてますから」
「そっか……んじゃ聞けるのもずっと先かぁ……」
背負い直して月を二人で仰ぎ見る。
「時間も時間ですけども……帰ったら一曲だけやりましょうか」
「やった!!」
「じゃあ、ゆっくりと急いで帰りましょうね」
月に掛かる夜半の楽曲。
流るるは赤き調べ。
それを紅響曲と言う。
13:56 2009/05/10