◆LOST HEAVEN―海のような味がする―◆
指先はナイフとなって、男の腕を切り裂いていく。
防人同士の戦いはいつ果てるとも無く続くのが通常だ。
力の差があれば決着も早い。
しかし、同等の力となればどちらかが命を落とすまで終る事などない。
「ヨキ……最初っからこれも決まったことか?」
次々に伸びてくる腕を砕きながら男は女を見つめた。
最初の防人と名乗る恋人は、的確に自分の心臓を狙ってくる。
その真実は隠したままに。
まるで砂の果実のように、崩れていくこの現実。
防護壁で千手をかわして男は女との間合いを詰める。
「お前の願いってのは……何なんだよっ!?ヨキっ!!」
唇がかすかに震えて言葉を紡ごうとする。
それを飲み込んで女は男を見据えた。
「お前には関係のないこと……アル……」
絡みつく指先の温かさに、背筋に走る何か。頬を撫でるその指先と食い込む爪。
流れ落ちる黒い体液に賢者の唇が笑う。
「ヨキ!!お前にとっての最大の障害になるのがその男だ」
「我らのためにもその男を殺せ」
その声にアルは頭上を見上げた。
「……化けもんかよ……っ…!!」
吐き捨てられる言葉と血液。
ここでこの男の命を奪うことが自分の願いをかなえるための使命なのかもしれない。
「来ないのならば私から行くぞ、アル!!」
「……どうやっても駄目か……なら、やるしかねぇよな……」
防人同士の戦いは、どちらかの護神像が破壊されるまで勝負は決しない。
純白の護神像、そして『人間』を示すのが彼女の駆るスプンタ・マンユ。
その仮面の下の涙と悲しげな口唇。
女の首に手を掛けてもその手を簡単に外していく忌まわしい千手。
黒髪がゆらいであたりを夜に染め上げる。
君と出会わなかったなら、いったいどんな日々を過ごしていただろう?
笑いあって砂の上で寝転がったあの日も。
ぶつかり合ったあの日も。
初めてキスをしたあの瞬間も。
一緒に朝を迎えたあの時間も。
もっと傍にいたいと、離れたくないと互いに願ったはずなのに。
彼女の願いはじぶんのそれとは違っていた。
君のいないこの世界の風化を止められるほどの力は無く。
また、それを望む自分がいないこともまた事実。
「ヨキ……もう一回だけ聞かせてくれ……」
静かに視線が重なる。
「俺のことを好きだって言ったのは……嘘だったのか?」
痛む胸と乾いた唇。
「嘘では……無いよ……」
「そうか……だったらもう良いんだ……ヨキ……」
彼女を束縛するものすべたから解放したい、それが彼の願い。
この世界も力も何もいらないのだから。
ただただ彼女が悲しまなくていいように、ただそれだけなのに。
それすらかなえられない。
この血の色は呪われた黒。
それでも彼にとっては暖かく優しい色なのだ。
宵闇が忍び込むような彼女の瞳と同じ色の体液を憎むことなどできなくて。
ただ愛しいとしか思えないのだから。
どれだけの時間が過ぎたのだろう。
互いの体力も気力もすでに限界に達していた。
同等の力を持つ二人の戦いは互いの護神像に皹を入れ、ふいの一撃で砕けしまいそう。
「お前の力は本物だね……護神像が選んだだけあるよ……」
ぜいぜいと息をしながらヨキは恋人を見据える。
お互いこれが最後の一撃になるだろう。
「……ヨキ……」
この命が砕け散っても、この身体が灰になっても。
「アル…………」
振り切るように頭を振って男に向かう。
同じように伸びた手が彼女の首に食らい付くはずだった。
「俺の狙いは……最初からテメェだあぁぁあっっっ!!!!」
「!!」
機械の賢者の首筋に掛かる左手。
「ぐああぁぁああっっ!!!」
噴出す体液と崩れ落ちる身体。
力任せに引き離された男の身体を千手が貫く。
けれども、本当ならばそれはよけられる一撃だった。
心臓を突く直前に、彼は彼女に向かって笑ったのだから。
「……ア……ル……」
生暖かな体液が女の手首を染めていく。
「言ったろ……お前のためなら……死ねるって……」
自分の手をそっと掴んで彼は穏やかに笑う。
「い……や……ぁ……あああああっっ!!!!」
青年の身体がゆっくりと崩れ落ちてその動きを止める。
これが自分の願いの結末なのだ。
心臓はその動きを止めて彼から大恩を奪っていく。
こんな簡単なことも忘れてしまうほど、自分は憎しみに囚われていた。
「アル!!目を開けて!!もう一度私の名前を呼んでくれ!!」
赤みの消えた頬と唇にこびり付く干乾びた血液。
指先が徐々に硬化を始めて細胞はその機能を失う。
「嘘だ!!嘘だ……ぁ……ッ!!」
この腕の中で誰かを見送るなど考えても居なかった。
ましてや恋人をなどと。
「……キク……これが真実か?」
答えるべき機械の賢者の反応も無い。
残された自分が一人きりだと気がつくにはすべてが遅すぎた。
「……ぁ……?……」
痛む身体をゆっくりと起こす。
視界に入るのは見慣れた恋人の診療所だった。
「っっ痛ぇ……!!」
「おや、もう起きれるのかい?まだ回復してないよ、アル」
まるで何も無かったかのような光景に男は首を傾げた。
それでも幾重にも巻かれた包帯と傷口があれが嘘ではなかったと彼に教えた。
「……ヨキ……」
「今、食事をもってくるから……」
その手をそっと掴んで引き寄せる。
「なんで俺は生きてるんだ?」
「……………………」
「教えてくれ、本当のことを」
瞳に射す翳りと憂い。唇が微かに震えた。
「命を……与えた……」
「どうやって……」
「お前と私の子供を使った……それしか私にはできなかった……」
子宮に宿った小さな命は彼の命を繋ぐ為に使った。
一人きりで腹を裂き、血塗れた手でその魂を分解した。
この先に子供を育てることよりも彼を選んだ。
ただ、彼を愛していただけだった。
「ばっかやろ……そんなことしなくてもよかったんだぞ……」
声を殺して嗚咽する彼女を抱きしめて、ただただ暖めることしかできなくて。
「お前が居てくれればそれだけでよかった……アル……っ……」
罪の名は未熟。それゆえに恋は甘く苦しい。
これ以上何を彼女に問えばいいのだろう。
「この先も、ずっと一緒にいような……じーちゃんになっても俺はずっとお前のことを愛してるから」
互いに生涯消えない傷ならば、舐めあったまま生きていくのも一つの手段なのかもしれない。
悲しみを忘れるにはそれ以上の喜びが無ければ忘れられないのだから。
忘れることを選ぶことも。
忘れずにいることも。
どれも人間として持ち得る感情があるからこそ。
「誰が何て言ったって、俺もお前も人間だし、俺がお前を愛してることに変わりなんてないし」
伸びた手が頬に掛かる。
この指の温かさに嘘は一欠けらも無い。
「アル……私はお前の子供を宿すことはもう……できないよ……」
「お前が子供よりも俺を取ったように、俺だってお前がいてくれればそれでいいんだ」
そっと重なる唇。
君を縛り付ける悲しいあの空を打ち砕ければと何度願っただろう。
「防人だって辞めちまえよ。俺がその分頑張るから」
悲しいことは綺麗だけれども心が痛い。
君が笑ってくれるなら神殺しだって厭わない。
「アル…………」
何万回の愛してるよりも確実なキスを。
けれども、そのたった一言の「愛してる」がほしいのが人間だから。
「泣かなくたっていいんだぞー……俺、死ぬまでお前と一緒にいるから……」
「……アル……っ……」
キスは涙の味がした。
生命が生まれし海の味。
けれども、自分たちはそこではなく白い箱の中で生まれ落ちた。
大地に帰ることも許されず、ただ砂に埋もれるだけ。
「お前は……お前の道をお行き……私にとられることなど無いように……」
「何言ってんだよ。俺はお前と離れる気なんてねぇぞ」
静かに上着を脱いで男の前にその身体を晒す。
「!!」
皮膚の間からみえるコードと光の渦。
それは自分とは明らかに異なった内部。
「私は何度も何度もこうして生き永らえてきた。言わば亡者……」
はるか昔の記憶がこの胸で疼く。
反乱軍として赤い血の人間に旗を翻したあの日。
次々に破壊されていく仲間たちを見ながら武器を手に戦いに明け暮れた。
三賢者となり、自由を約束されたはずだった。
世界の動向を見るために古い身体は次々に換える必要もあったのだから。
その結果、彼女は人間とは異なるものとして存在することとなる。
「だから、お前は幸せになるんだよ。私のことは忘れて」
「ば……馬鹿言ってんじゃねぇよ……!!」
「お前はいい父親になれそうだ。きっとかわいい子供がやってくるよ」
最後のキスは甘く切なく、悲しい味がした。
彼女の寂しげな笑みがゆっくりと歪んで消えていく。
憶えているのはそこまでで、意識が闇に溶けるように薄れていった。
ただ、「さよなら」が聞こえないことが幸せだった。
防人として戦いを重ね、彼の名は世界中に知れ渡ることとなる。
鍛え上げられた肉体と冴え渡る直観力。
行く先々の村で歓迎されては、心の中でうんざりとため息を付く。
いつからだろう、あんなふうに笑えなくなったのは。
「この村に防人さまがくるなんぞ、何年ぶりか……」
長老のお決まりの言葉にも愛想笑いができるようになった。
大人になるということは無邪気さを失うことではなく、嘘をついても苦しくなくなるということを知った。
「このとおり機械に囲まれた村です。防人様の気に入る娘がおりました此村に……」
「…………そうだな、黒髪の綺麗な女だったら考えてやってもいいぜ」
ただし「一年限定だけどな」と付け加えて。
彼女がもっともほしがったものを自分は奪ってしまった。
己の未熟であるがゆえの罪。
二人でその鎖に繋がれて朽ちたいと願った。
しかし、彼女はそれを一人で背負うと自分の前から消えてしまったのだ。
天国とは神の居る場所らしい。そして地獄というのは神の在らざる場所。
彼女の居ない世界に神などが居てもそこは天国にはなりえない。
どこだって、地の底だって。
二人で手を取り合っていけるのならば素敵な天国だった。
熟れた月が頭上に掛かる夜。
真夜中調度に彼は村を抜け出した。
腕には小さな赤子。まだ外に出るには早すぎるのかもしれないほどの小ささ。
それでもこの夜でなければならなかった。
耳の奥に響いた彼女の声。
きっと恋人はあの場所に帰っている。
そう、本能が告げたのだから。
(……ヨキ、お前の言ったとおりにかわいい子供は俺のところに来たよ……)
生きていくのに必要だからと彼が息子につけた名前。
そしてはるかなる空にあるという理想郷の意味。
「……シオ、もーちょっとがんばれよ。とーちゃん、走って七の村まで行くからな」
この気持ちを殺したまま生きていくことはどうしてもできなくて。
一人の男としての結論を出した。
もしも、息子の存在そのものが『罪』であるならば。
この命すべてをかけて贖罪に徹しよう。
「シオ、さみぃーな……ヨキんとこ付いたらミルク貰ってあったまろうなー……」
まだ年若い父親はなれない手つきで赤子の頬をそっと擦る。
この砂の世界で見つけたたった一つの光に。
扉をたたく音に身体を起こす。
「……誰だい?こんな時間に……」
そっと開いて言葉を失う。
「!!」
「……ただいま……」
そして、大事そうに抱いた赤子に目を見開く。
「俺の子。誰でもなく俺の子供。お前が繋いでくれた命だから、俺とお前の子って言ってもいいのかもな……」
「……うん……アル……」
指先が男の頬にそっと触れて。
「冷たくなってるよ……はやく、お入り」
「そだ、シオになんかあったかいもん貰うんだった!!」
赤子を受け取って恐る恐る抱いてみる。
柔らかな命と確かな鼓動。
「シオっていうのかい?いい名前だ」
「生きてくには必要だろ?あと……」
「理想郷かい?」
「うん。お前の読んでた本に書いてあったあの名前をどうしてもつけたかった」
二人で一番最初に開いた本に綴られていた理想郷。
自分たちを繋いだ魔法の言葉。
「ヨキ」
「?」
「やっと帰ってこれた。色々歩いて色々考えた。けど……俺、やっぱりお前のこと愛してんだ」
砂にしみこむ一滴の水のように。
乾いた心を一瞬で潤してしまう優しい声。
何度夢に見ただろう。何度その幻に涙をこぼしただろう。
「ただいま」
「……おかえり……アル……」
それは砂の世界の小さな小さな恋。
まだ運命の日の足音など知らないままの優しい夜のことだった。
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22:58 2005/12/17