◆MISERY――爪で引っ掻いた傷は痛い?――◆
この空の下で君が両手を広げて笑うから。
この世界を愛しいと思うようになった。
「あっっったま痛ぇぇぇぇええええっっっ!!!!!」
両手で頭を抱える少年を、女の腕が優しく抱きしめる。
「レオナルド、しっかりおし」
「ア……アシャ……助けてくれ……ッ!!」
額に耳に頬に、そして唇に。痛みを取り去るようにキスの雨が降る。
炎の護神像アシャを駆るのはレオナルドという少年。
痛みを消すための旅路の途中だ。
「赤い血の神さえ手に入れれば……俺の痛みにも終わりがくるのに!!」
歯軋りをしながら頭を抱える少年と彼を守る一人の女。
「ねがいは一つだけ……レオナルド」
「わかってる……うぁぁあああっっ!!」
彼の願いの成就は彼女の消滅を意味する。
少年はまだそんなことも知らずに無垢なる願いを抱くだけ。
「お前の願いがかなうならば私はそれで十分だよ。もう……十分に生き永らえた……
神に造られた私の兄弟たちも……」
耳の裏で聞こえる追憶のカノン。
この乾いた砂の世界に何を望めばいいのだろう。
人は愛を請い、神は永遠を願った。
違えてしまった何かのために死に行くだけのこの世界で人は懸命に生きようとする。
夢をわたるような黄砂。
止められないこの世界で何を望めばいいのだろう。
神は私たちを生み出した。
神は私たちを憎んだ。
神は私たちを殺そうとした。
私たちはその神にすがろうとしている。
打ち砕かれた肋骨は形骸となった神の証。
その骨を拾って口にする少女。
おやめと止める女。
嗚呼、嗚呼、世界がただ狂おしい。
水の中から見上げる太陽はいつの日も揺らめいて美しいと思えた。
呼吸を捨ててただ二人で沈み行くこの快楽。
「ノール……お日様きれいね……」
眠れない君と眠らせない僕が出会ってしまった。
砂の世界に生きる二人に降り注ぐ水の加護。
「うん……君とこうしてるとなんだが不思議な気持ちになってくる……」
崩れ行く世界を二千年の間見詰めてきた少女。
髪の毛一筋も変わらないままに。
「ノール、ノールの願いが叶えば……お日様はもっともっときれいに見えるのよ」
彼の願いが叶って、この体が砂に還っても。
君のことを忘れることなどきっとありはしないだろう。
「ハルね、ノールのこと忘れない」
この体に抱いた願いと命は今まさに形に成らんとしている。
それがどんな結末を示すのかわからないままに。
「何を言ってるの?ハルはこれからもずっと僕と一緒だよ」
水に解け行くその髪を指先に絡ませて。
ただただ二人でいることだけを祈るはずなのに。
「どうしてそんなに寂しそうな目をするの……ハルワタート……」
一つの魂から生まれた七つの器。
互いに引き合って求め合う。
「願いはこの体から溢れてしまう……そうなったらハルはノールに嫌われちゃう」
良いも悪いも全て飲み込み願いは一つになる。
この小さな体がどこまでそれに耐えられるだろうか。
「どんな風になっても、僕はハルのことを嫌いになんてなれないよ」
真実の愛なんてもしかしたらどこにもないのかもしれない。
それでも人は愛を請う。
砕け散った骨を拾い集めるように。
始まりも終わりも何もない世界。
無理やりに結び付けたからこそ生まれてしまった歪。
一対足りない肋骨と体。
それを神は女と名付けた。
神などはじめから存在はしかったのかもしれない。
一人が寂しいと感じた男が慰みに生み出した。
ハーメルの笛が響き、燃えるような赤い髪の女が踊る。
「お前の翼も癒えたな……クシャスラ」
片翼の天使は数ある護神像の中でもその力は上のほうだろう。
「まだ……不完全だけれども。望めば天をも駆けられる」
「おれはこの世界を手に入れる。そのためにはお前が必要だ」
力という純粋すぎる願いは彼を狂わせていく。
本当に彼に必要なものは救いであっても。
それを望まない限りこの体はただ男の意のままに抱かれるだけ。
傷む傷口に触れる唇。
「カーフ……願いを叶えてどうするの?」
「さぁな」
失った翼。それはもしかしたら生れ落ちる時に置き去りにしたのかもしれない。
彼にすべての力を与えぬために。
「あたしは……それ以上の強さはいらないと思う……」
止まらないのは体液ではなく。
「俺よりも一人だけ強い男がいるからな」
双子の月が夜空で笑う。
その下で踊る囚人たちのパレード。
「アル・イドリーシ……護神像アールマティの防人だ」
彼の負った傷をどうやって癒せばいいのだろう。
護神像は防人を誰よりも深く知ってしまうゆえの悲しさ。
耳の奥で繰り返される警鐘。
折れた翼を抱いて眠る夜を照らす二つの月を女は見上げた。
砂に還った骨を拾う。
まるで灰のような白とぱらら…と砕ける肋骨。
素足に刺さる棘など気にすることなく少女は踊る。
痛みにはもう慣れきっていた。
真っ赤に染まった爪が割れて。
二つの月は人を狂わせる音色を刻む。
髪に絡まる花びらを払う指先。
砂の世界に色付く透明な月を見上げる緑の瞳。
螺旋を描く星たちはプラスティック。
「アラン、またお星様が流れたの」
三つ編みを解いて風に泳がせれば、優しい色が広がった。
「最近流星が多いですね……何か世界に起きているのでしょうか……」
砂に埋もれた歴史を紐解く青年は少女をそっと抱き上げる。
この世界と生命に興味を持たせてくれた愛すべき護神像に。
「でも近くには誰も居ないよ。護神像同士は引き合うもん……機械も居ない……」
オフホワイトのワンピース。
この世界にある色の一つに青年は目を細めた。
ストラップシューズと飾りのついた組紐。
「歴史の変わり目には流星が多くなるといいます。私は……君と一緒に居られればそれで
構わないのですが……胸騒ぎがしますね……」
眼鏡を押し上げて空を仰ぐ。
赤と青の月が注ぐ光は薄菫の柔らかさ。
砂の上に残される足跡と崩れ落ちる遺跡が悲鳴をあげた。
「マナフ、飛べますか?」
ゆっくりと二人の影が重なって人神一体の姿になる。
星屑の中を二人で歩きながら小さな灯りを見つめた。
「あれはアランが守ってる光。ずっと前からあたしが見てきた光」
頬に触れる小さな手。
彼女との融合はいつも夢のような暖かさをくれる。
この世界で時は流れて星へと手が届くように。
「アランの願いはとっても綺麗。きっと……あたしの中の願い全部を受け止められる」
「……願い……か……」
狂いそうなこの世界。
いつの間にか機械の心臓を打ち砕くことにも慣れていた。
手に感じる確かな脈拍。
それがぐしゃり、と握りつぶされる瞬間の得も言えぬ感触。
命を奪うことに人間も機械もそう差は無い。
心臓が鼓動を刻み始めた瞬間から生命として形付く。
「私は君と一つになるか、君を花嫁にするかどちらかしかありませんから」
「あたしも人間になるの?」
「そうしたらもう空は飛べませんせけども……今度は一緒にゆっくりと歩けますから」
終わらない夢の中で見つけた終わりの始まり。
彼がこの長い長い夢を断ち切るものだと知った。
理不尽な思いはもう必要ないと彼は呟く。
因果な仕事をするのは自分で最後にすればいいと。
最後は飲み込まれ砕かれる。
骨の欠片も血の一滴も残らずに。
「答えておくれ、我が純白なる護神像よ……お前は何を願い何を望む?」
古の面を写し取ったそれは無垢なる表情(かお)でただ存在する。
人間を象徴する護神像の使い手は一人の女。
七人の防人は代々男が選ばれてきた。
護神像はすべて女を因り代として作られた。
唯一つ、このスプンタマンユを除いて。
「お前は見るものの心を写し取るのだろう?だから……」
そっとその体に触れる。
精悍な体躯、凛としていながらも柔らかな闇を携える双眸。
日に焼けた肌と無骨で愛しい指。
「……アル……」
答えてはくれない唇にそっと自分のそれを押し当てる。
冷たくも無く暖かくも無い。
抜け殻の彼を抱きしめて嗚咽を殺した。
「お前も私を残して逝ってしまうのだろ?私はその後の日々をどう過ごせばいいのだ?」
呪われた体を愛しいと抱いてくれた腕。
神など必要なかった。
ただこの一瞬を過ごしたかっただけ。
護神像を戻し鏡に映る自分を見る。
自虐的な笑みと世界を憂うその姿。
二つの月の意味を彼はこう囁いた。
自分たちと同じだと。
「重たくなったなぁ……シオ……」
背中に感じるぬくもりは自分と同じ血を持つもの。
運命の女神が頬に小さなキスをするのか、ときおりくすぐったそうに身を捩る。
砂丘をすべるように駆け下りて灯りのほうを目指す。
「そろそろ逢いにいかねぇと、ヨキはろくでもないこと考えるからよ」
二千年の孤独は一瞬で溶けてしまった。
今度は一人であることを自覚することが怖かった。
願ったことすべてがかなう世界ではないけれども。
この世界が二人を導いてくれたことに偽りなど無い。
「寒ぃな……早くヨキんとこ行ってあったまろうな」
鼻先に感じる空気の冷たさ。
見慣れた扉を叩く拳。
「あー寒ぃ……死ぬ、マジで死ぬ……」
ヘッドゴーグルをたくし上げて頬についた煤を払って。
ぼろぼろのつなぎでもせめて笑顔は極上品で。
「誰だい?こんな夜中に……!!」
「やっほ、俺♪」
「……早く……早くお入り……風邪を引いてしまうよ……」
君と出会ってからどれだけの夜を重ねただろう。
「シオ……また少し大きくなったねぃ……」
「おう、ますます俺に似てきた」
たった一つの願い、彼はそれを決めていた。
差し向かいに座って欠けたカップに唇を当てる。
「俺の願い、決まったわ」
「………………………」
「死ぬ瞬間までお前と一緒にいること。お前の腕の中で俺は死ぬのさ」
出会ってしまった不幸と出会わなかった幸せ。
この空の下で君が笑ってくれるなら、どうなっても構わない。
すべて受け止めてくれるから。
「いい願いだろ?ほかには思いつかなかったんだ。何年考えてもこれ以上は」
「そうだね……」
重なる手、この暖かさ。
「俺の願い、叶えてくれんだろ?賢者様」
「そうだねぃ……私の願いを叶えてくれるなら」
「ん?」
「私の願いはお前と過ごす日が一日でも多くなるように……それだけ……」
二つの月が窓の外まるで夢のような世界を生み出す。
星屑は静かに現実を殲滅していく。
それは運命の日の少しだけ手前。
まだ二人がその真実を知らないときの夢だった。
あの日の空も憎しみよりも青く澄んでいた。
飛び散る赤い血と自分の腕の中で消えていく命の光。
「どうした?ヨキ」
「ついこの間のことのようだよ……まるで昨日のように……」
彼は再びその命をとり戻り、こうしてまた自分の傍に居てくれる。
「シオもどこほっつき歩いてんだかなぁ」
それは若き日の彼と同じ。一箇所にとどまることはできない運命。
どこまでもその足で駆けていく。
「アル」
「あん?」
「あの日、お前は私にこういったんだよ。お前のためなら死ねる、と……」
「ああ、今も変わんねぇよ」
「変えておくれ、私のために」
今度は彼女が彼に告げる番。
「私のために生きておくれ。一日も長く一緒に……」
あの日言えなかった言葉を。
今、君のために。
「ああ、そうだな……お前のために生きるよ、ヨキ…………」
俺と一緒に心中してくれるか?
構わないよ、それこそ我が望みだ。
君のためなら死ねるといったあの日の言葉を。
今度は君のために生きると書き換えて、物語の最後に綴った。
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23:26 2007/04/26