◆賢者の指先と防人の唇◆
子供寝顔を見つめながら、男は女の手を伸ばす。
肌寒さを感じる午後に、暖かさをくれるカップ一杯の飲み物。
「ヨキさーん、俺すんげぇ眠いんですけど」
「シオと一緒に昼寝でもするかい?」
まだ乳飲み子の域を出るか出ないかの赤子。
女の腕の中で寝息を立てて、幸せそうに唇が笑う。
「そーでねくて……俺はヨキの膝枕で寝てぇの」
不機嫌色の瞳に、女は困ったようにため息を付いた。
「いいけれども、そうすればシオをベッドに寝かせないとね。また起きたりぐずったり
するけれどもそれでもいいかい?」
「うー……それも困る。寝不足がんがんで頭痛ぇし……」
七の村周辺で暴れだした機械の群れを全部片付けるのに、三日三晩の寝ずの戦い。
四日目の朝に疲労困憊ぼろぼろながらも、愛息を抱こうと手を伸ばせばその姿に大泣きされる始末。
傷だらけの顔に伸びきった髭。そちらこちらにこびり付いた血液と汗の油の混ざった匂い。
まずは風呂に入れとヨキに浴室にぶち込まれてようやく自分の惨状に気が付いた。
「眠ぃー…………」
テーブルの上にうつ伏せて、瞳を閉じる。
真新しい上着と綺麗にそられた髭。
包帯の痕は痛々しいが命があればそれでいいと彼はつぶやく。
「困ったねぃ……」
できることならその願いを叶えてやりたい。
命がけで自分たちを守ってくれる彼の小さな小さなその望みを。
「ああ、そうだ。アル」
「んぁ?」
「ここにおいで、お前の願いを叶えてあげるよ」
ソファーに座って、傍らにシオを寝かせる。
優しく摩って目を覚まさなくてもいいようにと願いを掛けながら。
「ここならシオも起きないし、膝枕もできるだろう?お前も足を伸ばせるし」
「ん…………」
よろよろと立ち上がって、ふらつく足取りながらも女の元へ。
柔らかな腿に頭を乗せて、肘置きに脚を伸ばした。
まだ引かない疲労熱と筋肉の緊張。
「気持ち良いな……寝そう……」
あご先を撫でればくすぐったそうに笑う唇。
両腕をそれぞれに奪われながらもこの穏やかな午後を感受する。
「アル……?」
「んー……俺がさ……死んだら……お前泣くか?」
ある日突然彼は姿を消して、唐突に帰ってきた。その腕に小さな赤子を抱いて。
まだ生まれてそんなに間もない子供は、火の点いたように泣きじゃくる。
母親のことは何一つ口にせず、彼はただそこに佇んでいた。
「馬鹿なことを……」
「死なねぇけどさ……俺、強ぇし……」
教えてください、神様。そんな言葉を繰り返しても答えなどでなくて。
その傷を癒せるほどの優しさもなく、ただこうして悪戯に時間を共有する。
「ヨキ」
低くかすれた声が、自分の名を呼ぶ。
「愛してんぜー……残りの人生全部の時間かけて」
その言葉が神経へと直接しみこんでいく。二千年以上前から存在して消えることの無い言葉。
自分たちにはどれだけの時間があるのだろうか?
「なぁ……キスしてくれよ」
静かに覆い被さって、乾いた唇を重ね合わせた。
どこか張り付くようなキスは、胸を苦しくさせる。
この唇で誰かに接吻して、その腕で誰かを愛したからこそ。
この小さな命がここに存在しているのだ。
「柔らかいよなぁ……すっげぇ気持ちいー……」
手が伸びてきて、頬に触れる。割れた爪と血の滲んだ間接。
「少し……おやすみ……アル……」
「ん……サンキュ……」
色々なことがありすぎても、こうして自分たちは一緒に居る。
信じるということをもう一度教えてくれた彼に降る雨を防げるように手を伸ばす。
その身体が凍えてしまわないように、悲しい思いを知らずにすむように。
気持ちを伝えることに臆病になる季節は、四季の中でも紅を目立たせる。
垣間見るその移りは美しく、光の無い世界への帰路を憂鬱にさせた。
「どうした?ヨキ」
風呂上りの湯気と、小脇に抱えた息子。
「なんか傷開いたみてぇで染みる……ぅは……」
わき腹を鈎爪で抉られてできた傷口は、まだ膿も治まらずに赤黒く息衝いている。
指先が当たるだけでも血が滴り落ちそうなのに、触れずには居られない。
「薬を…………」
「いいって。すぐに塞がるから」
ちゅ、と額に唇が触れて瞳を覗き込んでくる。
「不安な顔してる。どした?」
「お前にばかり傷を負わせてしまうね……」
憂い顔よりも、華のような笑みを。君のためにこの世界の光を集めて飛び回るから。
幸せの海の中に沈みたくとも、君という名の水が無い。
「あ?んなこと気にすんなって。防人の仕事……あ……」
「私も……」
「これは俺の仕事!!男が女を守るのは古来何千年も前から決まってんだっ!!だから
ヨキが悩む必要なんて何も無いっ!!えーと、そーだ!!今年も砂大根豊作なんだろ?
それでなんか美味いものとか、あと雪砂菜もいっぱいとれたってどっかのおばちゃんも
言ってたし。あ!!俺、あれ食いたい!!赤苺のケーキ!!」
手を伸ばせば触れられるこの暖かさこそが幸せの海。
「明日作るよ、それは私の仕事だ」
「うん。手作りのもの食えるってのは最高だよなっ」
まだ濡れたままの黒髪、日に焼けた肌。
精悍さにはまだ少しだけ遠いが、しなやかで均整の取れた体付き。
「シオ寝かしつけたら外いこーぜ、外♪」
ふわふわと漂う護神像。かつて自分たちが作り出した呪われた器。
全てを知ってなお彼はまだ自分を愛してくれる。
「ちゃんと上着も持って。風がだいぶ冷たくなってきただろう?」
深緑色の肩掛けと、薄手の手袋。
時間つぶしに編み始めたつもりがすっかりと彼にあう大きさになってしまった。
「これ、俺の?」
「そう。お前の」
少しだけ少年の面影が残る首元にそっと巻きつけて、二人で外へと歩きだす。
寂しがって泣かないようにと結局小さな息子も連れて。
籠の中の愛の種は、穏やかな笑みで幸せそうに眠っている。
「やっぱちょっと寒くなってきたなー」
砂の海に沈む月と、流れる星たち。
そっと掬っても指の隙間からさらら…とこぼれてしまう。
時間も幸せもこの砂と同じ。永年に同じ形をとどめるなど不可能なのだから。
「あんまり深刻なことばっか考えんなよ、俺はヨキが笑ってくれるんならいくらでも
頑張れっからさ。怪我とかはヨキが治してくれるって知ってっから、怖くないんだ」
ポケットから取り出したゴーグルを彼女の首に掛けて金具を止める。
「怖いのは、そうだな……お前が悲しい顔をすることだな」
願いは永遠普遍のもので、曖昧なのに自分たちを掴んで離さない。
きりの無い不安よりもたった一つの暖かさを抱きしめることの何に罪があるのだろう?
「俺がいっぱい笑わせてやっからな、ヨキ」
キスはいつも甘いもので、逢えない時間を一瞬で溶かしてしまう魔法。
何度も何度も繰り返して確かめる存在意義。
「あ…………」
砂の上に組み敷かれて、視線が重なる。
呼吸が止まりそうなほどに深い深い闇色の瞳。
「怖いものなんてないだろ?」
「……そうだねぃ……こうしていてくれるなら……」
手を伸ばしてアルの背中を抱きしめる。
「怖いものなんて何も感じなくて済むよ……」
君の心臓が刻む世界で一番優しい音色は、この錆付いた鉄の臓器に息吹をくれるから。
流れるこの黒い血を、神にも負けぬような熱い赤に変えてくれるから。
枷を打ち砕いてくれる手と、連れ出して走る脚。
朽ちるだけの砂の世界で見つけたただ一つだけの光。
「もう一度、キスしてくれるかい?」
「一回だけ?」
「ふふふ。好きなだけでもオケイだよ、アル」
彼の心臓の音が止まるのはこれからまだもう少し先のこと。
運命の足音など聞こえないまま、二人で抱きしめあった。
つないだ手を離さないで、と彼女はつぶやく。
「お前のキスが一番好きだよ、アル」
もうじきこの砂漠にも冷たい季節がやってくる。
雪は彼をこの地に留まらせてくれる白い魔法。
春と共に彼はまた、旅立つ。
「シオが大きくなったらどんな子に育つんだろうね……きっとお前に似てよく走るんだろうねぃ」
「俺に似たらお前みたいな女に惚れるってことだな。息子と女の取り合いだけはごめんだぜ」
銜え煙草と紫の煙。
一本を引き出して女の前に差し出す。
「吸う?」
「久々に試してみようかねぃ……」
軽く銜えると、男のそれから灯を移す。
立てた膝に乗せられた男の腕と、斜めに座った女の細い脚。
賢者の指先が男の唇にそっと触れた。
「煙草は好きじゃないけれども、これは好きだよ。お前の味がする」
「俺の?」
「お前のくれるキスは、どこか煙草の味がするからね。アル」
君がそばにいなくとも君がここにいてくれるような錯覚。
指先で確かめて、幸せを確かめ合った。
「防人さん、ちょうど良かったよ。これを先生にもっていってくれるかい?」
籠一杯の赤苺を渡されて男は上機嫌。
「おばちゃん、荷物運ぼうか?」
「おや、お願いできるかい?助かるよ」
籠を老女に戻して、アルは両手一杯の袋を持ち上げた。
地下の村でも人々はそれぞれの生活を大切に営んでいる。
光無き世界でも決して希望は失わない。歌い継がれる言葉のように。
「先生と一緒になってこの村にずっといてくれればありがたいのにねぇ」
防人が居ればそれだけ機械に脅かされる生活は少なくなる。
命の保障と村の繁栄。
けれども、そんな理由ではなく彼は七の村の人間に愛されていた。
「あんたみたいな防人、そうそう居ないよ」
「あんがと、おばちゃん」
荷物を運び終わると、駄賃だと老女は男にミルクの入った瓶を持たせた。
赤苺ならば作るものはケーキか菓子類。
材料が多めにあって困ることは無い。
「ヨキ、だっただいまー♪」
小瓶の中の薬を整理する指先。簡素だが小奇麗な建物が彼女の空間だ。
「おかえり。シオも今起きたところだよ、お腹が空いたねぃシオ」
抱き上げてあやせばこぼれるほどの笑顔。
手を動かしながら何かを必死に伝えようとする仕草。
「シオ、おいで」
テーブルの上に荷物を置いて、男は子供を代わりに抱いた。
「シーオ、パパだぞ〜〜〜♪」
「うふふ、じゃあ私はケーキでも作るかねぃ」
彼が食べたいと呟いた焼き菓子を、歌いながら作ろう。
甘酸っぱい苺とたっぷりのクリーム。さくさくに焼き上げたパイと入れたてのお茶。
指先の魔法を、ぼんやりとした目線で男は追いかける。
「すげー……俺には絶対無理だ」
「もう少しだけ待ってておくれ」
オーブンの中からは甘い香り。期待に膨らむ胸と空いてくる腹。
炉から取り出させた型の中で笑う狐色のパイ。
「うっっまそう!!」
さくり、とナイフを入れれば生まれる小気味良い音。
小皿に取り分けて、仕上げに掛けた乳白色のクリーム。
「召し上がれ」
「いっただきまっっっす!!」
フォークを持つのもまどろっこしいと手掴みで口に運ぶ。
口腔一杯に広がる甘みと、さくさくとした生地の感触。
噛み付くように飲み込んで、唇を舌が舐め上げた。
「すっげー美味ぇ……幸せ……」
この上ないと言わんばかりの表情にヨキの唇が綻ぶ。
「こっちも食べておくれ」
「おう!!」
ふかふかのスポンジにくるまれたクリームと赤苺。
切る側から無くなっていく菓子たち。
「アル」
「ん?」
「付いてるよ」
唇の端に指先が触れて、クリームを取り去って。
そのまま口に含んで小さく笑った。
「甘過ぎたかねぇ……」
「いんや、もっと甘くたって構わねぇよ。ヨキ」
ちゅ、と頬に小さなキス。甘いのはケーキよりも君と居る時間だから。
「もっと、もーーーーっと甘くたっていいもんね♪」
「糖分の取りすぎは身体に悪いぞ?」
「何言ってんのセンセ。愛は甘くなくちゃ駄目だろ?」
歯の浮くような言葉だって、世界には必要だから存在している。
「そうだねぃ。もっともっと甘いほうがいいのかもしれないね」
「んは。おかわりっっ」
「はいはい」
背中に降る優しいキスに瞳を閉じる。
「あれ……これ、俺が昔やったやつ?」
細い指輪に目をやれば、女は小さく頷いた。
柔らかな乳房を抱きながら、その背に胸を当てる。
「アル、そのままで聞いてくれるかい?」
「ん?」
「…………行かないで、ずっとここに居て…………」
見えないはずの唇の動きまでもが、つぶさに見えた。
永遠に叶わない願い。
「…………そうできたら、俺……死にそうだな……幸せで…………」
うなじに触れる唇の優しさと、重なってくる手の暖かさ。
「でも、死ぬならヨキの上で死にた……っが!!」
すばやく入ったパンチは顎の真下から。
「調子に乗るな」
「っ痛ぇ〜〜〜〜〜〜っっ!!!!!」
シオを抱いて、ぷいとそっぽを向いてしまう。
「シオはあんな男になるんじゃないよ。まったく……」
たくさんの冒険を君としよう。
君が大きくなったら、世界中を飛びまわれるように。
にぎやかな夜が好きだと思えるのも君がいるからこそ。
「そのおっぱいは俺のだ!!」
「馬鹿ばっかり言うのはおよし!!」
指先が紡ぐ優しき歴史。
語り継ぐはその唇。
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20:59 2005/10/22