◆HURRY GO HAPPY◆
「シオ、口を開けて」
「うい」
子供を膝に乗せて、女は口中を覗きこむ。
「ちゃんと、歯磨きできたようだねい。良い子だね、シオ」
頬を触る指先に、嬉しそうに笑う顔。
知らない人間見れば、親子に見えるだろう。
子供は先月三つになったばかり。
女に甘えては追いかける。
「ヨキてんて、もれ、ちゃんと歯磨きできるつよ」
「上手に出来てるね」
「とーちゃんも、褒めてくれるす」
柔らかい頬と、曲線が作る身体。
眠たげに目を擦るのをみて、ヨキはシオを抱えた。
「御昼寝の時間だねい、シオ」
「うい」
腕の中で子供は半分夢の中。柔らかな匂いが眠りをより深くさせてくれる。
太陽の光は届かなくても、体温がくれる温かさ。
「良い子だね、シオ……」
聞こえてくる寝息に、女は目を細めた。
それは何時もの昼下がりの事。
何気ない日常になりかけた非日常だった。
「アル!!」
血だらけの男に女は駆け寄った。
右肩から左胸に掛けて、斜めに走る傷口。
「ちっと……しくじっちまいましたよ……このアル様が……」
よろめく足元と、砂に吸い込まれていく黒い血。
手を取って、医務室へと引きずるようにして連れ込んだ。
「麻酔は……」
「イラネ。打ったって、効かねぇもん……」
ごふごふと咳き込むたびに、唇の端から血が流れ出す。
ガーゼで拭きとって、男のツナギを引き裂くようにして開いた。
(……っ……酷いな……)
筋組織まで見えそうなその深さと、抉るような切り口。
「麻酔無しで、縫合するよ?」
「オケ……イ……」
「大丈夫。死なせはしない。私がお前を助ける」
「サン、キュ……」
死なせるわけにはいかない。
彼にはまだ幼い子供もいるのだから。
飛び散った血液が頬に当たる。それを拭く事もせず、女は縫合を続けた。
痛々しい縫い跡。それでも、命を繋ぐ大事な糸。
「すぐに鎮痛剤を作るよ、アル」
「……キ……ら、から……」
「アル?」
こびりついた血で真っ黒な唇が動く。
『薬は要らないから、傍にいて欲しい』と。
「とーちゃん!!とーちゃん!!」
ベッドに横たわって目を閉じたままの男に、泣きじゃくりながら子供が抱きつく。
「とーちゃん!!とーちゃんっ!!」
「大丈夫だよ、シオ。アルは今、お薬を飲んだから。すぐに、良くなるから」
「ヨキてんて、もれ、外に行くす!!機械をやっちゅけるす!!」
防人の子供は、その背中を見て育ってきた。
今も傍らに佇む護神像。
「アーユマティ!!行くすよっ!!」
「シオ、およし!!お前まで怪我をしてしまう!!」
「もれも、とーちゃんみたいな防人になるす!!」
「シオ!!」
えぐえぐと嗚咽を溢す幼子を、女はそっと抱き締めた。
「シオ、私と一緒にアルの傍に居よう。機械はみんな、アルがやっつけてしまったよ。
目が覚めて一人ぼっちだったら、凄く寂しいだろう?」
「う…いっ……」
ぐしぐしと目を擦って、シオはアルの手を取った。
自分よりも、ずっとずっと大きな父親の手。
同じように、その存在も大きな男なのだ。
「ヨキてんても、一緒?」
「一緒。シオと一緒に居るよ」
「うい……アーユマティ、おいで」
母の代わりに傍に居てくれるのは護神像。
無機質な機械がくれる温かさ。
「とーちゃん、早く元気になって……」
シオの頭を撫でながら、ヨキは眠るアルの顔を見た。
先刻よりは大分血色が戻ってはいるものの、軽症ではない。
「…オ……」
「とーちゃん!!」
息子の方に顔を向けて、男は僅かに唇を動かす。
「…ぶ、だ……キ…せ……が、薬……か、ら……」
にっと笑って、閉じられる瞳。
どんなときでも、男は少年にとって自慢の父親なのだ。
肩車をしながら砂漠を走って、世界中を飛び回る。
「ヨキてんてー!!」
「うん……大丈夫だよ、シオ。アルは強いだろう?」
「とーちゃんは、世界一の防人す!!」
幸せは、途切れながらも続いていく。
きっと、この先も。
「やっと、こうやって飯が食えるようになった♪おかわり♪」
頬に擦り傷は残っているものの、男の回復力は目覚しかった。
通常ならばまだ、ベッドでの生活が続いていて当然なのだ。
「もれも、おかわりするす」
「はいはい」
皿を受け取って、温かいスープを注ぐ。
三人で囲むテーブルの中央には。茎の長い赤い花が飾られている。
室内に響く笑い声と、温かな空気。
「ヨキてんてーも、もれととーちゃんと一緒に旅をするす」
「こら、我侭言ってんじゃねーぞ、シオ。ヨキ先生は御医者さんだから、この村に
居なきゃなんねーんだぞ」
「一緒に、行くす」
男の血を受け継いで、シオも頑なな一面がある。
自分に似すぎた、とアルは苦笑した。
「そうだねい……ちょっと位なら、一緒に行けるかもしれないね」
炒め物をシオの小皿に取り分けて、女はくすくすと笑う。
「マジでっ!?」
「マジで。六の村に用事があるのさ。そこまでの護衛を頼みたいんだ」
包帯と絆創膏だらけの指先。
「急ぎの用事ではないよ。だから、お前の傷が癒えてから。アル」
「いやっほぉっ!!親子三人って感じぃっ♪」
「ヨキてんてーと一緒す〜〜〜〜!!!」
感情を素直に現すのも、同じ血のなせる業。
小さく笑って、女もその輪の中に加わった。
護神像を纏うには、まだ癒えぬ傷。
それでも、機械を追い払うくらいには動けるように回復はしてきた。
「ヨキ、援護頼むぜ」
「オケイ」
「とーちゃん、もれは?」
ぴょこん、と小さな頭が揺れる。
「おわ!!シオっ!!」
「もれも一緒にいるすー」
男の腰にしがみついて、シオは頭を振った。
「危ねぇからなぁ……うー……んー……」
腕組みをしてぶつぶつと呟くアルを知り目に、ヨキはくすり、と笑う。
「オケイ、シオ。私の後ろに隠れておいで」
「もれも手伝うす」
「よっしゃ、シオはとーちゃんとヨキ先生に弾渡す役目。ちゃんと出来るな?」
「うい!!」
両手を上げてはしゃぐ子供を撫でて、二人はスコープ越しに狙いを定める。
弾薬と硝煙の匂いになれた不遇な子供と言うものも居た。
けれども、父親の肩越しのその匂いは、彼にとっては慣れ親しんだものでもあり。
防人として生きるものの証にどこか似てもいた。
「シオ、追加!!」
「こっちにも!!シオ!!」
二人の声に、手際よく薬莢を渡して煙の中で目を凝らす。
崩れそうな機械の山の中、何かが光った。
「とーちゃん!!何か居る!!」
左手の印が光り、それを明確に映し出す。
「そこだぁあっっ!!!」
勢い良くロケット弾を撃ち込む。それを援護するのは女の弾屋。
絡まりあって中心を射抜いて、破片と黒い体液がそちこちに散らばった。
「うへぁ……これ、風呂入んねーと、死ぬっ」
「ふふふ。傷が治るまでは七の村に居ろって事だろうね、アル」
「うーわ……べとべと。久々だから、気持ち悪っっ」
同じように煤で頬を真っ黒にしたシオを抱き上げて、アルはけらけらと笑った。
「シオ、腹減ったろ?」
「うい!!」
「ヨキ先生が、おいしーもん作ってくれるってよ」
「うは!!」
ぱちん、と閉じる右目。
「仕方ないね。何か美味しい物を作るよ」
三人で並んで、伸びる影も三つ。
例え、母ではないとしても。
彼にとっては母と同じような存在の女。
この先の未来など、誰も知る事も無く。
今はただ、この時間が愛しいと純粋に思えた。
「とーちゃん、痛くないす?」
まだ、生々しく腫れる傷に、シオの指が触れた。
「まぁ、ちっとは痛ぇな。でも、とーちゃんはシオとヨキ先生が怪我しなくてすむんなら、
一杯怪我してもいいんだぞ」
シオの頭に手を置いて、アルはにこにこと笑うだけ。
大事な物は少しだけで良い。
両手に抱えきれないほど持てば、いつか全部を落としてしまう。
本当に大切なのは二人だけ。
それが、彼の願いなのだから。
「もれも、おっきくなったら、とーちゃんみたいになる」
「あん?俺みたいになるのは止めておけ、早死にするぞ?」
「ハヤジニって何す?」
「んー……気にすんな。とーちゃんみたいになりたいのか?シオ」
息子に、自分のようになりたいと言われることの喜び。
不器用ながらに、彼は同じ目線で過ごしてきた。
その背中を見つめ、子供は何を感じたのだろう?
舌足らずな愛息がくれる小さな小さな幸せ。
「うん!!」
「そっか、とーちゃん嬉しいぞ。あと、肩まで浸かったらもっと嬉しいな」
砂の海を二人でどこまでも、どこまでもあるいていく。
定住する事を許されない運命の護り人。
「もれも、防人になる」
「おー?防人になるにはな、うーーーんと強くなんなきゃなんねーぞ?」
「どーやったら、つよくなるす?」
「んーーー……そーだなー……誰か、好きな人を作れ。だと、強くなれっから」
「もれ、大好きな人いる!!」
誰も周りにはいなくとも、内緒話をするようにシオは男の耳元で。
「んーーー??」
「…………………」
「……そか、うんうん……」
「うは」
湯気越しに、アルの顔が笑う。
それは、在りし日の父姿として生涯彼が忘れる事の無いものの一つだった。
「ヨキさーん、大人タイムですよ。俺になんかアルコールくださいよー」
テーブルに突っ伏して、アルはだらり、と両腕を下げた。
そのまま当ても無くぶらぶらと動かして、にやにやと笑う。
「傷が開くから、冷えた薬湯だけ」
「うぇー……苦いから、嫌なんだよなぁ……」
そうはいうものの、唇から笑みが消える事は無い。
「どうかしたのかい?」
「さっきな、風呂でシオに『どうしたら強くなれる?』って聞かれたからさ『好きな人作れ』
って言った訳よ」
人は誰かのために強くなれる。
彼も彼女を護りたいと願い、防人として生きて来た。
「したらさ、『好きな人いる』っていうわけですよ」
「ほう」
「誰だと思う?」
女を野顔見上げて、男は視線を重ねた。
「お前だろう?」
「俺とお前だって。そんで、防人になるんだってよ。アルさん、早めに引退?」
「ふふふ。あの子らしいね」
ひんやりとしたものが額に触れる。
「嬉しそうな顔してるから、一杯だけだよ。アル」
冷えた玻璃には、甘い甘い果実酒。
「サンキュ。これが一番嬉しい」
「私も戴こうかね、一緒に」
二つのグラスの小さなキス。
「シオの成長に乾杯♪」
「そうだねい。シオの成長に」
「いででででででっっ!!ヨキ、タンマ!!待ってくれっっ!!」
爪の先が、傷口に食い込んで。
男の悲鳴と苦しげな息遣いが室内を支配した。
「もうちょっと優しく……あー……痛ってえ……」
女の手が頬を包んで、その鼻先にちゅ…と唇が甘く触れる。
「シオは泣かないで、ちゃんとできるのにねい」
こうして、触れ合えるまでに要した時間。
傷は厭わずに、あるがままにそのままに残すのが彼の主義。
「俺の方がガキかもしんね……かーちゃんのおっぱい恋しいもん」
両手で乳房を揉み抱いて、その先端に舌を這わせていく。
肌で感じる温かさと、心音。
この身体でしか得られないことも沢山あるから、人はきっと誰かを欲してしまうのだろう。
「……痛……ッ……」
「なーんか、御互い満身創痍だな、ヨキ」
腰の括れに手を当てて、自分の上に乗るように促す。
小さな抵抗はあっても、拒絶されるほど浅い仲ではない。
「だって、この方が御互いに痛ぇ思いしなくてもいいだろ?それに……」
「?」
「ヨキが自分で挿れてくれんの、見たい……うがっ!!」
握り締められた拳が、額を打つ。
涙目の男と、苦笑する女。
「……ぁ……ん…」
くちゅ…入り口に先端がかすめる音と、僅かにびくつく腰。
ゆっくりと、身体をかがめながら腰を下ろしていく。
互いに傷だらけ身体を引きずって、一緒に進んできた。
どれだけ傷が増えても、心だけは無垢なままで居られたあの日々。
時間の流れは速すぎて、いつも自分だけを置き去りにしてしまう。
その事に対する恐怖を拭ってくれたのも、また、この男の手だった。
「んー……?何?」
「愛しいと……思っただけだよ、アル」
背中を抱くようにして、折り重なる。
柔らかな乳房と、長い睫。この世界で出会えた奇跡。
「うわ、すっげぇ嬉しい」
愛してるという言葉は、使い古されたものだとしても。
廃れる事無く残っているのは、きっとその言葉に大きな意味があるから。
「ふふふ、やっぱり親子だね。シオと同じ顔で笑う」
「そりゃ、あれは俺の息子ですから。でも……」
両手で頬を包んで、舐めるようなキスを重ねる。
「いつかは、お前の息子になるからさ、かーちゃん♪」
「アル!!」
「もう一人、子供は欲しいし。何人居ても、養う自信はあるからさ」
君に出会えた事は、きっと砂の中から輝石を見つけるような確立だったのだろう。
けれでも、こうして出会ってしまった。
互いの事を、知ってしまった。
他人に戻る事は難しくはないとしても、戻りたいと願う事などあるのだろうか?
この砂に埋もれた世界の中で。
「ヨキちぇんちぇー」
駆け寄ってくる子供を抱き上げて、その頬に付いた砂を払う。
「どうかしたのかい?シオ」
小さな手に導かれるまま、足を進める。
「とーちゃん!!」
「おー?シオ、どうした?今日は外出ても大丈夫だぞ」
二人の手を取って、シオはなおも進んでいく。
砂の世界にある小さな小さなオアシスへと。
「見てー」
機械の襲撃からも逃れて、ひっそりと咲く一輪の華。
光を受けて誇らしげに、凛とした姿でそこ佇む。
「きれい」
「だな。ヨキ先生みたいだろ?背筋まっすぐのばして」
「うん!!」
男の指が、その花を摘もうとするのを小さなそれが止める。
「とーちゃん、お花、かわいそうす。取ったら、ダメ」
どんなものにも宿る命の美しさ。
それを、朧気ながら理解しようとする息子の姿。
「そうだな。頑張って咲いてるんだもんな」
「うは」
抱き上げて、肩車で見せる見慣れぬ高さの世界。
いつか、息子も同じ高さでこの世界を見つめるのだろう。
どうか、どうか、そのときまで。
彼が、よく生きてくれますようにと小さく願う。
「二人とも、帰って御昼にしようか」
「だってさ、シオ。帰るぞ〜」
「うは!ご飯っ」
駆け出す君の横顔を、見つめて居られるこの幸せを何と言えば良いのだろう。
願わくば、この時間が少しでも長く続きますように。
「ふふふ。二人とも元気だね」
太陽はまだまだ、頭上にある。
この空の下、三人で笑える今があるからこそ、あの過去を抱いて進めるのかもしれない。
「ヨキ、早く来いよ」
「ヨキちぇんちぇー」
この華のように。
全てを受け止めて生きられるだけの強さ。
嬉しい事を多めに、悲しい事は分け合える相手が居る事。
今日も、笑えるこの事実が何よりも愛しい。
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22:59 2005/05/31