◆月の裏で逢いましょう◆
たった一つの答えを探すのに、どれだけ時間を費やしただろう――――。
「あれ、欲しい?」
彼女が指すのは、砂の上に浮かぶ大きな月。
その細指は円を描いて、悪戯に私の頬に触れた。
「月を?どうして?」
「綺麗だから、アランも欲しいのかしらって思ったのー」
長い髪が、静かに風に泳ぐ。
あの月の裏はどうなっているのだろうと、幼い頃はよく考えていた。
月には水も草も無く、勿論、兎なんて物もいない。
それでも、あの月には心を惑わせてしまう何かがあった。
「アラン?」
「君は、あの月が欲しいのですか?」
二千年、空を見上げては手を伸ばしてきた彼女。
「綺麗だけど、欲しいって思った事はないよ」
肌寒いのか、両手で首を包む仕草。
「お月様、寂しそう」
ただ、夜空に浮かぶ瓦礫を見ても綺麗というのだから。
「中身はもう入ってませんよ。あれも、前時代の遺跡です」
「そうなの?でも、お月さまだよ?」
細い肩を抱き寄せて、薄い耳朶に唇を当てる。くすぐったそうに震えて、見上げてくる
丸い硝子玉のような瞳。
「……んー……ぅ…」
指先で唇を開かせて、そのまま柔らかい口腔へと忍び込ませる。
絡み付いてくる舌先との小さな戦い。
「……アラン……あのね……」
唇が指から離れて、襟元をぎゅっと掴む指先。
「どうかしましたか?」
「だっこー……」
「だっこだけで、いい?」
ぺちゅ…喉元に柔らかい唇が吸い付く。
「今日は、それだけでいいの」
細い背中を抱いて、思いつくだけの愛の言葉を囁いても。
彼女にそんなものは通用しない。
「あったかいね。シアワセって、きっと暖かいコトを言うんだね」
今まで読んだどの哲学書よりも、彼女の言葉の方がよほど心理がある。
何気ない呟きに、世界の深淵なんて物は潜むから。
「アランはお月様、嫌い?」
「どうして?」
「さっき、前時代の遺跡って言ったから。だって、あたしだって同じだもの」
寂しげに俯く小さな顔。
愛しさは、この手から彼女に伝わってくれるはずなのに。
「愛すべき、大きなものでしょうね。月は」
「うん……」
上着をぎゅっと掴む指先。
この夜が永遠であればと、どれだけ願ったことだろう。
現実はいつだって過酷だ。私の最後は彼女に取り込まれるのだから。
ただ、それはそれで一つの幸福の形ではある。
永劫なる融合によって、彼女と一つになれるのだから。
月光が肌を照らして、陶器のようにその色香を高めてくれる。
「アラン?」
手を取って、そっと唇を押し当てて。
そのまま抱き寄せて、肌と肌で心音を確かめてみる。
「私を、防人として選んだことを後悔はしてませんか?」
「どうして?」
「もっと、適任者が居ただろうと」
「居ないよ。アランがあたしを呼んだの。忘れちゃったの?」
願いに反応して、護神像は防人を選ぶ。彼女も手近に居た私をそうして選んだはずだ。
「お月様、綺麗ねー……」
裸のままで抱き締めあって、瞳を閉じる。
それだけで満たされる感情は、人間ではない彼女が与えてくれたもの。
「眼鏡がないと、アランはあたしが見えない?」
「そんな事も、ないですけども……」
砂漠で過ごす夜の方が、心も身体も安らかにしてくれる。
ベッドから抜け出して、窓際にたつ姿。
月光の下で伸びる、細い影。
「マナ……」
後ろから抱き締めれば、腕に掛かる小さな指先。
「くすぐったいよー……」
君の暖かさを、手放さないと決めたのだから。
「風邪を引いてしまいます。こっちに……」
「うん」
柔らかな乳房が、胸に重なる。小さな唇が、しずかに覆い被さった。
歯列を輪って入り込む舌に、同じように返して少しだけ力を入れてせなかを抱く。
離れては触れて、何度も何度も繰り返される接吻。
「寂しい?」
「どうして?」
「そう、聞こえたから。寂しいって、言ってる」
声ではなく、軋む心の声を。
「ずっと、一緒にいるよー……」
「ええ……」
四の村は、私たちを快く迎えてくれてその夜の宿も無事に決まった。
ストラップシューズを鳴らして、彼女はどこかへ出かけたようだ。
護神像だと、誰が思うだろう。
(たまには本でも読んでみようか)
気に入って何度も読み返したせいで、頁はよれて紙は劣化して来ている。
それでも、読むたびに違う意味をくれるこの本を捨てる事は出来なかった。
文字を追うだけの行為でも、言葉はそれ自体が力を持つ。
「アランー、寝ちゃってる?」
「起きてますよ」
「御菓子作ってきたの。食べて」
可愛らしい縁取りの紙に包まれた何個かの小さめなクッキー。
「クッキーですか……」
「こそっり混ざってきちゃった。あたし、人間に見えるのかな?」
両足で歩くことにも、リボンを結ぶことも。
一つずつ彼女は憶えてきた。
「おいしい?」
この味を分析するとすれば……粉と砂糖の分量が激しく混同しているとでも言えばいいのだろうか?
それと、中にはいってるもの……卵と、予想するにコンデンスミルクのような……。
完全に火の通ってる部分と、そうでな部分の微妙な合奏。
総じて言えば、内臓に負担がありそうな味というべきだろうか……。
「ええ、とっても……」
噛まずに飲み込めばなんとかなると、信じて飲み込む。
将来的にはこれを毎日食すことになるのだ。
身体を慣らしておく必要性は十二分にある。ありすぎるくらいだ。
「よかった」
良く考えなくとも、彼女が食物を作る機会など今まで無かったのだから。
「こ、今度は、一緒に作ってみませんか?」
「うん!楽しそう!!」
ああ、多分。
私のつまらない悩みなんてこのクッキーと同じなのだろう。
今からいくらでも作り変えて、満足の行く日々にする事ができる。
「君が、作ってくれたものなら、なんだって美味しいですよ。マナ」
今から、たくさん時間を重ねて、二人で一つの物を作り上げて行けばいい。
いつか、極上の味が出せると信じて。
「今度はねー、ケーキを作るの」
「楽しいですね。今度は一緒に作りましょう」
それが、彼女にも私の内臓にもいい結果をもたらしてくれるから。
「行きましょうか」
「はーい」
護神像に姿を変えて、彼女は私の隣に浮かぶ。
いつか、こんな事をしなくても一緒に歩ける日がくるから。
「御菓子つくるのって、楽しーねー」
「……そうですね、危ないから一人で作るのは賛成しかねますが」
「えー!!」
いつか、どこかの村に安住することができるのなら。
君が笑って、泣いて、楽しく過ごせるように努力をしよう。
願わくば、君のクッキーがもう少し『お菓子』というものに近付いてくれれば。
この上ない幸せになるだろう。
「オーブンの使い方はわかりますか?」
「わかんない」
砂に残る足跡、私たちは定住する事を許されない防人と護神像。
「次の村で、教えますよ。これでも料理は得意だったので」
「わーい♪そしたら、もっと美味しいの作るね」
ええ。できれば、食べ物にカテゴリーできるものを作ってもらえれば。
君の心は、世界で一番の調味料になるから。
「大きなお月様ーーー」
見上げた月は、蕩けそうな満月。
どこか、熟んだ卵黄のようなそれは彼女が懸命に菓子作りをする姿を想像させた。
「あんな色の卵を、今度は探しましょうか」
「うん」
髪に残るバニラの匂い。今度はどんな香りを選ぶのだろう。
「お月様の裏ってどうなってるのかな?」
「今度、二人でその答えを探しに行きましょうか」
「うん!!」
小さな背中に見える白い羽根。人の心と機械の心を受け取る君。
古の本で読んだ天使というものを具現化するならば、きっと君のような姿になるのだろう。
(次の村では、お菓子作りの本も買わなければいけませんね。せめて、レアでは無い物を
作れる程度にはなってもらいたいですし……)
フレームに掛かる指を取って、唇を押し当てる。
このまま砂の上でもつれ合うのも悪くは無い。
「…………御仕事の時間のようですね、マナフ」
「そうみたいだねー」
邪魔な物は、早めに片付けて二人だけの時間をより長く楽しみたい。
その前の準備運動には丁度良いかもしれないけれども。
心臓が砕け散る感触と、流れ込む願いが生み出すめまい。
ふらつく足元を叱咤すれば、後ろから抱き締めてくれる細い腕。
「アラン、大丈夫?」
「ええ……」
本当は、この状態の方がセックスよりもずっと気持ちが良い。
彼女と融合する最後の日は、きっとこういうものなのだろう。
「アラン?」
抱き締めて、舐めるようなキスを繰り返す。
嫌がる事も無く、彼女は瞳を閉じて同じように返してくれる。
唇を繋ぐ糸を、指先で名残惜しそうに切って。
「あと、おしまい?」
「いつまでもこのままで居るわけにもいかないでしょう?」
「んー……」
この温かな空間で、融合できることの特権。
誰にも邪魔される事の無い、至福。
「もう一回、キスして」
我がままをいうのは、より人間に近くなったからだと思えばそれだって愛しい。
あの月が、顔を背けたくなるような甘い甘い接吻を。
脊髄まで蕩けそうな抱擁と、残酷なくらいに優しい愛を。
君の細胞の一つ一つに刻みこみたい。
上着を椅子に掛けて、ベッドに腰を下ろす。
埃臭いのを除けば、そんなに悪くも無い古びた家屋。
「アラン、疲れた?」
「少しだけ。でも、大丈夫ですよ」
「んとねー、甘いもの食べるといいんだよー、はい」
差し出された紙包みに、引きつる笑み。
ああ、今日最大の戦いは今からなのですね、神様。
でも、これに勝たなければ私たちの明日は無いのですね、神様。
「はい、あーんして」
いわれるままに口を開ける。
どうか、どうか、体力が持ちますように。
ああ、神様、私の願いを叶えてくれるならば。
せめてクッキーの作れる女の子に彼女を。
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0:39 2005/07/01