◆天界迷路◆
いよいよ明日は鵜国城に向かう。
各々の夜は静かにふけゆき、そうでないものも居る。
「のう、悟浄……なぜそこまで儂を嫌う?」
黒髪に櫛を通しながら、那咤公主は男を見上げた。
「だからなんでお前さんが俺の部屋に居るんだと……」
「儂は明日には天界(うち)に帰らなければならぬ。だからせめて今宵くらいはと
思ったまで」
薄紅の唇から覗く小さな牙。
化粧を取り払った顔は予想よりもずっと幼くどこか艶やか。
「オカマちゃんに興味はねぇのよ。俺」
「……今は女子じゃが……それでも嫌ならばしかたあるまい」
のんびりと寝台に上って夜着を脱ぐ。
胡坐座になって首に手を回してそっと髪をかき上げる仕草。
「良い身体してんのな、お前」
張りのある乳房はつん、と上向き。その周りの肉付きは無駄なものなど無い。
形の良い鎖骨と左肩に目立つのは獣の噛み跡。
なだらかな脇腹と小さく窪んだ臍。
ほんのりと焼けた肌はどこか黄金の光を纏ったよう。
「九海竜王の娘とやりあった。修行は厭わぬ」
托塔天と竜女の血を引く那咤公主は、外見こそ淑やかだが中身は炎の戦神。
一度戦えばその牙をむき出しにして相手を飲み込む。
「天界にはぬしのような男はおらんからな。みな、儂のことなど……」
彼女もまた、忌まれる存在。
「先に休ませてもらうぞ。裸なのは気にするな、儂は寝るときいつもそうするだけ」
ひらら…手を振って布団に潜り込む。
「那咤ちゃん」
「何じゃ?」
「外いって呑まねぇ?何かちょっと気になってきたかも」
布団の端から目だけを覗かせて、悪戯気に瞬く。ぱちん、と。
「誘いは断らぬ」
「んじゃ、行きましょうか。服着てね」
灯りに触れた蛾が、焦げた匂いを撒きながら落下していく。
「那咤ちゃんはさ、天界嫌いなの?」
春巻きを噛み砕いて飲み込む。注がれた老酒は水だといわんばかりに豪快に飲み干されて。
「嫌いではないよ。ただ暇なだけ」
ゆるり、とした部屋着姿。長箸を伸ばして香草を皿に。それを自然に男の前において
自分にもう一皿。
焼けた油を軽く掛けて咀嚼する。
「悟空は儂の遊び相手だった。二人でよく天帝の庭で走り回って……悟空はそう悪くも無いのに
顕聖は頭が固いからあの程度の悪戯で悟空を花果山に……」
悟空にはその頃の記憶が欠如しているはずだった。
しかし、那咤公主と顔をあわせて瞬間に彼女を彼女として認識した。
そして「懐かしい」と口にしたのだ。
「なんで猿は那咤ちゃんのこと憶えてんだろ」
桃饅頭を一口かぷり。指先で餡を拭って少女は笑う。
「儂と悟空は友達だからな。天化も顕聖も、本当は誰も悟空のことなど嫌っておらん。
それに神将二人と竜の血が近くに来れば、おのずと記憶も戻るじゃろうて」
「那咤ちゃん、猿好きなんだ」
「嫌いではないよ。悟空は儂を見て一度も汚らわしいとは言わんかった。肉団子から
生まれた蛇子ともな」
肉の卵を突き破り、生まれでた竜の血脈。
托塔天の二度目の妻は那咤を産み、間も無く息を引き取った。
妻に生き写しのこの娘になった息子は、末子でもあるのも重なり父も兄も甘やかし放題。
異母兄弟の兄二人も父親も、女になったその日から婿探しに走り回るほど。
「蛇子だなんてねぇ、そんな……」
「竜も蛇も変わらぬと言う。しかし、母上の死に際のお顔の美しさ……父上が惚れた訳も
納得がいく。儂もあのようになりたいものだ」
那咤の小さなため息は、光になって蝶の様に。
溢す涙は桃色の輝石に変わる。
「悟浄にも嫌われたし、天界で大人しく蓮でも食うかな」
噂に聞く那咤太子は火尖鎗を手に風火輪で空を駆け巡る少年神。
揚巻の髪を揺らしてどんな相手でも打ち破る。
「何で女の子になりたかったの?」
杏仁豆腐に匙を入れ、一欠片掬う。
熟れた果実と甘い匂いと少女の濡れた瞳。
「父上も母上も女子が欲しかったのだ。だから儂は修行を積んだ。まぁ、那咤太子と言われても
仕方の無いこと。武神の瘤じゃ、儂は」
園遊会の席では持て囃されるかからかわれるかどちらか一つ。
その中で一際、那咤を可愛がるのは西王母。
宴会やら歌会から何かにつけて那咤は来ぬのかと書状を遣わす。
「三蔵も昔は儂らの仲間だった。あれは元々天界の魂。だから……悟空は三蔵に従う」
「…………………」
「ママがそう言う。みな因縁を持つ魂だからこそ惹かれあったとな」
「ママ?」
「西王母。ママと呼べと。儂をことのほか可愛がってくださる天界の母君」
小さな爪はきらら…と輝く。
「ママに余り心配をかけてはいかんだろうが、儂には前線への出撃命令が多くてな。
いっつも傷だらけで帰っては叱られるのじゃ」
それで嬉気に言うのは彼女が疎ましいと思っては居ない証拠。
鈴を転がしたようなその声。
「男は野性味があったほうが好きじゃ。でも、嘘吐きは好かぬ」
流し目は誘い加減ではなく、男をじっと見定める。
「八戒は?」
「豚は食うものじゃ。腹が減ったら役にも立とうが……」
ぱりぱりと焼き豚の表面をはいで口にする。
「俺だって河童よ」
「儂とて所詮は蛇よ。言うたじゃろ?嘘吐きは好かぬ……とな」
那咤公主は悟空は実年齢から言えば八戒や悟浄よりも遥かな年長。
あの黄天化とて同じなのだ。
「悟浄みたいな男が天界にも居れば、儂も退屈せぬのに」
蓮華座を蹴り倒して少女は焔を操り戦う。
「ああ、でもそうしたら儂は臆病になって戦えぬな……戦の出来ぬ那咤では父上も兄上たちも
悲しむ……」
生れ落ちた瞬間に定められてしまったその役割。
せめて恋だけは自由にしたいと呟く。
「戦争なんか行かなきゃいいだけの話じゃねぇの、那咤ちゃん」
人の世も天人の世も、争いごとはなくならない。
天界が安息の地だとは誰が間違えてしまったのだろう。
「争いは消えぬよ、魂がある限り、男と女がある限りな」
おそらく、自分よりもずっと世界も男女の理も知っているだろう。
それでも今知ったばかりのような表情で少女は初々しく頬を染めるのだ。
後悔だけは要らない。
「少し眠くなった……しゃべり過ぎたかのう……」
どんな言葉を掛ければ彼女の心は満たされるのだろう。
「部屋まで連れてこっか?」
ふるる、と横に振れる首。
「もう少し、人間を見てから……おぬしは先に戻って休めばいい……」
「女の子一人にするのは、悟浄様の信念に反するのよ。俺もつきあってあげる」
うなじに掛かる後れ毛と袖から覗く細い指先。
卓上にうつぶせになる那咤の隣に座ってそっと手を重ねた。
背中合わせのような近くて遠いこの距離。
「俺、案外一途でさー……ほれ込んだら浮気しないほうなの」
「だろうな。金蝉に惚れた奴は皆、死ぬまであれの奴隷だった」
「金蝉?」
「今の名は玄奘三蔵……おぬしが良く知る女じゃな……」
この先、三蔵の過去を知る人間が出てくる可能性は限りなく低い。
そしてこの那咤公主がここまで何かを語ることなどおそらくは無いだろう。
「金蝉は何度も生まれ変わる。その度に面白ことが起きる……だから、儂らは永劫を
疎ましいとは思わぬ……」
刈る者と刈られる者。相容れぬはずなのに三蔵の周りに集まるのはどれも、あまりに
憎めないものたちばかりで。
躊躇うことなく殺戮を繰り返していた頃が遠い昔にさえ思える。
「今日は……手ぇ出すのやーめた。俺もなんか酔っ払っちゃった」
とろり、潤んだ瞳が見上げてくる。
「珍しい男だ。酔いつぶれた女子など餌のようなものだろう?」
「だぁって、そうしたら卑怯者になっちゃうからね。那咤ちゃんの弱ってるときには
手ぇ握って、元気なときにやらしいことしたほうが楽しいだろ?」
ぱちん。笑って閉じられる片目。
焔の女神も今は一人の少女。
男の傍らで転寝をしながら明日の夢を見る。
「部屋までは責任もって運びましょー」
「頼もうかのう」
背負って歩くこの宵闇小路。廻る桜は罪深き色。
布地越しに伝わる暖かさは人も天神も妖怪も隔たりなどないのに。
どうして人間はいつも他者を排除しようとするのだろう。
時には神殺しをも平気でするもっともか弱く残酷な種族。
それが―――――――人間(ヒト)なのだ。
乗り込んだ鵜国城には当然もう一人の国王の姿。
本物の鵜国王の周りには三蔵とその仲間たち。
異様な気迫に包まれた謁見の間に、燻る煙草の紫煙。
「三蔵、禁煙すんじゃなかったの?」
傍らの悟空に「二時間持たなかった」と女は呟く。
「無理するとストレスかたまるとママも言ってたぞ」
出掛けに買った鼈甲飴を舐めながら那咤公主は風火輪を雲に変えてふわり、と浮かんだ。
「その国王は偽者、役立たずだろうがこっちがお前の本物の親父だ。受け取れ」
背中をどん、と押して前に突き出す。
二人の国王を見ながら太子と王妃は首を捻った。
「確かに、父上は人が違えたように善良になりましたが……本当に違えてたのか」
「あらやだ。だからここ三年ばかり一回もエッチしなかったわけねぇ」
響く笑い声に女僧はこめかみを押さえて首を振った。
「じゃあ、この人は何なのかしら?」
「バケモン」
あっさりと答える悟空に再び湧き上がる爆笑。
「悟空、那咤公主」
頷く二人が手に武器を取る。
どちらも火気の強い天界の住人。
瞬時にして国王の背後を取り喉元にそれを突きつける。
「はて、この匂い……どこかで嗅いだ様な……」
「だな。どっかで嗅いだことあんだよな……噛んでみっか」
国王の首筋に躊躇無く悟空は牙を突きたてた。相手が人間ならば即死は確実。
「ぎゃああああぁぁぁあああああっっ!!!!」
しかし、そうでなければ本性を現すしかないからだ。
「まっず……っあああっっ!!」
焼けるような喉の痛みと乾き。
その場に蹲る悟空に駆け寄る一行。
「悟空!!」
「おい、猿!!」
「しっかりするのじゃ、悟空!!」
びくびくと痙攣する身体と震え。
「……!!……みな、離れるのじゃ!!天化!!」
「はいよー」
那咤の声に各々が三蔵の周辺に集まる。
「!!」
国王の身体が二つの裂けるのと少年の身体から眩い光が生まれるのとどちらが先だっただろう。
次の瞬間見たのは一匹の雄雄しい青獅子と、見慣れた風貌ではなく大人びた少年の姿だった。
「なななななな……何なんだぁぁああああっっ!!!!」
「なんぞ、悟空は元の姿に戻ったか」
ぴょこん、と悟空に走りより那咤はくすり、くすりと笑うだけ。
「半裸では風邪を引こうぞ」
「あー……うん。何かやっと元に戻れた」
青年の少しだけ手前、ぐっと伸びた背丈と精悍な顔立ち。
「さーんぞ、なんかいい感じでかくなった」
「……そうだな。まぁ、猿には変わらんが」
「うん」
どんな姿になっても、彼女は自分から目をそらさない。
だからこそこうして一緒に居られる。
「那咤ぁ、その豚獅子は文殊のとこのだろ」
欠伸を噛み殺しながら天化が呟けば、頭上から「そうだ」と言う声。
「それは俺のペットだ。すまんな、那咤、天化」
無精髭を擦りながら現れたのは文殊菩薩。
背後にはまだ酔ったままの普賢菩薩を背負う二郎神の姿。
「なんで文殊のペットが王様になってるのじゃ?」
唇に人差し指を当てて、那咤は首を捻った。
それはそこに居た全員の疑問だ。
「おお。そこの爺もなぁそこそこ徳があるからよぉ、金身羅漢になれるようにしてやっかと
思ったんだけどな……なんつーの?こう、坊主じゃない姿でいったらえらい裏表のある対応
されちまってな。あげく罪人あつかいで三日三晩水責め。俺ぁそっちの趣味はねぇっつのな」
見た目は三十路も半ばの美丈夫。
後ろに二人を従えるところをみればその地位は明白だ。
「ま、三倍返しって言うだろ?だからよ、爺も井戸に三年ほどぶち込んでたわけよ。
反省したか?あん?」
文殊の言葉に何度も頷く鵜国王。
「こいつは雌だから、王妃に手もださねぇし、調度よかったんだ。帰るぞ、ポチ」
垂れ耳で鉤爪を持つ青獅子でも彼にとっては愛玩動物。
駆け寄ってきたところを撫でさすって、ははは…と笑った。
「ま、お前も相手の見た目で判断すんなってことだな」
仏の中でも遊び心のある文殊菩薩。
彼もまた、昔は悪童としてその名を響かせたらしい。
「報酬もたんまり貰ったし、先に行きますかっと」
背伸びをする悟空となれない目線の位置の女。
「これでチビとはいわせねぇぞ。悟浄、八戒」
「でも、まだ俺らよりちっこいじゃん。お猿ちゃん」
「ぶっ殺す!!」
どんな姿になっても、彼らがうわべだけで誰かと付き合うことは無い。
相手が人であっても妖怪であっても天神であっても変わらないように。
「那咤、そろそろ帰るぞ」
「うん」
しゃらん、擦れる足輪の音色。
またいつもの静かな日々に戻るのだ。
「那咤ちゃん」
「悟浄」
浮かばせた蓮華座から飛び降りて駆け寄る。
「はい、プレゼント。俺も外見だけで判断しないオトコだから」
それは一本の簪。硝子で作られた桜と銀の鎖が愛らしい、この季節を写し取ったような一品。
「ありがとう。大事にする」
結い上げた黒髪で揺れるそれ。
手を振りながら何度も振り返る姿が小さくなって、やがて消えた。
「んじゃ、行きますか。次に」
「そうだな」
季節は流れて桜が散っても。
戦場で簪を揺らして戦う那咤の姿。
季節外れの桜が一花。
優しく咲いていたと言う。
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11:15 2006/02/01