◆月の輪◆
「羅刹さん、飯あるかいね?」
眼鏡を親指で押し上げて、男は女の肩に顎をちょこんと乗せる。
「あるわけ……ねぇだろうが!!!この浮気者がっっ!!!!」
黒髪を震わせて戦慄くのは鉄扇公主。名を羅刹という。
息子の紅孩児は巻き添えは嫌だと早々と銀角のところへと逃げてしまった。
「あの狸のところにでも行けばいいだろう!!」
「羅刹さんよぉ、ガキまでできたのはお前だけだろ?そのあたりに俺の深い愛って
ものを感じてほしかったんだけどなぁ」
ばさばさの髪と人懐こい笑顔。
どこかあどけない表情で彼は笑うから、ついつい許してしまう。
「馬鹿息子はどこ行ったい?」
「銀華ちゃんのところよ。お腹も大きくなってきたからね。もっと栄養のあるものを
食べさせて安心できる空間を作ってあげなきゃいけないのに……」
波打つ豊かな髪に指を通して、男は首を鳴らした。
「同居じゃ気ぃつかうだろうしな」
悠久の時を生きながらも、男の姿はよくて三十代前半。女にいたっては十代も半ば。
火焔山の主は昼行灯。滅多なことでは表情を崩さない。
「娘のために、人参果でもとってくるか。滋養強壮って俺ぁそれぐれぇしかわからねぇ」
「あんたが出るといっつも面倒なことになんのよ。じっとしてなさいよ」
ふわりふわり。扇を翻せばその度に生まれる紫蝶の残像。
足元に転がるのは光を閉じ込めた水球たち。
「羅刹」
「何よ?」
「膝貸してくれや……最近は天界の連中がうるさくてかなわねぇ」
女の膝に頭を乗せて瞳を閉じる。
指先が頬の傷に触れて静かにその髪を撫でていく。
「大変ね。あんた、責任感強いから」
「んー……お前が居てくれるっから何とかなんだろうな。独角児も姐さんがいるから
兄貴は自由に生きれるって言われちまってるし」
義兄弟の独角児は鉄扇公主を姐と呼ぶ。
気性の激しさはあれど、彼女は自分を慕うものには優しい笑みを投げるのだ。
「何かこうしてあんたと過ごすのも久しぶりね」
「悪ぃ……そこまで俺ぁ家、空けてたんだな……」
「良いのよ。あたしがここに居れば良いだけの話なんだから。好きにしなさいよ」
どこでふらついても、この男は必ず鉄扇公主の元に帰ってくる。
「ちーとばっか寝かせてくれ。疲れちまった」
「おやすみなさい。その間くらいは大人しくしてられるから」
砂丘の城に住む美女を一目見ようと男は降り立つ。
「噂に名高い鉄扇公主ってのは、どんなもんなのかねぇ」
妖怪精霊を従えて、天界の猛者たちを追い返す美女。
芭蕉扇を手に華麗に舞うような立ち振る舞い。
剣呑とした菩薩連中の手先などこの砂に同じと笑う唇。
「んで、噂の城はどこだ……っと」
ぐるり。あたりを見回せば登る煙に男は首を捻った。
(相当なお姫さんかねぇ……砂漠のど真ん中で大炎上かい)
飛び込んできたのは逃げ惑う天軍の兵士たちの姿。
房を靡かせて、黒髪の女が声も高らかに笑う。
「腑抜けの天軍兵!!このあたしの首がほしかったら大将でも連れて来ることだね!!」
その声に湧き上がる『公主!!』の呼び名。
鉄扇公主は仲間たちと組んだ義勇軍で天軍をなぎ払う。
撤退を余儀なくされる姿を見て女と仲間たちは大笑い。
「たいしたもんだな。お前」
「あんた、誰よ」
朱の粉をふわり、と乗せた柔らかな頬。
夜濡闇色の睫は長くほんのりとつりあがった瞳をすっきりと魅せる。
小さな唇には血色の紅。
黒髪が波打って風に舞う。
「焔天。まぁ、この角のせいで牛魔王なんて渾名つけれてっけどな」
煙管を片手に人懐こく笑う姿は雷帝と一対一で戦った逸話を持つ男には見えない。
「知ってるわ。話には聞いたことがあるもの。九天雷帝とやりあった男でしょ」
その言葉に周囲の妖怪たちがどよめく。
「あたし、羅刹。このあたりじゃみんなこの子のせいか鉄扇公主なんて呼ぶわね」
翳された芭蕉扇とほんの少しだけ日に焼けた肌。
「それで……そんな男がこんなところまで何のよう?」
「別嬪のお姫さんがいるって聞いたから逢いにきた」
「あきれた人……そんなことのために?」
「大事なことだろ。俺に取っちゃな」
炎を写し取ったような鮮やかな赤髪。
猫目石の瞳と小さな笑窪。
「お茶くらい出すわよ、わざわざ来てくれたんだもんね」
「ありがたく貰うわ。砂の国は乾くな」
聞けば天軍を追い返したのは一度や二度では無いらしい。
芭蕉扇を手に鉄扇公主は常に先頭に立って戦う。
退く事は決してしない。それが彼女の戦い方。
傷を負うことも痛みも厭わない戦乱の美女。
「この傷。痛そうね……」
男の頬に指が触れて、そっと撫でていく。
「傷くれぇねぇとな。男だし」
羅刹の肌にも刻まれた数多の傷。戦うたびに彼女は美しくなる。
「でも、嫌いじゃないかも。あんたみたいな男」
「そりゃ光栄。美人にんなこといわれっとな」
転がり込むようにして始まった奇妙な生活。
これが二人のきっかけだった。
のんびりとした男と焔の女の組み合わせは一見ちぐはぐで、それでもどこか彩があった。
彼の一番の特徴は他人の陰口をこぼさないところ。
それはこの先も変わらずにあるものだった。
来るものは拒まずに去るものは追わずに。
時折ふらりと出かけては何かしらの手土産をもって帰ってくる。
「お前と同じ色の石」
手渡されたのは大きな柘榴石。細工をほどこせばさぞや立派な物になるだろう。
「綺麗……ありがとっ」
「細工の仕方は俺にゃわからんから、誰かに頼め」
「んっ!!あーりーがーとーっ!!」
頬に振るのは甘いキス。
まだ未来の想像図さえも見えないほど昔のことだった。
銀糸で織られたのは托塔李天王の旗印。
「公主ーーーっっ!!大変だーーーっっ!!」
のんびりとライチを剥いて、男の口に入れようとしていたその時のこと。
見張り当番の一人が叫びながら扉を開く。
「天界の連中が!!」
「何だって!?今行くから!!」
芭蕉扇を手にして女は立ち上がる。
「待てや、俺も行く」
その言葉に頷いて、手を取り合って階段を一気に駆け上がった。
飛び込んできたのは早くも戦を始めた双方の姿。
しかし今回ばかりは自軍が押されているのは贔屓目に見ても確かだった。
「狙うのは羅刹女の首だ!!」
「下賎な女を討ち取れ!!」
次々に倒れていく仲間たちをこのままにはできないと羅刹は芭蕉扇を振りかざす。
巻きこる風と落雷。ただ一人この大いなる武具を操ることのできる女。
「みんな退いてーーーーーっっ!!!!」
悲鳴にも似た叫び。
「あたしはここよ!!あたしの首がほしいんでしょう!!」
その声に今度は一斉に羅刹に向かって押し寄せてくる天軍兵。
しかしながら彼女の仲間たちとてこのまま退くような輩ではない。
「公主!!俺たちゃあんたと一緒に戦いたいんだ!!」
「鉄扇公主!!最後までお供しやすぜ!!」
荒くれとして忌み嫌われた彼らと寝食を共にして、差別無く接してきた女を。
ただ一人生贄にして逃げるなどできないと口々に叫ぶ。
「おっしゃ、俺もやるぜ」
羅刹を背に隠して男は青龍刀を手に次々に天軍兵を切り倒す。
返り血を浴びた姿は恐怖を超えてどこか神々しくさえ見えた。
「出て来やがれ!!托塔李天王!!」
一喝すれば見る間に男の姿が変化していく。
鮮やかな赤髪はまぶしいほどの黄金色に。
褐色の肌と隆起した筋肉。髪の間から覗く一対の角。
「焔天大聖、ここに参る!!」
「お前が牛魔王か。よかろう、わしが相手だ!!」
件の托塔天と焔天の一騎打ち。
その動きすら見えないと周囲は水を打ったように静まりかえる。
「…………な、何ぼーっとしてんの!!焔天ばっかにいい格好させてらんないわよ!!」
「おおおおおっっ!!!」
しかしながらこの托塔天、妻は龍女の血を引く白蛇の化身。
生まれた子供は三人なれども、どれも曰くつきのものばかり。
妖怪にまったく心を持たないわけではない。
「殺すには惜しいな。牛魔王」
「俺は今からあいつを嫁にするもんでな。ここで死ぬわけにゃいかねぇ」
ぎりぎりと刃が噛みあって火花を散らす。
「婚姻なんざ止めておけ。女はいざ娶れば大化けする」
「だろうな。そりゃ覚悟してる」
この男に何かを託してみるのも悪くは無い。そう思わせる不思議な感情。
おそらく、鉄扇公主は自分の妻と同じ気質。
男の苦労は今からでも察することはできた。
「お前さんの顔に免じて退くか。うちの末息子とお前さんの子供でけりをつければいい」
托塔天の末息子はまだ目も開かずに母に抱かれたまま。
まだ見ぬわが子に馳せる思い。
「わしは托塔天。憶えておけ」
「了解。俺ぁ焔天大聖」
脛を齧るどころか噛み砕くような息子を持つことになる男二人。
奇妙な出会いだった。
男は次第にその名を広めることとなる。
鉄扇公主の周囲からは『兄貴』と慕われるほど。
その中の一人が独角児。後に男と義兄弟となる青年だった。
「羅刹」
「今、皮剥いてるからお待ちなさいな」
椰子を真っ二つに割って中身を匙で抉り出す。
白玉と混ぜあわせれば彼女お気に入りのデザートに早変わり。
「はい。焔天のぶんね」
「おう……いや、あのな」
「?」
チューブトップの夏服から覗く小さな肩。
肩口に刻まれた鉤爪の傷も、彼女を飾る華になるから不思議。
「俺と一緒になんねぇか?」
「やだ。あたし、みんなと一緒にいたいもん」
揚巻の髪に挿した簪がしゃらん、と擦れ合う。
灼熱の世界に涼をくれる音色と女の声。
「お仲間全部引き受ける。それなら良いのか?」
「やだ。焔天は女癖悪そうだもん」
素足に煌く真っ赤な爪。光を塗した様な宝石の粉が踊る。
「浮気しねぇほうだと思うけどなぁ」
「信用できないなー。その言葉だけは」
膝を抱えて、上目で男を見上げるしぐさ。襟足に零れる後れ毛が愛らしい。
「焔天のことは好きだけど、それ以上じゃないもん」
その言葉に正座して、男は頭を下げた。
「俺の負け。俺んとこに嫁に来てください」
「大事にしてくれる?」
粗野でも何でも彼女は公主。彼にとっては世界一のお姫様。
「絶対する」
「本当に?」
「嘘はつかねぇ」
男の頬に手を当てて、じっとその瞳を覗き込む。
「良いよ。お嫁さんになってあげる」
彼と彼女の間には、二人にしか交わせなかった約束。
指切りして男の胸に飛び込む。
「浮気したら芭蕉扇でぶっとばすよ」
「おう。何でも来い」
「うん!!」
砂漠の中で見つけた一輪の花。
その花は生涯離れることなく男の傍で揺れることとなる。
「あのときに、浮気なんてしないって約束したのにねぇ……」
寝息を立てる男の髪をなでながら女はため息をこぼす。
いつの間にかなにかが少しだけずれてしまった。
息子は気付かない間に男になって、父親になろうとしている。
「うそつき」
「あん?」
「何でも無いわ、寝てなさい」
「ん…………」
それでも、彼は何があっても彼女のところに帰ってくるのだ。
事実、彼の血を引くのも紅孩児ただ一人。
愛人は多く居ても子を成したのは羅刹女だけ。
(ねぇ……仕方ないから一生一緒にいてあげるわよ……あんた、あたしのとこしか
帰ってくる場所無いんだから)
騒動は数え切れないほどあっても、彼を嫌うことだけができなかった。
嬉しいことも悲しいことも二人で分け合って生きてきた。
「たっでーまー。あれ、親父が珍しいことしてる」
「あら、お帰り紅。銀華ちゃんは?」
「置いてきた。腹目立ってきたからあんま外出さないようにしてんだ」
彼の血は入っているものの、息子は浮気はしないようだと安堵する。
選んだ娘も爆発気質だが、心根は優しい少女。
「葡萄あるわよ。あと、石榴も。持って行ってあげて」
「あんがっと。銀華もかーちゃんに会いたがってた」
「嬉しいわね。今度二人でそっちに行くわ」
ものめずらしいと紅孩児はちょこんと長椅子に膝座り。
「かーちゃんは親父のどこが好きなのさ。俺、それがわかんねーんだよな」
息子の問いに羅刹女はくすり、と笑う。
指先で口元を隠して。
「そうねぇ……何か必死なところかしら」
「ふーん。独兄も何かそんなこと言ってたな」
雪など見たことが無いと呟けば、砂漠の真ん中に雪を降らせるために雪霊を捕まえてくる。
秋に春の花が見たいといえば天界の花番を攫ってくる。
彼はいつも自分のことを見つめてくれた。
「浮気もんでも?」
「そこは好きじゃないけどね。けど、この人あたしのところしか帰ってくるとこないのよ」
いつでもどんなときでも。
彼女は化粧を施して羽衣を纏う。
それは彼が乳飲み子の頃から変わらない。
何時に男が帰ってきても良いようにと。
「何かそれもわかるかも。玉さんとかーちゃんだったら、俺もかーちゃんみたいな女が良い」
「銀華ちゃんの前でそんなこと言ったら、マザコン扱いされるわよ」
「んー……でも、銀華もかーちゃんも好きだよ。銀華は嫁さんだし♪」
「早めに帰りなさいね。お腹がおっきいときは不安なことが多いんだから。孫になんかあったら
承知しないわよ、紅」
「へいへい。土産ももらったし、珍しいもんも見たし帰るわ」
さよならのキスをして、おやすみなさいを言うよりも。
喧嘩をしながら二人で過ごしてきたこの日々が愛しい。
最後の一歩の距離を飛び越えて抱きしめてほしいから。
回る回るこの世界で、そっと指先を絡ませて。
あの月を追いかけてゆっくりと歩こう。
巡る巡る月の輪は自分たちを大人にしても。
あの日の恋心はまだこの胸に息衝いている。
「姐さん」
隻眼の青年が翳したのは見事な太刀魚。盛り籠一杯のそれを従者に渡す。
「独角児じゃないかい。珍しい」
「へい。ちょっと立ち寄らせてもらいました」
ばさばさの髪が醸し出す風情は、野性味と知性を行ったりきたり。
息子の嫁の姉を腕に抱いて、世界を淡々と見つめる男。
「金華ちゃんは?」
「この間、あの坊さんたちとちょろっと……まぁ、あの八戒とは因縁がそれなりに……」
「なおさらお前がしっかりとしなければいけないね、独」
「あ、そうだ。これ、金華から姐さんに」
ごそごそと取り出したのは金色の貝。擦り合わせながらずらせばほんのり優しい薄紅色。
細かな光は砕いた真珠と思わせ、輝く七色の欠片は星空を捕まえたよう。
「外でれねぇせいか、こんなの作るのにハマってるらしくて。姐さんとこ行くっつったら
張り切って作ったんですよ。『姐公主さまにちゃんとお届けして!!』ってこーんなに
目ぇ吊り上げながら言われてきやした」
ああ、何時の世もいたちごっこは終わらない。いや、終われないから。
「嬉しいわねぇ、あたしには息子が一人しかいないから……金華ちゃんも銀華ちゃんも
あたしの娘だよ……いいかい、独。紅にも言ってるけども、二人を泣かしたら承知しないよ!!」
天軍を跳ね除けた女は未だ健在。
言葉一つで義勇軍と称する彼女の仲間たちが立ち上がる。
「姐さんと兄貴でも新婚さんな時期もあったのが信じられねぇ」
「あらやだ。あたしたちだって昔はあんたたちみたいだったんだから」
「はぁ……その辺の話は俺よりも金華が聞きたがると思うんで」
昔、どこまでも月を追いかけて魔法の絨毯で飛び出した。
あの月は今でも同じ優しい光をたたえている。
「誰か来て帰ったのか?」
「そうよ。独角児が来て、これ置いてったの」
小指で唇に紅を乗せて、女は男を見上げた。
「イイ色じゃねぇか。俺はそーいう色のほうが好きだぞ」
「誰よ。女は赤い唇のほうが色気があるって言ったのは」
今もいつでも、この胸は彼への思いで一杯。
それは雨となって優しく降り注ぐ。
たまの落雷も、人生には大事なスパイス。
「可愛いじゃねぇか。羅刹さん」
「な、何言ってのよーーーーっっ!!あんたのためになんかつけないんだからっ!!」
火炎山よりもずっとずっと熱いと思うのは、今も昔も彼のせい。
「いや、本当に可愛いぞ」
「……このお馬鹿さんが……」
「うっしゃ、今夜は久々にがんばるか!!二人目欲しいしな!!」
「ちょ……何言ってんのよ!!今更!!」
いつでも何度でも愛の言葉を忘れないように囁いて。
「第一、孫と子供が同じになってどーすんのよ!!」
男と女はかくも愛しく面白きもの。それは何時の世も変わりなく。
この先何千年も繰り返されていく物語。
「次は女がいいな。嫁にはださねぇ……そういや、昔やりあった托塔天は憶えてっか?」
ごつごつとした優しい指が女の頬に掛かる。
「知ってるわよ。李靖王でしょ?」
「末の息子は那咤太子。今は那咤公主ってなってててな。男から本物の女になっちまった。
だからよぉ……俺も娘が欲しいって」
「馬鹿馬鹿しい。第一あんたみたいにがさつな男、どうやったって無理よ」
いつもいつでもどんなときも。
二人だからこそここまでこれた。
幸せは小さな嫉妬を生むけれども
君と離れられない。
思い出はまだいらない。
君とあの太陽をどこまでも追いかけるから。
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14:47 2006/02/15