◆揺らめく水葉◆




「聞いて、ジロちゃん。俺二日酔いが最近治んなくて〜〜〜」
三尖刀の手入れをする二郎神に、眠くてかなわないという顔で普賢菩薩が近付く。
「その割には夜宴に顔を出さぬ日は無いと聞くが?」
頬に走る刀傷。美丈夫の武人は目すらあわせない。
「だぁって、断れないでしょ。弥勒や観音も来てんのに。俺だって菩薩衆だもん」
「毎回お前を抱えて帰る俺の身になれ!!」
白い喉元に三尖刀を突きつけても普賢菩薩は穏やかに微笑む。
六道の民を救う力は伊達ではなく、さすがは菩薩といったところ。
「むしろ、私の身になれや。お前らの面倒が全部回ってきやがる」
こきこきと首を回すのは観音菩薩。
菩薩連中を纏め上げるこの美女。両性具有の曰くつき。
「いいかお前ら、こっちは毎回毎回老子に嫌味言われてんだ。お前らと那咤、天化……
 なんでこんな連中ばっかくるんだかよぉ……」
菩薩にあるまじき言葉とは裏腹に、普段の彼女は驚くほどに慈悲深い。
「普賢。お前はしばらく三蔵一行から離れろ。二郎神は今まで通りだ」
「なんで俺はだめなの?」
欠伸を噛み殺して普賢は観音を見つめた。
「お前は八万の民をまず救え。それからだ」
「課題不足ってことね……了解」
昨今ますます男振りが上がったと評判の顕聖二郎神。
親友である普賢菩薩と何かと組まされ不満はありつつもそれなりに充実した日々をすごしてはいる。
(三蔵殿は如何すごされているだろうか……お怪我などしていなければよいが)
肩に掛かった灰白の髪を指先で払い、男は空を仰いだ。
(胸騒ぎがする……何も無ければいいのだが……)
得てしてこの二郎神の予感は不幸にも的中してしまう。
ずきり、と痛む傷をなぞって男は眉を寄せた。
三尖刀を一振りすれば、星の光がきらら…と零れる。
(行くか。何かあるかもしれない)
守るべきものがあれば、その強さは本物となるから。
この思いに嘘などないと、生涯最大の恋に男は瞳を閉じた。






「爺様、何をしておいでじゃ?」
ぴょこんぴょこんと那咤公主は青年の周りを飛び跳ねる。
銀髪の青年はにこやかに笑って那咤の手をとった。
「爺様か……那咤ちゃんだから許すけれども、ほかだったらさっさと片付けちゃうかな」
仙人菩薩を束ねる太上老君と言えども、普段はのんびりと金魚を愛でる。
那咤公主が遊びにくれば、彼女の好物でもてなしあれこれと話に付き合っては笑うのだ。
「那咤ちゃん」
「?」
「おいちゃんの愚痴、聞いてくれる?」
池の前に座り込み、老子はぽつりぽつりとつぶやいた。
「爺様も苦労しておいでだのう。儂で良ければ力になるぞ」
しゃらん、しゃらん。腕輪が囁く。
首筋からほんのりと漂う白蓮香と唇から覗く小さな牙。
揚巻の黒髪は闘神などとは思えない艶やかさ。
火尖鎗を手にして風火輪を駆る三面の姿とは打って変わって普段の那咤公主はあどけない。
爺の戯言だと呟いて相手をするこの老子、天界では中々の曲者の一人。
西王母と大立ち回りをやってのけたのも昔話だと彼は穏やかに微笑む。
「黄砲怪って妖怪がいるんだけどねぇ、昔ねぇ……天界(ここ)に居たのよ。まぁ、雑用とか
 色々やってくれててねぇ……まぁ、訳あって妖怪になっちゃったんだけども。それがねぇ……
 宝象国ってところのお姫様に惚れちゃってねぇ……かどわかしちゃったって言うか、
 拉致っちゃったっていうか……三蔵たちが上手くやってくれるといいんだけどねぇ」
老子の言葉に那咤は表情を曇らせる。
ため息交じり、池に小石を投げ込む姿。
「爺様、那咤が行って参ろうぞ。悟浄にも逢える。その姫とやらを助け出せばいいのじゃな?」
「まぁ、そういうことなんだけどねぇ……子供とかできてないといいんだけども。やっかいな
 ことになるし……あ〜あ……」
青年の頬にちゅ…と唇を当てて那咤は飛び去ってしまう。
ほんのりと暖かいそこに指を当てて、老子はにこりと微笑んだ。
「おや、ご機嫌ですのね。老君」
弥勒菩薩の声に青年は振り返る。
「孫に接吻(キス)されるってのはいいもんだねぇ。でも……私は君からされるのはもっと
 嬉しいけどね、弥勒」
とろん、とした大きな瞳と薄絹の肌。
瑠璃色の髪は肩の辺りでぴょん、と跳ねて少女と女の狭間の揺れを現す。
「私とですか?あらあら、困りましたね」
「たまには膝枕でもしておくれ。褥の中ならなお嬉しいよ」
気苦労の多い青年の数少ない理解者がこの弥勒菩薩。
世俗から完全に切り離された存在は、彼にとっては小さな希望だった。
「まぁ……では、お耳の掃除でもしてあげましょうかね」
「されちゃおうかな。たまにはね」





「那咤、簪とれそうだぞ」
揚巻から外れかけた簪を直し、青年は首をひねった。
「お前、そんなもん持ってたか?」
普賢菩薩の問いに、那咤は小さく「貰い物」と答えた。
武神としての那咤太子と、たおやかな少女としての那咤公主。
どちらも同じであり、二つの顔を持つ修羅と揶揄される。
「西王母が探してたぜ」
「ママが?はて、儂……今回は何もしてないぞ?」
困り顔の美少女を見れば、心が揺れぬものなどいないであろう。
ましてや、恋に身を投じる乙女ならばなおさらだ。
「今度、俺とどっか遊びに行かない?那咤」
「ママのお呼びがかかったという事は儂に警護を頼むということだろうて。そうも
 遊んでばかりはおられんよ」
西王母は那咤にとっては保護者の一人に近い。母であった竜娘もかつてはこの女の下で
修行を積んでいたのだから。
「菩薩相手じゃ嫌かい?公主」
濡れた黒髪の美しさ。彼女は戦場から帰還した姿が最も美しい。
返り血を拭い、蓮座の上で自信に満ちた笑みを浮かべるその姿。
しかし、今の那咤公主は恋に身を焦がす小さな乙女。
頬を染めるその色は、化粧では生み出せぬ心の現れ。
「嫌ではないよ、儂には遊び相手は沢山居る。でも……今は悟浄のことを考えて
 いたいのじゃ……ぬしが金蝉を思うようにな」
「そうかもしれないね。俺も心の隙間を埋めてくれる相手を探していた」
少女の手をとって、指先に唇を当てる。
生涯の伴侶として選ぶのならば普賢菩薩と那咤公主、決して悪い組み合わせではない。
数多の民を救う菩薩と、それを守る武神。
「もう少し、お互いが失恋したら……俺と一緒になろうか、那咤」
「考えてはおくよ。そろそろ行かねばママに叱られる」
「送るよ。俺も王母にはちょっと逢いたいから」
太上老君の胸倉をつかんで喧嘩を売ることのできる女、それが西王母。
那咤公主をはじめとして地沸娘、紅娘などと曰く付の女たちがその周りを固めている。
「普賢、何で儂に構う?儂は天界でも好かれているほうではないぞえ」
ふわり、ふわり。那咤公主は羽衣を揺らして宙を舞う。
そのたびに擦れる風火輪から光の粉が生まれて、彼女の肌をいっそう美しく見せた。
「俺だって似たようなものだもの。それに……今の那咤はとっても綺麗だ」
気障な台詞を臆面も無く言えるのは、この男の成せる技。
「儂が?」
「だから口説いた。男はいい女には弱いもんだからね」
並んで歩けば、それだけで花があり絵になるこの二人。
以前の那咤は肌も露わ、露出の多い服を好んでいた。
括れた腰も張りのある乳房も、惜しげもなく見せ付ける。
その那咤が今や神着に身を包み、簪を揺らし歩くのだ。
「そうだ、那咤。手……出してみて」
言われるままに左手を普賢の前に出す。
その手をとって、青年は静かに指を絡ませた。
「体重ねんのもいいけども、手を重ねるのも悪くないでしょ?」
「そうじゃな。悟浄とこうできたらどれだけ楽しいことか」
「あら、俺と手を繋いでんのにほかの男の名前出したら駄目でしょう」
「普賢はその程度では怒らぬ。儂だってちゃんとお前のことは知っておるよ」
笑えば浮かぶ小さな笑窪。
風の中見た笑みは今までの誰よりも優しく愛らしく思えた。






栗金の髪に絡まる紫煙。
その傍らでばりばりと男は頭を掻いた。
「河童、お前の負けだな。買出しに行け」
「三蔵ちゃん博打で負けたことないんじゃないの?俺だってそんな馬鹿じゃねぇんだけどなぁ」
身包み剥がれる前に終わらせると女は小さく笑うばかり。
暇つぶしと銘打ったさいころ賭博は男の完敗に終わった。
「飴ならここに山ほどあるけども?」
「全部寄越せ」
薄着に身を包んで、女は背に月を負う。
その赤い光に照らされた影が静かに人のそれから姿を変えていく。
「那咤ちゃんがさ、昔から三蔵のことを知ってるってさ」
小さな紙包みから飴を取り、女はそれを口に含む。
とろけだした甘さと果実の匂いが伝わるのは、それだけ近い距離にいるから。
「そうか。それよりも私が気になるのは黄袍怪という妖怪……どうにも悪人には思えん」
探りを入れれば入れるほどにわかるのは、この男は兎にも角にも百花羞に惚れ込んでいると言うこと。
二人の子供にも恵まれて、これといった悪さもしない。
部下にも慕われ、精々害といえばその外見が妖怪であるということ。
「たまたま嫁さんお姫さんだったってのは……まぁ、ちょっとした問題だけどねぇ」
「この際、変わった娘婿ということしてしまえば良い。異種文化の交流の一端だと思えば……」
「三蔵ちゃんはさ、俺らとこーやっていられっからそういう考えを持てるわけ。普通の人間から
 すりゃあ、妖怪に攫われたって時点でもう哀れみ対象。それがお姫さんだったらもう、
 国を挙げて大捜索と大討伐なんて当たり前でしょうよ」
悟浄の言葉に三蔵は「そうだな」とだけ答えた。
しかし、その言葉が何よりもうれしく思えるのもまた。沙悟浄自身。
この女僧は魂でのみ相手を裁く。そこに人間も妖怪も分け隔ては無い。
「私が国王に話をつければいいのではないのか?」
「そうも行かないでしょ。まずはボスと話し合いが先だね」
館の主は黄袍怪。まずはこの男に会うのが先決だと悟浄は煙草に火を点ける。
「それもそうだな。もうじき昼だ、愛妻家ならば飯でも食いに戻るはずだ」
恋は盲目ならば、其処を突けばよい。
一波乱の前に女は小さく笑みを浮かべた。





「百花!!今戻ったぞ!!」
燃えるような朱の髪に、猫目石の瞳。筋骨隆々とまでは言えないが、しなやかな身体は
道衣の上からでもはっきりと分かる。
「黄袍さま、お帰りなさいませ……なんていうと思ったかこの馬鹿男がーーーーっっっ!!!」
男の胸倉を掴んで、女は髪を振り乱して大立ち回り。
「一体何年この拉致監禁生活を続ければ良いんだ!?いい加減実家に帰らせてもらいますっっ!!」
「ま、待て!!時に落ち着け!!百花、実家に帰るって……」
「十三年も経てば私だって事の次第が分かるもの。子供たちをつれてしばらく暇をいただきとうございます」
そのことばに男はおろおろとするばかり。
「うぁぁぁああんっっ!!俺の何が不満だっていうんだ、百花!!俺が愛してるのは天界人界すべてでお前
 一人だけだというのに〜〜〜〜〜っっ!!!」
その言葉に女は二度ばかりため息をついた。
緩やかな巻き毛は胸の辺りまで伸び、少しばかりつりあがった瞳はどこと無く猫のそれを思わせる。
手入れのされた形の良い爪には男の好む薄荷色を。
紅は軽く引き、艶をかもし出す程度だが唇の柔らさを示すには十分すぎた。
「とーちゃん、かーちゃん、お客さん来てる」
「あ、客?そら珍しいな」
「すげぇ綺麗なお坊さんと変な連中」
息子の言葉に男は首を傾げた。
「百花、なんか変な買い物でもしたのか?坊さんと仲良くなれるものとか」
「誰がするか!!」
心当たりの無い客人でも、断る由縁は無いと黄袍怪は一行を招きいれた。
そして、その姿を見た瞬間に背筋が凍るのを感じずにはいられなかった。
(栗金の髪に、赤眼!!間違いない、玄奘三蔵!!)
平長山の金角銀角を打ち破り、紅孩児と互角に戦うという噂の一行。
それが今この目の前にいるのだ。
「あら本当、綺麗なお坊様」
「百花!!駄目だ!!近づくな!!そいつら、超マジ危険だから!!」
出会って無事だった妖怪はいない。一行が過ぎれば其処には草すら残らない。
しかし、夫の言葉には耳を貸さずに百花羞は呑気に持成しの茶など入れ始める有様。
それを優雅に受けて三蔵は女同士とばかりにあれこれと話をしだす始末。
「なんか、こいつ……嗅いだ事のある匂いだな……」
悟空の一言に黄袍怪はきょとんとした目で見つめ返す。
「俺が?俺はここんところ特に悪さもしてないぞ。嫁もいるし、可愛い子供までいる。
 悪さする必要がまったく無い、片栗粉程だってない。お前らにぶちのめされる理由も無い」
「それがあんのよ、すっげー大義名分が」
月餅を齧りながら、悟浄が八戒に視線を向ける。
「一国の皇女を攫う。誘拐は立派に重罪です。ちなみに、誘拐は成立しにくいことでも有名です」
「時効じゃ……駄目?」
困ったように笑う男と、じゃれつく子供。
接すればするほどに、この男は悪意など無く女を攫ったらしい。
「しかも、未成年に対する淫行はやばい通り越してるでしょう」
「待て。俺だってすぐに手ぇつけたわけじゃない。ちゃんと二年待って十五になってから……」
「どっちにしてもロリコンじゃねぇか……この変態妖怪が」
げんなりとする三人に、男ははて、と困り顔。
「その結果子供にも恵まれ、幸せな家庭を持ちましたが何か文句でも?」
「だから、親御さんの許可もらってねぇのは駄目でしょってことよ。そもそもなんで急に
 攫った?ちゃんと納得させる方法だってあったはずだろ?」
十三年前の月の綺麗な夜だった。
十六夜の月を見上げる少女の柔らかな眼差し。まるで自分に向けたかのように、点に伸ばされた指先。
その手をとるように彼女を風に乗せ、気付けばこの腕に抱いていた。
今ここで出会えたことは間違いなく運命だと直感して。
「そう、あれは運命だったんだぁ……俺、百花と一緒になるのってずっと前から決まってたんだ……」
先走りと妄想と少しの浪漫主義。妖怪にしておくには勿体無い逸材だと女僧は笑う。
「ならば黄袍怪。私が宝象国に行き、話しでもつけてきてやろうか?聞けば奥方もお前のことは
 そう悪くも思っていないようだ。手紙のひとつでも持たせてもらえればうまく纏めて
 やらんことも無いぞ?まぁ、無償(ただ)とは言えないがな」
その言葉に男は伸びた耳をぴくん、と張らせる。
「本当か!!是非是非そうじてくれ!!なんだ話の分かる坊さんだな、お前」
「異文化交流は必要だ。其処の河童も那咤公主という恋人がいる」
「ちがっ!!三蔵ちゃん誤解……」
「なんだ、お前もか。ま、俺の百花より別嬪なのはそうそういないと思うけどな」
子供の頭を撫でて「向こうで遊んでいなさい」と男はささやく。
「手紙か〜〜〜〜、お父様、元気かしら。禿げてないといいんだけども」
「そうだ。村のほうからなんだが、苦情が来てるぞ。引っ越すかなんかして……」
「苦情?俺なんもしてねぇのに……あれか?たまにくる阿保共かなぁ……」
その言葉に三蔵の視線が一瞬だけ男に向かう。男が気付く暇も無いほどに。
「阿保共?」
「なーんて言ったかなぁ……何とか竜王」
ここに来る前に感じていた違和感。そして、村人たちが抱える不安。
それは黄袍怪だけならばおそらくは無いものなのだろう。
(光明さま……敵討ちさせていただきます……)
「気が向けばたぶんくるよ。あいつも暇人だかんね」




飛び交う思惑は十重二十重。
織り成す紋様は絞られた赤。





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0:39 2007/02/14

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