◆厄介事◆
「だ〜〜〜〜〜っ!!!どこのどいつだ!あの猿を逃がしやがったのは!!」
二郎神は苦虫を噛み潰した顔で水晶の鏡を叩き割る。
『猿』とはかつて彼が岩山に封じ込めた天の子供。
今の名を『孫 悟空』と言うもののこと。
「そういえばあんたが封じ込めたのよね。忘れてたわ。天帝の甥って言う割りに非力だから」
長い黒髪を頭上に一括りにして穏やかに笑う姿。
蓮座に腰を下ろして彼女は煙管を咥えて煙を吐き出す。
「弥勒。それは止めろと言ってるだろ!」
「そんなおっきな声出さなくても聞こえてるわよ。それにあんたから命令される筋合いはないのよ。
坊や、御家に帰って慰めてもらったら?弥勒ちゃんがボクのことを虐めるの〜ってでも」
弥勒と呼ばれた少女はこつん、と煙管で二郎神の額を小突いた。
薄布の長衣は熟れた桃のような胸を浮かばせて何やら官能的。
「いつか絶対に泣かせてやるからな!」
「無理無理〜。あんたじゃ無理〜」
あはは、と弥勒は笑う。菩薩と呼ばれる立場に座するこの少女。
仮にも天帝の甥っ子の二郎神にきついことでも平気で言ってのける。
片目だけが藍に染まり、二つの色を持ちながらこの世界の全てをのんびりと見つめて。
「猿はねぇ、ちょっと前にどっかの坊主が封印を解いたはずよ。残念だったわね〜、唯一のお手柄だったのに。
腑抜けの二郎神なんて呼ばれちゃって」
「兎も角!もう一回あの猿を檻にぶち込みに行ってくる!!」
二郎神は肩を震わせて下界へと。弥勒はそれをにこにこと送り出す。
「なんでああも短気なのかしら。もうちょっと落ち着いたらいい男なのにね」
身丈は程々だが、二郎神には男の色気がある。
灰白の髪は短く切られ、凛とした瞳は銀貨のよう。
右眉から斜めに走る一本の傷は剣舞の会で背負ったもの。
逃げずに向かったことの証明とばかりに彼の男振りを上げている。
「弥勒、二郎神はどこかへ行ったのか?」
「あたしのことほっぽって下に行っちゃったわ。普賢は何しに来たの?」
「俺か?そりゃお前をからかいに」
同じく菩薩と呼ばれる立場に居る普賢と呼ばれた青年は弥勒の髪を取って唇を当てる。
「やぁね。これだから男は」
「おや。お前だって未だ男になるか女になるか迷ってるんだろ?」
両性具有の菩薩は小さく笑う。
「そうね。そのうち決めるわ。あの子が来るまでにね」
「なぁ、なんで三蔵はこの小猿を見つけたわけよ?」
「物食いながら喋るなって習わなかったか?河童」
長箸を眼球の直前で止めながら三蔵は悟浄を見据える。
「でも気になったわけよ」
「……こいつが呼んだからだ。私を。ここから連れ出せとな」
それは彼女にだけ聞こえた声。同じように叫んでも誰も来てはくれなかった。
たった一人だけその声を聞いたもの。
それがこの玄奘三蔵だった。
「いやでもさ、最初三蔵めちゃめちゃ恐かったぜ。ガン飛ばしながらこっち来るしさ」
「ほう〜きになるね。どんな風に?」
「いきなり来てさ、鉄格子蹴り上げんだぜ。んでさっさと出ろ馬鹿猿!とか言うし」
褐色の指先が徳利ごと掴んで清酒を飲み干す。
親指で口を拭って悟空はにししと笑った。
「三蔵だから、呼んだのさ。俺」
過去の記憶は殆ど無い。それくらいの長い時間を岩山の中で過ごしてきた。
時折見える鳥だけが、時間というものを思いださせる。
積もり行く雪、音の無い風。ただ、それだけの空間。
どんな声で叫んでも、たった一人を除いては手を差し伸べてはくれなかった。
白く、小さな手は柔らかく。その手の暖かさは全てを消し去るだけの力があった。
「お前、何者だ?」
細いが芯のある声。
「俺……悟空……」
「そうか。私は三蔵という。何故私を呼んだ。私は急いでいるのだ」
「お前……俺の声が聞こえたの?」
額に貼り付けられる破邪の札に悟空は悲鳴を上げる。
「何すんだこのアマ!」
「口の利き方に気をつけろ。この馬鹿猿がっ!!」
言うなり檻を蹴り上げて、三蔵は悟空の手枷を外す。幾重にも張られた鎖は重く彼を封じていた。
「とっとと出ろ。今日中にこの山、下るぞ」
「三蔵、俺、一緒に行っていいのか?」
「荷物持ちくらいにはさせてやる。わかったらさっさと来い!」
人間は下等生物と思っていた。
場合によっては食料とも。
「さ、三蔵。俺……」
「目的地は天竺ってところだ。私もどこにあるかは知らん。西のほうだとしかな」
「俺……」
「何だ?言いたいことがあるならはっきりと言え」
熟れた石榴のような赤い瞳。
「俺のことバケモノとか言わないのか?」
「生憎とバケモノには慣れてるんでな。人型であるならば問題も無いだろう」
「俺、人間を食うよ」
「喰えるものなら喰ってみろ。これでも玄奘三蔵としての法力はある」
差し伸べられた手は暖かく、何よりも優しい。
「行くぞ、悟空。天竺って所に」
「……うん」
その手を取った瞬間から、何もかもが動き始めたのだ。
三蔵と行動を共にするようになってから一月ほどした夜のこと。
別室にするのも面倒だと二人は同じ部屋で寝食を共にしていた。
悟空が三蔵を食らうようなことも無く、三蔵もこれといって悟空にし対して何かをすることも無い。
「おい猿。私の煙管を知らんか?寝る前の一服と思ったのだが……」
膝を抱えて、悟空はただ肩を振るわせるだけ。
「悟空?」
そっと髪に触れる手を荒々しく掴んで三蔵を引き寄せた。
「……猿、馬鹿力は他で発揮しろ。指が折れる」
「三蔵……俺……」
渇いた喉の感触。からからと悲鳴を上げながら本能は彼を締めつける。
「苦し……っ……」
「血でもやればいいのか?」
違う、と悟空は頭を振る。
自分たち妖怪にとっては高僧の血肉は何よりもの糧となる。
そして、今ここに居るこの女こそが聖典を納めた玄奘三蔵なのだ。
押さえきれない妖怪の本能は彼女を食らわせろと悟空の喉を締め上げる。
「…………」
転がった煙管を拾い上げて三蔵は火を点ける。
一息吸い込むと紫色の煙がゆらりと立ち昇った。
「やる」
「俺……それ苦手……っ……」
「……世話の焼ける猿だ」
深く吸い込んで、三蔵は悟空の唇に自分のそれを重ねた。
口移しで入り込んだ煙は、静かに彼の肺へと落ちていく。
何度か繰り返していくうちに震えがおさまり、呼吸が元に戻るのが分かった。
「まぁ、お前等は直接に肉から精気取るのが普通なんだろうけど、場合によっちゃ間接法でもどうにかなるだろ。
少しは落ち着いたか?」
「……悪ぃ……三蔵……」
こつんと煙管で彼女は悟空の額を小突く。
「さっさと寝ろ。明日も移動が長いからな」
寝台に身体を横たえて三蔵は目を閉じる。
「……三蔵、俺、寒いんだけど」
「……ったく世話の焼けるガキだな。入れ」
母の記憶などは無い。自分が何から出来ているかさえも分からない。
それでも、この胸の柔らかさと規則正しい心音はどこか懐かしい気がした。
「……三蔵、天竺ってとこ行ったらさ、俺が何なのかも分かるワケ?」
「多分な。気になるのか?自分の身元が」
「それなりには」
「私にも母の記憶は無い。川縁に捨てられているところを師匠に拾われた。三蔵はつい最近得た名前だ。
元は江流童子。川流れの江流だ。唯一の手がかりは左足の小指が無いことくらいか」
「三蔵……」
「お前の中身がなんであれ、お前は私の荷物持ち(下僕)に変わらん。さっさと寝ろ」
その声は甘く優しく鼓膜を浸蝕していく。
ただ一人彼女だけが自分の声を聞いてくれた。
自分の名前を呼んでくれた。
彼女で無ければならなかった理由があったから。
それを探すのも悪くは無い、悟空は彼女に従う理由をそう位置付けたのだ。
絡まる影が二つ。
「……三蔵ってさ、なんで俺の声が聞こえたんだよ……?」
首筋に噛み付きながら悟空は三蔵の法衣を剥ぎ取っていく。
浮いた鎖骨と甘い香り。
「知らん。お前が私を呼んだんだろう?」
互いの頭を抱えるようにして唇を重ねる。舌先を絡めて吸い合って、離れてはまた触れ合う。
褐色の指先は白い肌を弄りながらそろそろと下がっていく。
「ん……三蔵がそう言うんなら、そうなんだろうけどさ……」
顔つきはまだ少年。
三人の中では最も幼い容貌だ。
「……っは……何か……怖いことでもあるのか……?」
伸びた爪は切れと言われ、小言だけではなく暴言に暴力は日常茶飯事。
それでも、この女でなければならないと何かが囁くのだ。
柔らかい胸は少し強く吸えばすぐに痣が出来る。
細い腰は喰いちぎるには丁度いい。
その血が欲しいと身体が叫ぶのに……本能よりももっと奥深くの何かがそれをさせないのだ。
「……っ痛……あまり手荒にするなっ……」
沈む指先に痛みを覚えて、三蔵は悟空を軽く睨む。
「……外してやろうか、それ……」
すい、と細い指が頭を締める輪に触れる。
強すぎる破壊衝動を抑えるために投獄の際に悟空に科せられた封印の一つ。
「……三蔵……」
ちかちかと光が生まれ、カランと音を立てて床にそれが転がる。
同じように赤い瞳。伸びた髪は三蔵の胸をくすぐる。
「…んっ……」
細い手を取って指先を舐め上げる。ちゅっ…と吸い上げて手の甲に唇を落とした。
乳房を舌でなぞって、時折甘く噛む。
(なんでだろ……俺、三蔵のこと昔から知ってる気がする……)
腰を抱いて繋がりあって。
(でも……三蔵は俺のこと知らない……俺も三蔵こと、知らないはずなのに……)
この身体は一体何のためにあるのだろう。
熱さと縋る腕だけが真実で、あとは何もかもが偽物にさえ思えてくる。
「っあ!んっ!!」
形の良い臀部を掴んで更に深く重なり合う。
「…っは……あ!!」
「……江…流……」
小さな額に唇を落とす。
「その名で……呼ぶな……」
過去の記憶の無い自分と、過去を捨てた彼女。
「……三……蔵っ……」
ぬるりとした感触。締め上げる女の身体。従うのは己の直感。
この手だけは何があっても離さないとあの時に決めた。
この先に何があろうとも。
欠伸を噛み殺しながら三蔵は不機嫌そうに煙管を咥える。
少し痛む腰を摩りながらぎゃあぎゃあと騒ぐ三人を一瞥して一人古い文献を紐解いていた。
「お猿ちゃん、イカサマかますなんて百万年早いんだよ!」
「そのイカサマにかかってるのはどこの河童様だよ!」
「商品(三蔵)が掛かってなかったら笑って済ませてやったところなんですけどねぇ」
各々が武器を手に打ち合うのもこの一向にとっては日課のようなものだ。
気に止めることもなく三蔵は眼鏡を直しながら無視を決め込んでいた。
「おい!!そこのお前!!」
お前と呼ばれて三蔵は声の主をぎろりと睨む。
「人に何かを尋ねるときは自分から名乗れとガキの頃にならわなかったのか?」
「くっ、嫌な奴だな。俺は頸聖という。あそこの猿はもしや五行山のものではないのか?」
「……これはこれは天帝の甥とも言われるお方が斯様なところに」
三蔵は悪びれることも無く皮肉たっぷりに男を見つめ返す。
「あの猿は俺が封じ込めたんだ。お前か!?あれの封印を解いたのは!!??」
三蔵は煙を吐きながらケラケラと笑う。
「封印?私ごときに破られるあの程度で?馬鹿馬鹿しい。噂に違わぬな、腑抜けの二郎神」
「たかが人間風情に腑抜けといわれる筋合いはないっ!!!」
その言葉が終わる変わらないかの間に三蔵は短剣を二郎神の喉元に突きつけた。
「玄奘三蔵と申します、二郎神様。以後お見知りおきを。あそこに居ますのは全て私の従者。二郎神様のおっしゃるようなものは居りませんが?」
「お前が玄奘?女であろうが」
二人を囲むように悟空、悟浄、八戒はそれぞれが愛用の武器を二郎神に突きつける。
「三蔵から離れろ、変態」
「三蔵ちゃんはね、取り扱い難易度『高』なわけよ。そのきったねぇ手、離しな」
「その人から離れるのと、首を胴体から離すのとどっちがいいか選んでくださっても結構ですよ」
天竺と目指す高僧が従えたのは妖怪三人。
揃いも揃ってこの三蔵法師に骨抜きにされていると天界でも噂にはなっていた。
ただ、その玄奘三蔵を見たものは誰も居なく零れてくる話だけであれこれと想像をしてきた。
予想以上に幼い顔立ち。そして、口の悪さ。
「悟空、お前にしては珍しく確信をついてるがこの男は変態でなく、変人だ」
「どう違うんだ?」
「まぁ、平たく言えばイっちゃってる人ってことですよ」
「だ〜〜〜〜〜っ!!!人を小馬鹿にしよってっ!!!!」
銀の髪を振り乱し、二郎神は四人を振り解く。
手にした長槍を構えながら悟空を睨む。
「馬鹿にはしたけど小馬鹿にはしてねぇよな」
「そうだな。いきなり来てわけの分からんことを言ってるしな」
「三蔵ちゃん、苺食わない?苺。甘いの好きでしょ?」
二郎神のことなどお構い無しに四人は勝手に話しはじめる。相手が誰であろうと信じるものは己のみ。
「兎に角!その猿を渡してもらぞ!!」
頭上の金冠を三蔵は二郎神目掛けて投げつける。
ごん!という良い音を立ててそれは彼の額に命中した。
「猿ではなく。孫 悟空。私の従者だ。お前に渡すわけには行かない」
キッと睨んでくる真っ赤な瞳。
凛として臆することのない声。
仮にも神と称される自分に対しても三蔵は恐れも抱かずに皮肉めいた笑みを浮かべるのだ。
「人間の分際でっ!!!」
やれやれと三蔵は溜め息をついた。この神様は予想以上にまだコドモらしい。
「……二郎神。良かったら苺でも食って少し落ち着いたらどうだ?」
つかつかと進んで三蔵は二郎神の手に苺を二つばかり渡す。
「銀の髪の雄神。剣舞の才は天界でもそうそう無いと噂には聞いた。筋道立てて来るならば考えないでもないぞ。
あれの封印は私が解いた。あの輪もあなたの仕業だろう?もう少し鍛錬を積まれるが良い。三蔵如きに封印を解かれるようでは
天帝の甥の名折れだろう、二郎神」
それは三蔵の名に相応しい、諭すような静かな声。
先ほどまで自分に殺気丸出しでけんかを売ってきた女とは思えない声だった。
「この傷は逃げなかったから出来たのだろう?強さは力だけではない」
人間の一生などは神である彼から見れば瞬きをする間に終わってしまう。
その僅かな生を彼女は力の限り生きているのだ。
「剣をお引きになられよ。二郎神」
「…………」
穏やかに笑う顔は、静かにその心に沁みていく。
同じことを弥勒菩薩に言われても感じなかったはずなのに。
「……そなたがそう言うならば。今日は引こう……」
「ありがたきお言葉。感謝いたします」
「猿はそなたが天竺に着いた際に渡してもらえれば……」
「道はまだ遥かに御座います。何卒御力添えを」
それを遠巻きに三人は見つめていた。
(三蔵って演技派だよな?)
(僧侶辞めてもそっちで食べていけますね)
(まさか……アノ時のことも演技とか言わないよな?三蔵っ!)
二郎神の手に自分の手を重ね、三蔵は静かに微笑んだ。
「……三蔵殿……」
確信犯の笑みは雄神を一人の男に一瞬で変えた。
二郎神陥落。
その反応に三蔵は心の中で高笑い。いや、爆笑といおうか。
よほど妖怪三匹のほうが擦れきっている。
この雄神はあまりにも女慣れしすぎていなく、純情すぎるのだ。
甘い言葉と笑みだけで惑わすことが出来るのだから。
これより道中なにかと二郎神が三蔵にちょっかいを出すのを妖怪三人は全力で迎え撃つ。
成り行きとはいえ、厄介ごとが増えたと三蔵は苦笑交じりに煙管を咥えた。