◆十七番目の天国◆






天気雨はそのまま恵みの雨になり、兵士たちに束の間の休息を与えた。
訓練は早めに切り上げさせて、そのまま自由時間とさせる。
「太公望軍師」
一人の若い兵士が声をかけてくる。見掛けは十八、九といった頃合だ。
「どうかしたのか?」
「いえ、たまには軍師とお話がしたいと思ったのですが」
少し照れたように、若い兵士は話しかけてくる。
軍師が少女だと知ってから若い兵士たちは何かと彼女に構うようになった。
いくら外見が少女でもその実は崑崙山の道士。それも重要幹部という重い立場。
「兵法でも説けばよいか?」
「いえ、できれば太公望軍師のことがお聞きしたいのですが」
「わしの?」
「ええ、できればこちらへ」
背中を押されて兵士たちの部屋へと通される。
何人かが一纏めになった生活を共にする場所。数人の男が物珍しそうに視線を投げてくる。
その視線を交わしながら太公望は勧められた席に座った。
「して、わしの何を?」
「恋人はいらっしゃるのですか?」
腕組みをして彼女は首を捻った。一体誰を指すのかという顔で。
軍師と武王の仲は兵の間では暗黙の了解だった。
無論、同じように軍務の重鎮のヨウゼン、武成王の次男の天化との事も。
奔放に見えるその姿から兵士たちは淡い期待を抱いて彼女を女として意識してしまう。
「恋人とな……困ったのう。居ると言えば居るが……」
「どなた、なのですか?」
「……言えぬ。期待に添えぬようですまんのう」
席を立って立ち去ろうとする背中に手を伸ばそうとする。
「それと、まだおぬしらに剣術で負けることはないぞ。わしを襲いたかったら腕を上げてくるがよい。
強い男ならば考えぬこともないぞ?」
飄々たる姿。
その細い背はこの国を風の力で守護する。





雨音は昔のことを少し思い出させて、優しい気持ちにさせる。
こんなに日に仕事をするのも馬鹿馬鹿しく思えて、読みかけにしていた本をぱらぱらと紐解いていく。
「師叔」
「ヨウゼン、丁度いいところにきたのう」
手で、来い来いと彼女はヨウゼンを呼び寄せる。
「なんですか?珍しいですね」
呼ばれれば嫌な気はしない。二人きりになれることなど稀有なことなのだから。
人に囲まれて過ごすことが多い彼女は一人の時間を殊更大事にすることが多い。
今とて本来ならば退室を命じられてもいいはずだった。
「こんな日に仕事を抱えるのも馬鹿馬鹿しいと思わぬか?わしとてたまにはのんびりとしたいしのう」
椅子に凭れて彼女は笑った。
髪も下ろして道衣ではなく簡素な長衣に着替えている辺り、職務放棄の体勢だ。
「おぬしも最近はわしに付き合って働き詰めであろう?今日くらいは羽を伸ばしてくるが良い」
「師叔はどうなさるつもりですか?」
「これから少し昼寝でもと考えておったよ」
雨音は優しい眠りを誘うから少し甘えた午後にはもってこいだ。
「なら、僕もご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「わしの寝台は二人寝るにはちと狭いぞ」
つかつかと近付いて、ヨウゼンは太公望をひょいと抱き上げる。
小さな身体の軍師はこの国を守るために東奔西走。休む間もなく働いている。
苦言の一つも愚痴の一つもこぼさずに。
彼女がこの国の礎となって、宦官たちを示唆しているのだ。
「構いませんよ。僕は」
静かに下ろして、胸に抱くようにするとそっと身体を預けてくるのが分かった。
よほど疲れていたのか程なくして小さな寝息が聞こえてくる。
滅多なことでは外出もせず、酒を嗜む以外の道楽は殆どしない。
(疲れてるんですね……あなたは他人に甘えることをしない人ですから)
ふと手を伸ばしてヨウゼンは太公望の読みかけの本を手にする。
片腕を枕に取られているために、空いた手で頁を捲りながら。
(……随分と興味深いものを……)
それは崑崙に戻った際に普賢真人の書棚から借りてきたものの一冊だった。
掻い摘んで内容を読み込んで、ヨウゼンは眠る彼女の髪を撫でる。
(目が覚めたら、じっくりと教授してあげますよ。師叔)
同じように目を閉じて、二人揃って夢の中へと。




目が覚めたのは日も傾きかけた頃。
太公望は身体を起こして、隣で眠るヨウゼンの顔を覗き込んだ。
天才道士と言われても、連日の激務はさすがの彼でも疲れが溜まっているらしい。
(無理ばかりかけて……すまぬ……)
両手でしっかりと腰を抱かれて、動けないまま彼女は傾く夕日を眺めていた。
人の世は洛陽落日。めまぐるしく何もかもが変わっていく。
その中で自分は変わることもできずにただとりこされていく事への恐怖心。
仙道として生きる道を選んだ時から分かりきっていたはずなのに、まだ悟りきれない自分が居る。
「……師叔、起きてたんですか?」
眠たげな目でヨウゼンが視線を投げてくる。
「寝ておれ。おぬしにはいつも無理ばかりさせておるからのう。休める時に休んで欲しいのだよ」
「いえ、僕はあなたと居られればそれでいいんです」
「その言葉、何人の女に吐いてきた?おぬしの浮名ぐらいわしでも知っておったぞ」
「あなたが、僕にとって最後の恋人(ひと)です」
臆面も無くそんなことをこの男は真顔で言ってのける。
その度胸は己に対する自信と実力が伴わなければ付随することは無いのだ。
「雨も上がりましたね、よかったら少し外に出ませんか?」
「外に?」
「ええ、たまには二人で過ごしたいんです。駄目ですか?」
哮天犬に乗り込んでヨウゼンは太公望を胸に抱く。
沈み行く太陽を背にして風が頬を撫でる感触。
「綺麗だとは思いませんか?」
「そうじゃのう……」
「あなたが居るから、こうしてこんなこともいえるんですよ。あなたがこの国を守り、ここに居るから……
わかりますか?」
その手を取って、唇を押し当てる。
「この傷だらけの手が僕を、みんなを守ってくれたんです……」
太師聞仲との一戦で彼のプライドは木端微塵に打ち砕かれた。
天才といわれても結局は手も足もでなかったのだ。
実力者と分かっていても心の片隅でどこか太公望を見縊っているとこもあった。
小さな少女。
抱いてしまえば手に入ると。
その彼女が聞仲相手に武器を交え、自分たちを守ったのだ。
自分の不甲斐なさと度量の狭さになんともいえない気持ちに成った。
そして、彼女に対する想いが恋慕となったのはこのときだと自覚した。
「たまにはあなたにも普通の女性としての時間をあげたいのです」
「そういわれてものう……」
甘えることが得意ではない彼女は困ったように笑うだけ。
「二、三日休暇をとりましょう。殷の国全土を見て回るのもいいとは思いませんか?」
「旦が許すとは思えぬが……」
「彼には後で手紙を届けておきます。なのでたまには二人で見聞としませんか?それならばあなたの
軍師としての糧にもなりますし、いい口実にもなるでしょう?」
言い訳を沢山並べても、本心は誰にも邪魔されずに二人で居たいという想いだけ。
西岐にいれば並み居る恋敵たちとの戦いが待っているのだから。
そして、いつも一人で戦う彼女を一瞬だけでもただの少女に戻してやりたかっただけ。
「さ、行きましょう。師叔」





小さな街に着いたのは夜の帳も下りた頃。
商人の街なのか露店がそこかしこに並んでいる。日が暮れてもその活気は衰えない。
「あなたが指揮して作った商用道路に出来た街ですよ」
きょろきょろと見回しながら、彼女は嬉しそうに笑った。
「わしはただ指揮しただけ。皆の努力の賜物じゃよ」
その手を取って、指を絡める。
「こうしてると恋人同士に見えませんかね?僕とあなたが」
互いの容貌に感じる視線は無視を決め込んだ。
「おぬしと居ると皆が振り返るよ。ヨウゼン」
「……所詮外見だけですよ。器だけを美しいといわれても嬉しくもなんともありませんね」
太公望は少しだけ寂しそうに笑った。
「ヨウゼン、それでもわしはおぬしは綺麗だと思うぞ」
そういって、繋いだ指先に少しだけ力を入れた。
雑踏の中でも、目立つ容姿の二人。けれどもその二人が軍師と指揮官であり、道士だとは誰も知らない。
太公望は表舞台に出ることを極端に嫌う傾向がある。
比較するならば聞仲の方がよほど露出が多いであろう。
宦官たちの仲でも軍師の顔を知らぬものも居る位だ。
兵士たちでも未だに軍師がこの少女であることを知らぬものも居るのだ。
普段は頭布で髪を留め、飄々とする姿。少年の様でもあり、少女の様でもある。
「あまり悲しいことを言うでないよ、ヨウゼン」
「師叔……」
「綺麗なものは綺麗じゃ。それでよいではないか」
並ぶ露店を眺めながら、太公望は目を輝かせる。
道士と言えども、未だに捨てきれぬ女の性。並ぶ宝玉には心惹かれることもあるのだ。
その姿は年頃の娘と同じで、ヨウゼンは笑みを浮かべた。
「これと、それと、あとそれも下さい」
「ヨウゼン!?」
「たまには着飾ってください。できれば今は僕のために」
自分たちのこと知る物が居ないこの場所ならば、普段は押さえている感情も解けるかもしれないから。
その手を取らせて欲しいのです。



其の土地ならではの風習のように、新興の街にも祭事はある。
たまたま二人が立ち寄ったこの日がそうであったように。
小さな耳飾と細い腕輪。
更には艶やかな刺繍が入った長衣などと、普段の彼女ならばすることの無い服装。
「その方がいいですよ、師叔。無粋な道衣よりもずっと」
「そうかのう……どうも落ち着かぬ」
(本当は短衣にしたかったんだけども……それはさすがに拒むだろうし)
それでも、嬉しそうに笑う顔を独占できるのはこの上なく心穏やかで、幸福な気分になれる。
邪魔者は誰も居ない。
(武王も天化君も武吉君も、なによりも四不象が居ない!こんな好機はまたとないからね)
目下ヨウゼンを悩ませていたのは彼女の霊獣の四不象。
他の相手ならば牽制したところで諌めらることは無い。
だが、四不象に関しては別なのだ。
この霊獣に対して太公望は絶対なる信用を持っている。
少しでも何かしようものならば三日は無視を決め込むような有り様。
果ては寝室の扉には頑丈な鍵を幾重にも施錠する始末。
「さ、師叔、向こうの方にも行きましょう」
「待って、ヨウゼン。そう急ぐでない」
いつもよりも強く手を引かれて、爪先で歩きながら。
人込みの中何時しか指は離れて、二人は離れ離れ。
「師叔!?」
小さな姿は見失うには容易で、見つけるには困難。
「師叔!!どこですか!!??」
傍に居ないというだけで心が軋む。まだ、指先に暖かさが残っているから逸れたといってもそう遠くには
居ないのは確かだ。
道士は休日と打神鞭は自分が預かってしまったために太公望は丸腰の状態。
人波を書き分けて、必死に手を伸ばす。
そして目に飛び込んできた光景は数人の男に絡まれて困惑している姿だった。
「その人から離れろ!!」
「なんだぁ?あんたは」
「その人は僕の恋人だ。手を離してもらおうか」
人間相手に宝貝を使うことは太公望が最も忌み嫌うことの一つである。
三尖刀の破壊力から考えれば男たちが肉槐になるのは容易に想像できた。
どちらにしても素手で対峙するしかないということだ。
ヨウゼンの殺気に何人かが逃げ出し、命知らずな数人は返り討ちに。
太公望を抱いていた男はといえば。
「疾!」
器用に肘を鳩尾に入れると男は仰向けに倒れこんだ。
「……………」
「わしとてまだ人間に負けるほど弱くは無いぞ。ヨウゼン」
「心配しましたよ……良かった……」
「もう少し、ゆっくり歩いてくれ。おぬしはいつも足早だ」
今度は離れないように、しっかりと指を絡めあって。
「ヨウゼン、痛い」
「これくらいしっかり繋がなければまた、逸れちゃいますから」
心配性は愛情の裏返しで。それが分かるからこそその手を払うことはできない。
鮮やかに彩られた風景でも、たった一人が居ないだけで全てが色褪せてしまうから。
失うことの恐怖を彼女は教えてくれた。
聞仲との一戦で手も足も出ない無様な醜態を晒したことを咎めもせず自分の自尊心を尊重してくれた。
なんとも不甲斐ない天才ぶりに閉口することもしなかった。
彼女にとっても聞仲は勝てる相手ではない。
それは彼女自身が一番知っていた。
それでも臆することなく対峙し、身を挺して自分たちを守りぬいたのだ。
自分が傷を負うことは躊躇わず、他人が傷つくことを良しとしない優しすぎる女性(ひと)。
それ故に自分が夜に訪問しても拒むことなく受け入れてくれるのだ。
自分の気持ちをはっきりと自覚したのはあの一戦からだった。
「あなたは小さいから、すぐに見失ってしまいそうで……恐いんです」
自然界に無理強いすることが無いように、彼女は基本的に他人に何かを求めることはしない。
するとしても些細なことやつまらない冗談のようなことくらいだ。
精々、「旦にばれないように桃を持ってこい」や「酒が飲みたいから何か見繕ってくれ」といった風に。
本当に欲しいものは何一つ言わない。
いつも、一人で全てを抱え込んでしまうのだ。
「おぬしはどこに居ってもすぐに見つけられるよ、ヨウゼン」
「あなたがそう言うならこの姿も好きになれそうですよ。師叔」
太公望は自分に何も望みはしない。
ただ、ここに居れば良いと言うだけなのだ。
「例え、どんな姿になってもわしはおぬしだと分かるよ」
「師叔……?」
偽者の姿でさえ、『綺麗』と言ってくれるこの人のために。
「いつか、おぬしが自分から言うてくれるのを待ってるよ。ヨウゼン」
空の色に何も望みはしないように、彼女は自分に多くを望まない。
そして、同じように彼女に対しても望ませようとはさせないのだ。
「風が冷たくなってきました。どこかに入りましょう」




いつか、誰かに本当の事を知って欲しいと思っていた。
嘘をつき続けることの嫌悪感は忘れた振りを決め込んでいた。
明媚流麗たる姿を作ることは簡単だった。そうやって殻を増やして、いきていくものだとばかりと思っていた。
信じられるものは自分だけ。世界でただ一人、自分だけと言い聞かせてきた。
「僕は……あなたに何から話したら良いのか……分かりません……」
髪を梳きながら、彼女は振り返らずに聞いていた。
「話したくないなら、それで良いのだよ」
「いえ……聞いて欲しいんです……」
さらさらと流れるその髪に、そっと触れてみる。
「天才と呼ばれる男でも、言葉に詰まることもあるのだのう」
「師叔!」
くるりと振り向き、頬を指で突いてくる。
「笑った。そのほうがいいよ、ヨウゼン」
「あなた……僕を笑わせるために……?」
「どうかのう?」
くすくすと笑いながら、太公望は自分の櫛をヨウゼンに手渡した。
ちょこんと椅子に座って、ちらりと見上げてくる。
「昔、母がよく髪を梳いてくれた。わしの髪は母に似ておるらしい。望という名も母がつけた。
父はもっと違う名にしたかったらしいが、母が譲らなかった……父はよくそんなことを話してくれたよ」
子供の様にそんなことを話す彼女の髪に竹の櫛を通す。
さらり、さらりと落ちてゆく艶やかな黒髪。
彼女の両親との記憶は十二で途切れている。
「ヨウゼンと言う名は、誰がつけたのじゃ?」
「……おそらくは……父が……」
「良い名だとは思わぬか?」
「いえ……」
「わしは、おぬしの名を呼ぶのが好きじゃよ。ヨウゼン」
「……師叔……っ……」
細い肩を後ろから抱きしめる。
この腕の中に全部納まってしまうほど、小さく細い身体。
「おぬしの名を呼んで、そこに居てくれるだけいいのじゃよ。ヨウゼン」
「……振り返らないで聞いてください……」
室温がほんの少しだけ、下がる感触。
頬を冷たい風がそっと撫でていく。
「……僕は……人間ではありません……」
触れる指が、人のそれとは違った形状に変わる。
骨張り、長く伸びた爪。
「ずっと……あなたを……騙してきました……っ……」
その手を取って、彼がいつも自分にするように頬に当てて。
「のう、ヨウゼン。わしもおぬしに隠しておったことがあるのだよ」
小さな唇がぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「おぬしが大事にしていた本を捨てたのはわしじゃ。怒られるかと思ってのう……言い出せなんだ……」
「……師叔……」
くるりと振り向いて、太公望は笑った。
「ヨウゼン、おぬしがヨウゼンであることに変わりは無いのだろう?わしの傍で笑って、わしを諌めて、
窘めて、わしの手を取る。わしの……ヨウゼンではないのか?」
赤い瞳、灰銀の髪。眼光鋭く異形の姿。
「……恐くは……ありませんか……?僕が……」
「わしが恐いのは雷と、鼠と蜘蛛じゃ……好きになれぬ……」
「嫌だとは……思いませんか……?」
「嫌いなものは苦いものじゃ。それはおぬしも良く知っておるだろう?」
「騙していたことを……責めないのですか……?」
「責めて欲しいのか?」
その声が、息が、何もかもが。
「一つ責めるとするならば……それは取れ。危なっかしくて接吻の一つも出来ぬ」
すい、と指したのは目深く被った冑。
「……あなたは馬鹿です……っ……」
ぎゅっと抱きしめて、ヨウゼンは小さく囁く。まるで声を殺すかのように。
「あなたを手離すことが……出来なくなりました……わかりますか?あなたがどんなに嫌がっても、
僕はあなたを離す事は無いということですよ……どこに逃げても、どんな姿になっても、あなたを必ず見つけ出して
捕まえるって言ってるんです……」
「……今更、何を言うのかのう、この天才様は」
彼女は静かに目を閉じて、続けた。
「この心音は同じであろう?器が違えども、わしを抱いたこの腕の温かさは変わらぬのであろう?
何を偽っていた?何を恐れていた?ヨウゼン……おぬしはおぬしじゃよ……」
小さな身体を預けてくる。
女の身体は脆く、強き器。
その腕の中、柔らかき胸に全てを抱き、受け入れるのだ。
「困ったのう。この爪は少しばかり長いようじゃ。切ってやろうか?」
「……師叔……」
「おぬしもわしに言うではないか。房事の時に痛いから爪は切れと」
ゆっくりとその姿が歪んで、見慣れた男の姿に戻っていく。
「この手なら、痛くはないのう」
姿かたちは、ただそれだけのものだと彼女は笑う。
自分に触れてくるこの手の暖かさが真実だと。
求めて止まなかったのは、やさしさ。
「泣かずともよい、ヨウゼン」
「……はい……」
自分よりも身丈の大きい男を少女はその腕の中に抱くのだ。
まるで子供にそうするかのように。




初めての口付けは何時だっただろう。
どこか冷めて見ている自分が居た。
この腕に抱いたのは誰だっただろう。
流れる噂も気にならなくなっていた。
所詮は上辺だけ。
真実を受け入れてくれることはありえないものだと思い込ませた。
認めてしまえば、自分の全てが崩れてしまうから。
受け入れてしまえば、全てを失ってしまうから。
膝を抱えて、じっとやり過ごすように、心は誰にも見せないで生きてきた。
「……師叔……」
初めての口付けのように、どこか胸が温かく、痛い。
触れるだけの唇。
何度か重ねて、次第に深く。
「……ふ……ぅ……」
ちゅっ…と離れて、きつく抱きしめあう。
触れ合う肌が焼けるように熱い。
顎先を舌先で舐め上げれば、背中に指が滑る感触。
「すごく……どきどきします……」
下がる唇は微かに震えて、その肌に小さく華を咲かせていく。
とくん、とくん、と彼女の心音が耳に響いて。
「……ヨウゼン……」
すい、と手が伸びて互いの身体を抱きしめあう。柔らかい胸が触れて、暖かさをわけあって。
一人きり、凍えそうな日々を過ごしてきた。
「……っは……」
乳房に沈む指は、壊れ物でも触るかのように優しくて。
舌先でその柔らかさを確かめながら、細い腰を抱き寄せた。
少し浮いた肋骨。軽く噛むとぴくん、と身体が跳ねる。
縦長の臍に接吻して、そのまま唇を下げて濡れ始めた秘所に舌を這わせていく。
「あ!!」
ぴちゃりと音を立てて、舌は内側を侵食し始める。
上がる声を抑えようと唇を覆う手。
「駄目……聞かせてください……」
細い足首。小さな爪。未成熟な身体。
「や……」
塞いだ唇は熱くて、骨まで溶かしてしまいそう。重ねれば、重ねるほどに欲求は募るばかり。
誰にも渡したくない。この腕の中で喘ぐ彼女を取り込んでしまいたいと。
「あなたが……ずっと欲しかった。だから……あなたに嫌われるのが恐くて……何もいえませんでした……」
ぬるりとした体液が指先に絡みつく。
指を増やして奥に沈めるたびに、小さな身体が切なげに悲鳴を上げる。
敷布の上で乱れる黒髪。
ただ二人だけの空間。
「…あ!……っは……ぅ…!……」
腰を抱かれて、繋がる熱さに身悶えしながら男の身体を抱きしめる。
「……ヨウ……ゼン……っ…」
「……師叔……」
言葉さえももどかしくて、唇を噛みあって舌を絡ませた。
感じあえるこの熱さと肌の感触。互いの匂いと囁く声。
肌一枚隔てていることさえも、苦しくて。
「あっ……ん!!」
耳の裏に舌先が触れて、甘く吐息が掛かる。
「……嫌……」
目尻に零れる涙をそっと払う。
「本当に嫌ですか……?」
「あ、やんっ!!」
するりと腰を撫でられてびくつく肢体を彼は愛しげに抱く。
欲しいものはたった一つだけ。
そのためならば、何を失くしても構わない。
平和より、自由よりも、正しさよりも、彼女の声だけが真実。
優しさも、弱さも、向き合うことの恐さも、全て彼女が教えてくれた。
たった一言がいえなくて、逃げてきたあの日々。
「……師叔……」
突き上げるたびに甘く鳴く鳥は、その羽を折れと言う。
閉じ込めて、手元に置きたいならばそうしろと。
鳥は、羽を広げ透明な蒼き空を自由に飛ぶからこそ美しい。
死と隣り合わせの自由を腕に抱き、優美な羽根をはためかせるのだ。
「あ!!ヨ……ゼ…ン…!!」
胸が重なるほど、きつく抱き合って。
「……っく……師叔……っ…」
仰け反る喉元に接吻して、上向きの乳房に舌を這わせた。
軽く噛めばその度に自分を締め付ける感触に眉を寄せる。
「……あ……ひ…ぅ…!!……っ!」
最奥まで打ち付けて、びくびくと痙攣する腰を抱きしめた。
「……師叔……っ……!…」
折り重なるように崩れる身体を抱いてくれる細い腕。
その小さな身体に、全てを吐き出した。





「ヨウゼン、月が綺麗じゃぞ」
重い身体を起こして、太公望は天窓から覗く月を指す。
月光は影を浮かばせて彼女の身体を柔らかく照らしていく。
「ええ……」
後ろから抱きしめるとその手に小さな手が重なる。
「傷だらけですね、あなたの身体は」
その一つ一つが、今は愛しくて。
「まだ、この先も増えるだろう。それは厭わぬよ。傷はわしだけが負えばよい」
年端も行かぬ子供のような顔。
「駄目です」
「?」
「今度は僕があなたの盾となり、剣となりたいのです」
「……ヨウゼン。わしは、おぬしを盾にしたいとは思わぬよ。わしとて道士の端くれじゃ。自分の身体は
自分でも守る。それに……たまにはわしとておぬしを守ってみたいではないか」
うふふと太公望は笑うだけ。
「傷は厭わぬと言ったであろう?なに、おぬしが笑ってくれるのならば少しくらいの苦労も良いとしようではないか」
その声は自分の乾いた心に雨となって静かに染み込んでいく。
「わしは、おぬしの笑顔が好きじゃよ。ヨウゼン」
「……師叔っ……」
ぎゅっと抱きしめて、頬に唇を当てる。
「ヨウゼン、苦しい……」
「……好きです……」
涙が零れないように、髪に顔を埋めた。
他人に脆さを出すことは禁忌だと思っていた。
「明日、晴れたらあなたを連れて行きたいところがあります……」
「……きっと晴れるよ、ヨウゼン。月も笑っておる……」
窓の四角に囚われた月。
ただ、二人を優しく照らしていた。




向かい風は優しく頬を撫でる。小さな身体をしっかりと抱き寄せてヨウゼンは哮天犬を東へと走らせる。
「ヨウゼン、そんなに飛ばさずとも……」
「ちょっと遠いですからね。大丈夫ですよ、あなたは僕が離しませんから」
にこにこと笑う顔。そんな風に笑われれば何も言えなくなる。
幾つもの村を越えて、辿りついたのは小さな丘。
「……………」
「あなたの……家族のいる場所ですよ」
家族への思慕は胸の奥深くに沈めて、忘れた振りをしていた。
一番柔らかく、脆い部分。
あの日々は、大事な大事な宝物。誰にも触れさせることをしなかった夏の向こうの思い出。
はらはらと零れる涙。両手で顔を覆う姿は、軍師でも道士でもなくただ一人の少女。
「僕も……会いたかったんです。あなたの大事な人たちに……」
「何故……今日だと分かった……?」
「え……」
「落命の日じゃよ……」
振り返る姿。風が髪を攫っていく。
「風が……」
「父様、母様……望はまだ御傍に行く事は出来ません。望にはまだやるべきことがあるのです。
守っていただいたこの命、全うし得るまでは……まだ……」
伏せた睫。
「それに、こやつひとりを残すことは出来ませぬ」
愛されて守られてきた日々。今度は同じように自分を守ると彼女は言うのだ。
「母様……あなたの付けたこの名を望は誇りに思います」
「……師叔……」
そっと手を取り、指を絡める。
「行こう、ヨウゼン」
何時までも子供のままではいられない。あの日、そう決めたのだから。
失くすはずだった命。ならばこの命が果てるまで戦い抜くと決めた。
「これ以上ここに居れば……帰れなくなる……」
「……師叔……」
墓標に背を向けて、太公望はゆっくりと歩き出す。
「……頭領様、僕はヨウゼンというものです。御二方の宝物……今度は僕に守らせてください。
僕は……太公望師叔に出逢って変わりました。あなたがたが太公望師叔をこの世に送り出してくださったことに
感謝したいんです」
「ヨウゼン!」
「あなた方が見ることが出来なかった分を、僕に任せていただけませんか?不躾な願いだとは重々承知です。
僕にそれだけの資格があるかも分かりません……でも……この人を大事にしたいという気持ちは誰にも負けません!
この人と一緒に、同じ世界を見たいんです」
まるでそこに二人がいるようにヨウゼンは言葉を紡ぐ。
「お願いです……」
たった一つの聖域から、太公望を連れ出させて欲しいと彼は懇願する。
ここだけが彼女が彼女に戻れる唯一つの安息の場所なのだ。
「師叔無しでは……僕の生きる道に意味が見出せないんです……」
一人の男として向かい合う姿。
天才道士ではなく、『ヨウゼン』という固体として。
「ヨウゼン……」
深々と頭を下げる。
「行こう、一緒に」
「ええ……」
風は、ただ優しく二人を包む。
あたかも見送るかのように。





繰り返される日々の中、太公望は東奔西走。
相も変わらずに忙しい。
「師叔」
「おお、ヨウゼン。いいところに来てくれた」
ばらばらと書簡を広げながら手招きしてくる。
「これを」
茎の伸びた大丁草(ガーベラ)。束ねて花瓶に挿すと太公望は嬉しそうに笑った。
「綺麗じゃのう……」
「蝉玉くんに持たされました。たまには花くらい贈れと」
「……少し、休憩でもするかのう」
暖かな日差し。
乙女十七、時間は途切れたままだけれども。
今はこの十七番目の天国に身を寄せて、遠くを見よう。
「菓子も持たされました。お茶を入れましょう」
「うむ」




あなたと過ごすこの日々が何よりも宝物。
この空の下、今日も彼女は屈託なく笑っている






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