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樺地崇弘。
氷帝学園二年。テニス部に在籍。
身長190センチ。1月3日の早生まれで、年明けと同時に十四歳となりました。
よく見てくれれば穏和な顔立ちなんだけれど、十四歳というよりも、中学生にまず見えないそのガタイのよさのせいで強面の印象が先に立ってしまい、初対面の人間にはまず恐がられるのがちょっぴり傷つくお年頃だったりも……。
「―――なんだ、それは」
「うん? 新入生が入ってきた時の自己紹介。これぐらい可愛らしく言えば怖がられることもないでしょ?」
「一応わかった。わかったが―――……何で樺地の自己紹介をお前が考えなきゃいけないんだ。鳳」
「だって…日吉。誰かが考えてあげなきゃさ。絶対樺地は考えなさそうじゃん。『ウス』で終わるから同学年でも恐がられるんだよ」
「―――お前のビックなお世話な親切心はよくわかった。しかしひとつ問題があるだろう」
「なにが?」
「樺地がその文章を喋ると思うか?」
「――――口パクは?」
「お前は一刻堂か」
却下。と、盛大な音を立てて、レポート用紙が破かれる。
せっかく書いたのに…、と恨みがましくも鳳は日吉を見た。
「大体新入生が入ってくるのはまだ先だろう。その前に卒業式がある。追い出し会の案をさっさと出せ」
日吉はイライラした様子で、新しいレポート用紙を突き出す。
「うっ! そんなそんな……悲しいことを思い出さすなよう。日吉〜」
「鬱陶しい! 図体のデカイ男がメソメソすんじゃねえっ」
「だって〜。し…宍戸さんがいなくなったら、オレどうすれば…」
「どうもクソもねえだろ。お前が一年遅れて生まれちまってんだから。いい加減逃避しねえで、案を考えろよっ。ち、こんなヤツが副部長かよ」
「うわーん! うわーん! 酷いっ。そんな禁句ばっかり並べ立てるなんて、日吉の鬼! おかっぱ! きのこ星に帰れ!」
ピキリ。と、空気が凍り亀裂音が炸裂した。
「……てめえ。大人しく付き合ってやってれば、図に乗りやがって……っ」
勢いよく日吉が立ち上がる。武道の構えを見せてきたので、慌てて鳳も立ち上がり数歩下がった。
見合って暫く。
「―――二人共、落ち着こう」
ぼそり、と仲裁に入ったのは、最初からその場に居たにも関わらず存在感の薄い樺地であった。図体がデカイわりに、ひっそりとした雰囲気を醸し出す彼はともすれば置物のようである。
「樺地、発端はこいつがお前を揶揄った文章にあるんだぞ? お前が怒るべきだろう! ガツンと言ってやれ!」
「あ、日吉ズルイ! 樺地を仲間にしてオレを虐める気だなー!」
「二人共、やめる。とにかく、座って」
「樺地に免じて今日は見逃してやる。次回は三枚卸だからな!」
「日吉」
諌めるような樺地の口調に、まだ言い足りない様子ではあったが黙って腰を下ろした。鳳もそれに倣う。
長身の学生三人の騒ぎは人目を引き、先ほどから廊下を歩む生徒達から奇異な目を向けられていた。それにも気づき、日吉と鳳は少々頬を赤くして、カップに入っている紅茶を飲み干す。
三学期が始まって間もないので、本日は部活動も無い。本来なら部室で話し合うことの多い三人だが、そのために使用できず。自販機の並んでいる多目的ホールの一角に設置されているソファや椅子に座り話し合いをしていたのだ。
題目は『三年生追い出し会』について。
部員数二百名という、大所帯のテニス部では、卒業していく先輩達の数も半端ではない。他の部では、会費を集めたり余った部費を使ったりし、ささやかなプレゼントを渡したりしているらしいのだが、テニス部では無理な話だ。
大体、名門テニス部などと呼ばれているためか、やたらと自尊心の高い者達が集まっているので、そんなささやかな物など、渡したが最後鼻で笑われて終わりだろう。
「えーと、去年は確か……跡部部長の卒業生七十八人斬りか…」
鳳は当時のことを思い出して、息をついた。
「そうだな。レギュラーまでもを全部一人で倒して『あとのことは任せてくださいよ』と、不敵に笑って卒業生を送ってったな」
「あれは……本当の意味で『追い出し会』だったね」
毅然と立つ跡部の下に、ひれ伏す卒業生達はなんだか泣いていたような気がしないでもない。しかし、あれは嬉涙だったのだ。と、鳳は心に優しい結論を選択した。
「どうする、日吉新部長。二代目いっとく?」
「……下克上。やってやろうじゃねえか」
「二人共、真剣に、考える」
「真剣だぞ、樺地! それともオレが三年全部を叩きのめせないとでも言うのかっ?」
「ああ〜叩きのめす、言っちゃった」
「違う。やっぱり、喜んでもらいたい」
激高する日吉に、あくまで冷静に樺地は返す。
「そうだよなあ。オレも宍戸さんに喜んでもらい……し…宍戸さ〜ん」
「ウザイんだよ。お前は!」
宍戸の名を出しては、一人でメソメソとする鳳に日吉は切れっぱなしだ。彼と宍戸がダブルスを組んだ期間といえば、二ヶ月ぐらいなのだが、そこで一生のパートナーだと確信した、と騒がれても日吉には理解できない。
「大体一年経てばまた否応なしに一緒になんだろっ? 高等部ったって同じ敷地内なんだし」
「離れている間が心配なんだよ! オレのいない隙を狙って宍戸さんが誰かの手に落ちたらどしてくれるんだー!」
「それは、高等部で誰かとダブルス組むってことか?」
「うわー! うわー! そんな話は例え仮といえども聞かないぞー!」
耳を塞ぎ喚き散らす鳳の頭に、空になった紙コップがヒットする。
「身長が185もある男がガキ丸出ししてんじゃねーよ!」
「し…身長と性格は関係ないんだな…っ」
「どういうキャラだ……」
「宍戸さん…カッコいいし、優しいし、男気溢れてるし……。ああ〜高校に入ってちょっぴり大人になった宍戸さんに群がるメスドモが…っ! メスドモがあっ!」
「だからどういうキャラだっ! 落ち着け、鳳! 宍戸さんに彼女ができたからといって……それでテニスがおろそかになるなら自業自得だ」
「おろそかにならないよ! ってか彼女できちゃダメだろっ!」
「何故だっ? 彼女ができたらテニスができなくなるのかっ?」
「あー、日吉なんか全然会話になってなーい!」
「んなこたあ、最初からだろ!」
「宍戸さんの彼女になるのはオレなの!」
「はあ〜?」
「あれ? 彼氏?」
「……………樺地。お前の意見はどうだ? 喜ばれたいって何か考えでもあるのか?」
「無視かよ!」
「うっせぇ! ホモ!」
「直撃! オレの純愛にケチつける気か? 表に出ろっ!」
またもや血気盛んに立ち上がる二人に、やれやれと溜め息をついて、樺地は転がったままの紙コップを拾いゴミ箱に捨てた。
この二人とは家が近所な為、小学校から一緒である。そして一事が万事このような調子だ。愛想のカケラもない日吉と樺地をフォローするために、鳳は体面のよい処世術を身につけた。そして小さい頃から、その容姿と体格の良さで目をつけられやすい樺地を守るために、日吉は好戦的となり、実は二人揃って走り出したら止まらない暴走癖のある鳳と日吉のブレーキ役が樺地であった。
一見してわかりにくい仲ではあるが、己の無いものをそれぞれ持っているので、一緒にいれば楽ができる。
だが、楽過ぎるというのも欠点で、よく喋る二人と常に一緒にいたためか、樺地の口数は減る一方だった。
なんとはなしに同じ中学を受験し、受かり。忘れもしない春。部活勧誘が始まると同時に、樺地は跡部に無理矢理テニス部に拉致され、取り戻そうとした日吉と鳳もいつの間にか入部となってしまっていた。それが現在、日吉は新部長に、鳳は新副部長になっているのだから運命とはわからないものだ。
「二人は、テニス好き?」
ふと、思い立ち樺地は友人達に尋ねてみる。臨戦体制に入っていた二人は、気を削がれて「は?」と目を丸めた。
「なんだよ、いきなり」
「日吉、始めテニス部入る気、なかったから」
「そりゃ…オレは武道ひと筋だったから。テニスってなんか軟派なイメージしかなかったからな」
「なのによくテニス部入ったよなあ。しかも部長になるし」
鳳が感慨深く頷く。
「仕方ねえだろ。なんでかいきなり跡部さんが一年の教室に入ってきたと思ったら、樺地呼び出して連れ去るし」
「あー。アレはオレも驚いたな。違うクラスだったけどさ、噂がすぐに耳に届いて。樺地がリンチされる、って。あん時、すでに180あったから目をつけられたんだって、青くなったよ」
「行ったら行ったで『お前等も入れ』だもんな。なんだったんだろうか」
「跡部さんもなんでいきなり樺地を勧誘したんだろうな。知り合いって訳でもないし、テニスやってた訳でもないのに」
「やっぱり、このガタイじゃねえか?」
二人して首を傾げた。樺地は理由を知ってはいたが、敢えて答えずじっと会話を聞いている。
「でも見る目はあるよな。あのヒト。やっぱ樺地が一番上手いもん、テニス」
「手本がキレイだからな。最初の段階で跡部さんがつきっきりだったし」
「その分こき使われてたよね。嫌じゃなかったのか? 実際はどうだったんだ、樺地」
話が次から次へとずれていくなあ、とは思ったが、樺地は鳳の質問には首を横に振るだけに留めた。
「まあ、でも跡部さんも樺地には優しかったよな」
それにはコクリと頷く。
奇妙な間が空いた。
「若くん。今、なにやらボク達ノロケられました?」
「ノロケ、ノロケ。――オレ様の辞書、樺地の項には載ってねえ」
「――――……」
樺地はまたもやだんまりを決め込む。基本的に、何事もじっくりと取り組み、もくもくと思案にくれ答えを出すような性格なので、このように突飛な遣り取りしかしない二人の会話には入っていけないのだ。
「ノロケなら負けないよ、樺地! でも樺地のお陰でオレは宍戸さんと出会えたんだから、感謝してるけどね」
「お前…その発言のどっからどこまでが本気なんだ?」
「全部に決まってるじゃん」
「――――今まで恐くて聞けなかったが…本気で好きなのか? 宍戸さん」
「好きだよ?」
あっさり返されて、日吉の顔が引き攣る。
「お前、中1の時付き合ってた女いたろう。しかも年上」
「あれは若さゆえの過ちであった」
「今が過ちの真最中の間違いじゃねえのか? 樺地、お前からも何か言ってやれ。鳳がホモの道を爆進しているぞ」
そういう日吉の口調は素っ気無いものだ。この半年、あまりに鳳が『宍戸さん』と煩かったので、免疫が充分できているのだろう。
「宍戸さんに、迷惑かけなきゃいいと思う」
「ナイス、樺地」
「酷いよ! 樺地まで! 初恋もまだ樺地に言われたくないし! 愛とは戦うもの…っ」
「愛と誠か! それにはオレも賛同だぜ、鳳!」
なにやら熱く二人で語り始めたのは『愛と誠』という漫画についてだった。かなり古い漫画だが、日吉の父親の愛読書で、小学校の時に回し読みをしていたのである。
「それを、オレ無しに語るのはあかんでえ」
「うわ! 出た、マニアの大王っ」
「ははん、そんなに誉めるな。鳳」
三人で占領していた自販機前に、先輩である忍足が小銭をチャラチャラと玩びつつ登場した。
「誰も誉めてねっつーの」
その背後には小柄ながらも威勢のよい、先輩の向日。先ほどまで話の種であった元部長の跡部までもがいる。
「んだよ、樺地。お前まだこんな所で油売ってたのか? ならオレ様の荷物持ちな」
「ウス」
いけ高々と、拒絶など微塵も考えていないような態度で、跡部が鞄をつきつけた。樺地は素直に受け取る。
「こんにちは、跡部さん、向日さん、忍足さん」
日吉と鳳が一緒に頭を下げる。体育会系なので、挨拶はきちんとするのが習わしだ。
「忍足さん達もまだ居たんですね。三年はとっくに帰ったと思ってました」
「んー? なんか教室でダベってたら遅うなっただけや。お前等も部活無いのに何で残っとるん? あ、鳳は宍戸待ちか?」
「宍戸さんまだ居るんですか?」
「ああ、アイツ卒業写真委員やからな。色々と今時期から忙しいみたいやで」
「じゃあ、宍戸さん待ちです」
「なんか日本語おかしいなあ。それともそれが東京弁なんか?」
「こいつの文法を標準にしないで下さい。オレ達も喋ってただけですよ」
アホな友人に代わり、日吉が答えた。
「侑士―。オレロイヤルミルクティー飲む」
「がっくん……。飲むって、飲めや。勝手に」
ブレザーを掴んで、自販機を指しねだるダブルスのパートナーに、忍足は渋面を作る。
「飲むー。飲むったら飲むー」
尚もダダをこねる向日に、しょせん甘い忍足はブツブツ言いながらも小銭を投入した。
「オレはレモンティーでいいぜ」
「お前までたかる気か!」
金持ちのくせに〜、と嘆きつつも、跡部の分まで小銭を入れる。
そして自分はコーヒーを買った。
「あっついな〜。でも寒くなってきたから丁度体あったまっていいかも」
向日は貰った湯気の立つ紙コップを、下に着ているセーターを伸ばして包んでいる。ふーふーとしている所を、忍足がだらしない顔で見つめていた。
まるで愛猫家が、転がっている猫を見つけては走りより観察しているような顔だ―――と、日吉は毎度ながら思う。
前々から仲の良い二人だとは知っていたが、二学期が終る頃の話だ。忍足の母親が急逝し大阪に帰ってしまった。そのまま戻って来ないかもしれない、と皆が心配する中。向日は果敢にも一人で大阪まで行き、忍足を連れ戻してきたのである。
それ以来、忍足の向日への甘やかし方は尋常でない。
ダブルスを組んだことのない日吉にはわかりかねたが、鳳のこともあり『恐るべし、ダブルスの罠』などと勝手に怯えていた。自分だけは孤高に、下克上を一人で目指そう。
納得した時である。自分の隣に立っていた樺地が、じいっと向日を見つめているのに気づいた。
「――――?」
だが、それは日吉だけでなく、向日も気づいたらしく、大きな瞳をパチクリとさせて樺地に近寄る。
「なんだよ、オレの顔になんか付いてっかー?」
「……ウ……っ」
他愛もない会話だ。しかし、その結果起きた状況に、その場に居た全員が呆気に取られた。
樺地の顔がみるみる赤く染まっていくのである。
それはもう見事なほどで、近寄り顔を覗き込んでいた向日がそのまま固まってしまったぐらいだ。
「か…樺地?」
どうしたんだよ、と向日が口を開くと同時に、樺地は勢いよく頭を下げて、そのまま走り出す。
「へ?」
「おい、樺地!」
日吉と鳳の制止の声も振り切り、樺地は多目的ホールを出て行った。ポカン、と見送った面々は、まずは廊下に釘付けになり、次いで向日へと視線が集まる。
「あ…あのがっくん? お前、樺地になんかしたんか」
少々青褪めた様子に、引き攣った笑みを浮かべて忍足が尋ねた。
「ん…と。奪っちゃった?」
えへ、と笑った向日に「何を」とは誰も聞けない。それ以上の衝撃に、誰もが立ち尽くすだけだ。
いや、一人だけ動ける人物が居た。
「岳人〜…、てめえそれ以上喋ってみろ」
「跡部、怒るなよう。悪かったって」
「うるせえっ! この腐れ関西人!」
「オレかい!」
何故か跡部の蹴りが向日にではなく、油断していた忍足に決まると、跡部は悠然と出て行った。―――跡部の鞄を持っているのが樺地だからである。
「な…なななんなんや! えー? なんでオレが蹴られるん! そして樺地はなんで岳人見て赤面しよったんや!」
「話したら跡部に殺されるから黙秘」
「なんでやねん!」
「―――そう言えば、十二月頃から樺地、向日さんのこと意識して避けてましたよね」
「やっだなー、鳳。聡いのはいいけど、口が軽いと消されても文句言えねえぞ?」
ニッコリ笑いながら、三十センチも身長差のある先輩に脅しをかけられて鳳はすかさず「お口にチャックしましたー!」と叫んだ。
そんな遣り取りを見ていた日吉は、おもむろに
「まだあげ初めし前髪の、林檎のもとに見えしとき、前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけり……」
そらんじたのは島崎藤村の有名すぎる詩である。
「え、なに? なんですの、日吉くん!」
「もういいから帰ろうぜ、侑士!」
「質問に誰か答えんかい!」
「モルムのもみの木が教えてくれるって」
「おし〜え〜ておじい〜さん〜〜」
「はいはい。帰ろ帰ろ」
錯乱しはじめた忍足を引っ張って、向日はホールを出て行った。
取り残された二人は「えー?」と、仲良く声を上げて目を見合わせた。
学校を出る前に紙コップを捨てて、下駄箱でコートを着込む。急いだ風もなく校門に行けば、案の定大きななりをした後輩が佇んでいた。
「お前、オレ様を置いて行くなんていい度胸じゃねーか」
「……すみません」
しゅん、と項垂れると樺地はまるで大型犬のような愛嬌がある。跡部は大きく息をつくと、その背を叩いた。
「ったく。純情なヤツだな。岳人も言ってたろーが。あんなのキスの内になんか入るか」
「ウス…」
またもや樺地の顔がみるみる紅潮していくのを見て、跡部は怒りに眉が釣りあがっていく。
(あんのアホダブルスどもめえ……)
怒りの矛先は全ての元凶である、忍足と向日に向けられた。
十一月末の出来事だ。
何が原因だかは知らないし、今更聞く気もないが、忍足の外部受験の噂が出たかと思えば向日と険悪な雰囲気になっていった。
周囲は心配しつつも、見守ることしかできずにいたのだが、そんな中。二人は酷いケンカをして、ボロボロになって忍足の自宅から飛び出した向日を、跡部と樺地が助けたのだ。
傷ついた様子の友人に、同情したのが間違いだったと、今になって跡部は歯噛みする。
あんな程度でしおらしくなるようなタマではなかった。最初は悄然としていた向日だが、いきなり復活すると助けた樺地の頭を引き寄せ―――唇の端にだが―――キスをしたのだ。
「何してんだー! お前―!」と叫んだ跡部に、抜け抜けと「単に好意を持っているなら男でも平気なのか試してみたかっただけ。跡部にしたら殴られそうだし」言い放ったのである。
いったい忍足とどんなケンカをしたのか、考えたくもないが、そのとばっちりで後輩のファーストキス(だったらしい)を奪ってよいものではない。
舌打ちをしながらも、校門を出た跡部の後ろから、いつものように樺地がついてくる。
なにやら、今まで体験したこともないぐらい、苛立っている自分に跡部はやるせない気持ちに段々なってきた。
(ちくしょう。ムカつくぜ。大体樺地はオレが見つけてきたのによ……。オレだけ見てりゃいいのに……)
そこでハッとした。そうなのだ、キスシーンを目撃したということよりも、今樺地の中を締めている向日に嫉妬していたのである。
跡部が樺地と出逢ったのは、桜舞い散る四月―――ではない。もっとそれより以前だ。このことはきっと樺地しかわかっていないだろう。
二月の始め。氷帝学園中等部の受験日であった。
当日、一般の生徒は休みとなっていたが、跡部は受験生誘導の手伝いで借り出されていた。
しかし、不覚にも体調を崩してしまっていて、当日顔半分は隠れるマスクをしながら必死で堰を抑え、なんとか与えられたせ責務をこなしていたのである。教師からも心配されていたが、割り当てられた仕事を放棄するなど、跡部のプライドが許さない。
受験が終り、小学生達がぞろぞろと帰っていくのを見送りながら、やっと終わったと気を抜いた途端。酷く咳き込み、そのまま酸欠状態になって倒れた。熱もあとで計ったら、九度近かったのだから当然だろう。
人にこのような無様な姿を見せるわけにはいかない、と力を振り絞って校内に戻ろうとしたところ、最後まで残っていた受験者三人に見つかったのである。
それが樺地と鳳、日吉の三人であった。
「し…死体?」
悲鳴を上げたのが鳳で、「死んでんのか」と言い放ったのが日吉である。
(ガキ共、殺す……)
跡部は殺意を抱きつつ羞恥で死にたくなった。
「大丈夫です、か? 熱ありますね」
そんな中、たどたどしくも心配そうに跡部の額に触ったのが樺地だったのだ。
「鳳、オレ背負うから、手伝って」
(な…なに? オレ様を背負うだとっ。小学生が…っ!)
なんとか目を開けようと必死になるも、瞼も頭も鉛のように重く、言う事を聞いてくれない。
心の中でだけ焦っていると次の瞬間、ふわりと躰が浮いたことにより、一気に意識が覚醒した。
(背負われたーっ! ちょっと待て。170はあるんだぞ、オレは!)
男としてのプライドがガラガラと崩れていく。あろうことか小学生に背負われているのだ。この衝撃は計り知れない。
降りようと、身を捩ったところ、それに気づいた樺地少年は静かに「――保健室の場所。わかってますから。大丈夫、です」と言った。そこで跡部は、はたと、恐ろしいことに気づく。
(こいつ…一体身長いくつあんだ?)
足が全然地に着かない。
(と…とりあえず顔は見えてねえはずだ)
諦めの境地に達してしまった。というより、熱で頭が動かないのだから仕方がない。ぐったりと、小学生の背中に縋ってしまった。
以降が夢うつつに聞いた、三人の会話である。
「寝ちゃったのかなあ」
「こんなに熱出して倒れるなんて軟弱な。色も白いし、文化部だろうな」
「そういや、日吉。お前ここ入ったら何部に入んの? やっぱ武道系?」
「オレがやってんのは古武術だぞ。他の武道やれるか。型が崩れる。まあ、でも弓道には興味があるな。そして部長を倒す。下克上だ…」
「相変わらずだな。日吉〜。でもここってさテニス部が名門らしいよ?」
「テニス。軟弱な」
「樺地はどうすんの? 運動神経いいから、どこの部に行ってもやってけるだろうな〜」
「―――………離れて、話せ。うるさい」
「あ、ごめ……」
そこからの記憶は無い。
それでも、樺地という少年の優しさは、身に染みて感じた。
熱が下がったのち、跡部はひとつの決心をする。
入学式を待ち『樺地』という名の少年を探し出すのは、珍しい苗字ということもあり簡単なことであった。
騒がしい一年の教室が並ぶ中。迷うことなくひとつの教室に入ると目当ての人物をあっさり捕まえることができた。
呼び出しに応じた少年は180センチもあり、初めてちゃんと見た樺地に跡部は一瞬だが仰天したものだ。しかしまあ、朴訥とした雰囲気は悪くない。上から下までをじっくり眺めると、跡部はニヤリ、と笑った。
「悪くねえ。来い、樺地」
「ウス」
これが二人の馴れ初めである。樺地が何をどう感じたかは、正直汲み取ることは困難で、跡部にはわからないが。
黙ってついてきたのが答えだと、そしてそれはこれからも続くのだと、跡部には奇妙な自信があった。
足を止める。
同じく、後ろに居た樺地も止まった。
あと二ヶ月もすれば自分は卒業して、中等部を出る。それは仕方のないことだし、たった一年もすればまた同じ場所に一緒に居られる。
けれど―――
(長い…よな…)
振り返れば樺地は律儀にも距離を保って、こちらの動向を窺っている。表情は相変わらず無いが、困っている様子がなんとなく自分にはわかった。
この二年。樺地は文句も言わずに、跡部の我儘だけを聞いてきた。それは何故だろうか?
今の今まで、自分が樺地を信頼し必要としている。それだけが重要で、不安など微塵も感じなかったのに、初めて相手の気持ちが気になった。
口数の少ないこの後輩は、不器用でも優しさは本物だ。
その姿のためか敬遠されがちだが、彼は誰にでも優しいし、気を使う。
回りからみれば、盲目な主従関係のようだが、実際は互いを尊重しあっているからこそできる関係だろう。
跡部が命令をする。それを理不尽だと思ったり、嫌だと思うのならば拒否をすればいい。自分はそれを怒ったりはしないし、無理強いもしない。
―――樺地はそれをちゃんとわかっている上で、従うのである。
「樺地」
「ウス……」
「岳人のことばっかり意識してんじゃねえよ。たかだかあんな子供騙しのキスに負けたかと思うとムカツクんだよ」
「―――……ウス」
嫌なら首を振ればいい。
「お前はオレだけ見てりゃいいーんだよ。それは卒業してからもだぞ? 忘れたら承知しねーからな」
「ウス」
理不尽だと思うのならば、口にそう出せばいい。
じい、と睨みつける。少年の双眸は、深く穏やかだ。
傾いた日が、彫りの深い顔立ちをいっそう際立たせる。
「―――オレ、テニス好きです。教えて貰って、感謝してます」
ゆっくりと、噛むように喋る。
跡部は知っている。
彼は言葉を選ぶ。本心だけを口にする。
だから、それ以外は喋れないから――――無口なのだ。
(不器用者め。オレがいなきゃ、どーやって生きていく気なんだ。こいつは)
知らず、頬が弛んだ。
そしておもむろに歩道に上がると、樺地の肩に捕まってガードレールのポールの上に立った。いきなりの、跡部らしくない行動に目を丸くしつつも、樺地は黙って肩を貸す。
さすがに見上げる位置に、跡部の秀麗な顔があった。
「あたり前だろ。お前を見つけたのはオレ。育てたのもオレ。だから――オレのことだけ考えてりゃいーんだよ」
夕日で伸びた長い影が、そっと重なる。
暫くすると離れたが、それでもお互いの間は数センチだけしか空いてない。
「――あのなあ。教えてやる。こういう場合はオレの背に手を回すんだよ。あと、鼻で息をしな」
「―――……ウ」
樺地の返答は、跡部の強引な口づけによって塞がれた。
(ざまーみろ、岳人。お前なんかの場所を、樺地の中になんか作ってやるかよ)
樺地は硬直した挙句に、困って、困って、困り果て―――。
おどおどしながらも、素直に跡部の背中に手を回したのであった。
とても長く感じたキスの間中。どうしていいのかわからない樺地はずっと、詩を暗誦していた。そうでもしなければ、心臓が破裂しそうだったのだ。
ただ―――その詩が、日吉のそらんじたものと同じであったのは―――果たして授業で習ったばかりだったから…かは本人にもわかっていなかった。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃の
君が情に酌みしかな
林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
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