澤 く ん の 彼  の 事 情







 

 

 赤澤吉朗は頭を抱えていた。

 悩みは日毎に重さを増し、それに比例して悩むときの姿勢まで前のめりになっていく。続けて溜め息、溜め息、また溜め息。
 側に居る者の幸運までも逃がしてしまいそうな溜め息の連続に、いい加減鬱陶しくなった柳沢は読んでいた本から顔を上げた。

「クリスマスも近いのに辛気臭いだーね! ウジウジするならオレの見えないとこでやって欲しいだーね!」

 しっしと、犬を追い払うがごとくの手振りまでする。ただでさえ広いとは云いがたい寮部屋で、二人っきりで溜め息をつかれ放題では気が休まらないというものだ。わかりやすく邪険にしたにも関わらず、赤澤はうっそりと顔をこちらに向けるとまた盛大な溜め息をついた。これには柳沢も目を丸くする。決して薄情でも友情に薄くもない柳沢は、改めて悩める友人に向き合った。

「一体どうしただーね。悩みがあるのなら、一応相談にのってあげるだーね」

「……一応かよ」

「話を聞くのと解決できるのとは、また別の問題だーよ」

「そりゃそうだ」

 気だるげに髪をかきあげる。そういう仕草が妙に色気のある男だ。視覚効果の一端を担っているのがその長髪なのだが、不精な彼は結べる長さにしか切らない。短くなれば、もう少し若々しく年相応になるのではないか、とテニス部の者達は思っていたりもするのだが、爽やかな赤澤というのもなあ〜と、忠告する者は未だいなかった。

「なんだーね。また観月を怒らせたか? それとも観月に怒った?」

「――なんだ、その二者択一は」

「赤澤がそこまで落ち込むのは、観月絡みとしか考えられないだーね」

「それはお前個人の認識か?」

「いーや。チームメイト全員と寮生全員の常識」

 正直に答えれば、ガクリと相手の肩が落ちる。
 現時点では引退しているが、テニス部部長と、参謀と呼ばれるマネージャー兼選手の観月はじめ。性格も雰囲気もまるで正反対の二人だが、どちらか一方でも欠かすことなどできない聖ルドルフの要といっていい存在だった。正反対であるが故に、互いに持ち合わせていないものを補える関係といえた。もちろん、そこまで認め合うまでの道のりは決して平坦なものではなかったが。周囲から見ても相容れぬと思われる二人が、会ったその日に意気投合などするわけもなく。加えて突然現れた特待生と、それまで地道に部を支えていた一般部員である。互いに受け入れるまでの、壮絶な戦いを見ていた部員達は、まさか将来二人手を取り合い新設に近いテニス部の基盤を作り上げていくことになるとは、夢にも思わなかったものだ。部長に選ばれるからには、赤澤にはそれなりの人望があり、鷹揚さも兼ね備えている。面と向かって観月にケンカを売るのも一度や二度ではなかったが、決して後を引くタイプではない。その都度、フォローしては観月に手を差し伸べていた。それを執拗に拒んだのは観月のほうだ。その態度も元々の部員から見てみれば、特待生を鼻にかけた嫌な奴という印象しか与えなかった。亀裂が入り深まった溝が埋ることなどありえないと、誰もが部の未来に暗澹たるものを感じていた頃。自宅組だった赤澤が、家庭の事情ということで入寮した。そしてあろうことか同じ部なのだからと、妙な気を回した寮母の画策により観月と赤澤は同室者となったのだ。――しかし奇妙なことに、それが功を奏した。頑なだった観月の態度はみるみる軟化していき、それまで莫迦にしたような対応しか見せなかったのにも関わらず、信頼と呼べるものを赤澤に示し始めたのだ。

『あなたは聖ルドルフテニス部の選ばれた部長なんですから、しっかりしてください』

 その豹変振りは見事だった。部長を立て、誉め、時には尻を叩きながらも、自分は影となり支えることを選んだのである。実力のある観月が裏方に徹し部長を立てれば、赤澤も期待に応えるしかないというものだ。手を組み、全国に狙いを定め走り出した二人を見れば、部員達の間にあったギスギスとした雰囲気も徐々に解消されていった。もちろん、他の特待生達がエリート意識の欠片も持たない者達であったことも多大なる要因ではある。その内のひとりとして、柳沢は赤澤にとても感謝をしていた。口には出さないが、彼がいなければ多分観月は潰れていたし、自分達だって居心地の悪い状況を強いられていたことだろう。

(――だけど、この二人は仲良すぎて、仲悪いだーね)

 相反する性格の持ち主なのだから、些細なことでいつも対立しあう。が、大概は赤澤が一方的になじられ、最終的には折れて終わるものだ。その辺が彼の寛容さを認めさせる所以なのだが、時たまに本気で怒った赤澤が怒鳴ると、勝気な性格とは裏腹に打たれ弱い観月は地の底まで落ち込んでいくはめになる。だがそうなっても――やはり折れるのは赤澤のほうなのだった。

 観月と赤澤の盛大なケンカ(最終的には物が飛び交う)は、寮生の間では既に恒例となっており、影では『夫婦喧嘩』と揶揄されている始末である。もちろん悪意に満ちた揶揄ではなく、むしろ苦笑されながら仕様されているものだが、テニス部員にとっては中々恥ずかしいものがある。何せ部長とマネージャーだ。最初の頃は間に入っていったが、喧嘩の原因の殆どが犬も食わないようなものなので、今では呆れて放ってあった。

「犬も食わないものをオレが首突っ込めるはずないだーね。さっさと観月に謝っちゃえば? 早く自室に戻るだーね」

「ちげーよ。あいつとケンカしてここまで落ち込むかよ。大体、木更津が観月に相談ごとがあるからって部屋追い出されたんだぞ、オレは」

「え? 淳が? …オレには相談してくれないのか…!」

 親友に裏切られた気持ちになって衝撃を受けた柳沢に、赤澤は「多分ちげーよ」と手を振った。

「観月の悩みを木更津が聞くための方便だろう」

「んで赤澤を追い払ったってわけかい。追い払われたお前がここで落ち込んでいる理由はなんだーね。観月が悩みを打ち明けてくれないからか〜?」

「違う。観月の悩み相談はいっつも木更津じゃねぇかよ。あいつが初っ端からオレを頼るわけねーって」

「なんか、悲しい男だーね。まあ、いつも赤澤が観月を頼りすぎだから観月はお前に弱味を見せられないだーよ」

「否定はしねーけど。でも、頼られないと自分の存在意義が確認できなくてグラグラするヤツだぜ? だから誰にも弱味を見せたくない。木更津の引き出し方が上手いんだ、アレは」

「ぷぷ、負け惜しみだーね」

「どうとでも云ってくれ。ってか、マジでオレすげぇ困ってるんだけど」

「だからなんだーね」

 本題に入る直前。部屋のドアが慮るように叩かれた。

「おう」

 柳沢が簡単に返事をする。ドアの向こうに立っていたのは、不二裕太だった。

「あの…赤澤部長こっちに居るって…」

 歯切れ悪く指名されて、赤澤は「オレ?」と後輩を見た。

「お客様です…。門のところで待って貰ってます」

「客だぁ〜」

 素っ頓狂な声を出して、時計を確認したのは柳沢のほうである。期末テストも終わり、あとは冬休みを待つだけの日々のため部活動もない。よって帰宅時間は早くなる。自室でまったりしていてもまだ十八時前だった。それでもそろそろ夕飯時の時刻、寮を訪れる客とは珍しい。柳沢が首を捻っていると、赤澤が立ち上がった。

「わかった。サンキューな裕太」

「あの…」

 物云いたげな後輩の態度も気になる。

「なあ、客って誰だーね」

 後輩に尋ねたつもりだったが、答えたのは苦い顔で振り返った赤澤だった。

「オレの悩みの原因」

 

 

 

 重い足取りで玄関を出ると、門に寄りかかるようにして立っている小柄な影があった。顔を確認するまでもなく、その制服を見てげんなりとする。十二月に入ったとはいえ、暖冬のためまだコートを着用するまでには至っていないのだが、それでも不必要に短いスカートから覗く足は見ているこっちのほうが寒くなる。赤澤が近づくと、彼女は表情を明るくした。

「赤澤くん、呼び出してごめんね」

「――はあ」

 喜色満面の少女とは反対に、赤澤の口調はどこまでも素っ気無い。と、云うより――困っている。

 彼女の名前は清川瑞希。名前の音がテニス部マネージャーと一緒な、近隣にある女子高の二年生であった。

 遡ること二週間前。繁華街で酔っ払いに絡まれていたところを、助けたというなんともベタで些細な出会いをした少女だ。赤澤にしてみれば、気が向いたので助けたというくらいのことでしかないのだが、そのことにえらく感激をした瑞希は、お礼がしたいと強引に腕を取った。食事を奢るからと店に連れ込まれた赤澤は逃げることもできずに、食事が終るまでの間、機関銃のごとく喋り続けた彼女に付き合ったのだ。根掘り葉掘と訊ねられ(マズイなあ〜)と、その好意に危惧した赤澤は『オレは中学生だよ。てんでガキだから、お姉さん』と、大概は驚いて興ざめする告白をした。しかし――それが返って逆効果だったらしい。童顔で可愛らしい容貌の少女は、日頃から幼い自分にコンプレックスを抱いていたらしく、そこを「お姉さん」扱いされたことで舞い上がってしまったのだ。殆どの質問をはぐらかすことに成功していた赤澤だが、学校名だけは中学生ということを主張するためにも喋ってしまっていたのが失敗だった。その日から幾度となく学院付近で待ち伏せをされ、逃げ回る日々を余儀なくされている。堂々と追いかけてくるものだから、隠しようもなく。学院では密かに『年上の彼女がいる』と噂まで出始めてしまった。
 噂の域を出ないのは、誰も赤澤に直接ことの真相を尋ねに来ないからだ。

「寮の場所、よくもまあ、わかりましたね」

 とうとう寮まで突き止められたことに辟易とする。これだけよそよそしい態度を表に出しているのだから、そろそろわかってくれてもよさそうなものだが、得てして恋は盲目と相場が決まっているようだ。

「うん、交番で聞いたら教えてくれたよ」

 あっけらかんと答えられて、赤澤は脱力した。

「そうですか…。で、なんの用です」

「あのね、赤澤くん。中学生で寮生だから携帯持ってないって云ってたじゃない」

「あー」

 なんとかも方便というヤツである。携帯番号やメルアドを執拗に聞かれたので、そう逃げたのだ。そら惚けていると、瑞希は持っていた小さい紙袋を「はい」と差し出す。胸に押し付けられたと思ったら、速攻手放されたので、落とすわけにも行かず咄嗟に受け止めてしまった。

「なに、コレ」

「プリペイド携帯」

「はいっ?」

「一応五千円分入ってるけど、なくなりそうになったら云ってね、買ってあげるから。期間は九十日間、着信だけだったらタダだよ」

「ちょっと、待って下さいよ。貰えません!」

「遠慮しないでよー。だって私が赤澤くんと繋がってたいんだもん。ほら、私バイトしてるし。けっこうお小遣いもあるんだ。使い方とかわからなければ、私が教えるし。かけるくらいはできるよね? 番号知ってるから、あとで一度かける。それで登録して」

 女性に一方的に捲くし立てられると、男は口を挟めずにうろたえてしまうものだ。赤澤も例に漏れず、予想意外の展開にあたふたと紙袋を返そうとした。

「貰えない。返します!」

 瑞希はさっと身を退いて距離を取る。

「あのね、本当に大したもんじゃないから気にしないで。私が連絡したいだけだから、年上だけどさ。赤澤くん年下に見えないし、すぐに高校生だし。大丈夫だよ!」

「何が…!」

 大丈夫なんだ! と、云う暇も与えてくれず瑞希は走り去ってしまった。追いかけようとしたところで、背後から声をかけられる。

「赤澤の趣味ってあーゆーのなんだ」

 ぎょっとして、玄関を見た。半分開かれた扉から、鈴なりになって寮生達が顔を覗かせている。その顔ぶれの中には、柳沢と裕太もいた。

「ちげぇ!」

 結局彼女には逃げられた挙句、皆の好奇な視線に晒された赤澤は、残された迷惑な代物を手に、途方に暮れてしまうのであった。

 

 

 

 騒ぎはもちろん、部屋にいた観月と木更津の耳にも入った。どこにでも余計なお世話が大好きな人間がいるもので、ドタドタと音を立て、ノックもせずに部屋に飛び込んできたのは同テニス部の野村だった。

「大変大変!」

「――ノックをしろと何度も云ってるでしょう、野村くん」

「そんなことよりもさ!」

 そんなこと、と一蹴された観月の表情が険しくなるも、空気を読むという能力が著しく欠如している野村は気にせず喋りだした。

「今、下に赤澤の彼女が来てたみたいなんだよ! しかも女子高生…! 凄くない? 尚且つプリペイド携帯貢がれてるんだよ!」

 同級生が年上の女性に貢がれる。部活ひと筋の純朴な中学生にとって、これほどセンセーショナルな事件は無かった。

「携帯ねえ。赤澤持ってるじゃん」

 紅茶を飲んでいた木更津が、おっとりと半畳を入れる。そういえば、と野村は首を傾げた。

「あ! 彼女専用ってヤツじゃないの? 料金も彼女もちみたいだから」

「立ち聞き、よくないよ」

 云い方からしても赤澤本人から訊いたわけではあるまい。呆れて咎めると、野村は決まり悪そうに弁解した。

「違うよー。門のところで大きな声で喋ってるから聞こえちゃったんだよ。大体、玄関口に五〜六人集まって外覗いてたからさ、気になるじゃん。別にわざわざ見学しに行ったわけじゃないよ〜」

「でも、わざわざ見学し続けたんでしょ」

 本来嫌味は観月の専売特許なのだが、今回は木更津のほうが容赦無かった。野村は首を竦める。

「だってさー。気になんじゃん。赤澤ってモテないはずはないのに、てんでそういう話しないヤツだしさ。ちょっと前から彼女がいるって噂は訊いてたんだけど、本人に確認しても逃げるしさー」

 そこから声が少しだけ小さくなった。「…秘密にされるのって、なんか信用されてない気がするよ」

「そう赤澤に云えばいいんだよ。別に信用がどうのこうのって話じゃないとは思うけどね。云う時は云うし、云わない時は頑として云わない男じゃないか」

「そうかもしれなけど…観月は? 同室だし、なんか聞いてない? 会ったことある? かなり可愛い子だったけど」

 あ、バカだな。と、木更津は墓穴を掘るのが大好きな野村に同情を覚える。案の定、侮蔑と軽蔑が入り混じる、氷点下の眼差しを向けられ、野村はたじろいでいた。

「どうして僕が、赤澤なんかの女関係を知ってなきゃいけないんですか?」

 冷気を耳に吹き込まれたかのように、野村は震え上がる。

「そ、そうですよねー」

「用件はそれだけですか」

「え…」

「用件はそれだけですか、と聞いているんです」

 いつにない迫力で睥睨され、野村の脳裏に掠めたのは新約聖書の一説。『蛇のごとく慧く 鳩のごとく素直になれ』だった。

「それだけです。失礼しました」

 心のままに回れ右。逃げるようにして、部屋を出ていった。その姿を見届けて、木更津は嘆息を漏らす。

(残されるオレの事も考えて行動してよ)

 簡易テーブルに頬杖をつくと、勉強机の椅子に座っている観月を仰ぎ見た。

「観月の悩みって、もしかしてコレ?」

「なんのことですか」

 返ってくる声は固い。ここで野村みたいに回れ右をすれば楽なのだろうが、一応友人として見捨てるわけにもいかない。

「さっきから聞いてた話の続きだよ。夏頃から様子がおかしいから」

「――そんなことありませんよ」

「ふうん。ま、そう云うならいいよ。赤澤の彼女か……今度紹介して貰おうかな」

「彼女じゃありません」

 速攻否定を口にする観月に、木更津は苦笑を漏らす。

「なんだ、知ってるんじゃない」

「赤澤がバカだからこんな面倒なことになるんですよ」

「面倒なことになってるんだ」

 復唱され、観月は困惑気味に双眸を揺らした。暫く考えこむと、どうでもよくなったのかヤケクソな口調で説明を始める。

「何週間前か、酔っ払いに絡まれている女性を助けてあげたんだそうです。そこですぐに別れればいいのに、食事を奢ると云われてホイホイついていったバカは学校名まで教えてしまって、それ以来待ち伏せされては捕まっているんですよ」

「はあ…一目惚れされちゃったわけか。赤澤らしいったららしいけど」

「本当にバカです! 会って迫られてもその気がないなら、ガツンと断ればいいのに、今に至るまでズルズルとっ」

「可愛いお姉さんだっていうし、赤澤も満更じゃないんじゃない?」

「知るか!」

 イライラと遮ると、観月は爪を噛んだ。その幼稚な悪癖に自分で気づくと、ばつ悪そうに手を開いたり閉じたりを繰り返す。

「三年のこの時期に何をしているんだか」

「そうだね。でも、赤澤ってアレで意外と勉強できるから」

「ヤマ勘のみで、試験を潜り抜けているんですよ。アレは」

「あははは! その才能欲しい〜」

「まいったなあ」

 またもやノックなしでドアが開かれた。ただでさえ虫の居所の悪い観月は、血管を浮かせる勢いで噛みつく。

「ノックしなさいといつも云っているでしょう! 鳥頭!」

「う…だって自分の部屋だもん」

「もん、とか云うなっ、気色悪い!」

 凄い剣幕で注意され、入室してきた赤澤は立ち往生してしまった。見かねて木更津が手招きをする。とりあえずドアを閉めさせないといけない。周囲の人間が聞き耳を立てているのは想像するまでもないからだ。

「野村から聞いたよ。彼女が来てたんだって?」

 赤澤は顔を顰めて、舌打ちをした。

「あいつ等。蜘蛛の子散らすようにいなくなったと思ったら…。彼女じゃねえよ」

「では、その手に持っている物はなんなんですか」

 冷ややかに観月が指摘する。赤澤はイタズラの見つかった子供のように情けない顔で正座をして、貰い物の小さな紙袋を膝の上に置いた。

「押し付けられちゃった」

「られちゃった、じゃないでしょう。あなた、携帯なら持っているじゃないですか。それともそちらは解約して、彼女のおごりで携帯を持つおつもりですか」

「…ってそこまでもうバレてんだ。野村め…」

「だまらっしゃい。それで、どうするおつもりなんですか?」

 ぴしゃり、と怒られて、赤澤は肩身を狭くしていく。

「もちろん返すよ。貰う筋合いねぇし」

 はあー、と大袈裟に観月は溜め息をついた。

「どうして、すぐにそうはっきり断らないんですか。困っているなら、意思表示なさい。彼女に対しても失礼ですよ」

「わかってるよう。でもさ、何度か『来られても困ります』って云ってるんだけど、じゃあ空いてる時間を教えてって切り替えされるんだぜ。すげぇポジティブ思考」

「幼稚園児よりコミュニケーション能力に劣る女ですね」

「きっついな、お前」

「これくらいはっきりと云ってやればいいんです」

「しかしなぁ。仮にも年上の女性相手に…。そもそも、お礼だからと云われたり、本当に恐かったから感謝していると縋られたりすると無下にも…」

「ええい、煮え切れない男ですね!」

「その通りです。ごめんなさい」

 とうとう土下座をした赤澤に、傍観していた木更津は(本当に女に対しても観月に対しても甘い男だよねえ)呆れ返った。

「まあまあ、浮気を責めるのもそれくらにして。三年目の浮気くらい大目に見ないと旦那さんへこんで元に戻らなくなっちゃうよ」

「人を悋気持ちの古女房みたく云うのはやめてください」

「自分で云っちゃってるし。大体観月は何に対して怒ってるのさ。赤澤が優柔不断なこと? それとも中学生の分際で高価な代物を貢がれたこと?」

「僕は…」

 そこで、傍と何でこんなに自分が怒っているのかを考えて、嫌な答えを出してしまったらしい。秀麗な顔を顰めると「…別に」と顔を背けた。

「あのよ。オレ、今度こそキッパリと断るから。大体、告白されたわけでもないのに、付き纏うなって云うのが憚れてただけだったんだ」

 木更津はなるほど、と納得する。

「そりゃ、なんて断っていいかわからないよね。ヘタすると自意識過剰みたいだし」

「そうそう、そうなんだよ。揶揄ってるだけかも知れねぇしさ」

「からかう〜? からかうだけで学生が携帯与えますか。年下の男に」

「はい。ですので、きっちり次回は必ず断ります」

「突っ返すなら早いほうがいいですよ。相手を呼び出す手段は、その携帯の他にあるんですか?」

「おう。最初に携帯番号書いたメモ用紙貰ってたからな。そっちにかけてみるよ」

「――それを後生大事に今まで持っていたわけですね」

「べ…別に大事にしていたわけじゃ…」

 ――本当に恋人同士の会話みたいなんだけどなあ。

 木更津は密かに視線を逸らした。直視しているとあてられて砂を吐きそうになってしまう。それほど赤澤は観月を甘やかしているし、独占欲を丸出しにされても当たり前と受け止めているように見えるのだ。観月にしても、これほどまでに執着を見せるのは赤澤に対してだけである。

(前はそれでもこれ程じゃなかったと思うんだけど。やっぱ夏休みが終ってから妙に甘ったるくなってるよな)

 気にはなるのだが、ただ同性の友人に、『親友』の定義や、自分と赤澤に対しての友情の違いなど、恥ずかしい質問をするつもりは毛頭ない。

(オレだって慎也と観月に対しての友情の違いなんて聞かれて困るしね。やっぱ『ともだち』って云っても相手が違えば形も違ってくるもんだし)

 木更津はとりあえず、その疑問を置いた。形は違えども等しい対応として、友人が困っていると云うなら力になろう。

「ねえ、もっと簡単に断れる方法あるよ」

「マジ?」

「マジ」

 すぐに赤澤が話しに飛びついた。あまりに素直に喜ばれたので、こういうところが憎めないんだよな。と、よくよく問題を起こす男を見つめなおして、改めて得な性分の持ち主だと実感した。

 

 


「先輩達なにか企んでるっぽくね?」

 裕太がぶすくれた顔で、友人であり、頼れる現テニス部部長でもある金田一郎に愚痴を漏らす。

「企んでいる…って、なにをだよ」

「今日さクリスマスのミサが終わったあと、希望者募ってのキャロリングがあるじゃん」

「うん。毎年恒例だよね」

「――観月さんが参加してないっていうんだ」

「え…そうなの? 確か二年連続で参加してたよな」

「そうだよ。んで、寮でもクリスマスパーティーが開かれるからさ、毎年皆が学校から速攻帰って準備を始めるんだけど…遅れるって云うんだよ。赤澤先輩も観月さんも、木更津先輩や柳沢先輩まで」

「へえー。なんだろうね」

「だから、なんか企んでるんだよ。絶対…オレ達に内緒で」

「オレに内緒で、の間違いだろう」

「金田〜!」

「よしよし、仲間外れにされて寂しかったんだな」

「ちげーよ!」

 図星をさされて、裕太は頬を赤く染めた。尖る姿も憎めない友人に苦笑すると、金田は持っていた情報を教える。

「先輩達なら、駅に向かっていくのを見たよ」

「え、本当かよ」

「そもそも、ちょっと小耳に挟んでたんだけど、女子の先輩と待ち合わせてるんだって。だからあとをつけるなんて野暮はしなかったけど」

「女子の先輩〜?」

「女子バスケのキャプテン。長身の迫力美人」

「ああ…」

 記憶の底からバスケ部キャプテンの姿を捜し当てると、裕太は眉を顰め「なんで?」と聞く。「さあ?」金田は肩を竦めた。

 

 


 

 駅前で改めて待ち合わせた赤澤達一同は、少しだけ遅れてやってきた同級生を頭の下がる思いで迎えた。

「悪いな、七瀬」

「いいよ、別に。恩を売るのは大好きだし」

 観月よりも背の高い女子バスケ部のキャプテンは、大らかに笑うと胸を叩く。赤澤は、(高く付きそうだなあ〜)と乾いた笑みを漏らした。

 木更津が提案した計画とはズバリ、古典的で確実な方法だった。
 要は付き合っている彼女がいるのだと、相手に知らしめればいいのである。これならば相手の告白を待つまでもなく、牽制できるというものだ。問題は赤澤の彼女役である。相手が童顔の可愛らしいタイプであることを考慮して、ならば反対に大人っぽいタイプを当てようという事になった。そして白羽の矢が当たったのが、さっぱりとした気性に男勝りの七瀬だった。

「だけど、七瀬さん。制服はどうしたんですか?」

 私服姿で現れた女生徒に、観月が首を傾げる。今日は土曜日なので普通なら休日なのだが、ルドルフではクリスマスミサが行われたため全員制服着用で登校が義務付けられていたのだ。学校で別れたときには制服姿だったので、純粋な疑問だった。

「このあと、クラスの子等とカラオケ行くんだよ。だから着替えたの。制服はこっち」

 持っていたスポーツバッグを掲げる。模範学生の観月は、眉を曇らせた。

「許してよ、観月くん。しっかり赤澤の彼女役すっからさ」

 反感を持たれたと気づいた七瀬が、すかさず片手で拝むように謝る。観月は口煩くするのを控えた。制服姿よりも、私服姿のほうが大人っぽく、赤澤の隣に立つとしっくりくるのを認めたからだ。

「赤澤、ちゃんと返す携帯一式は持って来た?」

「おう。昨日から観月に散々云われたからな」

 木更津に最終確認をされて、バッグの中から小さな紙袋を出して見せる。

「だけどさ〜、赤澤も隅に置けないよねえ。女子高生に貢がれる中学生なんてさ」

「うるせえな。好きでそうなったわけじゃねぇ」

 揶揄する七瀬に、赤澤はむっつりとした。部長会などで交友のある二人の、親しみ深い態度に観月は(お似合いですよ…ね)と、知らず目を逸らす。己の中に生まれたもやもやとした感情を、苦々しくも持て余した。

「早く待ち合わせ場所に移動するだーね。さっさと決着つけて寮のクリスマス準備に取り掛かるだーね」

 焦れたように柳沢が急かす。

「ねえ、あんた達もこのあとカラオケ来ない? 女の子だらけだよ」

「遠慮しとくだーね。大勢の女のいる場所なんて、笑われに行くようなもんだ」

「そうかな、テニス部人気あるけどね。まあ、強制はしないよ。さて、相手のオバサンってどこ?」

 女は女に対して容赦がない。少年たちのほうが焦って、周囲を見回してしまった。駅前は、クリスマスのイルミネーションで煌びやかだ。待ち合わせ場所に指定してある時計台の下に、瑞希はいた。人混みの中で、見え隠れする。クリーム色のマフラーをしている娘だと教えると、興味深気に女を値踏みした七瀬の顔が強張る。

「…え…ちょっと待ってよ。あのヒトS女の清川さんじゃない?」

「知り合い?」

 木更津が問うた。

「知り合いっていうか…私が進学希望してる高校の…しかもバスケ部のマネージャーだよ。あのひと…」

「え!」

 これには一同が驚く。木更津は更に問うた。

「七瀬さん、外部受験すんの?」

「うん、そこバスケが強いんだよ。私、強いとこで頑張ってみたいの。何度か見学に行ってるから顔知ってんだけど…あのひと確かまだ二年だよね」

「ああ」

 赤澤が頷き肯定すると、七瀬は絶望的な顔をした。

「ごめん! 私ムリだわ。顔覚えられたり、逆恨みされたりしたら高校生活が恐いことになっちゃうよ。女子の嫉妬と運動部の上下関係って男子よりもエグいんだ」

 心底すまなそうに頭を下げられ、赤澤は慌てる。

「ごめんって…っ」

「清川さん。学校見学しに行った時何度か話したけど、いい人だよ? 赤澤、今付き合ってる子いないなら考えてみれば?」

 引き攣った笑いを浮べながら、そう辞去しようとする七瀬を男性陣はなんともいえない顔で見た。こうなっては無理強いもできない。

「――どうする?」

 木更津が誰ともなしに聞いた。

「どうしましょう」

 情けない声で鸚鵡返しすると、赤澤は肩を落とした。

 

 


 

 瑞希は何度も携帯画面を確認しながら、相手を待った。
 待ち合わせの時間から十五分過ぎている。時間にルーズな男は嫌いだ。そう、今まで頑なに思っていた。しかし、相手が赤澤ならばそれも許せる。それほどの魅力が彼にはあった。友人達が彼氏自慢する中。いつも自分は蚊帳の外だった。カッコイイ彼、優しい彼。携帯に映る二人のツーショットを見せられては、大したことない。と内心バカにしていたが、それは自分を追い詰めるに等しい。見せられた男以上にカッコイイ彼氏、自分のいうこと聞いてくれる優しい彼氏を――自分は得なければいけないからだ。

 赤澤に助けられた時、あまりに理想的な出会いにこれは運命なのだと確信した。年下というのが、少々ネックだとは思ったが、あと数ヶ月もすれば高校生だ。それに自分と同世代の男子と見比べても遜色が無いどころか上をいく。酔っ払った男から身を呈して守ってくれた度胸も、その長身に蓄えられた筋肉も、全てが瑞希の理想といって良かった。

 出逢えたからには、あとは行動あるのみ。あちらは中学生ということもあり、深く女性と付き合ったこともないに違いない。ならば自分が主導権を握り導かねば、向こうからアピールしてくる確率は少ないだろう。本音を云えば、あちらから積極的に求められたい。だが、ここは年上の自分がリードすべきなのだ。

 最初はよそよそしい態度だった彼だが、今回初めて連絡をくれ、会いたいと云ってくれた。クリスマスイヴという恋人達にとって最大のイベント日にだ。今日こそ、真実互いの気持ちを確かめ合うのだ、と瑞希の胸は高鳴った。携帯をもう一度確認し、再度周囲を見渡し――そこで長身の青年がこちらに向かってくるのを見つける。嬉しさが緊張を上回り、少しだけ気が抜けた。

「―――あ」

 赤澤くん…、そう声に出そうとして、止まる。

「遅れてすみません」

 申し訳なさそうに頭を下げながら、近寄ってきた彼の腕には、別の女の腕が絡んでいたからだ。そこに注意がいってしまい、返答が遅れた。

「え……あの……?」

 戸惑いを隠せない。彼の顔と、腕。何度も往復し、ようやっとその絡んだ腕の先に目を向けた。

 彼と同じ制服を着た女生徒が、白々とした顔でこちらを睨んでいる。白皙の肌。整った小さい顔を覆う、癖のついた黒髪。大きな瞳、長い睫、つやつやとした唇。凛とした表情に相応しく、どこもすれたところの無い美しさは、瑞希が初めて目の当たりにする類のものだった。

「こっちから呼び出したのに遅れちまって、本当にすみません。けっこう待ちましたか?」

「いや…それは…いいんだけど……」

「良かった。今日、会いたかったのはさ、これ」

 と、プレゼントした時と同じ状態の紙袋を差し出される。

「悪いんだけどさ。こんな高価な物貰う理由ないし。返します」

「え?」

 彼の隣にいる少女に気を取られていて、あっさりと受け取ってしまった。開かれてもいない物に気づき、途端体の芯がかーっと熱くなる。

「な、なんでよ!」

「なんでって…普通理由もなく貰えないよ。この間はうっかり受け取っちゃったけどさ。どうせなら彼氏にあげたほうがいいよ」

「そんな…!」

 相手の云わんとすることがわかり、瑞希は悔しさと恥ずかしさに血が上った。

 ――彼氏だから、あげたのよっ!

 そう云いたいのに、相変わらず腕を組んでいる少女が、炎のような視線を寄越すので声にできずに詰まる。

「その子…なに?」

 とりあえず、そこから訊ねるのが精一杯だった。

「ああ」と、赤澤は隣の少女に目を向けた。刹那、優しくゆるまったのに気づいてしまい、益々嫌な気持ちになる。

「クラスメイトで…その…付き合っているというか……」

 真冬に冷や水をかけられたような衝撃を受けた。嘘だ、そう頭の中で繰り返す。

「な…そんな、今まで彼女の影なんか無かったじゃない…っ。嘘でしょうっ!」

「――思い込みの激しいひとですね」

 鋭い声が差し込まれた。ハスキーな声の主は、我が物顔で赤澤の腕を取っている少女だ。

「一度でも、彼があなたに対して付き合いたいなんて云いましたか? 彼女がいるかどうかをあなたは聞きましたか? 勝手に思い込んで迫ってたのはあなたのほうでしょう」

「な!」

 激高した自分から守るように、彼は「みづき…」と少女を諌める。

「みづき?」

「…ああ、同じ名前なんだ。だから、最初に聞いた時からちょっと放っておけなかった。瑞希さんを助けられて、良かったと今でも思ってるよ。だけど、それは当たり前のことだ。困っている女性を見つけたらオレは誰だって助ける。だから、瑞希さんが気にしてこんな高価な物をオレにくれることは無いんだ」

 ――自分だけじゃない。誰にでも。

 はっきり、勘違いするなと突きつけられた気がして、悔しさと情けなさに、目の前が真っ赤になる。

「なによ…なによ、それ! 酷い!」

「酷いって……」

 赤澤は困ったような顔をした。隣の少女は、剣呑な様子を隠そうともしない。

「酷い酷い! あたしを玩んで!」

「も…もて? え、ちょっと」

 持っていた鞄と紙袋で、赤澤を何度も殴りつける。赤澤は、少女を後ろに隠すように体勢を移動した。

 自然に少女を守ろうとする動作が、なおも怒りに拍車をかける。

「そんな女よりあたしのほうがいいじゃない!」

 勢いよく振り上げたところで――その手を掴まれた。

 


 

 一方、なりゆきとはいえ、女装した挙句に赤澤の彼女役を押し付けられた観月は、元々の苛立ちも手伝って堪忍袋の緒が切れる寸前だった。

 彼女役のドタキャンのおかげで、途方に暮れた一同に、七瀬が「私の制服、観月くんか木更津くんなら着れるんじゃない?」と提案をしたことに端を発し。確かに今から別の女生徒を連れてくるには時間がないし、新しい案を出して実行する時間もないし、と――。
 木更津と観月の間で、押し付け合いの悶着があったものの、結局赤澤が「オレがきっぱり云ってくれば済むことだよな」と力を落としてがっくりと向かおうとした。そこを思わず引き止めてしまったのが観月だった。

 嫌々ながらも引き受けたのには、貰い物をつき返し、彼女持ちということがわかれば、すぐに諦めて帰るだろうと踏んでいたからだ。女装など羞恥極まりない格好で、駅前に居るのもたかだか数分。終わり次第、赤澤に右ストレートかまして立ち去る予定だった…のだが、予想は見事に外れ、しまいには暴力をふるい出した女子高生に呆気に取られる。

(なんなんだ! この頭の悪い女はっ!)

 赤澤の背に守られるようにしている観月だが、この男のことだ。自分が瑞希とかいう女に対して手を上げることも危惧しての所作に違いない。観月とて、女性に対して暴力をふるうほど愚かではない。しかし――、

(今、僕はとりあえず女としての位置にいるわけだし、一発くらいやり返してもいいんじゃないか?)

 不穏な考えが頭を過ぎる。もちろん、手加減はするつもりだ。

(……まあ、反撃はさておき、ガツンと云ってやるべきだ。黙って殴られる赤澤はお人よし過ぎる)

 ここは自分が、と赤澤の前に出ようとした。丁度、瑞希が渾身の張り手を赤澤にお見舞いしようと、手をふり上げた時だった。

 その手を背後から掴んで止めた者がいた。不幸にも観月はばっちり相手と目が合ってしまう。

「こんな往来で、女性が暴力をふるうものじゃない」

 低く、渋い声音。瑞希は頭一個分高いところにある顔を見上げて、ぽかんと口を開けて魅入った。

「て…づか」

 驚いたのは何も瑞希だけではない。赤澤も目を丸くして、突然現れた男の名を呼んだ。青学テニス部元部長が、私服姿で立っていたのだ。

「なんで、お前こんな所に?」

「不二に誘われてな」

「不二…?」

 このような見るからに異常な状況の中でも几帳面に答えると、手塚は空いている方の手で背後を示す。少し離れた場所で、不二周助が躰を折り曲げて震えているのが見えた。その隣では、同じく青学の菊丸と大石が困惑した様子で立ち尽くしている。観月は瞬時に身を固くし赤澤を盾に隠れたが、不二の抱腹絶倒ぶりからすれば、とっくにバレているのは考えるまでもなかった。

「聖ルドフル高等部では、賛美歌のコンサートが毎年開かれていると聞いてな。一度、聞いてみたいと、不二が……」

「え…ああ、そうか。そうだな…」

 中等部と高等部が併設されている聖ルドルフだが、教会はひとつしか建立されていないので、昼は中等部、夜は高等部のミサが開かれている。

 ――つーか弟を攫いに来たんじゃねぇのかな。

 そうは思ったが、口に出すほど赤澤は考えなしではない。

「ところで、こんな街中でなんの騒ぎだ?」

「え、いや……」

 優等生らしく愁眉を曇らせた手塚だが、どうやら観月の女装には気づいていないようだった。

「あの……」

 瑞希がおそるおそると声を出す。手塚は「ああ、すまない」と手を離した。

 そんなやりとりの間も観月は気が気でない。まさかこんな格好をしている姿を他校生に、しかも天敵に目撃されるなんて今すぐ消えてしまいたいほどに恥ずかしい。この場で自分を助けられるのは位置的に赤澤だけだが、この男にそのような機転を求めるのは愚の骨頂だ。自分の身は自分で守るしかないと、逃げ出す算段を高速で考えた。

 ちらりと天敵の動向を窺う。離れた所で、躰をくの字に折り曲げてまで笑っていた不二が、ふいに体勢を立て直すと、隣の菊丸にひそひそと耳打ちを始めた。何かを相談したらしく、菊丸はしばし首を捻り、不二を上から下まで見たあとに頷く。それを得て、不二は――ニタリ、と笑ったような気が観月はした。ぞくりと背筋が凍る。
 駆け足で、近くの店を広げていた露店を覗き込み、何かを急ぎ買うとそれを付けて戻ってきた。そして―――

「―――赤澤くん…その子達、なに?」

「へ……?」

 普段より1オクターブ高い声を出した不二は、見事な演技で近寄って来る。

「その子達なんなの! 私というものがありながら!」

「はい〜?」

 赤澤の顔が引き攣った。

 新たなる登場人物に、瑞希は絶句する。

「私と…いうもの……?」

 今度はせわしく、不二と赤澤の間を視線が行ったりきたり。

「今日は私とデートの約束したじゃない!」

「で…デート……」

 そうきたか、と観月は眩暈がした。現在の不二は、渋い小豆色のコートに黒いマフラー、そしてジーンズといった男とも女とも取れるいでたちだ。元々中性的な顔立ちに加え、露店で購入した蝶の形のヘアピアスをしている。

「不二…お前は一体何を…。ぐっ!」

 手塚が訊いた瞬間、不二が肘鉄を横腹に入れ、押し退けた。哀れ手塚は腰を折って、うめく。

「さっさとその女から離れてくれない」

 鋭い眼光の中に、嘲笑を含ませ観月に飛ばす。売られた喧嘩は買わねば、矜持が許さない。観月はずいっと前に出た。

「何がその子ですか! いきなり現れて図々しい! 恥ずかしくないんですかっ?」

「恥ずかしい? それはこっちの台詞。さっさと赤澤くんから離れてよ」

「何故に離れなければいけないんですか! 彼はこれからぼ…私と一緒に過ごすんです!」

「赤澤くん! そんな意地悪そうな顔の女なんか興味ないわよね? 騙されているのよね?」

「お前のほうが恐い顔しているだろうが!」

「どの面下げて、この私より容姿が上だと云ってるのかな?」

「よくもまあ、恥ずかしげもなく自画自賛できますね。ケンソンとかケンキョとか母親の腹の中に置いていった挙句に、弟に全部取られたんじゃないですか?」

「きみにだけは云われたくないなあ〜。そんなケンソンとケンキョの固まりの、純真な弟をあの手この手で篭絡しておいて」

「篭絡! あなたから逃げたがってた彼の手助けをしてあげただけです。お礼のひとつでも頂きたいくらいですよ」

「こんなあっちこっちにイイ顔する浮気モノがいいわけ? 赤澤くん」

 右腕を掴んで、不二は躰を密着させる。

「えーあーうー」

「なんですか、その煮え切れない態度は! お前の彼女はわたしだろうが!」

 対抗した観月は左腕を掴んで引き寄せた。

「あのーそのー」

「赤澤くん!」

「赤澤!」

 左右からスピーカーで名前を呼ばれて、赤澤は天を仰ぐ。

「――――さ…三股……三股かけられてたのあたし……」

 今度は目の前にいた瑞希が、戦慄き始めた。

「酷い…女の純情を踏み躙って…! 運命だと信じてたのに!」

 わっと泣き始めた瑞希に、女の涙なんて1グラムも信じてない観月が白眼視する。

「付き合っても、口説かれてもいないくせに何が三股ですか! 妄想癖も大概になさい!」

「そうそう、あなたなんて入る隙間ないんだから、さっさといなくなりなさいよ」

 とりあえず展開を見ていた不二が、当てずっぽうで加勢した。

「な! なにさ、ブス! そんな男なんかくれてやるわよ! あたしにはもっと相応しい人がいるんだから!」

 性格にもよるが、人は興奮すると著しくボギャブラリーが貧困となる。小学生並の罵声に、観月と不二が目を見合わせた。次いで、暴言を吐いた女に対し凄艶なまでの笑みを向ける。こんな時だけ息の合う二人は、声を揃えて、

「「ブス? 誰が?」」

 と、胸を張った。瑞希はうっと、詰まる。しつこく容姿攻撃するには、二人共美形過ぎた。悔しさに、攻撃目標をまた赤澤に戻す。

「少しばかりモテルからってバッカじゃないの! どうせ病気持ちなんでしょ! サイテー。移される前でよかったわ!」

 吐き捨てて、踵を返した。肩を怒らせながら、足早に去っていく。

「びょ…病気…病気ってなんの病気かな……。風邪かな……」

 遠くを見つめた赤澤は、瑞希の退場なんのそのと、勝手に人を挟んでヒートアップしていく犬猿の二人に辟易とした。

「大体なんなんですか、あなたは! 関係のない話に首突っ込んで、女の振りまでして恥知らずな!」

「恥知らず〜? きみのそのステキな格好で、男と腕組しながら街中を歩くほうがよっぽど度胸がいると思うけどね。僕より」

「そ…それは! このバカが!」

「赤澤くんのためなら女装もいいのかい? 健気だねえ。ああ、もしかして本当に彼女で、それをカミングアウトしている最中だったの? だったら余計なことをしてしまったね」

「――――っ!」

 元より余裕のない観月VS余裕しゃくしゃくの不二である。一連の騒動で衆目を集め始めていたこともあり、観月のほうが圧倒的に分が悪かった。顔を真っ赤にして、唇を噛む。

 それまで、展開の早さに入っていけず見守ってしまっていた手塚が「不二、いい加減にしないか」と嗜めた。遠くでは、やはり口も挟めないでいる黄金コンビがオロオロと居る。

「不二ってさ〜、本当に観月イジメが好きだにゃ〜」

「ああ、あそこまで怒らせるヤツは青学にいないからな。触らぬなんとかに祟り無し、だ」

「普段女に間違われたら、すんげー怒るくせにね〜」

「よほど弟を取られた挙句、それまで自分のいた位置に観月が居るのが気に食わないんだろうなあ」

「―――そこ、コソコソ喋るならもうちょっと小さな声でしてくれないかい」

 思いっきり聞こえてるんだけど…と、不二が青筋を立てて、批難した。菊丸と大石は互いの口を、互いの手で塞ぐ。

「待たせてしまっててごめんね、手塚。……でも、今更だけどさっきの女性なんだったの?」

 最後の台詞は赤澤に向かって発したものだ。

 赤澤は云い負かされた悔しさに打ち震える観月を横目に、長嘆した。

「――近頃付き纏われててよ。困ってたところ、彼女のふりして助けてくれるっていう子がいたんだけど、ドタンバになってある事情でできなくなったんだ。そこで、オレが土下座してピンチヒッターを観月に頼んだんだよ…。だから―――」

 あまり虐めてくれるなよ。と、暗に訴える。へこんだ観月を元に戻すのも大変だが、戻った後に八つ当たりの対象になるのは自分なのだ。

 察した不二は、一笑に付す。

「そうか、大変だったんだね。でも、良かったじゃんない、観月で。そんじょそこらのお嬢さんに負けないくらい美人だし、ねえ手塚」

「は? まあ…、しかし女生徒の服……寒くないのか?」

 唐突に話を振られた手塚は困った。正直、これが青学テニス部だったら「くだらない」と一刀両断するところである。だが、さすがに諸事情を慮り、手塚なりに気を遣った。不二が観月に対して、執拗に攻撃的であるのを鈍いながらも察した結果でもある。
 考えあぐね、とりあえず目に入った素足のことを指摘したのだが、まずかったらしい。観月は、さっとまた赤澤の後ろに隠れてしまった。

「ぱっと見て全然男だってわからないんだから、堂々としてればいいのに」

 そして不二は嬉々として追い討ちをかける。

(仕方ねぇなあ――)

 赤澤は前に出て、不二の髪の毛に触れた。突然のことで、不二は避けることもせずにきょとんと赤澤を見る。

「髪飾りひとつで、ここまで女に見えるお前も凄いと思うぜ」

「……凄い?」

「キレイだってこと」

 にっこりと至近距離で笑まれて、不二はたじろいだ。

「さっき云ってたじゃん。観月とお前、どっちがキレイでどっちを選ぶのかって」

「あれは……」

 口説かれるがごとく甘い声音を耳元に吹き込まれ、不二は嫌な予感にじりじりと後ずさる。わざと女のように扱われているのに気づき顔を顰めた。逃げようと身を捩ったが、一歩遅く……

「オレはお前のほうが好みだぜ?」

 ――と、口づけられた。

「――――っ」

「…!」

 真冬の落雷。それほどの衝撃を、目撃してしまった全員が受ける。

 赤澤が顔を近づけていたのは、時間にすればほんの1、2秒に過ぎなかったのだが、目撃者にとっては長い時間に感じられた。

 不二は信じられないといった態で、硬直している。

 赤澤はさっさと離れると、にんまりと口端を上げて

「なんてな〜。あんまり可愛気ないケンカふっかけるなよ」と、おどけた。

 そして皆の金縛りが解ける前に、やはり固まっている観月を抱えるようにして逃げていった。

「あ…赤澤……っ」

 相手のとんでもない意趣返しに顔面を引き攣らせ、脱力した刹那。弟が顔面蒼白で登場した。

「兄貴……兄貴と赤澤さんって……」

 ハッとして振り返れば、裕太が驚愕に震えて立っているではないか。様子からして先ほどの場面を目撃され、誤解をうけたのは必至。弟の後ろには、同じく呆然としている木更津、柳沢に金田がこちらを見ていた。

 不二は己の軽率な行動を後悔する。クリスマスに我が家へ弟を連れ帰るという計画は、実行の前に暗礁に乗り上げてしまったのだ。

「兄貴…公衆の面前で男取り合って不潔だーっ!」

「ご、誤解だよ! 裕太―っ!」

「しかも振られた――っ!」

「だから誤解だと云ってるだろうがっ!」

 大石と菊丸は他人のふりしてこのまま帰るか、本気で悩んだ。

 

 


 

「まずは着替えだな。さっきはトイレで着替えたけど、女の格好で男子トイレに入るのはなあ〜。いっそ学校行くか?」

 逃走する最中に、木更津の手から着替えの入っている紙袋をぬかりなく奪ってきた赤澤は、それをブラブラと揺らして頭を捻る。

「学校だったら、今時間教会以外はひと気ねえだろうし。教室でもトイレでも、着くまでオレが盾になってやれっからよ」

 それが一番か……、赤澤はひとり頷くと、握っていた手を引いた。

「聞いてるか? 観月」

「―――………」

 返答はなく、変わりに胡乱な表情を向けられる。

「信じられない……」

「何がだよ」

「よくも…まあ、不二に―――」

「ああ? あれか。だってさー、さすがにちょっとヤリ過ぎだと思ったんだよ。不二も、青学じゃ猫被ってんのに、お前の前だと途端、楽しそうに猫脱ぎ捨てるからさ。久し振りで加減ができなかったんだろうけど……それでもおちょくりすぎ。すげぇ気に入られてるなあ〜観月」

「気に…? どこをどう見れば、そんな能天気な回答が出てくるのかわからないんですけど」

「気に入ってんだろう。不二は本気で嫌っている相手なら、当り障りなく相手するタイプだと思うぜ。それこそニコニコ笑ってな。お前と似てる」

「似てません!」

「同族嫌悪ってヤツか?」

「ブチ殺しますよ」

「聖なる日に、物騒なことを云うのは止めてくださいよ」

「聖なる日? イエスがいつ産まれたのかなんてわかっていないじゃないですか。聖書ではイエスの誕生を祝いに来た羊飼い達が野宿をしていると書いてあるので、冬ではなかっただろうと云われてたりするんですよ。そもそもクリスマスツリーも他宗教の影響によるもので、聖書に忠実でありたいと考えるキリスト教徒の中には『異教的だ』と祝わないひともいるくらいです」

「んー、オレが云いたいのはそういうことじゃなくてよ」

「なんです」

「クリスマスってだけで、楽しい気分になって、家族を大切にしたり、恋人を大切にしたりするじゃん。優しい気持ちになれる日ってだけでも、凄いことだと思うぜ」

 はにかんだ顔で覗き込まれ、観月は不満そうに顔を逸らす。

「全員が全員…そうだとは限りません」

「怒るなよ〜。お前を巻き込んですまなかった。不二達に出くわす嵌めにもなっちまうし…本当に今日は悪かったって」

「不二が…不二くんがいきなり現れたのは、何もあなたのせいじゃない。その辺は怒ってません」

 …運が悪かったとは思ってますけど――。不貞腐れて答える観月は、ぶらぶらと繋いでいた手を揺らした。

「じゃあ、やっぱ瑞希さんのことで怒ってるのか」

「あれも…悪いのはあっちじゃないですか。殴られてないで、殴り返せばよかったんですよ」

「んなことできるか」

「誰にでもいい顔するから今回みたいなことになるんです!」

「う…っ。そこは…反省シテマス」

「それに―――」

「うん?」

 会話をしながらも、いつの間にか学院付近まで戻っており、人気の無い裏門でピタリと足を止める。観月は真剣な面持ちで、赤澤を見上げてきた。

「不二くんの顔のほうが好みですか?」

「―――へ?」

「―――別にいいんですけど」

 何が『別に』で何が『いい』んだろうか。赤澤は困惑し、相手の様子を伺う。観月も混乱していた。自分でもわけのわからない問いかけをしたと、自覚はあった。

 赤澤は一考を要する。

「えーと…怒るなよ? オレはお前の顔のほうが好みだよ。男でも女でも、どっち選べって云われたら、観月選ぶ」

 慎重に言葉を捜す。これで「今ままでそんな目で僕を見てたんですか? 変態ですね」と軽蔑されては堪らないと思ったのだ。恐々と、俯いている観月の顔を覗き込めば、ふいに首元に手を回されて引き寄せられた。

 ほんの一瞬だが、柔らかいものが唇に当たる。

 即、離れると、頬をリンゴのように紅潮させた観月が、やはり不本意そうに呟いた。

「――ちょっと、悔しかったんです」

 赤澤の手を離すと、校舎へと歩調を速める。耳まで赤かった。赤澤は駆け寄ったりせずに、あえて数歩離れてあとに続く。

(――不二と、キスしてなかったって云えなくなっちまったなあ)

 キスといえばそうなのだが、口端の――頬に、そう見えるようにしたのであって、唇ではない。

 

 遠く、教会から聖歌『驚くばかりの(アメイジンググレイス)』が流れてきて、二人の間を緩やかに満たした。

 

 

 


















 2月にあったルドルフオンリーで出したコピー本です。
本当は冬コミで出すはずだったのでクリマスネタでした。
2月にクリスマス本を出すとは、とんだ年中浮かれ野郎ですね。
当時は「いや、これ季節先取りだから」と云い張ってました。
 どうでもいいですが、不二VS観月が好きなようです。






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