ああ 夢のような夏
 ぼくらは大人になる日をまだ知らずにいた

 ああ 遠い遠い夏
 あの頃のぼくらが確かに今 ここにいるよ

 ああ夢のような夏
 校舎の外には希望しかなかった
 
 希望しかなかった





 オールディーズ







 

 

 赤澤が異変を感じたのは一ヶ月も前だった。

 胃のあたりがしくしくと痛む。食欲も目に見えて激減していた。
 躰がだるく、動きずらい。

 わかってはいたが仕事が多忙を極めていた時期だったので、後回しにしてしまっていた。
 正直、夏も真っ盛りの時期だったので、夏バテでもしたのかな、ぐらいにしか思っていなかった。
 就職して七年。それなりに重要な仕事を任されていることもあり、優先順位を問われれば、やはり迷惑をかけることができないために、仕事と答えるだろう。
 なによりも好んで入社した会社だし、やりがいだって感じている。
 だが忙しさのために、中々体を動かす機会がなくなってしまっていたので、体力低下だけが悩みだった。ジムにでも通うかな、と思っていた矢先のことである。
 やはり三十も近くなれば、ガタがくるものか、などと楽観視していた。

 ―――間違いだと気づいたのは病院に行き、何度も検査を受けさせられた時からだった。

 時間をなんとか作って、通うこと一ヶ月と半分。四回目の通院で、嫌に真面目な顔をした医師と対峙した。
 それでも、やはり赤澤には他人事のような世界で、ただ何度もレントゲンを貼りなおし位置を気にする医師を見ていた。
 ゆっくりと、レントゲンに視線を移す。素人が見たからといってわかるものではない。嫌々ながら胃カメラも飲んだが、その時に腫瘍があると教えられ、一部を切除されていた。他に多種多様な検査ばかりを受けさせられている。その度に結果報告があるのかと思いきや、ただ次の検査についての説明を受けるだけだった。
 それを病理検査に出すのだと言われて、二週間。

「―――結果ですが……」

「はい」

「ご家族の方にお話しはされてますか?」

 迂遠な言い回しに、赤澤の眉が跳ねる。
 四十代半ばの医師を睨むように見れば、そっと肩を落とされた。

「――オレは独り身なので、全ての結果を負うのもオレしかいません。本当のことを仰って頂いて結構です」
「そうですか…。正直な話をしましょう。一度、入院してください。もっと詳しく検査をさせて頂きたいのです」
「―――………悪かったってことですか?」

 以外と冷静な声が出たことに、驚いた。病室の白い壁がいやに眩しく感じられる。

「胃から摘出した腫瘍に癌細胞が発見されました。進行性です。他にも転移している可能性が…あります」
「…………」

 言葉に詰まった。なんて言っていいのかわからなかったのだ。何を聞けばよいのか。なんと答えればよいのか。
 普段なら働く思考能力がいやに鈍かった。

「それは…その…助からないってことですか?」

 我ながら間抜けな台詞だと思ったが、他に聞くべきことが無い。

「検査結果が出なければ、詳しくはお答えできませんが。手術さえできれば…摘出さえできれば…」

 ゆっくりと医師が説明を細かくしてゆく。聞いたことのない単語の羅列は、ただの呪文のように赤澤の耳に聞こえた。

 生返事に近い承諾を繰り返し、入院手続きの予定を入れるために場所を移動した。
 全てを事務的にこなし、外に出れば射すような日差しが頭上から降り注ぐ。
 遠くから、近くから、蝉の音だけがいやにザワザワと木霊した。

 ふと、時計を見れば正午を過ぎており、途端感覚が戻ってくる。最初に思ったのは『会社に説明をせねば』だった。
 とにかく社に戻り、有給を取って入院準備をしなければならない。今、担当している仕事の全てを、頭の中でざっと並べて、すべき順に並べていく。

 大きな歩調で、駅へと向かった。
 嫌に蒸し暑い日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 検査入院をすることは会社にのみ報告して、家族や友人には長期出張と偽った。
 ヘタに不安にさせたくなかったこともあったが、自分の中での整理が何もついていない状態で、あれこれ聞かれることが疎ましかったのだ。最初に上司に報告した時に、嫌というほど詮索をされてしまったことで、大分懲りた。
 恋人のとり澄ました顔を思い出せば、深い部分が痛んだが、やはり気丈に見えて実は脆い彼を、無闇に心配させたくなかったこともある。

 検査入院は実に一週間も続いた。さすがに後半に入れば辟易とする。

 だからといって体調が急激に悪くなるというものではなく、癌細胞が発見されたのは何かの間違いなんじゃないか、と疑う事さえあった。

 誰にも伝えていないのだから、無論病室では一人だ。基本的にアウトドアの人間なので、入院生活は酷く鬱屈したもであった。

 珍しくも文庫を読み漁る日々。数日前まではそれこそ朝から晩まで働いていた身だ。何かをしていなければ、名前の見えない焦燥感に潰れてしまいそうだった。
 しかも科によって入院患者の雰囲気が違うのも堪えた。内科病棟はいやに静かだ。一度整形外科病棟を通ったことがあったが、あまりに騒々しくてこれが同じ患者なのか? と苦笑した。
 確かに内から悪い者と、一部だけ悪く、あとは健康な者とでは違うのだろう。
 これまで入院などとは無縁な生活を送ってきた赤澤には新鮮な驚きだった。

 携帯が使えないのも苦痛のひとつだ。
 仕方がないので、朝夕と屋上に出てはメールを受信し、返信をするというのが日課となっていた。

 屋上に出ればむっとする暑さが、心地よい。外回りの仕事をしていた赤澤は、快適な院内よりも屋上のほうが好きだ。
 ベンチに座り、蒼穹の眩しさに目を眇める。
 いい天気だなあ。と、これまで働き詰できた赤澤には、少々酷な爽やかな風が吹いた。地上を見れば、行き交う人々と車。なにやら別世界のようだ。

 メールボックスには五件入っていた。三件は仕事絡みで、二件は恋人からである。

《出張いつ戻ってきます? ボクはこれから原稿に入るので、音信不通になります。土産があるなら腐るもは避けてくださいね》

 文書に性格が面白いほど反映される男である。赤澤は観月の剣呑な顔を思い出して笑ってしまった。

 自分の恋人はいつも不機嫌な表情をしている。だが、外面は素晴らしく良い男なので、それが地なのだ。作った笑みを浮かべられるよりかはずっといい。それどころか、ちょっと不貞腐れた感じでこちらを窺う様子は、赤澤にとっては愛すべき所作だったりする。
 互いに良い大人だ。同じ年の男に対して向ける言葉ではないが、恋人としてならいいだろう。観月はとても可愛い。

 わがままだし、癇癪持ちだし、気にいらないと手まで出る。
 年を重ねるとともに、鉄壁の外面を身につけていった観月だが、そんなところだけは中学時代からまったく変わっていない。そしてそこが愛しくて、手放して甘やかしてやりたくなる自分は大概病んでいる自覚はあった。

 観月以外と――その場合女性だが――付き合ったことは実は片手では足りない。大学時代。観月と離れていた時は、それこそ自棄になっていた感があり、くる者拒まずの時期があったのだ。苦い思い出しかない過去の女性遍歴だが、どんなタイプと付き合っても結局最後に残るのは、彼女達の中にあった観月のカケラだけだった。なんともまあ、酷い男だ。と、女が離れて行くたびに自覚したものだ。

 仕方ないじゃないか。
 オレが好きなのは観月なんだから。
 説明なんかつかない。ただ、彼が愛しい。彼だけが愛しい。
 彼の中にある孤独に惹かれた。それを覆い隠す仮面を剥ぎ取ってやりたかった。剥き出しの彼に触れたかった。

 触れたら―――手放せなくなった。

(ああ、ヤベェなあ。観月ともうどんぐらいヤってなかったけ)

 思わず数えて、肩を落とす。
 そして失敗した、と溜め息。色々あって一ヶ月もご無沙汰だった。恋人はそういとこは淡白なので、あまり向こうから誘ってくることはない。自分から仕掛けねばならぬものだから、こちらが忙しかったりすると、気づけば倦怠期の夫婦並になってしまう。そして自分からは誘わないくせに、時間が空くと不機嫌になっていくのが観月だった。

 もうひとつのメールを開く。

《三日までには帰ってきなさい》

「……命令かよ……」

 なんとも彼らしい。そして珍しい気遣いだ。

「そうか…もう八月か…」

 二日後には退院なので、簡潔に《わかった、首長くして待ってな》と打って送信する。

 原稿に入るとあったので、きっと返信は無いだろう。修羅場中の観月に近づけるのは木更津しかいない。そしてそんな二人の間に入るには命がいくつあっても足りないほど、寒々しい無言の戦いを続けてくれるものだから、原稿に入れば誰も観月達には近づけなかった。

「…赤澤さーん」

 背後から名を呼ばれて振り向けば、ドアを開けて看護師が立っていた。

「先生がお呼びですよ」
「はい」

 携帯を畳むと、赤澤は一度だけ目を瞑り、立ち上がった。

 

 

 

 

 




 翌々日。退院となり、病院を出た途端に赤澤は困る。こんな時間に外に出されても、持て余す自分が情けなかった。そろそろ夕刻に近いが、自宅のマンションには戻りたくない。かといって、他に行くあてなどない。

 誰にも会いたくなかった。独りになってみたいと無性に望む。
 道を歩けば回りは見知らぬ人々の群れ。何を考えているのか、どのような道を歩んでいるのか。

 擦れ違うだけの赤澤にはわからない。
 それと同じく、誰も今の自分の中を伺い知ることはないだろう。

 なんだ…と、知らず自嘲めいた笑みが零れた。

 独りじゃないか。しょせん、どこに居たって、独りじゃないか。

 動いているようで、まったく認知できてない思考。まるで白昼夢の中を行くように、歩いた赤澤の前に駅が見えた。
 コインローッカーに荷物を押し込むと、財布だけを持って電車に乗り込む。

 唐突に海が見たくなった。

 海といって一番に思い出すのは、実家の近くにある由比ヶ浜だったが、知人に出くわす可能性ある所には行きたくない。
 ここから一番近い、水平線を見ることのできる海。
 乗った路線の最終駅で思案に暮れ、路線図を見ると江ノ島が近いらしかった。

 そういえば一度だけ行ったことがあると、記憶の引き出しを順番にあけてみた。小学生の頃家族で訪れ、島の頂上までエスカーで上った記憶を見つける。小さな島にかかる橋が印象的で、降りた砂浜は決してキレイとは言い難かったが、一面に海が広がっていたのを覚えていた。

 あの頃は全てが大きく見えた。海はなんて広いんだろうと、どこの海を見ても感動していたように思う。

 年の離れた従兄がスキューバダイビングのインストラクターをしていて、小学高学年の時から色々な海に連れて行って貰った。最初に潜ったのは、安かったから、と従兄が選んだグアムである。それまで写真やテレビでしか拝んだことのなかった、どこまでも続くマリンブルーの海と、境のはっきりしない濃い空が今でも目に焼き付いていた。
 あの濃密な空気を、胸いっぱいに吸い込んだ時の爽快感。
 原色溢れる南国は絵本で得た印象とまるっきり同じものであった。
 初めて潜ったときは、心底驚いたものだ。別世界。子供のボキャブラリーではそれが精一杯だったが、本当にこんな世界があるのかと、知らないことや知らない光景のなんて多いことだろうと、カルチャーショックを受けたものである。
 それは何度潜っても変わらない。何度体験しても、新鮮な驚きに胸を踊る。

 だから、海が好きだ。

 日常から離れたくなると、いつも思い浮かべるのは海だった。

 ――ああ、なんでオレ忘れてたんだろう。

 海が好きだった。噎せかえるような夏が好きだった。

 忙しさにかまかけて、ここ数年思い出しもしなかったことに気づいて唖然とした。
 忙しい日々だった。それと気づかぬほどに。

 だが、苦痛ではない。幸せだったと思う。
 ただ、余裕がなかっただけだろう。

 《片瀬江ノ島駅》と、アナウンスが流れ、はっとなって飛び降りる。
 駅を出ればすぐに濃い潮の香りが鼻腔に蔓延した。
 異国とは違う。人の手が入り、汚れてしまった海の匂いだった。
 些か落胆しながらも、足を動かす。橋を通れば両側には小さな船やヨットが所狭しと並んでいた。

 遊泳禁止のところであるから、人はさほどいない。遠くではヨットが何隻も風にはためき、彩りを増やしていた。
 生温い風が、べったりと髪に吹きつく。

 ―――海…か……。

 少しは昔の感動が蘇るかと期待したのだが、胸に去来するのは虚しさだけだった。
 眼下の砂浜には親子連れや、犬を遊ばせている家族達が楽しそうにはしゃいでいる。

 ―――昔はオレもああだったんだよな。想像つかないけど……。

 いつの間に大きくなったんだろう。どこから大人になったんだろう。そう考えると不思議でたまらなくなった。
 この二十八年間を思い出そうとするも上手くいかない。
 赤澤は自他ともに認める前向きな性格の持ち主だ。それが今は少しだけ厄介なものであることに気づく。

 ずっと前を見つめて生きてきた。その先にあるものを見据えて歩いてきた。

「ヤバ…っ」

 ずん、と錘が腹底に溜まる感覚に眩暈がする。

 足元に目をやれば、ぽっかりと底のない穴が開いていた。

『―――癌性腹膜炎は主に腹部原発のがんが播種性に腹膜転移した結果、腹水貯留、腸閉塞、尿管閉塞などを引き起こすのが一般的で………』

 疼くような痛みに耐え切れず、頭を抱え込む。唇を噛み締めると血の味がじんわりと口内に広がった。

『……胃癌の未分化型や胃悪性リンパ腫が播種性に腹膜転移して生じることが多く……』    

 当然のように順序よく流れる説明。耳にだけ残る医師の声。顔も表情ものっぺらぼうとしかわからない。ただ、動く唇を思い出しては吐き気が込み上げてきた。

 医師ははっきりと、赤澤に告げた。

『現代医学での治療は困難です。抗がん剤も一部の癌にしか効きません。放射能治療をしても完治はありえないでしょう』

 その時はやはり他人ごとのようだった。一週間の間に「もしや」と何度も不安が胸を掠めはしたが、真剣に受け止めることはなかったのだ。いや、無意識に拒絶していたのかもしれない。あまつさえ、医師の診断間違いだとさえ疑っていた。

 そうでもしなければ、耐えられなかった―――。

 告知をする医師を前に、口の中が乾いて中々言葉が出てこなかったのだけが鮮明に蘇った。

『いつまで―――ですか?』

『――半年から一年です。……ここではなく、ゆっくりと過ごすことのできる病院に移り、余命を過ごされるのもひとつの手段だと思います』

 ―――余命。

 頭の中で漢字変換して、余った命ってなんだよ。と唾棄したい気分になった。

 ぐるぐると、何度も同じ場面が赤澤の中で繰り返し流れている。

 半年。半年と、医師は言った。

 何かの本で読んだことがある。こういう場合、医師ははっきりとした期限をつけることはない。告げた期限より早く死なれてしまえば医師の立場がないからだ。だからこういった場合、半年の命ということではなく、半年までは生きていられるという意味なのだそうだ。

 吐きそうになって、屈みこむ。

 信じられなかった。信じたくなかった。

 いきなり命に期限をつけられて、どうやって受け止めろというのだ。

 ――二十八年。やっと二十八年、たった二十八年だぞ?

「…うっ」

 込み上げてくるものが不安なのか、嘔吐なのか赤澤には判別がつかない。苦しくて目尻が濡れた。

 吐いてしまえば、泣き叫べば楽になれるのだろうか。
 どうしよう。どうすれば立ち上がれるんだ。
 全てはこれからだったはずだ。
 この先のことを、観月との未来を、明確に考えていた矢先なのに――。

 たった…たった半年しかないのに、何ができるというんだ。

 掌をコンクリートに押し付けると、体温よりも高い熱が伝わってくる。自分の影で暗くなったところだけが、視界を塞ぎ、じわじわとそれは広がっていくような感覚に襲われた。

 その時である。
 ―――そっと、背を摩られた。

「……大丈夫ですか? 救急車呼びましょうか?」

 おっとりとした女性の声。びくり、と体を震わせて、赤澤はふり仰いだ。
 心配そうにこちらを窺うのは、身形のすっきりとした上品な雰囲気をまとう初老の女性であった。日傘を地に落とし、気遣うように背をなでてくれる。
 赤澤はぐっと、全てを嚥下すると、小刻みに震える片手を顔から離した。

「だ…大丈夫です…。ちょっと…眩暈がしただけで……」
「あらまあ。暑気当たりかしらね…、あちらの椅子に座りましょう? 日傘、さしてあげるから…」

 老女から見れば赤澤などまだまだ子供なのだろう。まるで少年を諭すように、老女は言い聞かせた。
 確かに立ち上がるのはまだ辛かったので、赤澤は言うとおりに橋に設置されている椅子に座った。老女は赤澤の背に傘をかけると、その場を離れ、暫くして戻ってくると濡れたハンドタオルを差し出す。

「どうぞ。今、そこの水飲み場で濡らしてきたのよ。使って頂だい……」
「す…みませ…ん…」
「顔色、悪いわね」

 手渡されたタオルに顔を埋めた。ひんやりとして、とても気持ち良い。

 暫く赤澤は無言で、嵐が去るのを待った。具合が悪いのか、精神的なものなのか。両方かもしれない。あれほど強い衝撃を受けたのは生まれて初めてのことで、どう己の中で処理をしていいのか見当もつかないでいた。

 じっと耐えている間。老女も付き合い、ただ黙って赤澤の隣に座っていた。

 頭上をカラスが通る。
 結構な時間が流れたようだ。

 少しばかり回復した赤澤は、未だ隣にいてくれる老女へ感謝している自分を知る。誰かが側にいる。それだけで、いやに心が和いだ。

「―――すみません。その、付き合ってもらっちゃって……」
「ううん。気にしないで、私は夕焼けを見にきたの。だから、時間はあったのよ」

 朗らかに笑めば、口元や目尻に深い皺が刻まれる。しかし、どこか少女のような笑顔だった。

「今日の夕焼けはとてもキレイだわ。ほら、海に天使の梯子が落ちていくわね」
「天使の…梯子…ですか?」
「知らないかしら。雲からおりてくる光の線をね、天使の梯子というのよ。とてもステキな例えだと思わない?」
「そう…ですね……」
「ねえ、あなた。朝焼けって見たころあるかしら」
「朝焼けですか? ありますけど……」

 大分気持ちの落ち着いてきた赤澤は、改めて海に目をやった。背にしている方の海と違い、すぐに島が見える。だが、その向こうには富士が堂々とそびえ立つのを拝むことができた。真っ赤に染まった富士は、ある種圧巻である。

「朝日と夕日。あなたはどちらがお好み?」
「え…そうですね。朝日かもしれません」

 正直、朝も夕もあまり変わりはないように思えた。だが、これから暗くなる世界と、明るさを増す世界を考えるのならば、朝日のほうが寂しくはない。無意識の選択だ。

 老女は、双眸を緩める。瞳が夕日に染まって、赤く反射していた。

「お若いもの、そうよね。こんな年になるとね、朝よりも夕焼けの見事さに心を奪われるものなのよ。華麗なる終焉ってやつかしらね。落ちる瞬間の見事なまでの美しさに惹かれるわ」
「落ちる瞬間の美しさですか?」
「終焉とは、美しいものだと思うから」

 赤澤は目を逸らすと、地を睨みつける。

「キレイなんかじゃない…。キレイなもんなんかじゃ……終ったら、終ったらそれまでじゃないか…っ」
「―――美しさって、どのようにして感じると思う?」
「どのように…?」
「美しく感じるのは、心が潤っているから。満たされているから。それに気づけないのは余裕がないからよ。――私ね、半年前に主人を亡くしたの…病気だったわ」
「――――…………」
「失うと知った時、私は打ちひしがれてね。悲しくて悲しくて、何を食べても味なんかしなくて…人間て不思議ね。色んなものが感情で左右されるのだから。余命幾ばくもないと、あのひとが知ってしまった時も、私は泣くしかできなかったの。一番辛いのは夫なのに、私ばっかり泣いてしまってね。夫は『周りが泣くから泣けないよ』って笑って…『励ましの言葉をたくさん貰ったよ、嬉しい』って笑ったわ」

 鈍くなっていく感情に、老女の言葉何も伝わってこない。こんな話は世にいくらでもあるんだな、と皮肉めいた感想だけがふつふつ湧きあがった。

「あなたはどうして笑うの。私の前だけでもいいから、作るのはよしてって言った」
「作る?」

 そうか、今まさにオレは作っている。笑っている。

 こんな状態になってまでも他人に気を遣う男だったかと、赤澤はおかしくなってきた。

「作ってないよ」

「―――え?」

「作ってなんかいない。人は必ず死ぬものだ。死なない人間なんていないんだよ。自分はたまたま、命の期限を知る運命だったのだけの話だ。それが不幸なことだとは、思わない。最後まで受け入れず、苦しんで死んでいくことのほうがずっと不幸だ。人生を振り返る時間がある。お世話になった人たちに感謝を伝える時間がある。――お前と最後の時間をゆっくりと過ごすことができる。お前には迷惑をかけてしまうかもしれない。寂しい思いもさせてしまうかもしれない。そこは、すまないと思う」

 老女は淡々と、夫の口調を真似して語る。一面に広がる赤い世界が眩しかった。

 赤澤は目を細めて、落ちていく太陽を追う。

「――本当はね。私も心から美しいと感じることはもうないのよ。だって――あの人がいなんだもの。愛するひとのいない世界は寂しいわ。心って、不思議ね。本当に不思議」
「―――そう…ですね」
「随分長く一緒にいたと思ったのに、数えてみたら五十年にも満たなかった」



 ザザザザ―――……

 ザザザ―――……


 潮騒が、いきなり大きく聞こえた。

 黒く長い影が地に落ちる。

「あの人がいなくなって思ったわ。幸せな人生って、きっと本人がそう思えばそうなのよ。長さや、最後がどうだったかなんて関係ないの。ただ、振り返る瞬間。それさえあればいいのよ。だから、私は夕焼けが好きだわ」

 それは陽が落ちる少しの時間。

 その間に振り返ることができ、幸せであればいいのだと。老女は言った。

「おばあちゃん」

 子供の声が上がる。中学生ぐらいだろうか、少女が駆け寄ってくると、老女は「あら」と腰を上げた。

「お迎えにきてくれたの?」
「うん。一緒に帰ろう」

 少女はぶっきらぼうに答える。その際、ちらりと赤澤を訝しげに見た。老女は立ち上がると、赤澤に顔を向ける。

「じゃあ、私はこれでね。おばあちゃんの話し相手になってくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそ助かりました。タオルありがとうございました。――いいお話しでしたよ」
「さしあげるわ」

 赤澤がぺこりと頭を下げると、老女は孫に手を引かれて去っていった。残された赤澤は日が落ち、どっぷりと暮れるのを待ってからやっと立ち上がる。

 温んだタオルだけが、手に残されていた。

 ―――出逢って十四年か。そうか――オレの人生の半分があいつで埋まっているんだ。

 漣のように、静かな感慨が押し寄せる。

 赤澤の行くべき場所は、最初からひとつしかなかった。

 両親には申し訳無い気持ちで一杯になったが、それでも、側にいて欲しいのはたった一人だけ―――一人だけだった。

 

 

 

 

 

 

 


 考えてみれば今日は自分の誕生日で、赤澤は最初こそ何かを持っていくべきかと悩んだが、それはおかしな話だと考え直して止めた。
 去年は二人で外に食べに行ったので、今年もそうなるのかな。と、つらつら思いつつマンションの階段を上っていった。
 連絡をいれずに来たものだから、何か文句を言われるかもしれない。それでも誕生日なのだから、大目に見てくれるだろうと呼び鈴を押した。

「―――……」

 しかし、いくら待てどもドアが開かれる様子がない。

 もう一度押してみるが、やはり静かだ。室内に耳を澄ましても。こちらに向かう足音も聞こえてこない。

 近くに買い物にでも行ったのだろうか、と首を傾げて携帯を取り出す。観月にかけたら―――ドアの向こうから着信音が聞こえた。
 前回聞いたのとは違う着メロになっていることから、その間に木更津か柳沢と会ったのだろうことがわかる。観月は面倒で着信音には頓着しないタイプなものだから、いつも勝手に弄られて妙な着メロにされているのだ。

 そこで、はっと気づいて青くなる。

 だが遅かった。

「――なんですか!」

 バン! 

 凄まじい勢いとともにドアが開かれる。
 そこには青白い顔に、鬼気迫る様子の観月がいた。

(やべえ! そういや原稿に入るとか言ってたな…っ)

「よ…よう観月。帰ったぜ」

 とりあえず、当り障りなく挨拶を試みた。

「ああ…そうですか」
「そうですか…って。お前、三日に帰って来いって」
「お帰りなさい。では、また今度」
「うおー! 待てっつーの!」

 さっさとドアを閉めようとする観月に、赤澤は慌ててドアに手をかけて止めた。

「……なんですか……」

 ぐっと低音になって、凄みを利かせられる。いつもならそこで「なんでもないです」と帰るところだが、今日はそうもいかない。
 だけどこいつ、オレの誕生日って忘れてる? もしかしなくても忘れているのか?
 一抹の不安に駆られながらも、赤澤は再度チャレンジしてみた。

「あの、観月さん。オレに言うことないですか?」
「はあ〜? 言うことお?」

 美しい顔を歪ませる観月に、赤澤は「くっ」と目を逸らす。恐ろしく恋人の機嫌が悪い。

 そんな無言の攻防の間にも、観月は扉を閉めようと力を入れているし、赤澤も負けじとそれを押し返していたりする。
 最短時間で切れたのは、暑さに弱い観月であった。

「鬱陶しいっ!」
「イタッ!」

 すねに鋭い蹴りが決まる。

「暑い時に来るな! 地元の海で干物にでもなってなさいっ!」

 手を離した僅かな隙に、ドアは無情にも閉められた。

 恋人のあまりといえばあまりの態度に、しばし呆然。

「オレって…もしかして世界一不幸?」

 呟くと同時に、耐え切れずに爆笑してしまった。
 ここで笑うとは、我ながらなんて寛大な男なのだろう。
 とにかくおかしかった。
 何事もない日常が、とても笑えた。

 命の期限を知らされて、自分がどんなに絶望の渕に叩き込まれていようとも、世界は普通に進んでいるのだ。時間は誰の上にも平等に流れゆく。

 皆、普通に生活して、普通に生きている。

 その先はどこまでも続いているかもしれないし、突然途切れてしまっているかもしれない。

『人は必ず死ぬものだ。死なない人間なんていない』

 潮騒とともに、耳に残る何気ない台詞。

 きっと何も知らない時に聞いたのならば、当たり前のことを言うなと一蹴していただろう言葉。

 だけど今は違う。当たり前のことが、とても重い。

 観月を思う。

 見事に蹴り出されたが、きっと我に返ったら慌てるだろう。悪いが観月にとってそれだけの存在である自負はあった。

 原稿が終れば誕生日プレゼントを持って、気まずい顔でやって来る。そんな観月が容易く想像できて、楽しくなった。

 甘えてくるかもしれないし、開き直ってくるかもしれない。

 本当にわがままな恋人だ。

 本音を言えば、決して自分は悟りを開いたわけでも諦めたわけでもない。今現在でも恐いし、情けない。辛くて、苦しい。

 受け入れることも、拒絶することもできないでいる。

 それでも――それでも。

 観月には黙っていようと決心した。

 彼には最後まで笑っていて欲しいから。なるべく傷つけない別れを考えよう。それはむしろ彼のためというより、自分のためかもしれなかったが、それぐらいの我儘は通させて貰いたい。

 建物を出ると、空をおもむろに見上げた。

 星は数えるほどしか見えないが、確かにそこあり、瞬きを繰り返している。

 滲んでいく星の光。ぼやける月の光輪。

 ああ、星をじっと見つめることも、ここ何年もしていなかったなあ。まったく意図せずに、そんな感想を抱いた。

 

 ―――上を向いて歩こう。涙が零れないように……


 有名な歌詞のフレーズそのままだ、と――笑おうとして今度は失敗してしまった。

 

 なあ、観月。

 最後を迎える前に、一緒に海を見に行こう。

 きっと、綺麗だと思えるから。

 できたら朝日がいい。

 オレは朝焼けに光る海を、お前と見たい。

 ――愛し愛されるって本当に奇跡だと思う。

 お前がいるだけで、世界はきっと美しい。

 日常が、とても愛しい。

 日々が続く限り。


 日々が続く、限り。

 

 

 























 ありがとうございました。

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