は 屋 上 の  に 及 ぶ








 

 

「――アンタ、誰?」

「は?」

 

 

 ガチャン、バタン、ドンドンドン!

 まるで火災でも起きたかのような慌てた音をさせ、力任せに部屋のドアが叩かれた。木更津淳と柳沢慎也は互いの目を見合わせる。音の距離からして、隣の住人だとは思うのだが、ここまで慌てた様子で来訪されたのは初めてだった。隣人は二人いるが、これだけガサツな行動に出る人物は決まりきっている。疑いもせずに、相手の名を呼び木更津がドアを開けた。

「どうしたの、赤澤。また観月を怒らせた?」

 しかしドアの向こうに立っていたのは観月はじめのほうで、予想の外れた木更津は少なからず驚く。

「みづ…き? 珍しいね、慌てて」

 どこか青褪めた顔の友人は、縋りつくようにして叫んだ。

「た、大変なんです! 赤澤が…っ」

「赤澤が?」

「記憶喪失なんです!」

「は…?」

 あまりに突拍子も無い台詞に、木更津は目を丸くする。観月は苛立ったように、その襟ぐりを掴んだ。

「だから! 記憶が無いんです! もう、ちょっと来てくださいよ!」

「ま、待って。行く、から、手、離し、て」

 力任せに引っ張られると、首が絞まって苦しい。酸欠に喘ぎながらも、木更津は隣部屋まで連れていかれた。柳沢も同じく、鳩が豆鉄砲でもくらったかのような顔でついていく。

 聖ルドルフの運動部特待生寮は新築されたばかりということもあり、寮則や寮運営などは生徒と学校側の二人三脚というのが現状であった。なので、基本的に生徒の自主性を重んじているといえば聞こえはいいが、主張を通せば意外と簡単に通るため、部屋割りなどは各部に任されている。最初の頃こそ、部活動に関係なく部屋割りを決められていたが、夏頃にテニス部部長赤澤吉朗が家庭の事情で入寮した際、盛大な部屋交換が行われ。半ば押し付けられる形で、観月は赤澤と同室にされた。そして自棄になった観月が、やはりムリヤリ木更津達の隣室を勝ち取ったのだった。もちろん面倒が起きた時は一蓮托生という腹積もりである。

 面倒を起こす、と前提に迎えられた赤澤だが――、現在は惚けた顔でベッドに座り込んでいた。訝しげな表情で、三人を見ている。

「見た目だけだと普通だーね」

「見た目から変わったら、速攻救急車呼んでますよ」

「こんな時でも突込みの鬼だね、観月」

 当事者を無視する三人に、赤澤は「あの〜」と声をかけた。

「あ、そうそう赤澤。記憶喪失なんだって?」

 あっさりと木更津が問う。赤澤は困ったように、後頭部を摩った。

「ってかアンタ達誰?」

「うお、本当に記憶喪失だーね。その後、ここはドコって聞くんのがお約束だーよ」

「えっと、ココハドコ」

「お黙りなさい!」

 スパーン、と小気味良い音をさせて、観月が柳沢の頭を叩く。

「オレが記憶喪失になるだーね!」

「はは、手首捻れてたね」

「木更津も何を暢気な…っ」

「あのう…誰か質問に答えてくれよ」

「そうだよねえ。赤澤、ここは聖ルドルフ学院の学生寮だよ。きみはそこの生徒で寮生。ついでにテニス部部長」

 赤澤の前に膝をつくと、木更津は面白がるようにその顔を覗き込んだ。

「テニス部部長…」

「オレは木更津淳、アヒルが柳沢慎也、そっちが観月はじめ。みんなテニス部部員でタメだよ」

「誰がアヒルだーね!」

「アヒル…」

「赤澤もじっとヒトの顔を、口元ピンポイントで見るのはヤメルだーね!」

「まさかアヒルも忘れてたりしたりして。くすくす」

「笑いごとなんですか? この状態で笑えるんですか!」

「観月、落ち着こうよー。一番混乱しているのは赤澤なんだから。多分」

 ねえ? と、話を振られ、赤澤は視線を泳がせた。

「混乱、してるのかなあ〜? あ、アヒルはわかるぞ」

「う…バカ澤…っ」

 目に涙を溜めた観月が「記憶なくしても、受け答えはやはり似たりよったり」と顔を伏せる。

「バカ澤? 今まで赤澤って発音してたと思うんだけど。本当はバカザワが正しいのか?」

「冗談も大概にしろよ、このヤロウ!」

 真面目な顔で首を傾げた赤澤に、泣いていた観月は怒りのあまりその襟首を掴んで締め上げた。

「情緒不安定だーね、観月」

「そろそろ離してあげないと、記憶がどうのこうのという前に死んじゃうよ」

 木更津が締め上げている手を離させる。記憶を失った上に死にかけた赤澤は解放されると、肩で息をしながらベッド上に逃げた。

「こ、こいつ恐いー!」

「こいつじゃない。観月です!」

「はい。観月さん」

「おお、躾は最初が肝心」

 感心する柳沢を無視して、木更津は話を進める。

「そもそもさ、なんで記憶喪失になったわけ?」

 これは当事者よりも、原因を目撃したとみられる観月に対して問いかけたものだ。観月はうっと詰まると、口ごもった。

「その…まあ…」

「なんかオレ、でっかいコブができてるんだけど…」

 ベッドの上で正座していた赤澤が、痛みを訴える。柳沢が見せてみろ、と近寄った。

「本当だーね。けっこうデカイ」

「いてっ! 触るなよ!」

「大丈夫…ですか。なんか冷やしたほうがいいですかね」

 心配して表情を曇らす観月に、木更津は疑惑の眼差しを向けた。

「まさか…観月、とうとう殺ろうとして、背後から襲ったの?」

「は?」

「がーん! 寮内殺人未遂事件。カソリック中学における少年達の苦悩。神は子羊を救えなかったのか。とかいった文句が紙面を飾るだーね」

「武器は金属バッド? それとも壷? コンクリートブロック?」

「それともデスティニー・ハンマーか、踵おとし」

「アホか、おのれら〜」

 ダブルスプレイヤー同志、息の合ったボケで畳み掛けられ、観月は怒髪天をつく勢いで青筋をたてる。

「やっぱりオレ、観月さんに恨まれてたわけか」

 赤澤が火に油を注いだ。

「やっぱりってなんですかっ!」

「だって、さっきから怒ってばかりじゃん」

 斬りつけるように睨まれて、赤澤はおどおどと答える。確かに、先ほどからの観月の態度だけを見ていれば、恐いとしか形容できないだろう。

「観月のこれは怒っているわけじゃなくて、動揺しているだけだよ」

 一応木更津がフォローに走った。指摘され、はたと我に返った観月は苦い顔をする。

「すみません…。混乱してました。最初に謝るべきだったんです。そのコブは僕のせいです」

「「やっぱり」」

「アヒルと双子、ハモるな! 話を聞いてください!」

「双子って…別に好きで双子なわけじゃないんだけど」

「それを云うなら、オレも好きでアヒルなわけじゃ…じゃなくて、アヒルじゃないだーね!」

「くすくす。そろそろアイディンティーがアヒルに侵食され始めているよね」

「いやー!」

「だまらっしゃい!」

「いや、だから観月もいちいち突っ込むからいけないんだよ」

「なあなあ、それで殺人の動機は?」

 焦れて赤澤が横から促した。

「誰が人殺しだ! じゃなくて――その、ちょっとあなたと僕とでケンカになっちゃったんですよ」

 きちんと説明をしようとするも、またもや横から茶々が入る。

「またケンカしてたんだ」

「じゃあ、動機は痴情の縺れだーね」

「また? 痴情?」

「赤澤に変な刷り込みするのは止めてください! 話が進まないのは絶対あなた達二人のせいですよ! あーもう、人選間違えた!」

「はいはい、すみせんでした。で、ケンカしてどうしたの?」

「ケンカになって…、僕が突き飛ばしちゃったんですよ。その時に頭を勉強机の角にぶつけて倒れたんです」

「あーしかも、一番下の引出し空いてるじゃん。もしかしてここにもダブルで?」

「そうですよ。開けっ放しは赤澤のせいです。その辺は自業自得です」

「自業自得だって、赤澤」

「そうかあー、記憶ないのは自業自得なんだー」

「そこで納得しないで下さいよ。僕もいけないんです。本当にすみませんでした」

 しゅんと項垂れる姿に嘘はない。別段嫌味で云ったわけではないのだが、こう落ち込まれてしまうとなんだか自分が悪いみたいに感じてしまう。赤澤は痛む頭に顔を顰めつつ、真っ白になった脳味噌の中から彼等に関する記憶を探し出そうと躍起になった。

「……うーん。ダメだ、なんか真っ白。あのよ、これまでの話を纏めると、オレは赤澤吉朗。またの名をバカ澤。聖ルドルフ学院中の三年で、テニス部部長。ここは学生寮で、柳沢アヒルはアインディンティーの危機で、隣のヤツと双子。痴情の縺れで殺されかけて、相手は観月さん。つーことは愛人?」

 赤澤は真顔で首を捻る。

「ダメだこりゃ」

「やはりバカ澤だーね」

「普通リセットされたら、その分要領が増えるもんじゃないんですか?」

「頭打って、バカに加速がかかったんじゃない?」

「そこまで酷くは…と、思いたいんですけど。その場合も責任持つのは僕ですよね」

 得た情報を纏めて、もう一度記憶の検索をかけようとした赤澤は、三人に云いたい放題こき下ろされてしまい、身の置き所がなくなった。

「オレって…バカなのかなあ」

 しんみりと漏らすと、三人ははっと口を噤み、哀れみの眼差しを向けてきた。

「赤澤…大丈夫です。あれ以上になれっこありません。むしろ、一から鍛えてあげますから」

 観月が寄り添うようにして、横に座った。

「それって普通の励ましとして受け取っていいのかなあ」

 いまいち赤澤は自分の判断力に自信が持てない。

「責任はきちんと取ります。礼儀、作法、常識、片っ端から教えてさしあげますから」

「観月さん…」

 よしよしと頭を撫でられ、赤澤は観月の肩口に額を擦りつけた。

「目指せトップリーダーだーね」

「毛並みの良い赤澤…ちょっと見てみたいかも」

 その時、コンコンと扉を叩かれた。近くに立っていた木更津が、応答しながらドアを開ける。立っていたのは不二裕太だ。

「あ、こっちに木更津先輩達もいたんですね。さっき凄い音が上からしたから、心配して来てみたんですけど」

「そんなに煩かったんだ」

「丁度、ここの真下ですから」

「あーもしかして、同室のヤツに静かにするよう云われてきた?」

 時計を見れば十時を回っている。就寝時間は九時なので、それを過ぎても騒ぐのは寮則違反だ。しかし最高学年相手ともなればおいそれと注意することもできない。話し合いの末、同テニス部の裕太が選ばれて来たのだろうと知れた。図星を指された、裕太は云い淀むも「はあ」と素直に答える。

「すみません。もう、騒ぎませんから」

 奥から観月が謝罪した。

「あ、いえ。本当にただ心配で、来ただけですから!」

 ドア口に立っている木更津を避けて、裕太は中を覗きこみ――硬直した。

「あ…赤澤部長。なんか、失敗でもしたんですか?」

 こっそりと木更津に聞く。裕太の位置からだと、観月に縋り付いて泣いているように見えたのだ。木更津はたまらず噴出した。

「し…! 失敗!」

「違いましたか。ごめんなさい!」

 慌てて前言を撤回する。確かに先輩相手に使う台詞ではなかった。

「違う、違うよ。あー、入りな裕太。裕太にも手伝ってもらうかもしれないし」

「はあ」

 腹を抱えて笑ったあとで、木更津は部屋へと誘う。

 訝しがりながらも、先輩達の中にひとりで放り込まれた裕太は居心地悪そうに簡易テーブルの前に座った。

「赤澤。彼は不二裕太。同じテニス部で、一年下の後輩だよ」

「なんですか、いきなり」

 改まって木更津に紹介されてしまった裕太は、益々疑わしげな顔付きになる。

「赤澤さあ、観月のせいで今記憶喪失になっちゃってるんだって」

「え…っ。記憶喪失〜?」

 目をむくと同時に赤澤を凝視した。途方に暮れたような顔で返され、冗談や揶揄でないことを知る。

「観月さんのせいって…。首絞めたら、脳味噌に酸素いかなくなっちゃったんですか?」

「どういう意味ですか」

 悪気ない様子で決め付けられ、観月は気色ばんだ。

「や、だって赤澤部長の首元、赤くなってますから」

「本当だ。これだけ見たら、本気で痴情の縺れだーね。今が休みだからいいけど、その間に消えないとあらぬ噂を立てられるだーよ」

 柳沢がムフフと笑う。

「違いますよ。どついたらこのバカは大袈裟に転がって、愚かにも机に頭をぶつけたんです」

「さっきまでの優しさが感じられない…」

 観月の豹変ぶりに、赤澤がショックを受けた。慣れている裕太は気にせず「へえ」と納得する。

「そういや、この間青学の海堂も記憶喪失だったじゃないですか。アイツ、テニスしたら治ったんだし。同じくテニスしたらいいんじゃないですか?」

「海堂が記憶喪失?」

 初耳の木更津が食いついた。裕太は先日起きた出来事をかいつまんで説明する。

「……まだ他校の選手狙ってたの観月」

「本気じゃないです。お遊びですよ」

「つーかそんな前例を知りながら、記憶の無い赤澤の再教育にばかり熱心だったって辺りが鬼だよね」

「鬼嫁だーね」

「首切って血抜きしますよ。柳沢」

「ひぃぃいいいい――っ!」

「そうと決まれば! 明日、ストリートテニスコート行きましょう!」

 すくっと、裕太が拳を振り上げて立ち上がった。

「え、別に学校でいいんじゃ……」

 こうと決めたら猪突猛進。裕太は観月の声も聞こえない様子で、爽やかな笑顔を残し「おやすみなさい」と去っていった。

「――なんか、一抹の不安を覚えるのは気のせいでしょうか」

「気のせいじゃない?」

 木更津の根拠の無い慰めは、見事に当てにならなかった。

 

 



 翌日。まんじりともしない夜を過ごした観月の前に、それは天使の如き微笑を称えた不二周助がラケットを持って現れた。

「な…なななな………」

「兄貴、全国前なのにごめんなー」

「いいんだよ。この間はウチの後輩が世話になったし。ねえ、観月」

 弟には朗らかに、最後の台詞は暗雲垂れ込めて観月に、と不二は器用な使い分けをする。

「不二周助…! なんであなたがここに居るんですか!」

「ん? 昨夜きた裕太からのメールで呼び出されたんだよ。赤澤が記憶喪失になっちゃったから、テニスの対戦相手を連れてきてくれって」

「裕太くんっ?」

「いやあ〜どうせなら、熱い試合のほうがいいだろうなって思って。黄金ペアなら文句なしじゃないですか。金田も呼んだし、あの時の試合再現って感じですよね! あ、でも大石さんはいきなりで都合がつかなかったんだそうですけど、兄貴がいますんで」

 邪気無く笑う裕太は、誉めてくれと云わんばかりに期待に満ちた眼差しを観月に向けた。こうなると、脱力するしかない。

「は…はあ。ありがとうございます」

「ふふふ。この時期にわざわざ、英二連れてきたんだから。感謝して欲しいよね。赤澤の記憶喪失の原因はきみなんだろ?」

 嫌味たっぷり天敵に恩を売られ、観月は歯噛みしつつも「お忙しい中、わざわざありがとうございます。さすが不二くんは全国前でも余裕ですね」と引き攣った笑顔を向けた。

 バチバチと見えない火花が飛び散る。雲行きの怪しくなった二人にくるりと背を向けると、裕太は金田のもとへとさっさと逃げた。金田と菊丸は赤澤を取り囲むようにして、興味深気にいる。

「なあなあ、赤澤―。お前本当になんも覚えてねーの? オレと試合したことも?」

「あ…ああ、悪いな。菊丸くん」

「菊丸くん…。なんか新鮮な響きだにゃ〜」

「赤澤部長…オレ、オレ絶対記憶が戻るよう、頑張りますから!」

「よろしく頼むよ…その、金田くん?」

「呼び捨ててください〜!」

 赤澤の背中を追ってきた金田は、自分の存在を綺麗サッパリ忘れられているということに、多大な衝撃を受けて泣きそうな顔になっていた。
 そこへ不二も、自己紹介をしようと近寄った。

「赤澤、早く記憶が戻るといいね。裕太の兄、周助だよ」

 さっと手を差し出され、反射的に赤澤は握手で返す。

「よろしく…」

「……僕のこと、本気で忘れちゃったんだね」

 握手した手をやんわりと握りこまれて、赤澤は戸惑う。

「えっと、そのゴメンナサイ」

「他人行儀にされると切ないな…観月にはタメ口なのに僕には敬語なの? やはり…記憶を失くしても観月を選ぶんだね」

「は…ぁ」

 愛しそうに握った手を摩られ、赤澤は現状が理解できずに間抜けな返事をした。

「観月と僕はひとりの人を巡ってのライバルだった。そこで、僕は勝ったのにも関わらず…結局負けて打ちひしがれた観月が選ばれたんだ…」

(上手いにゃー。一応嘘じゃないあたりが)

 菊丸は感心し、金田と裕太はどう割って入るかで悩んだ。

「それって…」

 周囲に放っておかれる、赤澤の困惑は増すばかりである。

「いや、いいんだ。観月とお幸せに。今日は僕がきみにできることを精一杯するよ」

 物憂げな顔で、不二は身を翻す。コートへと向かうその背を見つめて、赤澤は後輩達に説明を求める視線を投げた。

「――あのよう」

「赤澤―! 試合始めるよ。英二もおいで」

 なし崩しに、試合へと縺れ込んだのであった。

 

 



 ――結果。

 6―3で赤澤・金田ペアの惨敗に終る。記憶もさっぱり戻らないままで終了してしまった。
 ダブルスのなんたるか、どころか金田自体を忘れている赤澤がもとから勝てる相手ではない。試合結果は初めから目に見えていた。もちろん、不二達だとて全力を出したわけでもないし、金田も途中で「バカ澤このヤロウ! 敵はダブルスできてるんだ!」云々の台詞を盛り込んでみたものの、反応は少なく「え、あ、はい」と返された日には、金田の士気のほうが下がってしまった。
 試合中、不二のえげつない口攻撃も、記憶を戻すきっかけを邪魔し続けた。終った頃には、苦渋に満ちた顔で赤澤は頭を抱え込み己を責めている始末だ。

「オレは女癖悪く、夏が終っては恋人を捨て、冬が過ぎては恋人を切る、薄情なヤツだったんだな。釣っては捨て釣っては捨て、本当の愛を知らぬさすらい人よ……」

 金田がいくら「違いますよ!」と、否定しても不二の演技と口車に敵うわけがない。木更津や柳沢も誤解を解いてやればいいものを、抱腹絶倒の嵐で息も絶え絶えだった。なんせ不二の嘘が突拍子もないものばかりで、それをいちいち本気にする赤澤がおかしくてたまらないのである。

「ひ、ひーっひっひっ! か…髪を伸ばしているのは百人切りの誓いの証って…っ」

「夏はテニス、冬はスキー場で女をたらしこむ。だから一年通して黒いんだって、説得力ありすぎーっ!」

「いい加減にしなさい、不二くん! 赤澤が本気にしてるだろうが!」

 観月がクレームをつけるも既に遅かった。赤澤は己の悪魔のような所業を信じ、地にのめりこむ勢いで落ち込んでいる。
 一緒になって面白がり赤澤を揶揄っていた菊丸も、その姿を目の当たりにしてさすがに良心が痛んだ。

「ねえ、不二〜。やっぱ嘘ばっか教えちゃ可哀想だよ〜。海堂は結局観月達のおかげで記憶戻ったわけだし」

「そうだね。ちょっとやりすぎたかな。この間、見てるだけだったのがどうにも心残りだったから」

 不二は、ふふ…と微笑むと、改めて赤澤の前に膝をついて肩に手をかけた。

「ごめんね。今までのは嘘なんだ。きみがあまりに観月ひと筋だから、意地悪したくなっちゃんだ」

「容赦ないね、不二!」

 やはり不二だけは敵に回すべからず。と、菊丸は脱兎のごとく逃げた。修羅場に巻き込まれて楽しむ趣味はない。

「いい加減嘘ばっかり云うのはよしなさい! 本当にバカなんだから信じるんですよ、こいつは!」

「心外だな。嘘なんてこれっぽっちも云ってないのに」

「あなたの『これっぽっち』の基準は日本の国土以上でしょう。大体僕達の仲を誤解してませんか、きみは」

「だって裕太から聞いてるもの。泣いてたきみを赤澤が抱き締めてたって」

「な…! 裕太くんっ?」

 振り返った観月の背後にナマハゲが包丁を振り回している幻影を見てしまった裕太は「悪い子ですみません!」と、泣いて金田の背後に隠れた。男子中学生の頭中では、東北名物は一緒くただ。もちろん、一部秋田県民と一部山形県民の間にある深い溝は知りようがない。

「実際はどうなのさ」

「う…、そ、それは。目にゴミが入ってただけですよ!」

「古典的過ぎて恥ずかしい」

「うるさい! 手塚くんを押し倒したところを弟に見られたあなたよりはマシです!」

「―――裕太?」

 不二の気配がざわりと蠢く。盾にされ、変わりにその眼光を浴びた金田は石化した。

「なあ、オレを巡って争うのは止めてくれよ」

 非友好的な雰囲気を撒き散らす二人に、赤澤が身を呈して止めに入る。

「誰がお前巡って争ってるんだ!」

「いや、どう見ても赤澤巡って争ってるようにしか見えないから」

 木更津が余計な半畳を入れた。

「赤澤の『記憶』を巡って、でしょうが!」

「うん? 何が違うんだ?」

「あーもう、あなたは黙ってらっしゃい!」

 キーっと、観月がヒステリーを起こした時だ、携帯の着信メロディが鳴った。

「僕だ、ごめん」

 断りを入れて、不二が携帯に出る。

「――着信メロディがジョーズのテーマソングだっただーね」

「誰に設定してるんだろう」

 ぼそぼそと、柳沢と木更津が噂した。

「…え? なんで知ってるの。ってか、すぐに行くよ。……英二だね? そう…ふふふふ。それでわざわざ電話くれたんだ、手塚」

「手塚か!」

「それってどういう選曲かな…」

 終話すると、不二は「呼び出されたから、今日は帰るよ」と結局状況をややこしくするだけして去っていった。
 赤澤の記憶は戻らず。観月の怒りは頂点に達している。
 これで裕太はなんともない顔でいれるほど、厚顔でも心臓に毛が生えてもなかった。

「赤澤部長…っ! 兄貴のせいでごめんなさい!」

 どうせならば、きちんとどの辺りの兄の行動について謝ったのか。せめて赤澤だけにでも説明をすればいいものを、裕太は居た堪れないといった様子で走り去ってしまう。

「不二―っ!」

 仲間であり友人でもある金田はもちろん、あとを追った。むしろこの場にひとり残るほうが恐い。

 最初から最後まで役に立たなかった木更津と柳沢は――、

「決定打―っ! 笑い死ぬ――っ!」と体をくの字にして爆笑中。

 ぶち切れた観月は一言。

「もう知りません!」

 寮への道のりを、顔を真っ赤にして帰った。

 

 





 部屋に戻ると、ベッドに倒れこむ。観月は心の底から疲れていた。

(――本当に、赤澤の記憶が戻らなかったらどうしよう……)

 考えてぞっとする。即座に病院へ連れていくべきだったのだと、怒涛のように後悔が押し寄せた。状況が状況だっただけに、誰にも詳しい話ができず。しかも海堂という前例がいたので、軽く考えていたということも否定はしない。すぐに戻ると、軽く考えていた。だが――赤澤の記憶は戻る気配すら見せないではないか。ずっとこのままだったらどうすればいいのか。まず、御両親に申し訳が立たないし、なによりも…彼の未来を潰してしまうかもしれないことがたまらなく恐い。

 なんでこんなことに…。

 じわり、と涙腺が弛んだ。 

 波のように痛みが襲う。悲しくて胸が潰れそうだった。

「――――っ」

 ぐっと涙を我慢する。刹那、ドアが開かれて心臓が跳ね上がる。気配だけで――誰だかわかった。

 赤澤はベッドで丸まっている観月を見つけると、ゆっくりとした歩調で近寄る。ベッドの端に座り、マットが沈み込んだ。間近に熱を感じて、観月は急いで涙のあとを隠そうとする。

「――ごめん。心配かけてる…んだよな」

 一番不安なのは、なんの記憶も持たない赤澤だろうに。こんな時でさえ最終的には自分を気遣う相手に、なんともいえない感情が込み上げてきた。

「心配…するに決まってるでしょう。僕のせいなんですから」

 震えないよう気をつけて喋るも、少しだけ掠れてしまう。顔を見せたくなくて、両手で覆って頑なに背を向け続けた。大きな手が、頭を撫でる。

「そんなに、自分を責めるなよ。オレの記憶、すぐに戻るから」


「何を根拠にそんなこと云うんですか! もし、もしこのままだったら…っ」

 思わず上体を起こすと、悲しげに細く笑むその表情を知り絶句する。

「――す…みません」

「謝るなよ。なんていうか、観月さんにへこまれると、オレすげえ辛いんだ」

 優しい声音に、心臓を鷲掴まれた。

「――じゃ…」

「え?」

「観月…さんじゃない。あなたは、観月って…そう呼ぶんです」

 我ながら笑ってしまいそうになる。何が今までそんなに悲しかったのか。

(――このひとに、忘れられた。それが一番悲しかった)

 理解した途端、涙がぶわりと溢れ出た。あとから止め処なく流れ、どうしても止められない。悔しくて、申し訳なくて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

「戻って、下さい。朝昼晩とカレーを食べててももう怒りませんから。焼き芋してても、とりあえず水をぶっかける前に声かけますから!」

「観月……」

 そう、苦笑しながら呼ばれ。込み上げてきたのは愛しさだった。胸にもたれるように、頭を抑えられる。汗と赤澤の匂いがした。
 あやすように、抱かれた背を摩られ、観月はますます居た堪れなくなる。頭上で、しどろもどろと赤澤が喋りだした。

「あーあのさ…オレ、記憶ないけど。でも、これだけはなんつーか覚えてるっていうか、残っているっていうか」

 身じろぐと、観月の頬に片手を添え、親指で涙を払う。

「オレ、観月のことすげぇ好き。記憶失くしてから、ずっとお前だけ見てた。不二が云ったことの真偽もわからないようなオレだけどさ。でも、なんかオレがずっと気にしてるのはお前なんだよな。お前の台詞や表情ひとつにドキドキする」


 ごめんな、と涙で濡れた唇を、今度はなぞりあげる。観月の背筋に甘い痺れが走った。潤んだ眼差しに、仄かに熱が加わる。誘われるように、赤澤は唇を寄せた。

「オレ、お前のこと…こういう意味で好きだ」

 重なった唇は、最初は窺うようにぎこちなく触れ、拒絶されないと知ると、再度深く合わせた。何度か角度を変えると、唇を薄く開かれたのに気をよくし、舌を差し入れた。深く、味わうように丹念に。観月がそれに応えると、赤澤はそれが合図としたかのように体重をじょじょにかけていった。

「……ん」

 時折漏れる声が、自分でも恥ずかしいほど甘い。観月は紅潮する。気づけばベッドに押し倒されていた。口づけは深くなる一方で、自然背が弓なりになる。この熱と重みを心地よいと感じてしまう己を恥じるも、手放す気持ちにはなれなかった。

「観月…」

 吐息にのせ、男が呼ぶ。赤澤は指をシャツの裾から入れると、滑らかな肌を確かめるように触れていく。そのつど他人に触れられることに慣れていない躰は、びくびくと震えた。唇が首筋から鎖骨へ。シャツの上から胸の尖りを噛まれれば、熱い息とともに声が出てしまう。赤澤は観月のスラックスのベルトを外しにかかった。難儀して外すと同時に、一気にジッパーをおろされ直に触れようと指が動く。

「―――っ!」

 観月の脳裏に、昨日の記憶が生々しくも蘇った。

 そもそも何もかもを忘れてしまっている赤澤には黙っていたが、キスなど今まで何度もしている仲だった。ただ、そこから先はまだで、昨夜とうとう焦れた赤澤がむりやり――

「いきなり、すぎるんで、す!」

 我に返って突き飛ばした。

 あ、っと思った時には遅かった。昨日とまるで同じ場面を、スローモーションで見ているかのように、赤澤は後ろへと倒れた。まさかそこで拒絶に合うとは思っていなかった赤澤は、気構えなどできているわけもなく昨日も勢いよく吹っ飛んだのだ。そして今回も、やはり机の角に頭をぶつけた。

「い…っ!」

「赤澤!」

 マズイと、観月は上体を起こし、倒れた赤澤を窺う。足を縺れさせながら、側に駆け寄った。

「赤澤、赤澤!」

「いってぇ〜!」

 顔を顰めて、うめく。意識のあることに、観月はほっとした。

「赤澤…ごめんなさい。大丈夫ですか? あれ以上のバカになってませんか?」

「…つーかひでぇよ、観月。そこでいきなり拒絶っすかあ?」

「だって…だって…」

 まさか恐かったとは云えず、口篭もる。

「は…ずかしい…んです」

「そっか…急ぎすぎたんだな。悪い」

 首まで真っ赤になって俯く姿に、赤澤は目を細めた。後頭部の痛みに耐えながらも、抱き締める。

「オレ、お前のことマジで好きなんだよ。だから、大切にしたいって思ってたのに、焦って悪かった」

「――思ってた?」

 過去形な台詞に、観月が鋭く突っ込む。赤澤はうろたえた。

「え、いや。今も思ってるぜ、もちろん。お前がいなきゃ、オレ正直こんなにテニス部を大事になんてしてなかったと思うし。お前に出会えて良かったと」

「僕との出会い、覚えてるんですか?」

「当たり前だろう。忘れるかよ。初っ端から胡散臭気にオレを睨んだ挙句にケンカ売ってきたくせに」

「あなた…記憶が戻ってるんですね!」

「え? あ、そういやそうだな」

「記憶戻ったことにさえ気づかないとは…本当に呆れたおバカさんですね」

「あははは、や、お前が可愛いくてそれどころじゃなかった」

 相手の顎に掌をぶつけ押し退ける。上を向かせられた赤澤は「照れるなよ」と嘯いた。

「あなたは…! 僕がどんなに心配したかっ」

「うん。わかってる。ごめんな、観月」

 押し退けていた手を掴まれて、額に額を合わせられる。戯れるように何度も軽いキスをされた。観月はますます赤くなる。
 再度、甘い雰囲気が二人を包んだときだ。

「また、なんかやったの? 凄い音したけど」

 ガチャリ、とドアが開かれた。

 思わず視線を出入り口に向けてしまった観月は、木更津とおもいきり目が合ってしまう。
 しばらく、微妙な空気が流れた。それを破ったのは赤澤だ。

「あ、オレ記憶戻ったから」

「あっそう。で、今は仲直りの最中?」

「おう」

「お邪魔さまでした」

 バタン。とドアは何事もなかったように閉められる。

「さあ、これで邪魔者は消えたぜ」

「――――っ!」

 

 

 

 

 

 翌日。

 傷だらけになっていた赤澤に、記憶が戻ったことを告げられた後輩達はあまりに恐ろしい想像しか浮かばず。触れるもの皆傷つけるギザギザハート並に機嫌の悪い観月に、どのようにして記憶が戻ったのかを聞くこともできなかった。

 しかしそれ以降。とりあえず、赤澤が学校で焼き芋をしていても、水をかける前にひと声かけるようになった観月である。もちろん、即座に容赦なく頭からぶっかけるわけだが。

 それもまた、屋上の上の烏にまで及ぶ愛のなせる技だろう。


















 ■愛は屋上の烏に及ぶ■
【その人を愛すると、その人が住んでいる屋上の烏にまで愛が及ぶという意味】
去年の冬コミで出したコピー本です。
『赤澤くんの彼女の事情』とは繋がってませんが、同時期に書き始めてたので
最初のほうが似ているんですよね。
 途中で赤澤くんの〜が煮詰まって、急遽方向転換してできたのがこっちの話でした。
 アニメベースの話です。
 何話か忘れましたが海堂が記憶喪失になったあとの出来事と思って下さい。






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