この所、充が休日に俺を誘う回数が増えた。
家の都合があるから、全てを了承することはできないにしても。
なるべくなら、充の勧めに従いたかった。
充はどこかー苦しそうな顔をしていたから。
もうすぐ、三年生になる。
嫌でも将来のことと向き合わなければいけない時が来る。
ーボスと、別れなくちゃいけなくなる時が、来る。
どんなに俺が一緒に居たくたって、駄目なんだ。
俺とボスは生まれからして違ってるし。
いつかはー離れるんだ。
だから、今のうちに。
ボスと一緒に居たい。
たくさん、思い出を作りたい。
夢路
桐山が自転車に乗ったことがないと聞いた時充はとても驚いた。
しかしそれにも頷ける。彼が自転車に乗る必要がなかったのだ。
城岩町随一の豪邸に住まう彼を迎えに、学校まで黒塗りの高級車がやってきた事も一度や二度のこと
ではなかった。
やはり彼とは住む世界が違う。そう考えてふっと溜息が漏れた。
けれどそれは、自分が知らないのと同じく、桐山にも知らない世界があって。
自分がそれを教えることが出来ることを示していて。
錆付いた自分の自転車に乗り、らしくもなくふらつく桐山を見たときは思わず笑みがこぼれた。
何でも出来るように見える桐山でもやっぱり最初は戸惑うものなのだ。
それでもさすがというべきか、その日のうちに桐山は自転車を華麗に乗りこなしていた。
今日は自分の家にあった予備の自転車も動員して(錆付いて、ブレーキをかけるたびに派手な音がするのが難点だが使えないことはない)
桐山と一緒にサイクリングに来ていた。
「充。」
ブレーキをかけて、桐山が呼ぶ。
「ん?どうしたの、ボス」
「ここから先はどちらに行けばいいのかな」
「あっちのほうだよ」
「そうか」
「でも少し一休みしようぜ。こっからきついとこ多いからさ」
「ああ」
充の勧めに従い、桐山は自転車を停めた。
一面雑草で覆われた、満足に舗装されていない道の脇に二人は腰を下ろした。
城岩町は自然が多く残っている。
小学生の頃は子供らしく充も日が暮れるまで友達と泥だらけになって遊んだ。
今はさすがにそんなガキっぽいことはやらないが、長い休みの時には一人で山まで自転車で
登ってみることくらいならあった。
高校生になったらちゃんと免許を取ってバイクで行ってみたいなどと考えているが。
高校ー。
充は桐山のほうを見た。
端正に整った横顔が視界に納まる。
きっちりと整えられたオールバックは、大分襟足が目立って来た。
一年生のとき以来、ずっと桐山はこの髪型を変えていなかった。
充が勧めた髪型。気に入ってくれているのだろうか。でも、桐山がそんなことに固執しているようには
どうも思えなくて。
高校生になったら。
桐山はやはりこの髪型をやめてしまうだろうか。
自分と同じ高校に行くはずのない彼。
オールバックの髪型をやめるのとほぼ同時に、きっと自分のことも。
そう考えて、何だか胸がぎゅっと締め付けられるような感じがした。
そっと手を伸ばし、彼の髪に触れる。
「…なんだ」
「髪、だいぶ伸びたな」
「ああ。切りに行っていないからな。暫く」
艶やかな黒髪はさらさらと充の指をすり抜けて落ちた。
額にほんの少し下りた後れ毛をかきあげて、撫で付ける。
何だか花に似たようないい香りがした。
白い額に充は口付けを落とした。
桐山はほんの僅かに眉を上げた以外、特に表情を変えることはなかった。
春の訪れは早かった。
つい最近まで檜皮色だった山々は明るい若草に覆われていた。
少しむずがゆいような、それでいて柔らかく優しい風が流れる。
学年末テストも終わり、もう間もなく三年生たちは城岩町を去っていく。
数分休んで、再び走り出し、上り坂に差し掛かった。
「ボス、大丈夫か?」
坂道が急になってきたので、充は桐山を気遣い振り返った。
桐山は無言で頷いた。
ちゃんと、桐山はついてきてくれているだろうか。
無性に不安になった。
理由は分からないけれど。
桐山がどこかへ行ってしまうという漠然とした不安は、常に充の頭の隅にあった。
いつだったか、笹川たちと将来について話したことがあった。
「高校くらいは行っとくんじゃねえ」
笹川と黒長、それに月岡、充の四人が出した結論。
「案外俺たち高校も一緒だったりしてな。したら充とは十年以上の付き合いだな」
「まだ決まってねえだろ。お前今のままの成績で高校行けんのかよ」
「お前に言われたくねえな」
笹川と居るとどうも喧嘩のようなやりとりになってしまうのだが、その雰囲気も嫌いではなかった。
「あたし、男子校行こうかしら。ん、でもやっぱり無理よねえ」
悩ましげな顔で呟いた月岡に、皆が一瞬凍りついた。
その場に桐山だけがいなかったのが、妙に印象的だ。
ざっと突風が吹きつけた。
「充。」
物思いに耽っていた充の耳に、澄んだ声が聞こえた。
「ここから先はどう行けばいい」
桐山は前方を指差した。
先ほどと同じ質問だった。
「え…そのまままっすぐ、だけど」
充は首を傾げた。
桐山が方向を尋ねる意味が良く分からなかった。
そんなことを聞かなくても、自分について来ればそれで済む話なのに。
「そうか」
桐山は軽く頷くと、くるりと背を向けた。
「ボス?」
かしゃん、とストッパーが戻る音。
桐山はもう自転車を漕ぎ出していた。
唖然とする充の前、桐山はとても早いスピードで走っていった。
自分に合わせてゆっくり来てくれていたのだ。今まで。
そんなことが頭に浮かんで、ぼんやりとしているうち、桐山の姿は、見えなくなってしまった。
「ボス!」
充は慌てて自分も自転車を漕ぎ出した。
思い切りペダルを踏んだ。ほんの少し足がだるかったが、そんなことはどうでもよかった。
追いついていたかった。
いつも。
どんなささいなことでもいいから。
桐山の傍に、出来る限り近づいて。
桐山が手の届かない場所に行ってしまわないように。
桐山に追いついたのは峠に差し掛かったあたりだった。
桐山は自転車に乗ったまま静かに佇んでいた。
「ボス…」
充はぜえぜえと肩で息をしながら、桐山を呼んだ。
桐山はそんな充をじっと見詰めて、それから、言った。
「…もっと早く漕げば目的地に辿り着けると思った」
相変わらずの無表情で、形の良い唇が紡いだ答えに充は少々戸惑いを覚えながら、言った。
「本当はさ、早く行くことより、ゆっくり景色とか見るのが目的なんだぜ、ボス」
途中にいくつか桐山に見せたいスポットがあった。
可愛い花(今更自分がそう思ってしまうのも気恥ずかしいが)が、今の時期から咲いているのはここだけだったし、
珍しい鳥が巣作りを始めているところもあるから、そういったものに興味を抱く桐山に見せてあげたいと思って。
全部あっという間に過ぎ去ってきてしまった。
桐山は僅かに首を傾げてから、言った。
「…充は止めなかった」
桐山は道の脇に自転車を停めた。
充もそれに続いて同じように停めた。
…俺が追いつけなかったのが悪いな。
充はしゅんとした。何だか、桐山に試されたような気分だった。
その期待に応えられなかった。自分は。
桐山は肩を落とした充を少しの間見詰めていたが、やがて不意打ちのように、その顔を覗き込んだ。
真っ黒い瞳がかすかに揺れていた。
白い手がそっと充の頬を挟み、唇に柔らかな感触が触れた。
先ほど充がしたお返しのつもりだろうか。
収まりかけていた心拍数が再び増す。
充は桐山のうなじに触れ、優しく撫でた。
自分の胸に抱き寄せると、桐山はぎゅっとしがみついてきた。
こうされていると何だか桐山に甘えられているようで、嬉しかった。
「充は。…いつも俺を止めに来る」
桐山はかすかに憂いを含んだような声で言った。
充はそっと桐山の頭を撫でて、言った。
「…俺がいない時、どうすんだよ、ボス…」
いつか来る別れ。
先ほど桐山を見失ったときに痛感した。
とても辛い。それは。
桐山がたとえ自発的に自分から離れていかなかったとしても。いずれは。
その想いが表情に表れていただろうか。
桐山はまた不思議そうに首を傾げ、問いかけてきた。
「…いなくなるのか」
シャツを掴む桐山の手に力がこもった気がした。
「充は、俺のそばにいなくなるのか」
「…仕方ないんだよ」
問い詰めるように見詰めてきた桐山に、寂しい笑顔で返す。
充は桐山の髪をくしゃっと撫でた。
「…充は、いずれ俺に飽きるということかい?」
桐山がほんの僅かに寂しげな顔をしているのに気づき、充ははっとした。
「そんなことは…」
「俺は充と離れようとは思っていない」
真剣な顔で、訴えかけるように桐山は充を見詰めてきた。
ーああ。いつだって桐山は自分に対して真剣な顔で向き合ってくれた。
桐山の語ることに嘘偽りなど全くない。
一生懸命に自分を見つめてくる桐山が、とても愛しかった。
「…それならさ、ボス」
安心させるように笑顔を見せ、彼の頬に口付けた。
「一緒にいられるよ。俺がボスと離れたいわけないだろ」
唇を離してそう言うと、錯覚だろうか、何だか桐山の瞳が潤んでいるように見えた。
帰り道は下り坂だったが、出来る限りゆっくり帰った。
桐山に見せようと思っていた風景を二人で眺めながら。
陽が西の空に落ちていくのも二人で見た。
桐山との別れ際のキスは、いつものように切ない気持ちにはならなかった。
また会える。一緒に居られるという安心感が充の胸に広がっていたせいだろう。
ボス。
ずっと、
ずっと、一緒に居よう。
ボスがそう思っててくれて。
俺がそう思ってれば、何があってもきっと大丈夫だから。
ーボス。
ずっと一緒に居ような。
おわり