水鏡
「それくらいでいいんだよ、ボス」
血まみれになって気絶した男に、もう一撃を与えようとした手を、充が止めた。
もう相手が戦闘不能になっていることはわかっていたがーもう少し、殴ってみるのも悪くないと。
そう考えたから、殴ってみようと思った。それだけだった。
だが充がやめろと言うのなら、それも悪くないと思った。
加減を知らなかった俺にいつも歯止めをかけるのは充だった。
充なりの基準があるらしい。…俺には、それがよくわからなかった。
俺は、傷つける相手に対しては容赦無くやれと習った。
一度、聞いてみた事がある。
「なぜ向かって来た相手に手加減をする必要がある?」
「なぜって…あれだけぶちのめせば相手だってボスがすげえ強いってこと充分分かるだろ」
充はいつになく真剣な顔をしていた。
「それで充分なんだ。分からせれば。あとは、必要以上に痛めつけなくたっていい」
これ、俺が勝手に決めてる事なんだけどな、と付け加えて、充は少し笑った。
喧嘩しか自分を表現出来るものが無かった、出会ってすぐの頃、充は俺にそう言った。
充にとって、俺は唯一絶対の王なのだという。俺には、「王」がどうあるべきものなのかがわからなかった。
だから、充の望むままに、充の勧めるままにして、今まで過ごしてきた。充はそれが嬉しいようだった。
いつのまにか行動の物差しとしてコインを使う機会はほとんどなくなっていた。
充が居たから。
必要な事は、充が教えてくれたから。
全ての物事が、詰め込まれた知識通りのものではない事を、充の傍で知った。
充が教えてくれる事は、新鮮だった。だからついて行った。
俺の中には基準が存在しない。…充と居れば、いつか、わかるようになるのか?
いつか。
コインが月明かりを反射して煌いた。
とめどなく血を流す金井泉が、砂浜に沈んでいた。
もう既に事切れていた。
―手加減はしなかったのだ。
充は止めには来なかった。
「このゲームに、乗るんだ」
手加減など必要ない。―そう、決めた。
逃げようとした黒長をつかまえて、抵抗しようとしたのをナイフで喉を切り裂いた。
黒長は涙と血液を噴出させながら倒れた。
安堵したような顔で走り寄ってきた笹川が、二人の死骸を見て青ざめるのを認め、笹川の後ろに回って
拘束した。黒長よりもしぶとく抵抗したけれど、存外、あっけなく喉を切られた。
学生服を脱いで、一息をついた。
充ももうすぐ来るだろうか。
もう、遅いけれど。
少し、充と話したい気持ちになった。
…よくわからない何かが、胸の中で渦巻いていた。
やって来た充は驚いたような顔をした。
…当然の結果か。
黒長も、笹川も。ー同じだった。
「俺はどっちでもいいと思っていたんだ」
そうだ、どっちでもいい。
…どっちでもいい、はずだ。
俺は今までずっとそうだった。
何もかもどうでもいい。
充の視線が手元に落ちる。
銃が握られていた。
やはり、お前も俺を殺そうと思うのか?
俺は手にしたマシンガンの安全装置を解除した。
その間にー充、お前が俺を撃つのなら、それもまた、悪くない。
マシンガンを充に向けた。
俺は少し奇妙に思った。
充は銃を持ち上げなかったのだ。
…何故だ。
既に俺の指は引き金にかかっていた。
「それくらいでいいんだよ、ボス」
充の声が頭の中で木霊した。
…もう、遅かった。
弾を撃ちつくすと、充は壊れた人形のように崩れ落ちた。
あっけない。
充がどんな顔をしていたのか。
…見る暇すらなかった。
銃弾が食い込むと人は死ぬ。
わかり切った答え。
だが、俺は確かめてみようと思った。
充。
お前は本当に、もう、死んだのか。
岩から降りて、充に近づく。
倒れている充の身体に触れる。
まだ温かかった。
でも。
もう息をしていなかった。
「………」
こめかみに走る奇妙な疼き。
指先に感じたぬめりと、錆びた鉄の匂い。
…充。
充はもう止まってしまった。
永遠に。
もう俺は止まれない。
二度と止まれない。
俺を止めてくれるはずの充を、俺が止めてしまったから。
そういう決まりだったんだ。俺は間違ってはいないだろう?
充はもう答えてくれなかった。
もう誰も俺を止めない。
物言わぬ充の亡骸を手から離した。
音もなく充の身体は砂浜に転がった。
「―充」
呼んでみた。理性ではわかっている。もう充が俺に答えてくれる事は無いのだと。
ざぶんと波が打ち寄せた。
もうここに用は無い。ここを去れと理性が命じている。
だが、
何かが俺を引き止める。
もう少しこの場に留まっていたいと。
こめかみがちりっとまた疼いた。
俺には。
俺には時々、何が正しいのかよくわからなくなるよ。
潮は満ち干きを繰り返していた。
充。
「俺だって頭悪いから、自分の考えが一番正しいなんて思ってないよ。でも」
砂に足が沈んだ。
「俺は俺が正しいって思った事しかやらない。…誰が何と言おうが、それはずっと変わらないよ」
―充が教えてくれるなら。
俺はそれが正しいと。そう、思っていたんだ。
もう充は居ない。
正しい事など、もうわからない。
ゲームは始まっている。―俺はもう止まらない。
…充。
俺はもう止まれない。
おわり
後書き:
桐山が殺人マシンと化す経緯。
沼桐妄想だと、充が桐山を正しい方向に導いてくれてた、っていうのがあるんです。
私の中で、桐山は善悪の区別のつかない子供ですから。
YCでの桐山の残虐さに思うところあって書きました。
充がいなくなってから、僅かに残っていた(芽生えた)桐山の人間性みたいなものは全て
奥に沈んでしまったんじゃないかな。
個人的には黒長も笹川も、自発的には桐山を殺そうとしなかったと思いたい。
桐山がそう判断しただけで。
充も、引き金に手はかけたけどやっぱり桐山を撃てなかった。
みんな、桐山が大好きだったから、ただ彼に捨てられたことがショックだったのではないでしょうか。
桐山はそして、そんなに想われているのに気がつけない。
そして自分も本当はみんなを大事に想っていたのに、気がつくことが出来なかった。
…妄想しすぎですかね(汗。