げっそりやつれた山田太陽が教室に戻って来たのは、六時間目の選択授業が終わりに差し掛かった頃だった。
同じく気力を使い果たした様な安部河桜がヨロヨロ戻って来るなり着席し、教科書も開かずずっと俯いていた様に記憶している。クラスメートは勿論、ホワイトボードへペンを走らせていた教師までもが何事かと沈黙する程には、悲惨な風体だ。
「あは、たーだいまー」
無駄に大きなタッパを抱いた隼人と言えば相変わらずヘラヘラ笑いながら稲荷寿司を食べていたが、会議開始直後に頼んだと言うそれは、戻って来た時点で38個もあったと言うのだから侮れない。ストッパーが居なければ果てしなく食べまくる彼にしては珍しい光景だと、気付けたのは会議に出席した他の左席役員だけだ。
某オタクとウフフアハハ微笑み合いながらプリントをやっていた錦織要が思うに、総長は字も絵も上手い、プリントの余白になりたい、…らしい。
彼はオタク以外に興味がなかった。
余り触れたくなかったがもう一人、ピンっと尖った狐耳とふさふさな尻尾を翻す長身と言えば、会議終了とほぼ同時に姿を消した。
いや、満面の笑みの二葉に捕まったと言った方が正しいかも知れない。
「先日ご依頼頂いた荷物が届いてますよ、陛下」
「む。実に18時間待ち侘びたぞ、年下攻めアンソロジー」
中央執務室で数日振りに仕事する会長が見られたと聞くが、いつになく真面目な勤務態度の理由がBL書籍だと知る者は居ない。
いや、いつになく真面目な勤務態度の裏側で、ものの数分で仕事を終わらせていた筈の神威が然しデスクから離れようとしなかったのは、何か別の理由があったのかも知れなかった。
「ほう、…陰影は削る事で生み出せるのか…む、力加減が些か難い」
「何だ帝王院、カッターなんざ凝視してやがって。とっとと仕事しろ、そしたら昼寝しても、」
「時に高坂、ベタフラッシュは百万の書類選考より難しい様だ」
「…はぁ?何だ、ブレザーにゴミが付いてんぞ」
「即ちトーンカスと言う」
翌日の学園新聞に創刊以来初めて4コマ漫画が掲載されたが、その作者を知る者はなく、またそれを読んだ人間も余りに少なかった。
但し、
「ぷはーんにょーん」
「俊、朝から老眼鏡掛けたサラリーマンみたいに新聞読んでるトコ悪いけど、醤油取って」
「太陽君は卵焼きにぉ醤油派なんだねぇ」
「鬼才現わるにょ!これは是非とも新刊のゲストイラストをお願いしなくてはっ!」
太陽のベッドの下に潜り込んでお泊まりしていた不法侵入者が図々しく桜の手料理朝ご飯をご馳走になりながら眼鏡を光らせ、はち切れんばかりの腹を叩いていた事は、
「えー、なんで卵焼きが甘くないにょー?」
「は?卵焼きは塩味っしょ(;´∩`)」
「ドレッシングにバジルソースはありませんか」
「野菜が足りないぜ」
「さっつん、豚汁いっぱい持って来たから使って。山つんも朝はがっつり食えよー、大きくなれないぞ!」
「師匠、つまらんモンで悪ぃけどつまんでくれ。カシューナッツのラングドシャだ」
部屋の主人である太陽と桜だけに限らず、無断でリビングに詰め掛けていたカルマ一同も知っている。
何故か皆、目の下にテディベアがくっきり浮かんでいたとか何とか。
「何か皆、いつもより凄味が増してる気がする…」
「隈が出来てるみたぃだねぇ。寝てないのかなぁ?」
静かにお代わりのご飯をよそっていた北緯が太陽を凝視していた事には、隼人以外の誰も気付かなかった様だ。
「班長」
「Subject:Accident from suddenly(ラブストーリーは突然に)、…開始」
「了解」
黄縁眼鏡を妖しく押し上げるモデルと、神妙に頷く北緯が見られたのはその日のHR直前だったとか何とか。
怪しげな二人は置いといて。
カルマを震撼させた集会の内容は、後日記そう。あらかじめ記しておくが、被害者は山田太陽一匹だと思われる。
「おはよう、今にも死にそうな顔で膝抱えてるトコ悪いけど、此処は喫煙所だったよねー」
今日はいつもより暑い、と。
にこやかに呟きながら喫煙所の扉を開けた男は、肩に引っ掛けていたジャケットを椅子代わりのパイプに投げた。駐車場などで侵入禁止様に使われる様な鉄パイプは、背後の硝子壁から僅かに離れて床に刺さっている。座るにもそれを支えにして町並みを眺めるにも丁度良いアイテムだ。
「僕みたいな愛煙家が煙を嗜む所であって、君みたいにこの世の不幸を吐き出す所ではない筈だけど?」
にも関わらずパイプではなくその下に屈み込んだ男と言えば、高層ビル17階の絶景を楽しむでもなく寧ろ背を向けたまま、今にも投身自殺しそうな表情である。
いつから居たのかは不明だが、出勤したばかりの社員や警備員が秘書室に駆け込む程度には被害を出しているのだろう。
「聞こえてないのかなー、遠野総務課長。そろそろ重役会議が始まるんだけど」
普段何が起きても動じない専務にまで『どうにかしてくれ』と泣き付かれてしまった今現在、株式会社笑食グループ社長として会議よりも優先しなければならない事態、と言うのか。高々総務課長のお蔭で、だ。
「また時間重視節約重視がモットーの経理課長に嫌味言われても知らないよ」
家では全く吸わない自称愛煙家が煙草を取り出す気配はない。
ならば何の用だと聞かれたなら、爽やかに微笑みながら『煙草を吸う為だよ』と答えただろう彼は、知る人ぞ知る極度の天邪鬼だった。
まかり間違っても『心配したんだ』などとは言わない所が、サディストたる彼の所以だろう。飴と鞭とは言ったが、鞭鞭鞭鞭鞭飴鞭鞭鞭…と言った具合に八割方痛め付ける彼の優しさは宝くじ最低賞金の当選率並みだ。十枚買えば一枚当たる宝くじ、山田大空の優しさは正にそれと並ぶ。
「…一人にしてくれ」
「反抗期?」
「今はお前の顔を見たくない」
「ははーん、さては夫婦喧嘩でもしたんだねー?」
笑い飛ばしても、俯いたままの男は反応する所か益々沈黙した。おや、と片眉を跳ね上げ、会議で使う資料をファイルケースから取り出す。中身は見なくても暗記しているから、この書類が燃やされようが奪われようが困る事はない。
「FTVの株式総会、今年は特に盛況だったみたいだね。何せ取締役以外の筆頭株主が現れたんだから」
「…」
「これから徐々に広がっていくよ。小さな波紋が軈て渦になって、日本を呑み込んでいくんだ。
─────取り戻す為に」
漸く。
顔を上げた男の無愛想な表情に笑みが浮かんでいた。但し真逆に眼差しは冴え冴えと冷え渡り、今にも噛み付かんばかりに睨み据えている。
「取り戻す?…奪うの間違いだろう?」
「あのねぇ」
不安定だ、と。
一瞬にして理解した己の賢さに反吐が出そうだ。余り喜ばしくない状況だと今更ながら気付いて、本当に会議所の話ではなくなってきた。
「奪ったのは向こう、奪われたのはこちら。何を寝呆けてるんだい」
「お前の仕業か」
「僕の意思はつまり、陛下の意思だよ」
「俺から全てを奪うのが、お前達の意思か」
くつくつ。
肩を揺らす男が立ち上がる。安い量販店のスーツ、撫で付けただけの髪、まるで時が止まったかの様な実年齢に似合わない美貌、なのに漂わせる威圧感が彼を艶やかに彩っていた。
今の彼を見れば、普段上司をあしらっている総務課の部下達は揃って背を正しただろう。
「…僕が君の何を奪うって言うのかな?」
「全てを」
目を逸らした瞬間、負けだ。
食い殺される。この獰猛な生き物に。狂っているのは知っている。但し、此処まで酷くはなかった筈だ。いや、違う。
全て演技だと、勘違いしていたのかも知れない。騙されていたのだろうか。
「秀隆」
「俺はもう、お前達の犬じゃない」
ひたり、と。
笑みを止めた男がじっと見つめてくる。心臓が自棄に煩い。嫌な予感がする、と。無意識に右手を握り締めて、然し真逆に表情だけはいつも通りにこやかな笑みを浮かべ続ける。対等な友人である限り、易々負けてはいけない。
「穏やかで家族以外には寡黙な君らしくない台詞だ、ね」
「俺は遠野秀隆。そう、お前達の犬じゃない。妻と子供を守る、一人の父親だ」
「陛下だってそうだろう?愛する人とその子供を守ろうと、」
「は、…ははは、ははははは!ははははは!」
高らかに笑う声を聞きながら、こんなに楽しそうに笑う彼を見たのは何十年振りだろうか、と、僅かに後退った足を踏み耐えて息を呑む。
不安定所の話ではない。どうなってしまったんだと瞬いて、
「アイツに愛なんて存在しない。無慈悲な帝王院秀皇、残酷な帝王院秀皇、俺を人殺しにした酷い飼い主」
「秀隆!」
「お前を不自由にした、酷い飼い主。アイツが居たからお前はいつも、アイツさえ居なければ、」
「いい加減にしなよ」
「アイツは捨てたんだ。だから俺が貰ったんだ。一度捨てたものを今更返せと言うのか、お前達は」
「違うだろう!俊江さんはずっと、」
「シエを愛しているのは俺だけだ。シエを奪おうと企む人間は、全て消してやる」
「秀隆っ」
「俊は俺の子供。俺の血を引いた俺の息子。そうだ、血液検査をすると良い。アイツが絶望するのを、笑ってやる」
駄目だ、届いていない。
今度は全身で笑う男がパイプに手を付いて、ゆらり・ゆらり背を揺らした。
「帝王院秀皇はAB型」
まるで時が止まったかの様に昔から全く変化していない美貌が、真っ直ぐ。
「息子の神威と同じ、AB型。キングは………キングから神威は、産まれない」
「ひで、たか」
「実の子供を捨てた無慈悲な帝王院秀皇、俊はB型。シエはO型。俊は俺の息子」
いつからこうなった、と。自問自答した所で答える人間など居ない。
「…俺から奪おうとする人間は皆、消してやる」
狂った様に笑い続ける男の声が響き渡る喫煙所。
背後で開いた扉が一拍置いて閉まる気配に眉を寄せて、異様な雰囲気を目の当たりにしただろう罪無き社員へ謝罪に似た溜息一つ、
「AB型とO型から産まれるのは、形無しに含まれる全て。…彼は父親瓜二つだよ」
ぴたり、と。
止んだ笑い声、ぼんやり見つめてくる眼差しを真っ直ぐ見つめ返し、頭を振った。会議に間に合わなくなる。
「ナイト、だったね。陛下が秀隆に与えた名前。だから神威には価値が無くなった。…紅蓮の君から伝言だよ」
「…俊は、俺の息子」
「グレアム男爵が後継者を指名出来るのは一度だけ」
「シエは俺の花嫁。皆に祝福されて、」
「神威には継承権が産まれる前からなかったんだ。ナイト、彼が死なない限りルークに爵位は与えられない」
「いつしか息子が産まれた。俺だけの、家族」
「陛下はキングから譲り受けた名前を秀隆に与えた。判るかい?本来ならグレアム男爵は、…秀隆なんだ」
ぶつぶつ呟いていた男が寝起きの様な儚さで瞬くのを見た。そのまま沈黙した友人に背を向けて、ドアノブに手を掛ける。このままでは自分も狂ってしまいそうだ。
「万一後継者が居なくなった場合、爵位は元の持ち主に戻るそうだよ」
いや、とっくに狂っているのかも知れない。陥れた義父の前ですら何の罪悪感もなく笑える自分は、可愛い我が子を渦中へ放り込んだ自分は、もう遥か昔に。
「後はその人が退位するか、新しい後継者を指名するしかないんだって。
…意味、判るよね?後は自分で考えなよ」
沈黙したままの親友から目を逸らし、まるで逃げる様に扉を閉める。
「…あーあ、やっちゃった」
「あっ、社長!また遠野課長が居ません!」
「んー、いいよ今日は。別に居なくても困らないし」
「そうですか?でも、もしかしたら会長がお見えになるかも知れませんし…」
「来ない来ない。うちの会長はサボる事に命を懸けてるからさー、高校時代から。ほんと、毎回毎回僕に全部丸投げしてねー、…嫌になっちゃうよ」
「社長?」
「副社長でも居たら、少しは楽になるのかなー?どう思うかい」
目を丸くする秘書を横目に小さく笑って、窓から外を見た。
ああ、
「いい天気だ。」