キスの雨を降らせて
首に巻いたタオルで濡れた髪を拭きながら、廊下一面に広がる真っ赤な絨毯の上を歩く。
今日は良い宿泊所に恵まれた。豪華な食事と隅々まで整備の行き届いた設備に、対応の丁寧な従業員。どこを見渡しても清潔感が漂う心地良い空間に一行からは感嘆の声が漏れた。特別綺麗好きというわけでもなかったが、やはり目に付く部分が全くないというのは気持ちが良い。シャワーにですら思わず時間をかけてしまうほどには承太郎もこの空間に癒されていた。
皆がシャワーを浴び終えて、もうそれぞれ部屋で寛いでいるであろう頃にやっと承太郎も部屋へと戻る。
自分の部屋番号をしっかりと確認して部屋の中へと入ろうとしたときだった。
『Tout,tout pour ma cherie,ma cherie〜♪ Tout,tout pour ma cherie,ma
cherie〜♪』
ドアノブに掛けた承太郎の手が止まる。ドアの向こうから聴き覚えのある曲が聴こえた。
今日は施設が良質なだけあって部屋数を多くとることはできず、三人部屋と二人部屋の二部屋に別れて利用することになっている。軽い話し合いの結果、承太郎はその二人部屋の方に泊まることとなった。勿論皆で話をしていたのだから部屋を共にする人物のことは把握していた。
だからその歌声の主の正体が誰なのかは決まっていたのだが、普段の声とは違って甘く聞きざわりの良いそれに、ついドアの前で立ち止まって聴き入ってしまった。優しく紡がれるその旋律はまるで誰かのために捧げているかのような、淡い願いを匂わす繊細さがあった。承太郎はドア越しに聴くその声に釘付けにされた。人に披露するのが目的でない、自分の世界に入り浸っているからこそのか細さが窺える淑やかな歌声。そんな珍しい彼の歌声を1人、十分に堪能する。そしてそのまま、もうすぐ歌が終わるだろうところまで確認してから、承太郎はようやくそのドアノブを捻って部屋の中へと入った。
「…ミッシェル・ポルナレフか」
「うわッ!?…な、なんだ、承太郎かよ。驚かせやがって…。つーかシャワー長すぎんだろッ!すっかり相部屋だってこと忘れてたぜ」
余程不意打ちの登場に驚いたのか、ソファーにゆったりと腰掛けていたポルナレフの身体がビクリと飛び跳ねた。承太郎はそんなリアクションを大袈裟に思いつつも横目で軽く流すとドアを静かに閉めて施錠した。
相部屋だと忘れていたのもそれらしいが、忘れていたのに戸締りの一つもしない抜け目もまた問題か。敵の気配に敏感なわりに護身には鈍感だから目が離せない。前例もあっただけに一人部屋のときが幾分気がかりだが、そんな人の気も知らずにその後もつらつらと文句を並べるポルナレフを見ると、まぁいいかとも思ってしまう辺りが余計に厄介だと承太郎は思った。
「……って待てよ、ミッシェルって分かったってことはこの歌知ってンのか!?」
途中で言葉に詰まったのかと思うと、ポルナレフは急にハッとしたような表情で姿勢を正し始めた。
「彼の曲は日本でも有名だからな」
特にポルナレフが歌ってた曲は大半の日本人が耳にしたことがあるだろう、と承太郎が言葉を続ける。
元々自分は洋楽をよく聴く方であったが当時の売り上げを考えると、普段は邦楽しか聴いてないような輩でも多くの者がレコードに手を伸ばしたのだろう。日本で有名なフランスの歌手といったら真っ先にミッシェル・ポルナレフと挙げる人も多いのではないだろうか。そんな風に思った。
「シェリーに口づけ…だったか、その曲」
「シェリーに口づけェ?なんだそりゃあ?それ一体どこの翻訳だよ」
「違うのか?日本ではそう呼んでるが」
生憎フランス語には詳しくなく、シェリーという名の女性へ捧げるラブソングくらいにしか把握していないが、確かに日本ではそう認識されていたはずだ。承太郎は頭の中で曲の情報を整理しながら、ポルナレフの座るソファーとは向かいのソファーに腰を下ろした。
「ちげーよ!!さてはお前らTout Tout Pour Ma Cherieの歌詞全く理解してねーなァ?」
「日本での洋楽なんざそんなもんだ。大抵はリズムやフィーリングで曲を楽しむからな。英語歌詞なら俺もまだ分かるんだが、他の国の言葉まではさすがに知らん」
承太郎は母親がイギリス人とイタリア人のハーフ、父親がミュージシャンという国際色と音楽に富んだ家庭だった。特に祖父のジョセフは音楽が好きで、アメリカに移籍してからは更に熱が加わり、日本に遊びに来る度に承太郎に洋楽を教えていった。そんな祖父の娘である母親もまた洋楽が好きだったため、承太郎はアメリカで流行った曲や英語で歌われた曲は大体歌詞まで理解できるようになっていた。けれど言葉が通じるのは所詮身内が使う言語までで、他のフランスやらドイツやらの曲は気に入って聴いてはいたがその歌詞の意味までは理解できなかった。同世代の他の者よりは洋楽に詳しいと自負していたが、さすがに他ヶ国の言語を勉強しながら曲を聴こうとするほどには思い入れはなかった。
「そりゃあ俺も日本の曲の歌詞は知らねーけど…。それはそれでなんか切ねぇな。歌詞と曲調がマッチしてるからこそ映える曲なのによォ…」
ポルナレフが天を仰ぎ見ながらボヤく。
ポルナレフの気持ちは分からなくもない。承太郎も歌詞が分かってから聴く音楽の楽しさは経験していた。日本でも大人気なマイケル・ジャクソンの曲も歌詞を理解するようになってから再び聴き直すと、ただ漠然と格好良いと思ってた第一印象とは違ってその曲の臨場感というものをより味わうことができた。例えばBeat
It。とにかく追っ手から逃げ続けろと必死に訴えかけてくる歌詞は『今夜はビート・イット』なんてのんきな邦題を付けたのが謎なくらい焦燥感に煽られる。
そんな例のことを思うと『シェリーに口づけ』という邦題も曲の捉え方を間違っている可能性は十分にある。あまり気にしたことはなかったが、自国の人気曲が本来とは違う認識で広まってしまうのは確かに気分の良いものではないだろう。
「本当はどんな歌詞なんだ?」
承太郎が尋ねる。
「お!そうだなぁ〜、ここでサラッと言っちまうのも面白くねーかな。とりあえずお前はどんな曲だと思ってンだよ?日本じゃあ、なんだっけ、シェリーに口づけだっけか?って呼ばれてるんだろ?」
承太郎が話に乗ってくれたのが嬉しかったのか、急に活気を取り戻したかのようにポルナレフの目が輝く。
身を乗り出しながら食い気味に話すその姿に承太郎は相変わらず分かりやすい奴だと思った。
自分の発する言葉の一言一言に表情を変えるポルナレフは、承太郎にとって面白くて愛おしい存在だった。最初出会ったときはその変わりように着いていけないなんて思ったこともあったが、その思考の仕組みが分かるようになるとなんとも分かりやすくて、その付き合いやすさから傍にいることが多くなった。そして長い間傍にいると普段皆と混ざって連んでるだけでは分からないところも見えるようになってきて、根底にある温もりに直に触れる機会も増えた。明るくて優しいという言葉だけでは表現しきれないそれらがポルナレフには満ちていた。決して楽な道のりじゃないこの旅でもポルナレフのそんな性格に何度も救われてきていた。
承太郎にとってポルナレフと共にいることは旅中の安らぎであり楽しみの内の一つだった。お喋り気質なおかげか、ポルナレフの話は毎日が新しい発見であり、そのフランクさはこんな状況の日々でも肩の力を抜くことができるほど馴染みやすいものだった。そしてこうやってポルナレフが嬉しそうに自分に寄ってくる姿が承太郎にとっては密かに感じている幸せでもあった。
だから普段ならば一言返して終わってしまうような会話でも、ポルナレフ相手には長く続くような振りをしてしまうことだってもはや癖みたいなものだった。
「日本でのタイトル通りだな。ミッシェルからシェリーって女へのラブソングだと思ってたぜ。そういやポルナレフの妹の名前もこの曲が由来なんじゃねぇかってじじいと話したこともあったな」
「シェリーがか?あー、確かに偶然にしちゃあよくできてるな」
まるで初めて聞いたことかのように、ポルナレフが目を丸くしながらも感心する。
そう、歌い手はフランス出身のミッシェル・ポルナレフ。そして目の前のにいるジャン=ピエール・ポルナレフもフランス出身で同じポルナレフという姓を持つ。そしてそんなポルナレフの妹の名がシェリー。ポルナレフの親はそこから妹の名を付けたのかもしれない、前にジョセフとそんな話をしていたことを承太郎は思い出していた。つまらない洒落か、なんてそのときは思っていたがせっかくの話題だ。ポルナレフの家族関係の話は普段話題に出しにくいこともあって触れにくかったが、今なら当たり障りなく聞けるいい機会だと承太郎は思った。
「俺はてっきりさっき口ずさんでたのは妹に向けてかと思っていたんだが、その様子じゃ違ったようだな」
「シェリーに向けてだってェ!?さすがにそれはねーぜ!!」
ポルナレフは笑いながらそれを否定した。
「そもそもこの歌にシェリーなんて女の名前は出てこねぇよ。cherieの意味のことを思えばシェリーの名前の由来だったのかもしれねぇとは思ったけどよ、綴りはちげーし、由来とか実際に聞いたことねぇから本当のことはわかんねぇな。ただシェリーって女への歌じゃねぇからって実の妹に対して歌うようなモンでもねーよ!」
ポルナレフがけたけたと笑う。
承太郎も歌詞が分からないだけに下手に言い返せない。
ただ、妹に向けてじゃなかったとするとどうしてあんなに優しげな声で歌っていたのかが妙に引っかかった。何か哀愁を漂わせるような、どこか意味深な歌声からすっかり妹を想っての歌だと思っていた。
けれどそうでないなら何故…。
承太郎はふと疑問に思った。ただ適当に口ずさんだだけにしてはやけに丁寧で柔らかで何かを思い浮かばせるような含みのある歌だった。明るい曲調なのにどこか寂しげなようなか細い旋律。一体ポルナレフは何に対して、否、誰を想って歌っていたのだろうか。
承太郎の胸がざわめく。
「ほぅ…。なら何を想って歌ってたんだ?」
「ヘ?」
「故郷に置いてきた女でも思い浮かべてたのか?無意識に口ずさんでたようには聴こえなかったがな。明るいミッシェルの曲にしちゃあやたら儚げに歌ってたじゃねぇか」
「お、お前マジでいつから聴いてたんだよッ!?」
明らかに動揺を見せるポルナレフに苛立ちを感じる。我ながら醜いな、と承太郎は思った。
身寄りのないポルナレフのことだ、独り身の間傍で支えてくれた女がいても何もおかしいことはない。辛い心情を悟って励ましてやった女がいるなら、良い女だったんだなと共に称えてやるべきだと心では思っているのに素直に聞いてやれない。
「誰に向けて歌ってたのか言っちまいな、ポルナレフ。今更言ったとこで大した支障もねぇだろ。それともなにか、人には言えねぇようなモンでも思い浮かべてたのか?」
知ったところでどうするのか、何故そこまでして承太郎に追い詰められる必要があるのか、無茶苦茶な展開にどれだけでもツッコめたはずなのにポルナレフは真剣に唸り始めた。承太郎はそんなポルナレフにチクリと良心を痛めたが、どうしても答えが気になってしまって悩むポルナレフを止めることができなかった。自分こそ知ったところでどうするのか、肝心なことは放っておいてただひたすら次の言葉を待つ。
「…クソッ!!あぁもうどうにでもなっちまえッ!!おい、承太郎。てめーこの曲の歌詞の意味知らねーんだよな!?」
バンッとテーブルに手をついて身体を乗り出したポルナレフの真っ赤な顔が承太郎の目の前まで迫る。
滅多に見れないその姿に思わず抱き締めたい衝動に駆られる。けれどそれが別の誰かを想ってのものだと思うと、なんとも言えぬ怒りも湧きあがった。
「あぁ、さっきの通りだ。全く知らねぇが?」
少し不機嫌そうに言葉を返す。
けれどポルナレフはそんな様子に構ってられないほどに追いやられているのか、度々目線を散らしながら更に顔を赤く染めていった。
…全くもって気に入らない。
「………おい」
承太郎のドスの効いた低音が響く。
「っだーーー!!!分かった!言うぜ、言ってやるぜ!あぁそうだよ、おめーだよ!俺はお前を想って歌ってたんだよッ!これで満足かっ!」
「なっ…」
思わぬ返答に承太郎の全てが固まる。
待て、今コイツはなんて言いやがった。俺だと言ったか。俺を想って歌ったと言ったのか。
聞き間違えかとも思ったが、目を逸らしながら片手で真っ赤な顔を覆うポルナレフの姿を見て間違いではなかったことを実感する。さっきまでイラつきしか感じなかったその態度が一転して愛らしさへと変わった。
「俺としたことが高校生なんてガキ相手に何テンパってンだか…。どうせ歌詞の意味分かんねーんだろ?ヘッ、せいぜい悩んでなッ!!」
強気に笑ってみせてはいるが、そんな顔ではかえってこっちの興奮を煽っているようなもんだった。
捨て台詞を吐いて一足先に場を離れようとしたポルナレフをスタープラチナで引き戻してその腕をしっかりと掴む。
「あっ、てめー!」
「待ちな、ポルナレフ。言っとくが俺はミッシェルのその歌をシェリーという女へのラブソングだと認識していた。だがてめーはシェリーなんて女の名は出てこねぇと言ったな?つまり俺は今、その歌をただのラブソングだと把握してる。するとてめーは、俺に対してラブソングを歌ってたと俺の頭では理解する。それで誤解や訂正はねぇんだな?」
承太郎の鋭い目付きがポルナレフを射抜く。
「お、お前がそう思ってンならそれでいいんじゃねーの?俺はPour
Ma Cherieがどんな曲だかについてはなんにも言ってねーからなッ!?」
かつてポルナレフがここまで動揺したことがあっただろうか。数多くの戦闘に巻き込まれ、共にピンチを乗り越えたことが多かったポルナレフだが、ここまで狼狽えたのは今日が初めてではないだろうか。
そしてそうさせたのが自分なんだと思うと、承太郎は嬉しくて仕方がなかった。
「んなこたぁ知らねぇな。俺はてめーから告白されたと受け取る。そしてそれに見合った対応をさせてもらう。もしそれがどうしても嫌なら歌詞の意味を教えるんだな」
どちらにしろ告白に変わりはないだろうが。と心の中で続ける。いくら邦題とはいえ『口づけ』という言葉が付けられていることと、そのフレーズには特に反応がなかったことから十中八九ラブソングだろう。ポルナレフが切なげに歌っていたことだけが気にかかるが、曲調からしてそこまで暗い詞にも思えない。勿論歌詞も気になるが今はそれよりポルナレフから好意を寄せられているという事実を確認することが最優先だった。
そんな承太郎に対してポルナレフ側も内心かなり葛藤していた。
最近薄々気付き始めた他の仲間とは違う、承太郎だけに感じる感情。
自分だけに見せる頼もしくて温かい微笑みに早まる鼓動。さり気なく触れた肌から感じる熱に反応する身体。
承太郎はいつも自分のピンチを助けてくれるからだ。きっと一時的に感覚が麻痺してるだけだろう。今まではずっと自分にそう言い聞かせてきたが、共にいる時間が増えていくにつれて普段のさり気ない会話ですらそれを意識し始めるようになっていっていることに気付いてしまうと、もはやポルナレフの中では自分に嘘をつくことができなくなっていた。
承太郎と久しぶりの相部屋で心を弾ませていた反面、あと何度2人でこうやって過ごすことができるのだろうかと思うと寂しくもあった。離れたくない、自分が持ってるものなら全て捧げてやってもいい。承太郎がシャワーから帰ってくる間ずっとそんなことを思い浮かべていた。するとそんな心境にそっと寄り添うかのように1曲のある歌が頭に思い浮かんだ。情熱的だけれどどこか優しくて、自信と愛に満ち溢れた母国の男の歌。それがTout
Tout Pour Ma Cherieだった。
置かれている状況のことなんかすっかり忘れて口ずさんだ想い。まさかそれが最初の方から承太郎本人に聴かれていたとは思ってもみなかった。聴かれていた恥ずかしさだけで死にたいくらいだというのに、そんな本人に追い詰められてしまってはもう逃げ道を考える余裕すらなかった。
そしていざやけくそになって言い逃げてやろうと踏み切ると、あろうことか引き止められ追い打ちをかけられるというこの様である。
(告白だと受け取られるのが嫌なら歌詞を教えろだってェ〜〜!?どっちも同じじゃねーかッ!)
もしここで俺が歌詞は教えないと言ってみろ。それに見合った対応っつーことは、勝手に男に告白されたと受け取って、気色悪りぃから今後は暫く距離を取らせてもらうっつーことだよな。
んで逆にだ。ここで俺が歌詞を教えてみろ。情熱的なラブソングに加えて俺が直にそれを伝えるっつーことは…。どっちにしろ気色悪がられて避けられるじゃねーか!…駄目だ、確実に詰んでやがる。日本じゃゲイはあまり認められてねーらしいし当然っちゃ当然だ。いや、俺は別にゲイじゃねぇ。前までは普通に女の子が好きだったし、ただ今は承太郎が好きなだけでゲイじゃあねぇ……よな?
ポルナレフの頭の中が更に混乱する。
「…沈黙は肯定として受け取るぜ」
痺れを切らした承太郎が最後の追い打ちをかけた。
「ま、待てよッ!……その、てめーが言うそれに見合った対応って……なんだよ……?」
聞いたところでどうしようもないなんてことは分かっている。
むしろ自分が傷付くだけで、聞いたところでメリットも逃げ場もない。それでもなんとか承太郎が結論を出すまでの時間を稼ぎたかった。覚悟を決めるきっかけが欲しかったのだ。
「…………酷いこと、しちまうかもな」
真剣な目で突き刺されたその言葉にポルナレフの顔が一瞬歪む。
分かっていたことだったが、やはりはっきりと言われるとなかなかくるものがある。詳しい事例を言わない辺りが優しいのかそれとも非情なのか。けれど可能性もなくなって全てが明確になった分吹っ切れた部分もあった。
「ッチ……。分かったよ、こうなりゃもうヤケクソだッ!!その酷いことっつーのをされるのに変わりはねぇだろうが、曖昧にしたまままも気持ちわりーし、歌詞の意味教えてやるよ」
ポルナレフはそう言うとハァと一つため息をついて、肩を落としながら備え付きのデスクに向かうとペンと紙を手に取った。
承太郎はその様子を見てようやくポルナレフの勘違いに気がついた。
「おい、さっきのは…」
「変なフォローとかすんじゃねぇーぞ!これ以上惨めな気持ちにさせんなっつーの…。この状況で今から文字に起こすこっちの気にもなれよ。まぁ歌ってんの聴かれてた俺が一番間抜けなんだがよ。とりあえずおめーはその髪しっかり乾かしてろ。油断してっと風邪引くぜ」
言葉を制されてはどうしようもなく、承太郎は一旦身を引いた。
歌詞を見た後でも訂正は十分できるだろう。確証があればこっちだって面倒な手間も省ける。
ただ、万が一歌詞の内容が予想と違っていたとしても今更引っ込むつもりはないが。
きっかけが無ければこのまま何事もなくただの仲間で終えるのに十分間に合う関係だっただろう。
しかし今、承太郎の中でははっきりとその関係に対する意識のスイッチが入ってしまった。向こうが言わないならこっちが言ってやる、そう思うほどには気丈に構えていた。
「えーっと?これを英語にするなら……ウヘェ、英語にするとストレートだな。くっそォ〜、もっとマイルドな表現ねーかな。もうちょい英語勉強してりゃあ良かったぜ…」
ブツブツ唸りながらも作業を続けるポルナレフの背に、少しの微笑ましさを感じながら濡れた髪を拭う。
なんだかんだ言いながらポルナレフは絶対に目前のことから逃げたりしない。どんなことでも自分に素直で誤魔化すということを知らないのだ。分かりやすくて単純で危なっかしい奴なのに憎めず、むしろ守ってやりたいと思わされるのはこういう性格からなんだろうとその背中を見て思った。壊れそうにか弱いわけでもなく、むしろ頼もしいほどに逞しい身体なのに抱き留めて全てを包み込んでやりたくたる。そんな欲望を持て余しながら時が経つのを待った。
「……うわぁあああああ///」
突如部屋にポルナレフの奇声が響く。
それまでポルナレフのボソボソとした独り言を口元を緩めて聞いていた承太郎だったが、さすがにその急な大声には驚いて席を立った。目前でわなわなと震える背中を見て急いで側へと駆け寄る。
「どうした。何かあったか?」
「読み直すんじゃあなかったぜ…!!お、俺はもう寝るッ!!書くだけ書いたから読むなら勝手に読め!!んで明日から避けるなりなんなり好きにしやがれッ!!」
「おい、待て」
承太郎の呼び掛けに反応する間もなく、ポルナレフは一目散にベッドへと飛び込んでキルトに身を包ませた。
どうやらあまりの羞恥に耐えられなくなったようだ。ポルナレフをここまで追い詰めるとは一体どれほどまでにその歌詞は恥ずかしいものなのだろうか。
承太郎はデスクの上に残された紙を手に取った。
紙に書かれていたのはとても美しい英文字の羅列だった。宿帳に記名する際にも度々思っていたがポルナレフの字は綺麗だ。ブツブツ唸ってたわりには文字の間違いや訂正もなく、実に滑らかに筆が取られていた。承太郎は静かに黙読を始めた。
『僕の愛を全部君にあげる』 ミッシェル・ポルナレフ
全部、僕の愛を全部君にあげる
さぁ 僕と一緒に行こう 僕の腕にしっかりつかまって
君の声が聞こえないと
君の姿が見えないと
君がいないと 僕はとっても寂しいんだ
そうさ、こっちに来て 僕のそばに来て
今はまだ君の名前も歳も何も知らない
だけど絶対に後悔はさせないよ
だって僕は君にあげるから
全部、僕の愛を全部君にあげる
僕はガラスの塔の上に立っている
僕の隣に誰もいないまま
そこから落ちる日が来るのが怖いんだ
だけど、君が来てくれたら…
僕と一緒に来て 僕のそばに来て
僕にはわかってる
誰かが僕のそばにいてくれるって
そして僕の心の迷いを救ってくれるんだ
全部、僕の愛を全部君にあげる
僕と一緒に来てくれるね 僕には君が必要なんだ
たくさんの愛を君にあげよう
だから行かないで…
ギュッと抱きしめさせておくれ
そうさ、こっちに来て もう君を離しはしない
僕は君をずっと長いこと待ってたんだ
愛しい人 泣きながら君を何年も…
全部、僕の愛を全部君にあげる
つい片手で口元を覆った。フランスは愛に情熱的な国だとは聞いたことがあったが、確かにこれは予想以上の破壊力だった。今の自分はだらしない顔をしてないだろうか、だなんて贅沢な心配をする。仕方もない。この歌詞が自分に向けられてた物であり、この文字もその本人が直接訳して書いたものだなんて要素が揃っていれば誰だって頬の一つくらい緩むだろう。
その紙を丁寧に折り畳んで胸ポケットへとしまうと承太郎はポルナレフのいるベッドへと近寄った。
「ポルナレフ」
「…悪かったな、気味悪がらせてよ。ただ、これで俺も変に引きずることなくサッパリと水に流せるぜ。好きにあしらってもらって構わねーが、こっちも踏ん切りはつけっ……」
ガバッ
ポルナレフが言い終える前に承太郎がキルトごとポルナレフを抱きすくめる。
「ッ!?てめー、何やって……」
「俺も寝るぜ」
ポルナレフの耳元でそう囁くと承太郎はそのまま同じベッドへと雪崩れ込んだ。
ベッドのスプリングがギシリと軋む。
「お、おいッ!何やってんだよッ!?あっちにちゃんとお前のベッドが…」
「言ったろ、酷いことしちまうかもしれねぇって」
「ハ、ハァ!?」
「あんな情熱的な詞を送られちゃあ手を出さねぇ方が礼儀がなってねぇ。そうだろ?」
「ちょ、ちょっと待て!!」
首元に顔を埋めてくる承太郎に必死にストップをかける。一旦承太郎から逃れようと図るにも、がっしり掴まれたその腕を解く力は、状況のせいもあってかなかなか上手く働かない。未だに何が起こっているのかさっぱり判断のつかないままポルナレフはただひたすら慌てふためいた。
承太郎の手がキルトの隙間を掻い潜り、そのままスルリとポルナレフの肌に触れる。
モゾモゾと動くその手は何かを探るかのようにポルナレフの肌を滑る。
「あっ…お、おいッ…てめー、本気で……」
そしてその手が腰の辺りまで降りてきたかと思うと、そのままポルナレフの服を捲りあげる。薄地であり一枚着であるポルナレフの普段着は服の下への侵入をいとも簡単に許してしまった。服の中でうごめき、素肌を弄るその手の動きに思わず身を捩る。くすぐったいような慣れない感覚にポルナレフの戸惑いが増す。
そしてついにその手が下腹部からズボンへと伸びたときだった。
「い、いい加減にしやがれッ!!」
ポルナレフの腕が力いっぱいに承太郎の胸を突き放した。
「…てめー、俺のことおちょくってンのかぁ!?」
ここまでしておいてまだそんなことを言うこの目の前の男に、承太郎は改めてため息が出そうになった。
本当に鈍感なのか、それともただ単にまともに話を聞いていないだけなのか。言葉で言ってもどうせ聞き入れないだろうと行動で示したつもりだったが、どうやら言葉も行動も両方必要らしい。あくまでこちらの気持ちを分かってもらうためのものでどの道これ以上の行為をするつもりはなかったが、こうも鈍いと逆に知らしめてやりたくなる。
承太郎は悶々とした気持ちをグッと押し込めてポルナレフと向かい合った。
「だから何度も言ったじゃねぇか。酷いことしちまうかもしれねぇとよ」
「…からかうにも限度ってモンがあんだろ」
「なら逆に聞く。てめーは人をおちょくるときにここまでするのか?あの歌詞を読んで、からかいがてら野郎の身体を弄る奴が何処にいやがる」
「だ、だからそれが酷いことっつってんじゃねーか!」
「やれやれ…。そこまで俺に説明させる気だとはな。これがわざとだってんならとんだ策士なんだが、どうも素で言ってるようなのがより悪質だな」
軽い嫌味を含めて言葉を投げかけても反応は至って変わらず、何のことだかさっぱりといった顔を向けてくる。別に想いを言葉にするのが嫌なわけではないのだが、向こうからアプローチをかけてきたくせに決め手の一言を自分から言い出さなければならないことが気に入らない。それも本人は特に言わせてるつもりのないのがまた厄介だ。けれど惚れた弱みというものか、そもそも以前からポルナレフには弱いところがあって、承太郎は仕方なく食い下がった。
「酷いことってのは歯止めが効かなくなっちまうかもしれねぇってことだ。好きな奴にラブソングを捧げられただけじゃなく、直筆のあの歌詞をプレゼントされるってことをてめーはどう感じるか。それだけのことだ」
承太郎の言葉に少しの間が空く。
暫くしてやっと理解が追いついたのか、ポルナレフは目をカッと見開いて「おぉ!」と一言大きな声を発した。これ以上の説明を強いられるのを危惧していた承太郎もその様子にほっと胸を撫で下ろした。
「なんだよ、そういうことなら早く言えよッ!!ややこしい言い方しやがってこのヤロー、俺の悩みに悩んだ時間返しやがれッ!!相変わらずてめーは言葉が足りなすぎるぜッ!!」
勘違いに気付き、嫌われてないと分かったことでようやくポルナレフの態度も元に戻った。ついさっき自分で突き放したことも忘れて再び承太郎に詰め寄り責め立てる。いきなり行動取られても分からねーだとか、最初からはっきり説明しろだとか、その説明を遮ったくせしてよく言ったもんだと承太郎は思った。
けれど今はそんなこと大したことではない。今度は承太郎がポルナレフの愚痴を遮った。
「ポルナレフ。愚痴なんざいつでも聞いてやるがその前に一つはっきりさせるべきことがあるだろうが」
「あぁ?はっきりさせるべきこと?」
「てめーはなんで悩んでたんだ?そしてそれに対して俺はなんと言った?」
ポルナレフの目がパチクリと瞬く。
眉間に軽く皺を寄せ、目を泳がせてること数秒。ポルナレフはハッとして承太郎を見つめ直した。
「ま、待てよ…ってことは承太郎の好きな奴って…お、俺なのか?…りょ、両想いってことでいいのか?」
「やれやれ、ようやくか」
「ま、マジかよッ!?だって、そんなの…」
それ以上言葉が出ず、信じられないといった顔で硬直するポルナレフに承太郎はニヤリと笑いかけた。そしてポルナレフの腰に手をかけると、更にその身を自分の方へと引き寄せる。鼻と鼻がぶつかるくらいに近付きすぎたその距離にポルナレフの喉がゴクリと鳴った。
「本当にてめーの愛、全部くれるんだな?」
「……決まってんだろ。いつから好きだったと思ってんだ。全部やるよ、承太郎。お前にな」
お互いの熱っぽい息が交わる。
そしてその息を閉じ込めるかのようにゆっくりと2人の唇が合わさった。
「「Tout,tout pour ma
cherie. 」」
愛しい人よ、君をずっと待っていたんだ
君と出会うこと、君と繋がることを
長い間ずっと、ずっと…
全部、僕の愛を全部君にあげよう
(ポルナレフの名前の元ネタ Tout Tout Pour Ma Cherie 和訳一部引用)