人の目には捉えられない純白の結晶が、音もなく零れ落ちていく。

 ギュスターヴは窓越しに、降りしきる雪を眺めていた。朝方からの降雪は止むことを知らず、夜半となった今も尚、天候の回復は望めない。帝都ハン・ノヴァからギンガーを乗り継いで来た彼にとっては悲報でもあり、朗報でもあった。

 厳冬の銀世界の中で、硝子に反射しているのは実弟フィリップの姿だ。普段と違って降ろされた、流れるように美しい金髪が、動作に合わせて揺れ動いてはその横顔を隠す。繰り返される中で時折見せる、伏せた睫毛と物憂げな表情は、溶けていく雪と同じ白さで儚い。

 半年ぶりに再会したフィリップの容姿は変わらず端麗なままで、嫌でもギュスターヴの心を掻き乱す。意識すればフィリップが紡ぐ音よりも、鍵の上で踊る細くしなやかな指に目が向く。それ故に、硝子越しに見える外の世界へ無心に視線を彷徨わせているが、かと言って惹かれる心が落ち着くわけでもない。

 誰にも…二十年来、志を共にした親友にさえ言えない想いが、帰るに帰れないこの状況を喜懼する元となっていた。

「用件は。」

「…え?」

 耳に飛んできた一声に不意を突かれ、思わず間抜けた声で応じて見ると、弾く手を止めたフィリップが横目にこちらを睨んでいる。一国の王らしくもない面を見られたという羞恥からなのか、僅かに唇を尖らせている。その反応は愛らしい子供のようで、自然と笑みが零れる。

 淡い期待と甘い誘惑を抑えつつ、ギュスターヴは首を横に振る。

「こんな時間に、誰が弾いているのかと気になってな。

 どうせ帰れないし、興味本位で見に来ただけだ。」

「音が煩くて眠れないと。」

「いや、そういうことじゃない…。」

 気分を害してしまったのか、フィリップの言葉は棘を含んでいる。苦く笑って否定しながら、ギュスターヴはどう言ったものかと頭を掻く。

 実際、寝入り端に聞こえてきた音が気になってきたのだから間違いではないが、不愉快だとは微塵も思っていない。しかし見惚れていたとは、口が裂けても言えない。

 …返答に言いあぐねていると、譜面に顔を向けたままフィリップが言う。

「私にとっては」

 消え入りそうな、息を吐くように紡がれた声は、静かな空間にひどく響いた。鍵盤に置かれたままの指が、切った言葉の後に続いて小さく、哀しい音を鳴らす。

「私にとっては、特別なものだ。」

 一連の動作すら愛しいと、見つめていたギュスターヴの顔が歪んだ。

 …おそらく、今、自分と弟は同じ顔をしている。ギュスターヴにとっては七年…フィリップにとっては五年という、短い時間の中で止まっている共通の記憶が、胸に引き裂くような痛みを与えて蘇る。

 フィリップにとっては生涯最後となった、家族で過ごした冬の日。毎年、恒例行事として子供にプレゼントを与えると伝わるその日に、フィリップは最愛の母からピアノを教わった。二歳上で先に習い、座っていたギュスターヴが手招きする横で、幼いフィリップは初めて「楽器」というものに触れた。

 髪を肩まで揃えた幼いフィリップが、満面の笑顔でギュスターヴの座っていた椅子に腰かけていたことを、ギュスターヴは思い出した。

――そういうことだったのか。

 多忙な日々に抜けていた今日この日と、ピアノを弾くその意味に、ギュスターヴは一言「そうか」とだけ返す。そうとしか返せなかった。

 あの冬の日を最後にしてしまったのは、紛れもない自分だ。思い出を苦いものとしてしまいこみ、想う心に酔っていた自身を、馬鹿だと自責して苦悩する。

 公務に忙殺されては、取れる時間など少ない。そうなれば睡眠時間も含め、自然と誰もが寝入り始める夜半にしか、触れられる機会は無くなる。僅かな時間でこうして弾く一音が、フィリップにとっては深い意味を持つものになっている…。

 言いようの知れない寂しさに、ギュスターヴの足は考える間もなく歩を進めていた。椅子に座って俯くフィリップの頭に手を触れて、そっと自分の胸に抱き寄せた。驚いたフィリップの物だろう、息を飲む音が聞こえ、反射的に動いた手が、ギュスターヴの腕を掴んだ。だがそれだけだ、引き剥がすことも無く、やがて脱力して離れる。

「…邪魔をして悪かった、フィリップ。」

 考えた末に紡いだ言葉はどうしようもなく情けないもので、そしてどうしようもなく悲しい程、お互いの距離を表していた。奪ったという罪悪と、埋められない溝への嘆きでもあった。邪な劣情を抱いた己を咎め、詰る意味もあった。何れも、フィリップには届かぬものだ。それで良いと、ギュスターヴは唇を噛み締める。

 頭を胸に寄せたフィリップの表情は、ギュスターヴの腕に隠されて見えない。痛くない程度に、抱き締める腕に力を籠める。撫でて、流れる髪を手で梳いてみれば、人肌よりも幾分か冷たくなっていた。冷気に体温も低くなっているのだろう。堪らず、降ろされたフィリップの手に自分の掌を重ねれば、指先から手の甲まで氷のように冷えていた。

「やめろ…」

 指先を握ろうとして、ギュスターヴはそのまま止まる。震える声で制止するフィリップには、抗えない。しかしそれ以上に、離した片腕から見えたフィリップの表情に、ギュスターヴは射貫かれた。

 眉を寄せて堪えるフィリップの顔は、これまで…大人になって再会して以降、初めて見るものだった。

「……」

 黙したまま、ギュスターヴは、今度こそ体ごと離れた。

「…私は」

 重苦しい沈黙が訪れる前に、フィリップは口を開く。

「貴様が思っているほど、私は脆くはない。」

 そう言って、再び指を走らせた。黒と白の鍵を弾く指が紡ぐ一音は、尖りながらも強く、しかし優雅に鳴り響く。見栄を張っている、強がりだ…端から見た者に飛ばされそうな、そんな反論を切り捨てるように、フィリップは弾き続けた。

 その姿が、ギュスターヴの心を一層、締め付ける。甘く激しい、燃えるような一人の人間としての情と、成長した弟に対する兄としての情が、鬩ぎ合っては揺らぐ。降りしきる雪に突き刺す夜の寒さも、全身に走る熱で感じなくなる。

――夢であってくれ。

 硝子越しの銀世界と弟の姿を重ね、焦がれる己に苦悶し、ギュスターヴは切にそう願った。

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