…暫くして落ち着いた頃、思い出したように空腹を覚えた。ギュスターヴは昼と同様、瓶を取り出し、封を開けて木の実を抓む。フィリップにも勧めたが、断られた。
(あのような惨事を味わった後では、食欲など沸かんだろう)
平然と食事を摂る己に皮肉を言い、未だ貧血で覚束ない身をその背に預けながら食し始める。
木の実を口に含みつつ、佇むフィリップの背を見つめた。暗闇に映える紅は、明彩の度合いこそ若干違うものの、身に着けていた緋色のマントに近い。よく似合うと、ギュスターヴは思った。高貴な王家の出生だからというだけではない、本来のフィリップが色に表れているような気がしていた。
「…なあ、フィリップ。
お前がさっき言っていたのは、本当なのか?
確かに怪我は治った。貧血は仕方ないとして、疲れも取れた。
ドラゴンであるお前の言葉もわかるようになった。
だが、不死身と言うのはどうなんだ?」
見つめながら背中越しに、疑問を投げかけた。生来、迷信や御伽噺の類をあまり信じない為に、現実に起きているとは言え実感し難かったのだ。
考えながらも、摘んで口に放り込んだ果実はフィグだった。濃厚な甘味が広がり、思わず顔を顰める。本音を言えば、中で残るその独特な甘さは好きではなかった。だが長旅で必要な…それも旧友のくれた食糧に、文句などつける気は起こらない。そんな口にナッツのほろ苦さが加われば、それはそれで美味だった。
そんな味の変化を楽しみつつ、フィリップの返答を待つが
『知らん。』
「…え?」
会話は、そっけない一言で終わった。不意を食らって、思わず食事の手を止める。
振り向き、フィリップを見上げた。宝石のような瞳は変わらず、遥か遠い夜の闇に向けられている。
無に近い表情から見るに、戯れでも冗談でもないようだ。
「ちょっと待て、フィリップ。
知らないとは言わせんぞ。」
『御伽噺と知っていながら、現実に起こり得たのかと問うつもりか。
それならば己自身に問うた方が早いだろう。』
昔と変わらず澄まして言うフィリップに、ギュスターヴはむっとした。御伽噺や迷信は、女子供に言い聞かせる分には構わないが、自身が信じるかと言えば否だった。
数多の歴史に残るか、現実に起こり得た出来事でなければ。
「お前な…確証も無いのに自ら傷つけて血を流して
傷病を治癒して不死身にするって言って…
いったい、誰がそんな話を信じるんだ?」
『実際に傷が癒えて、言葉を理解出来たという事実がある。
その派生である不死身を信じる、信じないは個人の自由だ。』
――正論だ。
苦虫を噛み潰したような顔で、フィリップの反論を受け止める。弟として見ていたフィリップに対してこうまで苛立ったことなど無かったのだが、今回は話が別だ。
自分が言いくるめられていることもそうだが、何より先程の御伽噺を肯定することが出来なかった。傷病の治癒も言語の理解も事実だが、不死身であるという確証は無い。それも事実だとして、ならば自分は年老いることも無くなるのだろうか。
老衰の末の安楽死を望んでいた「ギュスターヴ」にとってそれは、ただの地獄に過ぎない生き方ではないか。
――弟に自己中心的な願望を押し付けてどうする?
心の中で『何か』が叱責する声は尤もだ、今のギュスターヴには何も返せない。それが、ギュスターヴの苛立ちを余計に募らせた。
「不死身にすると事実のように言っておいて
信じる、信じないは個人の自由か?
らしくもない、随分と矛盾した発言だな。」
苛立ち混じりに放った言葉は何処か投げやりだ。誰に言っているのだ、正論をぶつけたフィリップか、それとも『何か』に対してなのか。
…少しの間を置いて、答えが前者であると気付いて、ギュスターヴはフィリップを見た。無言のまま背を向けていた弟は、いつの間にかこちらに顔を向けている。
同じものである筈の瑠璃色の瞳は吸い込まれそうで、全てを見透かされているような錯覚に陥った。逸らしたくなった視線は、距離の近さに驚いた反動から凝視したままだ。
『…私が不死身だからだ。』
すっと細められたその瞳には、何の感情も宿していない。聞こえてきた声は何処と無く心細さを感じさせる音だ。
言い返せず沈黙しているギュスターヴに対して、フィリップは言葉を紡いでいった。
『不死身となった私の体から流れた血は
浴びせただけでお前の傷を治した。
わからない筈の、私の言葉がわかるようになった。
それが実現したのだ、不死身になっていてもおかしくはない。』
『私が信じていたいだけだ。』
未だ信じ難い…否、信じたくないギュスターヴの反論は、フィリップが被せた言葉によって遮られる。その語調は強く、元の姿であればおそらく眉間に皺でも寄せているのだろうなと、ギュスターヴが片隅で想像したくらいだ。
『根拠も何も無い、御伽噺の一片が現実のものになった。
だから私は、お前が同様に不死身になったのだと信じていたい。
…言わなければわからないのか。』
後半から呆れを含むような口調で言ったフィリップは、ギュスターヴを一瞥して川の中に身を移す。既に汚れが落ちたからか、傷口の出血が止まっているからか、水は透き通った夜空の色を映し出している。
顔を水中に潜らせて、水底で拾った小石を器用に口で掴むと、フィリップは離れたギュスターヴに投げつけた。小石はギュスターヴの鎧に、こんっと音を立てて当たる。不意を衝かれて、ギュスターヴの体が僅かに反射で震えた。
ため息を一つ吐き、足元に落ちた小石を拾って当たらないよう川へ放り込む。跳ねた小石は波紋を作って、再び水底に沈んだ。グリューゲルに居た幼い頃、湖畔に向かって小石を投げて遊んでいたことを思い出しながら、そっぽを向いたフィリップの方に歩み寄る。
「…悪かったよ、フィリップ。
そういった類の話は信じないもんでな。
お前がそう言ってくれるなら、信じるさ。」
閉じられた翼の骨格をなぞり、ギュスターヴはそう返して目を閉じる。アニマが無い自分の存在だけで不幸に陥れられた弟は、それでも尚、優しい言葉をかけてくれるというのだ。それは罪人に対する慈悲深い措置のようで、ギュスターヴにとっては嬉しい反面、強い慕情は重圧にもなる。
先程のやりとりを、頭の中で繰り返す。弟にだけは弱いところを見せたくないという、子供じみた意地が負の側面に触れられることを恐れていた。或いは、既に見抜かれているのかもしれないが。
…そう、対するフィリップは、そんな「ギュスターヴ」を既に見抜きかけていた。突き放すような言動は、垣間見えた虚栄心への応酬だ。
優しく指でなぞられる感覚は嫌いではない。しかしフィリップの胸中は暗く、幼い頃の感触と比べて懐かしむような心境にはなれなかった。寧ろ、幼少の頃を思い出す程に、気持ちは比例して重苦しくなっていった。
フィリップが見た幼い頃の兄は、父親譲りの威厳と才知を備えていた。それは慕っていた兄だからという思い出の補正もあるだろうが、現在のような卑屈さ、意志薄弱な面は微塵も感じられなかった。
己の生き方に前向きな姿勢であった過去のギュスターヴを敬愛し、憧れていたフィリップにとって、現在のギュスターヴは否定したい存在だった。その想いが弟である自分の甘えであり、我儘であることは自覚していた。ギュスターヴが存在するだけで罰せられるのならば、弟である自分の存在も罰せられるべきなのだ。
掌を返したように慕情を憎悪へ変えて、ギュスターヴの人格に自己犠牲精神を植えつけたのは、甘えて泣いてばかりいたフィリップという人間なのだから。感情を抑える為だ、そうしなければ生きていけない…いくら理由を正当化しようとも、独り善がりな言動が兄を傷つけたという罪は消せなかった。
術主義社会の中で術不能と罵られる彼の境遇も考えずに当たり続け、有りもしない負い目を作らせ、その末に卑屈な人間へと変貌してしまった現在のギュスターヴを、フィリップはどんなことをしてでも救いたいと願った。
それは奇しくも、ギュスターヴの行動原理と同一のものでもあった。違うのはフィリップの場合「おそらく自分にはギュスターヴを救うことは出来ないだろう」と、最初から諦めている点だろう。弟という立場だけでは無い、フィリップは術不能者では無いからだ。否、たとえ術不能者であっても、ギュスターヴを救うことは誰にも出来ないはずだ。
術不能者と言われる人々の体にも存在しているアニマが、彼には欠片も宿っていなかった。それは特異で済む問題では無い、アニマは道端の石ころにすら宿っているもので、欠片も無いということ自体が有り得ないのだ。故に彼は「石ころ以下の出来損ない」と呼ばれ、生涯に渡り孤独だった。
術が使えない、アニマが無い…そんな彼を、誰が救えると言うのだろう。救うことはおろか、苦悩の欠片も共有することなど、自分には出来ないというのに。
わかっていても、フィリップは過去に見た兄を取り戻したい気持ちから、御伽噺の一説に賭けた。結果、傷は治り、言語も理解出来る。ならば、不死身になるという効果も嘘では無いのだろう。僅かな希望に賭けた自身の信心は、少なくとも間違いではない。
『信じるものは救われる…そういう諺があるだろう。』
空になった瓶に水を入れていたギュスターヴを見つつ、誰に聞かせるでもなくぽつりと呟いた。風に乗って消え入るような呟きだ。しかし静寂の中では聞き取れたのか、屈んだ姿勢を戻し、ギュスターヴは苦く笑った。
「救われたことなんて、滅多に無いがな。」
表情に反して、返された言葉は投げやりなものではない。安堵したフィリップが見ると、ギュスターヴは瓶を入れた袋を地面に置き、大きく伸びをしている。
――人の気も知らないで。
複雑な心境で、フィリップは思い返す。
自我を取り戻して見たギュスターヴは、そのまま放っておけば確実に息絶えていた。昔の自分ならどうしていたのだろうか…延々と繰り返す自問の答えは、見つからないままだ。
しかし、自分がしたことが間違ってはいないということだけは、確固たる意思をもって言えた。その先にある未知の可能性に、後は賭けるだけだった。
ぽたりぽたりと垂れた水滴が、土を湿らせて跡を作る。濡れたのも構わずに寝転がり、仰向けに夜空を見上げつつ、ギュスターヴはそういえば…と、思い出したように問いかける。
「フィリップ、お前…何処に行きたいんだ?」
『そう言うお前は何処に行きたいのだ。』
その問いが来ることを予想していたのか、フィリップは即座に問い返した。が、そのやりとりも想定していたギュスターヴは、躊躇なく答える。
「お前が、元に戻る方法を探しに行きたいんだ。」
…静かに、しかしはっきりと紡がれた言葉は、北大陸特有の冷たい風に乗って、フィリップの心を揺らした。葉がそよそよと風に揺れる音は、一人と一匹しか存在しない空間の中で、大きく響く。
「血を浴びただけで傷が治った。
言葉がわかるようになった。
御伽噺の事象を現実のものだと信じるなら
怪物になった人を戻す方法だってあると
そう考えてもなんらおかしくはないだろう?」
点々と空に浮かび、闇に煌く星を一二三…と数えながら、ギュスターヴはいたずらっ子のように笑った。予想の遥か斜め上を行ったその答えに目を見開き、何と答えて良いかわからずにいたフィリップは数秒の間を置いて、同様に陸へ上がって身を伏せた。低くなった頭はギュスターヴの傍らに置かれている。
何も言わずに目を閉じたフィリップの顔を、腕を解いたギュスターヴが愛おしそうに撫でつつ「どうした?」と聞くと、言葉では無く囀るような高い鳴き声が返って来た。鳥のような鳴き声が意外で思わず息を飲むが、気にも留めず寝息を立て始めたフィリップを見て、撫でるのを止める。一人と一匹を包む空気は、懐かしく穏やかなものだった。
やがて、微風に揺れる葉の音と寝息を聞くうちに、ギュスターヴにも睡魔が襲ってくる。懐かしい空気を噛み締めながら、ギュスターヴは一言「おやすみ」と告げて、目を閉じた。