気が付いたギュスターヴの目は最初に、暗くなった空を捉えた。知らぬ間に、夜が更けていたようだ。

 ――水の流れる音が聞こえる。

 音のする方へ顔を向けると、傍らには川が流れていた。自分がいた場所には川など無かったはずだ。警戒本能で反射的に身を起こすが、半身を曲げたところで眩暈を覚え、思わず顔を顰めて頭を抱えた。

 どうやら先程の出血で、貧血を起こしているらしい…。冷静に分析したギュスターヴはふと、違和感を覚えて利き腕に目をやった。

「なっ…」

 傷痕が、なくなっていた。鋭い牙で噛まれた利き腕に、あるはずの歯形と流血が無かった。服の袖が破けていることから、かろうじて何かあったとわかるくらいだ。痛覚が麻痺し、冷たくなる程に圧迫されていた利き腕は、感覚が戻っていとも軽く屈伸することが出来る。

 貧血で回らない思考を必死に巡らすが、どういうことか理解し難い。そもそも、ここは何処なのか。森の中には、こんな場所は無かったはずだ。いや、それよりも、ドラゴンに噛まれたはずのこの腕に傷が無いとは、どういうことなのか…。

 …己の腕を凝視したまま考え続け、動けずにいたギュスターヴの眼前に、大きな影が現れた。気付いたギュスターヴが見上げ…何かを察して問いかける。

「お前が、ここまで連れてきてくれたのか…?」

 問いに頷く様な仕草を見せて、影は姿を現した。あの森の中で出会ったドラゴン…実弟フィリップだった。やはりかと、フィリップの鼻頭を近くに寄せ、愛おしげに撫でる。

 それをあえて避けるように、フィリップは川に目を向けた。避ける素振りを気にすることもなく、つられて視線を川にやる。夜の暗さが増して見えなくなった水面に、少しだけ顔を近づけて…息を飲んだ。

 透き通った水面は、赤を色濃く映していた。月光と星空の灯りを頼りに見えた赤は、暗中にもよく映えていた。水源に近い下流付近の為か、緩やかな流れで色が落ちにくいのだろう、水底すら濁っている。

 フィリップをよく見ると、その体は濡れていた。夜で暗くなったにも関わらず、森の中で遭遇したときよりも、ドラゴンとしての姿がよく見える。

 鼻につく悪臭を嗅ぎながら、血に汚れた自分の体を幾度も幾度も洗い落としたのだろう。その間に何を考え、思っていたのか…想像し、背筋が寒くなるのを感じて震える。

 それが自分だとしたら、人殺しという罪の意識と強迫観念に、耐えられそうにないからだ。目の前のドラゴンは…弟は、そんな自分よりも脆く、狂って壊れてしまいそうな心を、どうにか保っている状態なのだ…。

 慰めてやりたい一心で、気怠い体をどうにか動かす。ギュスターヴはフィリップの厳つい背を、ゆっくりと撫でた。フィリップに抵抗する様子は無く、ただ川をじっと見つめている。

 触れた硬い皮膚は、弟がもう人間ではないということを実感させる。しかし掌には、微かな温もりを感じた。何処か不思議な感触だ…撫でながら、ギュスターヴは思った。

 …規則的な呼吸と流れる水音の中に、僅かな唸り声のようなものが混じっている。気付いたギュスターヴは、撫でる手を止めて耳を澄ます。

『…あまり触るな。気にしているわけではない。』

 ひどく懐かしい声が、背中越しに語りかけてきた。二か月前に聞いた、弟の声と同じものだった。

 驚きのあまり硬直したギュスターヴの様子を見て取ったのか

『お前が私の言葉を理解出来るようになっただけだ。』

 と続けて、フィリップは首を擡げて振り向いた。

 ――言葉を理解出来るようになった?

 弟の言葉を反芻し、ギュスターヴは思考する。言い方からして、人間の言葉で話しかけているわけではないようだ。しかし、人外生物の言語を理解できるような知識を持っているわけでもなく、その類の研究はおろか実験すらしたことは無い。

 ましてや、術もアニマも無い己にそんなことが出来るわけもない。それが出来ていたら、互いを傷つけるような事態をも防げていた。

 では何だというのか、愛の力で理解できるようになったとでも言うのか…冗談半分に浮かんだギュスターヴの考えは、強ち間違いでも無かった。

『…ドラゴンの血には、強い術力が秘められている。

 その血は人のあらゆる傷病を治癒し、不死身にする。

 更に、鳥や獣の言葉を理解出来るようになる。

 だからお前は血を浴びて、私の言葉を理解出来るようになった。』

 淡々と説明すると、フィリップは首を正面に戻した。だがそれで、納得いくわけがない。非現実的な説明を飲めずに目を瞬かせ、数秒、間を置いて、ギュスターヴはその手を額に持っていく。

 いつもとは違う頭痛を覚え、半ば呆れつつ、背を向ける弟に言う。

「ちょっと待ってくれ…それは御伽噺の中でのことだろう?

 第一、血を浴びた覚えは…」

『私が浴びせた。』

 遮った声に、おどけて笑いかけたギュスターヴの顔が強張った。

 ――誰が、誰の血を浴びせた?

 御伽噺云々はともかく、フィリップの言うことを信じるのだとすれば、自分はドラゴンから血を浴びせられ、腕の傷が治って言葉も理解できるようになったということだ。

 ドラゴンと言える生物は今、目の前にいるものだけだ。目の前にいる弟が、血を浴びせたというのか。だがいつ、どうやって浴びせた。理性を取り戻し、自分が気を失った後しか考えられない…。

 自分が気を失っている間に、フィリップは何をしたのだ。血を浴びせるために、鋭い爪、或いは牙で、自ら傷つけて血を流したのだとしたら?

 …思考を巡らせて辿り着いた事実に、ギュスターヴは目を丸くした。そんなことをしてまで、自分を助けたというのか。下手をすれば死にも直結する行為だ、それを、こんな自分に対してする義理など無い筈なのに。

 目を見開いたまま、ギュスターヴはフィリップと、向かい合うように立った。次に一歩、退いて遠目にフィリップの全身を見つめる。

 頭部の角、瞳、顔の輪郭から鼻、牙…と辿っていき、今は閉じられている大きな翼に視線が向かった。正確には、その奥に隠されているだろう両脚に。手の役割をも担うそれを、脚と形容していいのかはわからなかったが。

「何故、そこまでして俺を助けた?」

 ギュスターヴの口から発せられた声は、自身も驚くほどに冷たかった。こんな冷たい声を、弟に向けたことなど無い。それに、助けられたこと自体を咎めているわけでは無いのだ、恩人に…ましてや実弟にそんな愚問を投げかけるのはただの侮辱だ。

 我に返り、深呼吸をして整えてから、幾分か調子を和らげて続けた。

「致命傷ではなかった、そこまでしなくても良かっただろう?

 俺は術が使えないから、お前の怪我を治してやることは出来ないぞ。

 お前のその傷が化膿でもしたら、どうするつもりなんだ。」

『…』

 ギュスターヴの言葉に、対してフィリップは黙したままだ。向けられた瑠璃色の瞳は、森の中で再会した時とは違い、純粋な光を宿している…その奥にある感情までは、読み取ることが出来なかった。

 少しの間を置いて、フィリップは目を閉じて息を吐く。その仕草は呆れているようにも見えた。

『…自分で言ったことを忘れたのか。』

「覚えているさ、約束は忘れていない。

 だから、俺は死ぬような怪我では」

『現状の話ではない。』

 遮ったフィリップの声は苛立っていた。機嫌を損ねるようなことでも言っただろうかと考えて、ギュスターヴは返答を待った。しかし、続ける様子が無いフィリップに待ちかねて「どうした」と問うと、案の定、慣れたやりとりをすることになった。

『言われなければわからんと言うのか。』

「わかるわけがないだろう。」

『…自分で考えるということをしてから言え。』

「貧血で回らない頭を酷使して考えているさ。」

 懐かしいなと思いながら、ギュスターヴはそう返した。ギュスターヴが実際に考えて答えたかと言うと否だ。

 神経質な弟のことだ、考えずに答えればこう返ってくるだろう。そこには、昔と同じように予想出来るやりとりを楽しみたいという、呑気な思いがあった。

 余裕も無かった二か月前の夜と違い、交わされる会話は暖かい。苛立つフィリップの口調も比較的、穏やかなものだった。

   

 この後は深い溜息と共に説明してくれるだろうと、ギュスターヴはまた想像して、その答えを待った。

『あのとき、共に行こうと言ったのはお前だ。』

「ああ、言ったな。」

 想像通りの反応で、ギュスターヴは内心、笑い出しそうになるのを堪えた。穏やかな眼差しを向けながら、再会した時のことを思い出す。

 二か月前…村に着いたばかりですぐに就寝したあの夜。あるはずも無い風景に佇む、人間の姿で現れた弟に誓った約束。

「もしお前の理性を取り戻すことが出来たなら、俺と共に行こう。

 何処へだっていい。ああ…お前の行きたいところについていこうか。

 お前の姿を見て、人はお前に容赦無く当たるだろうが

 そのときは、俺がお前の盾になろう。

 たとえ何があっても、お前を守ってやる。

 必要なら、俺が持つ、この剣のようになってやるさ。」

 そして、あのときと同じ台詞を一言一句、間違えることなく言った。微笑を湛えたまま、フィリップの反応を待っていると、目を閉じながら聞いていたフィリップは頭を若干、横に傾げるような動作をする。

 わからないことを不思議がっているようにも思えるその仕草につく表情は、多少の苦みを含んだ笑みだろうか。

『私の行きたいところに、ついていくのでは無かったのか。』

「うん、まあ…そうだが。」

『…何処までも行きたいと言ったら、お前はどうするつもりだったのだ。』

 問われて、ギュスターヴはフィリップを見た。何処までも行きたい…この問いの意味は何だ。先も後も無く、場所を指し示しているのでも無い。目的があるわけでも無い。

 それは、暗に「ずっと一緒にいたい」と言っているのだ。幼い頃に交わして、守れなかった約束だった。

 今も昔も変わらない思いに、ギュスターヴの胸が熱くなる。最も叶って欲しかった願いが、弟の手で叶うことになるとは思いもよらなかった。

「フィリップ…」

『勘違いされても困る。いつか、私は理性を失うだろう。

 お前と、何処まで行けるかはわからない。』

「…行くんだよ、何処までも。

 言ったろう、守ってやると。」

 浮かべた笑みを真顔に変えて、ギュスターヴは返す。真剣な表情と強い口調に、今度はフィリップが目を見開いた。

 真っ直ぐに見つめるギュスターヴの瞳には、偽りも迷いも無い。敬愛する兄の眼差しに、かつての憧憬を思い出したのだろう、フィリップは黙って頷いた。

「…で、それは愛の告白と受け取ってもいいんだな、フィリップ?」

 再び尊敬の念を抱いた矢先。ギュスターヴのそんな冗談を聞いたフィリップは、全てを撤回して睨みつける。にやにやと笑みを浮かべた兄の顔を、自分の鼻先で殴った。

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