村に着いてから、およそ二か月が過ぎようとしていた夜。ギュスターヴは外で一人、視線を宙に彷徨わせ、物思いに耽っていた。
この頃、村は前とは見違えるほどに栄えていた。外から来た新しい「仲間」が、積極的に村を復興させようとしていたからだ。無論、その「仲間」とはギュスターヴのことである。
もう一つ不思議なことに、その「仲間」が加わって以降、ドラゴンが村を襲わなくなった。ギュスターヴはその理由に気付いていたが、村人は誰一人として知る由も無い。ともかく、この二つの要素が村の復興を若干、早めたのだ。
壊された家々は、元の木造住宅に戻っていった。木が少なく、人数の足りなさも懸念されたが、作業自体はさほど遅れずに二軒もの家を再建出来た。子供一人と大人三人の仕事にしては、十分に早いと言える。
無残に貪られていった作物も、寂しく揺れていたコーンの葉に兄弟が増えたことで、来た当初よりも畑と言えるくらいにはなっている。作物として収穫するには程遠いが、復興が着実に進んでいることの、何よりの証だった。
しかし、順調に進む復興とは裏腹に、ギュスターヴの心中は暗く、重かった。この村に馴染んでしまいそうな自分が、怖かったのだ。
「人を見極める為に」と、ギュスターヴに農耕をさせた男の判断は、正しかった。男から任された農作業は、ギュスターヴと村人、双方の疑心暗鬼を払拭した。懸命に地面と向き合い畑を耕すその姿に、誰もが心を許したからだ。
ギュスターヴにしてみれば、初めて触れる庶民の生業を純粋に楽しみ、そんな中で疑念を忘れていっただけだったが、そこにどんな理由が介そうとも、一種の労働であることには変わらない。勤しむギュスターヴを村人は労った。
最初こそ「こんな単調な作業で」と思っていたが、次第にそれが間違った認識であることに気付かされた。蒔いた種から芽が生え、蟻一匹も見かけなかった畑から虫が姿を現した。そんな細やかな変化に驚き、心打たれたギュスターヴは胸が熱くなるのを感じ、農耕にのめり込んだ。
そのうち、村での生活にも慣れ親しんでいった。日が昇る前に畑の様子見をし、朝食を摂った後に耕した。昼からは家の再建を手伝い、夜には同居を許された男の家で大の字に寝転がり、沸かした風呂で汗を流して床につく。繰り返される生活は日常になりつつあり、気付けば時が過ぎていった。
――このまま、ここで暮らそうか。
忘れるはずなど無い弟の姿を鮮明に捉えながらも「ギュスターヴ」の心は、日常となった村での生活に惹かれ始めていた。出来損ないと呼ばれ、蔑視され、荒んだ果てに全てを諦めて死んだ「ギュスターヴ」にとって、差別も無く身分も立場も関係無い、他人に介さないこの村は、あまりに居心地が良過ぎた。
アニマが無い、術が使えないという異質な存在に対する孤独感、人々を不幸に陥れるという劣等感に苛まれていた「ギュスターヴ」の、唯一の楽園とも言えた。
――結局、お前に弟を救うことなど出来ないのだ。そうだろう?
――弟は「私を忘れて生きろ」と言った。それが弟の望みならば、そうすればいい。
『何か』が悪魔のように囁いて、ギュスターヴを迷わせた。波乱万丈な人生の終着点には丁度良い場所だと、死んだ「ギュスターヴ」すらも肯定する。
こんな村で余生を静かに過ごしたい、この村に住まわせて欲しい…僅かに残る理性が食い止めている願望は、感謝を述べた村人の笑顔の前で漏れてしまいそうになった。
それらは首を振り続けるギュスターヴを甘く誘った。何処かで自ら断ち切らなければ、そのまま流されてしまうと自覚出来る程に、心は揺らいでいた。
「どうしましたか、私に話なんて…」
…夜空を見上げていたギュスターヴは、聞こえてきた声と足音に視線を戻し、振り向いた。
ギュスターヴがこの日、男を呼び出した理由は一つ。今夜、この村に別れを告げるためだった。が、寝食を用意してもらい、農耕の楽しさを教わり、人々と触れ合い慈しんだこの村から、ただ黙って立ち去るのは忍びない。
その中で特に、親しくなったこの男にだけは、真実を話したいという思いがあった。素性を知って軽蔑されようが、憎まれようが、この男から向けられるならば構わないと思ったからだ。
「…私は、この村を出る。」
少しの間を置いて言ったギュスターヴに、男は目を見開いた。視線は身に着けた鎧と、纏められた荷物に向けられていた。
なるべく情が篭らないように、ギュスターヴは淡々と切り出していく。
「私は、東大陸よりドラゴンを追って、この地に来た。
しかし、仇というのは嘘だ。」
唇を一文字に結んで、男はギュスターヴを見据えていた。その視線から目を逸らさず…決して、逸らしてはならないと言い聞かせながら、ギュスターヴは続けた。
「私は最初から、ドラゴンを倒すつもりなど無かった。
この地で相見えたら、共に旅路を行こうと思っていた。
私が生涯で唯一人、救いたいと思った人だったからだ。」
…ギュスターヴが話す間も、男は痛い程に視線を向けてくる。その瞳の奥にある光が、弟のものと重なった。
かつて、悲しいくらいに真っ直ぐな憎悪を向けてきた弟の眼差し…思い出したギュスターヴは、直感した。
――やはり、この男は、知っている。
二か月前に「ギュスターヴ」の本能が警鐘を鳴らした勘は、正しかったのだ。縮まった距離と騙していたことの罪悪を思い、心臓の鼓動が痛む程に速まる。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。最初から覚悟していたことだ、後悔することなど何も無い…。
「この村がドラゴンに狙われたと聞いた私は
そこに立ち寄って情報を得ようと思った。
…私は貴方を含み、この村の人々を騙していた。
謝って許されることなどでは無い。
だが、この村で寝食を共にし、様々な生活の知恵を
教えてくれた貴方に、礼を兼ねて詫びたかった。」
話し終えたギュスターヴは、男の前に歩み寄り「すまない」と頭を下げた。それは、心からの謝罪だった。感謝でもあった。
…あらゆる思いを胸に頭を下げるギュスターヴを、男はじっと見つめていたが、やがて静かに、ぽつりぽつりと語り始めた。
「私はかつて…東大陸に住んでいました。
テルムに居を構えて、妻子と、年老いた母と暮らしていました。
家は裕福でも無く貧困という程でも無く、ごく普通の、ありふれた家庭でした。
母と妻が、アニマ教徒であった以外は…。
もちろん、私は入団に反対しました。
あの当時、あまり良くない噂も耳にしましたから。
しかし、二人とも何を言っても聞かず…仕方なく私も子も、入団しました。」
――アニマ教徒? この男が?
地に落とした目を見開き、反射的にそのまま顔を上げた。目の前の男は嘘を言っている様子も無く、挙動もごく自然なものだ。
アニマ教…もう二度と、聞きたくはなかった存在。術至上主義の過激派とも言える、宗教集団。
教徒は老若男女、子供も大人も問わない…悲嘆に暮れ、右から左へ受け流した現実が十数年経った今、ギュスターヴの目の前に大きな十字架として現れていた。
「虎の心臓を生で食う」等、とんでもない噂も聞いているような宗教団体に、ありふれたごく普通の温厚な農夫が、その家族が入団していたというのだ。
信じられず、何も言えずにいたギュスターヴを見つめ返し、男は続ける。
「…あの事件で、アニマ教徒は全て、文字通り土に還りました。
私はその場に居合わせた人のおかげで、抜け出すことが出来ましたが
後の者は、家族を含めてもう…村にいたあの子供も
そのときにまだ赤ん坊で包まれていたのを
教徒である別の女性から託されましてね。
助けられなかった我が子を思うと、放っておけず…
必死に抱きかかえて逃げました。」
村にいた子供…ギュスターヴが唯一、心を許しかけたあの少年だろう。
――この男と赤ん坊だったあの少年から、大切な家族を奪ったのだ。
きつく締め付けられるような胸の痛みを堪えるように、ギュスターヴは目を閉じて深呼吸する。
弟を奪われたという憎悪、憤怒、悲哀…あらゆる負の感情をぶつけた代償だと頭では理解していても、弱い心がそれを拒んだ。少年の快活な笑顔が浮かび、胸の痛みが更に増す。
その笑顔の傍らに、弟の姿が浮かび上がった。複雑に絡まった感情の渦に、ギュスターヴの顔が歪む。
同様に目を閉じながら語る男には、見えていないようだ。或いは、在りし日を回顧しているのかもしれない…兎角、男は続ける。
「…最初に浮かんだのは、後悔の念でした。
母も妻子も、あんなものに入り込まないで…。
私がもっと意地になって、止めていれば良かった。
そんな自分が、憎くて、惨めでした。恨みました。
自分が死のうか、いや…虐殺の黒幕を、殺してやろうと思いました。」
殺してくれていい――そう出かけた言葉を飲み込む。人の死を間近で見てきたギュスターヴには、死ぬということが思うよりも容易に出来ると、知っていたからだ。
死にたければ己が鍛えた短剣で喉元を裂けば良いだけだ。否、自分は一度、死んだ。今更、自刃する事など無い…。
ギュスターヴはじっとりと汗ばんだ掌を、ベルトに差し込んだ鞘に当てた。ひやりとした感触は、昂った感情を覚ましていく…。
冷静になった己が、逸らしてはならない現実を…目の前の男を捉えた。
人命を犠牲にし、責務を放棄したギュスターヴは、生きることを贖罪とした。それで己が不幸に巻き込んだ者達が報われるというのならば、尚のこと、死ぬわけにはいかない。
いつの間にか、男も顔を上げていた。懺悔を告白するような男のその姿が、弟のものと重なった。
「…出来なかったんです。
年月が過ぎ、あの子の成長を見守っているうちに
いつの間にか…恨みも、何もかも…
全て、どこかに飛んでしまいましたよ。」
遠くを見るように目を細めて微笑み、男は語る。
「それから私は、戦争の起こった場所で、家を無くした者を
自分の元へと呼び寄せては共に過ごし…
北大陸に渡って、この地で暮らしていたのです。」
その微笑は、大人になった弟から、最期に向けられたときと同じように穏やかだった。そこには恨みも、憎しみも、後悔も無い。清清しさすら感じられるそれは「ギュスターヴ」にとって、最も欲しかった救いだった。
「私は貴方を、知っていました。」
穏やかな笑みを湛えたまま、男は唇を動かした。
「こうして、お会いすることになるとは思いませんでした。
…ギュスターヴ様。」
二度と名乗ることも、呼ばれることも無かったであろう名前。逃れたくとも逃れられない罪が、ギュスターヴを雁字搦めに縛り付けたまま離さない。
――あのときに、この村を早々に出ていれば。
苦しむことになるとわかっていたのに、自らを追い込んだ「ギュスターヴ」の弱さ、優しさが恨めしかった。この男を含めた村人とのやりとりも、長閑で平穏無事な日常も、贖罪を続けていかなければならないギュスターヴにとって、忌むべきものだったのだ。
「…いつから、私のことを知っていたんだ。」
詰問にならないよう努めたおかげで、漸く発せられた言葉は比較的、柔らかなものだった。問われた男が、ギュスターヴの鎧に目をやった。
「あなたがここへ来た日の夜…日付が変わる前でした。
鎧を見て、ただの旅人でないことがわかりました。
そこで…勝手ながら、貴方が眠っている間、荷物を調べさせて頂きました。
その中に、貴方宛の手紙を見つけて…それでわかりました。
貴方が、あのギュスターヴ様だと。」
――全てが己の甘さだったというわけか。
ギュスターヴは深いため息を吐き、観念したように笑った。情の全てを捨てられる程、ギュスターヴは冷酷にはなれなかった。
護身用とは言え、この術主義社会の中で忌み嫌われている鋼鉄武具は、目立つどころでは済まされない。鎧を脱ぎ捨てるかどうかは、旅の途中でずっと迷っていたことだった。
野盗から奪った市販の鎧や、動物やモンスターから剥いだ毛皮でも良かったのだが、くだらない自尊心が邪魔をして、そうすることがなかなか出来なかった。そこらの石ころにすら宿るアニマも持たない「ギュスターヴ」にとって、一般人と同じような術優先の装備は無意味なものであり、心身共に自分を傷つけていくだけの邪魔な存在にしか過ぎなかったのだ。
もう一つ…北大陸に到着して間もない頃、食糧を確かめる為に開いた袋の中に、一切れの紙が入っていた。それはおそらく、かつて弱い自分と姿を重ねた、何十年ぶりかに再会した友のものだったろう。急いで書いたのか、元々なのかは定かでないが、お世辞にも綺麗とは言えない字で、紙には短くこう綴られていた。
『俺もあんたのファンなんだぜ、ギュスターヴ』
…二度と会うことも無いだろう友が残してくれた温もりは、わかっていても手放し難いものだった。わかっていたのに、そうして捨てきれない「ギュスターヴ」の感情は多くの弊害を齎した。
歴史の中で覇王と謳われる「ギュスターヴ」という人間は、何処までも弱かったのだ。
「それで…私をどうする。ここで殺すか?」
「いいえ。過去のことなど、もういいのです。
貴方は私達と共に、村を再建してくださった。
ここで、貴方を見送らせて頂きます。」
男は、柔和な口調でそう返した。思わぬ反応に、ギュスターヴは唖然とする。
…目の前の男は、穏やかな微笑を湛えたままだ。許すとも許さないとも言わず、過去のことなどもういいと言った。
十年以上の年月を経てもそう割り切れる程に、軽い出来事では無かったはずだというのに。
理性で押さえつけているのではないかと、思ったギュスターヴは静かに問いかけた。
「…私は、貴方の家族を奪った。
貴方だけではない、多くの人々を死に追いやった。
私に懐いてくれた子供も、その一人だと貴方は言った。
それでも貴方は、そんな私を笑顔で見送ると言うのか。」
「先程も言ったかもしれませんが
そんな感情は年月と共に消えてしまいましたよ。
…それとも、そんな相手に見送られるのは、お嫌ですか?」
――何処までお人好しなのだろう、この男は。
正面を見据えてまで言った目前の男を自分に置換し、考えてみたギュスターヴの感想は、その一言に尽きた。家族を奪われて嘆き苦しんだ弟妹を思うと、どうしても許すことなど出来ない。
「誰が、誰を許せずにいる」という自問には、あえて答えなかった。この男はそんな「ギュスターヴ」という人を、この二か月間で見抜いたのかもしれない。
そんな男と過ごせた時間は、とても尊いものだ。緩やかで、健全で、静かだったあの時間は、半世紀の生涯の中でもかけがえのない思い出になるだろう。
…絶えない微笑にただ一言「ありがとう」と礼を述べ、ギュスターヴは背を向けた。荷物を手に取り数歩、足を動かす。
最後にギュスターヴが振り向くと、何か言おうとした男の口が開きかけて閉じる。唇が形作る笑みは深い。もうそれ以上、互いに何か言おうとはしなかった。
…男に、村に向かい、ギュスターヴは目を閉じて、深く頭を下げた。何かに謝るように、祈るように、願うように…長い間、深く頭を下げた。
そんな姿に何を思っていたのか、どんな顔をしていたのか、ギュスターヴには見えなかった。男が先に村へと入って行った為に、気付くことも無かった。
去っていく足音が聞こえなくなった頃、漸くギュスターヴは顔を上げた。頬を伝う温かい雫が土に跡を作る前、袖で拭って「似合わないな」と誤魔化して、再び背を向ける。
そして今度は、振り向くこと無く歩き始めた。
…ギュスターヴが去って間もなく、村の中に入った男は、遠くでぽつんと佇む小さな肩に、そっと手を置いた。
「おっちゃん…あの兄ちゃんが「ギュスターヴ」なの?」
少年は全てを見、聞いていた。神妙な顔で話を切り出したギュスターヴも、それに答えた男も、頭を深く下げていたギュスターヴも、少年は最後まで目にしていたのだ。
男は少年に、ギュスターヴのことを言い聞かせていた過去を後悔していた。この村を立ち上げる前に、物心つくかつかないかの少年に、かつての恨み言を述べていた己を恥じていた。その恨み言の中に、ギュスターヴがいつも出てくるのだ、少年が悪い方に覚えていても無理はない。
しかし噂とは全く違うギュスターヴの姿に、男は深く感銘を受けていた。進んで自ら畑を耕し、民の為とは言え家の建て直しを手伝う貴族など、世界中の何処を駆け回ってもいないだろう。ここまで村が復興出来たのは、彼が手伝ってくれたおかげなのだ。
だからこそ男は、寂しそうに、悲しそうに問いかけた少年の背を撫でて語りかけた。
「ああ、あの人が…覇王ギュスターヴだ。
だがね、言う程、悪い人じゃなかった。
悪いことはしたかもしれないが、優しい人だっただろう?」
黙って頷いた少年は泣いていたのか、手の甲で目を拭った。そして振り向き、にっこりと笑う。
「そうだ、おっちゃん、聞いてなかっただろ!
あの人から聞いたいろんな話、おっちゃんに聞かせてやるよ!」
「ああ、たくさん聞かせておくれ」と、少年の手を引いて男は歩いた。歩き始めた男に、少年はギュスターヴから聞かされた旅の話を意気揚々と語っていく。
…本人はその場に居らず見ることもなかったが、この二人は奇しくも、ギュスターヴの実弟フィリップとその嫡子と同様の会話を、同様の姿勢で交わしていた。