暗闇に呑まれた意識は、光を伴って現実へと帰還する。全身を揺さぶられる感覚と共に、ギュスターヴは目を開けた。
「やっと起きた、このねぼすけ!
いつまで寝てるんだよー。」
耳に届いた高い声は、ギュスターヴの目を覚ますのに十分なくらい騒々しい。視界に飛び込んだ子供を見て、体を揺さぶっていたのはあの、鋼の鎧を褒め称えてくれた少年だとわかった。
「んー…もうちょっと。
あと五分。おやすみー。」
「こら!寝るなー!」
冗談交じりに言って少年をからかうと、ギュスターヴは質素な掛け布を目深に被った。ぐいぐい引っ張ろうとする少年に「おじさんは年だから起きるのに時間がかかるんだ」と言って外へ行かせると、ギュスターヴはその中で深く息を吐いた。
――あの感覚は確かに、夢ではないな…。
僅かな疲労感が残る体に、雲の上を歩くような浮遊感。先程の光景を鮮明に思い出せる頭。夢ではないということを改めて実感すると、薄い掛け布をめくって起き上がった。
フィリップに呼び寄せられる前と、何ら変わらぬ『囲炉裏』が見えた。昨夜、焚いていた火の燃え滓が燻っている。消してからあまり時間が経っていないのだろうか。
ふと、冷たい風がギュスターヴの頬を刺すように吹き抜けた。あまりの寒さに身を縮める。なるほど、これでは火を点けていなければ凍えてしまう。
長時間、燃やされていた理由に納得がいくと、早々に暖を取る為に、ポケットから刃をつけた簡素な形状の金属片と燧石、火口を取り出した。南方の砦に赴く前、鍛冶道具を拝借し、気まぐれに自ら作った火打ち道具だった。
覇王であった当時は部下が術で点火する為、使う機会など無いように思えた。しかし独り身となった今では特に、他の大陸に比べて気候が寒冷であるこの北大陸では、想像以上に役立っていた。
燧石に火口を乗せて、火花が起きやすい位置まで指で寄せると、金属片の刃を燧石の角に幾度か打ち付けた。カン、カンという音と共に、摩擦で砕片が削れる。火花が散ったのを見ると、僅かに残る薪を『囲炉裏』から取り、熱を持った火口に当てた。
…暫く薪を宛がって、火が移ったことを確認し、息を何度か吹きかける。漸く大きくなった火を見ると、薪を『囲炉裏』に投げ込んで、深い安堵の溜息と共に、寝床から離れた全身を摺り寄せた。
「あー…暖かいなー…。」
「じじくさいぞー。」
そうこうしているうち、いつの間にやってきたのか、先程の少年が隣に座って覗き込んだ。やはり外は冷えるらしく、暖を取るギュスターヴにつられて身を寄せる。
聞いたギュスターヴが「だってじいさんだもん」と言うと、少年は驚いたように身を引かせた。
「えっ、マジで?」
「マジだ。こう見えても、七十歳のおじいさんだぞ。」
「嘘だー!」
「嘘。」
「あー、嘘吐いたなー!
『うそつきはどろぼうのはじまり』なんだぞ!」
からかった少年の反応がおかしくて、ギュスターヴは快活に笑った。何処か懐かしい、朗らかな雰囲気は、今は離れたハン・ノヴァの面々を彷彿とさせる。
気付けば大人になっていたお付きの青年と護衛者、妹が遺した三人の子供、子分の養子。彼らは皆、誠実だが何処か抜けていて、からかい甲斐のある子供達だった。周囲とは違う特別な環境からか、馴染めない同世代の子供に代わってよく遊び、良いことも悪いことも沢山、教えた。
そうだと、懐かしむギュスターヴの笑顔が、悪戯っ子のように変わる。
「よし、俺がいま何歳なのか当てられたら
旅の話を聞かせてやろうか?」
やはり好奇心旺盛な年頃なのだろう。目を輝かせてこくこくと頷くと、少年は考える仕草を見せながら答えた。
「うーん…四十歳?」
「ぶっぶー。」
「えー、三十七歳?」
「なんだ半端だな、しかも遠ざかってるぞー。」
「えー、わかんねーっ…」
頭を抱えて必死に考え込む少年を尻目に、ギュスターヴは頭を掻いた。これまで何処へ行ってもそうだが、どうも若く見えるらしい。
昔から女性には好かれたもので色も好んだが、最低限の身だしなみ以外に気を遣うことは何も無い。どちらかと言えば、長く庶民の生活に触れていた事もあって無骨な方ではないか。
公の場に出るとき以外は、貴族間の嗜みにもなった香水すらつけなかった故に、上流階級の人々からは多くの反発を招いたが。
「四十三歳?」
「近くなってきたな。」
「マジ!? じゃあ六十一歳?」
「おいおい、年を取りすぎだ。」
「んんー…五十歳?」
考え込む少年から漸く正解が出たとき、ギュスターヴは黙って軽くウィンクした。それが正解のサインだと分かったのだろう、少年は歓声を上げて飛び跳ねる。
「やった、やったー!!
話、聞かせてくれるよなっ?」
よほど言い当てたことが嬉しいのか、少年は外見と年齢のギャップにも触れず、目をきらきらと輝かせて言った。その年相応の反応が可愛らしくて、ギュスターヴは一頻り笑った後「もちろん」と快諾する。
少年に話したのはまだ東大陸にいた頃、立ち寄った街の話だ。無難な話題を選び、街の規模や人口から、見かけた露店、名産品や行き交う人々の喧騒、そこから得た情報…住民の様子などを聞かせてやる。
…全てを話し終える頃には、少年の頬は赤らみ、鼻息が荒くなるほどに興奮していた。自分にも同じように、旅や冒険に憧れた年頃があったのを思い出して、ギュスターヴは穏やかな気持ちで目を細める。
すると少年は、余韻に浸る間もなく、子供らしい素朴な疑問をぶつけてきた。
「雪って降るのか?」
「まあ、この大陸程ではない。温暖な気候で過ごしやすい土地だからな。」
「暖かいのか!? いいなー、暖かいところ行きたい!」
「いいのか、そんなこと言って?
広い大陸だから、場所によっては一年中が極寒という村もあるぞ。」
「なんだよぉ、それじゃあこっちと一緒じゃん!」
「場所によってはだからなぁ、北端に行けば海も近い。」
「海! いいなぁ海、海かぁー…」
「――こら、朝飯を持っていってくれと頼んだだろうが。」
暫く話に華を咲かせていると、苦々しく叱る男の声が外から聞こえた。目を向けると、男は手にミトンを嵌めて、土鍋を持っていた。申し訳なさそうにそれを『囲炉裏』へ持ってきた男に、ギュスターヴは軽く手を振った。
「いや、私の方こそすまない…
この子に、旅の話を聞かせていてな。」
「ああ。そうでしたか…すみません。
どうもそういったものに、憧れる年頃ですからね。」
「面白かった! 凄かったぞ!
東大陸って暖かいんだって、お店もいっぱいあるし、食い物もたっくさん売ってるんだって!!」
『囲炉裏』へ持ってきた鍋に駆け寄りながら、少年は目の輝きをそのままに男へ話しかけた。頭を小突かれて、危ないから下がりなさいと言われながらも、興奮をそのままに、少年は鍋から目を離さない。
男が鍋の蓋を開けると、甘い葉野菜の匂いが辺りに立ち込めた。それだけで、忘れていた空腹感が一気に押し寄せ、腹の虫を鳴かせた。改めて鍋の中を見つめたギュスターヴは、その豪勢な具材に目を見張る。
鍋の中にはコールやキャロット、コーンといった根葉野菜が詰め込まれ、先程まで火にかけていたのか、ぐつぐつと煮立っていた。先程の甘い匂いは、煮詰まったコールのものだろう。くたくたに煮えたそれを、男が木製の器に盛り、スプーンと共に渡した。
受け取り、匂いを嗅いだギュスターヴは、それが塩と胡椒で味付けされたものだとすぐにわかった。襲撃され、僅かな食糧と作物しか無いこの村にとって、最高の贅沢とも言えるその食事は、おそらく新入りであるギュスターヴの為だけに用意されたようなものだろう。
食欲も人並みに湧くが、自分の今後の行動と村にかかる負担を思うだけで、良心の呵責に苛まれる。
「すまない、こんな贅沢を…」
「いえ、こんなものしか出せず、申し訳ないくらいですよ。」
渡されたギュスターヴがそう詫びると、男は苦笑しながら、自分の器にも盛り付けた。早く、と急き立てる子供の頭をこつんと軽く叩いて、席に着く。
「では、いただきます。」
『いただきます。』
男が手を合わせて言った後、声を揃えた二人は真っ先に口をつけた。少年はスプーンを使わずに息を吹きかけて冷まし、器ごと。ギュスターヴはスプーンを器用に使い、具材と共に汁を一口、上品に味わうよう、それぞれ対照的に食す。
…男はギュスターヴを見て何か考えていたようだが、すぐに食し始めた。
運んだコールは噛んだ瞬間、塩と胡椒で程よく味付けされた塩辛さと、生で食しては得られない甘みが混ざり、口の中で溶けるような食感を残して喉を通った。野菜の旨味を引き出すそのエキスは、決して青臭さを感じさせない出汁となっている。
火が通り難いキャロットもよく煮えていて、変わらぬ甘さを含み、コール同様に柔らかい。最後に残ったコーンは、本来のしゃきしゃきとした粒状の食感と独特の強い甘味から、単体で食べれば飽きてしまうものの、共に頬張ることで混ざることなく、キャロットとコールの旨味を引き立たせていた。
貴重な食物をという罪悪感から、味わうように食べていたギュスターヴも、あまりの美味さに気付けば器を空けて二杯目を盛ってしまっていた。食べ盛りの少年に遠慮して、二杯目の量は少なくしたものの、食べ終わる頃には、中はすっかり空になっていた。
空いた土鍋を持っていく男に、ギュスターヴは片付けの手伝いを申し出たが、男は構わないと首を振る。
その代わりにと、申し訳なさそうに苦みを含んで、男は加えた。
「私と共に、荒らされた畑を耕して頂きたいのです。」
…それを断る理由など、何処にあるのだろう。馳走になった礼も兼ねて、ギュスターヴは頷いた。
男に言われ、鎧を外すと、未だ冷たい風が吹く外へ出る。手伝うと言って分かれる少年の頭を撫でると、外れの畑に出向いた。
…しかし、家の外に出た瞬間、冷たい風に吹かれて醒めた「ギュスターヴ」の頭が、冷静に状況を分析して、歩を制した。
――共に行ったほうが良かったのではないか。
食後、男の様子が変わっていたことに、本能が警鐘を鳴らした。それは死んだ「ギュスターヴ」も今のギュスターヴも同じだった。
見ていないようで、奥底に眠る「ギュスターヴ」の本能が、彼の言動を観察していた。昨日は時間を忘れてまで談笑していた男が、無言のまま、探るように自分を見ていた。少年と食事の取り合いをする中、考え込むように俯いていた。終始無言で、鍋が空いたことにもすぐに気付き、片付けを始めた。
久々の温かい食事と少年とのやり取りに浮かれていたこともあり、いつからなのかは定かでない。その後、何事も無かったように、昨日と同じような人の良い笑顔を浮かべていた為、男の変化は機嫌による些細なものだとも思った。
しかし、昨夜に感じた危惧の念が再びギュスターヴの心を暗くする。
――あの男は、お前を知っているのではないか?
『何か』が囁いた。珍しく、責めるような言葉ではない。寧ろ、抱いた疑念を形にして、浮かれた気持ちを修正するかのように釘を刺す。
――お前が身元を知られたらどうなるのか、わかっているだろう。
ハン帝国に肖ってハン・ノヴァという都を築き、術主義社会を根底から覆した覇王。それがギュスターヴの正体だ。
意地汚く、醜い政略も進んで行った。無理な遠征で経済を悪化させ、兵を疲弊させ、重臣から反対されても止まらず、優秀な部下だろうが逆らう者は皆、降格させることで黙殺した。その中でも、後先も考えずただ感情のまま、本人ですら振り返って愚行だと思った過ちが脳裏を過ぎる。
「アニマ教徒殲滅」…それはアニマが全てとする、術至上主義社会の象徴でもある宗教団体を皆殺しにするという、前代未聞の虐殺だった。術不能の「ギュスターヴ」からすれば不快極まりない、粛清も当然のように思えるが、それ以上の憎悪と憤怒を彼らに抱き、老若男女関わらず殲滅した。
彼らの上層部…教祖達が、フィリップ二世暗殺を企てたという、匿名の情報を耳にして。
情報の出所や信憑性を、ギュスターヴは問わなかった。やり場の無い怒りと悲しみをぶつけるように、親友の反対を押し切って作戦を実行した。「匿名の人間が裏で利用しようとしているだけかもしれない」という疑惑は、十年以上経った今でも晴れないままだ。
――その殲滅による犠牲者の遺族が、この村にいたとしたら。
無論、ギュスターヴの行いによって不幸を被ったのは、殲滅に居合わせた者だけでは無い。度重なる南方の遠征に命を散らしていった兵達、或いは戦争に巻き込まれたかもしれない一般市民…その数は、計り知れない程に多いだろう。
この村も、同じ人々の集まりだとしたら。知らぬふりをして誘き寄せ、心を許した瞬間に不意を衝かれても、何らおかしくはない。それだけの恨み、憎しみを買っているのだから。
「…どうしましたか?」
長い間、黙考していたらしい。気付けば横から片付けを終えたらしい男が、声をかけてきた。
「あ、いや…耕すと言っても
どうすればいいかわからなくてな…」
悟られないように、慌ててそう繕う。
「ああ、…あの土を鍬で掘り起こして…傍に置いてある種を
蒔いて土で埋めてください。
それだけやってくだされば大丈夫ですよ。」
特に気にも留めずギュスターヴに教えると、男は先に畑へ向かっていった。その背を見つめ、ギュスターヴは再び思考を巡らせる。
――あれが本当に、恨む相手に対する反応か?
あの男はそんな人物には見えないと、一瞬でもそう思った自分を、甘いと叱責した。純真無垢な子供とは違い、相手は大人で、人柄良く見せる方法などいくらでもあるのだ。多くの「人」を見たギュスターヴは痛感していた。
その「人」達が皆、己の損得で擦り寄って媚を売り、掌を返すように冷たい仕打ちをする姿を、幾度もその目で見てきたのだから。
何より、恨み、憎まれたことがあるギュスターヴは、それが割り切れるものでないこともまた知っていた。救わなければならない、最愛の弟がそうだった。
…昨夜の光景を思い出し、刺さるように胸が痛んだ。
善良な村民を騙している己が人を疑う筋合いなど無い。首を横に振って、男の後についていく。畑は昨日と変わらず、コーンの葉が寂しく揺れているだけだ。踏み入った男は、傍らに置いてある種…詳しく知らないギュスターヴには、何の作物かわからなかったが…それを、ぱらぱらと小さな足元の窪みに蒔いた。
そして手に鍬を持ち、窪みへ土を落とす。鍬は石で出来ているようだが、慣れなければ持ち上げることが出来ないくらい重いものだ。力のある、健康な男性でなければ扱えない難儀な道具で、武器にもなるそれを扱って作業を進めるのは、簡単なようで過酷な肉体労働である。
男に手渡された鍬はかなり使い古されたものだが、自分で鍛え上げた鋼の剣と、同じくらいの重さだった。この男はいつから、この鍬を持って田畑を耕していたのだろうかと考えを巡らせ、改めてその重さを体感する。
「すまないな。もう大丈夫だ。」
礼を言って、ギュスターヴは耕作を始めた。抱いた疑念は胸の中にしまいこみ、鍬を振り下ろす。十分に慣らされた土は思ったよりも軟らかく、容易に掘り起こせた。
掘り起こした穴の中に先程の種を蒔いていたとき、ふと、自身の経歴を振り返り「農作業は初めてだな」と、独り言る。今も昔も、知識としては頭に残っているが、実際に体を動かしてやったことは無い。そうだとわかった瞬間、生来、好奇心旺盛だったギュスターヴは、何処か新鮮な空気を感じながら作業に集中した。
土を被せて種を埋め、再び鍬を上下させる。根元だとわかるように、周囲の土を若干、多めに盛って、別の場所を同様に掘り起こす。
元々、机に向かっているよりも体を動かすことを好んでいたギュスターヴには丁度良い仕事だった。次第に、何も考えずに頭を空にして、ただ耕すことに夢中になっていった。
…その為に気付かなかったが、男は遠くから、暫く観察するようにその姿を眺めていた。すっと目を細めて微笑むと、やがて村の中へと入っていく。
不安そうに見守っていた村民の一人が、男に声をかけた。
「ど、どうだ? あの人、俺達の仲間になってくれそうか?」
男は暫く、曖昧な微笑を浮かべて無言のままでいたが、頷いてからこう返した。
「…あの人は、この村には馴染めそうにない人だ。」
「えっ? なんでまた…」
仲間入りすることを期待していた村民は、その言葉に思わず声を上げた。聞こえないようにと口の前で指を立てた男は、微笑を浮かべたまま自宅へ戻ろうと、ゆっくり歩んでいく。
予想していた答えと違い落胆しつつも、慌ててついてきて問おうとした村民に、男は背を向けて
「さっきも言ったように、彼はこの村には馴染めそうにない人だ。
だがね…」
と、一言一句、慎重に言葉を紡いで振り向く。そして先程よりも笑みを深めて、こう続けた。
「…あの人は必ず、この村を復興させてくれる。
私達の思いをきちんと汲み、仲間として共に過ごしてくれる。
見ているとね、そんな気がするんだよ。」
遠くを見るように細めた男の視線の先には、懸命に耕作を続けるギュスターヴの姿があった。村民は不思議そうに男の姿を見ていたが、視線を追って納得したのか、満面の笑みで頷いた。
――この一日は互いにとって、忘れられない日となる。
男はそう予想し、暖かく見守る村民を残して自宅へと戻った。