…それまで感じていた空気が変わったのを、本能が敏感に察知する。澄んだ冷たい空気が、ギュスターヴを深い眠りから覚醒させた。
閉じた双眸の裏に感じられる光は、明るいものではない。まだ夜更けだろうか…不審に思いつつも、瞼を開く。そして見えた光景に、ギュスターヴの目は大きく見開かれた。
白を基調とした石造りの壁、上部に飾ってある肖像画、年季を感じさせる木製の棚、小さな円卓、円卓に合わせた同じ材質の椅子…それら全てを視界に捉えたギュスターヴは、覚醒した目を凝らしたまま、呼吸することも出来なかった。
それは、もう何十年も前から配置すら変わらない、フィニー王国首都テルムの城にある弟フィリップの自室。
有り得ないのだ、北大陸にいるはずの己がここにいることは。夢に決まっている…思って、ギュスターヴは苦く笑った。
長い旅の疲れと、僅かな人の温もりに触れて、過去が恋しくなったのかもしれない。そんな自分の弱さが、今の夢に反映されているのではないか。
…だがもう一度、眠りにつこうとするも、眠れなかった。否、眠ることなど出来なかった。眠気が覚めたという、単純な理由からではない。
何気なく視線を向けた先…バルコニーを見たギュスターヴの顔が、強張った。開け放たれた両扉の窓、揺れる白いレースカーテンの向こう側…月明りの差す夜半に、その人はいた。
――何故、お前がここにいるんだ?
問いかけは、声にはならなかった。自身の呼吸の音が、痛い程に静かな空間に響くだけだ。
遠くから見たその後姿は、十余年前に見たものと全く同じだ。儀式用のサークレット、降ろされた美しい金髪、フィニー王家の紋様を模した肩当て、王国の青を基調とした服。
それら全ては、ギュスターヴが最後に見た、実弟フィリップの容姿そのものだった。あの時…ファイアブランドの儀式で着用していた正装のままで、実弟はバルコニーに佇んでいる。
これは夢なのか、それとも現実なのか…宙に浮いているような感覚のまま、ギュスターヴはただ眼前を凝視していた。夢だからと言うにはあまりにも酷な程、姿は精巧に再現されていた。
「目が覚めたか。」
「…!」
背を向けたまま、フィリップが呼びかけた。瞬間、棘が刺さったように胸が痛む。
声は確かに、間違えようの無い程に刻み込まれたフィリップのものだった。懐かしい胸の痛みを噛み締めて、ギュスターヴは答える。
「…久しぶり…だな、十余年ぶりか。
それも、夢で会うとは思わなかった。」
「夢ではない。」
向けられた言葉は、即座に否定された。言い放たれた言葉に耳を疑い、目の前のフィリップを改めて見つめる。
――夢ではない? なら、これは現実なのか?
ドラゴンと化して、人ではなくなったはずだと、至極当然の事実を改めて思い起こし…問いかけようとして、ギュスターヴは止まった。それは自己を追い詰めるだけに過ぎないと、本能が警鐘を鳴らしたからだ。
見かけてから止まらない、胸の疼き。思い出してはならない、決して思い出すまいと誓ったあの、甘く苦い思いが蘇る前に。
――やめろ、やめてくれ。振り向かないでくれ。その顔を見たら。その姿を見たら。
懇願するように、胸中で繰り返す。だが、既に遅かった。
フィリップは振り向き、ギュスターヴを正面に捉えた。
「…フィリップ…」
深く吐いた息と共に、その名を呼ぶ。振り向いたフィリップは、あのときの「フィリップ」だった。
間違えるわけがない。最後に見た、死んだ「ギュスターヴ」が溺愛した実弟のフィリップだ…。
フィリップは、神妙な表情でギュスターヴを見ていた。視線を受けるのがつらくて、ギュスターヴは目を逸らす。
「…夢ではないなら、何なんだ。」
「私の僅かなアニマが、お前に呼びかけているのだろう。」
今度は問わざるを得ず、ギュスターヴは問いかけた。対してフィリップは、他人事のように答える。夢ではない、不確かだが現実だと言うフィリップの言葉を、半信半疑で思案する。
…夢ではないのなら、現実なのだろう。しかしこの、見慣れた風景の中に、いるはずもない自分がいるのは何故だろうか。否、北大陸の村にいたはずの自分は、いま何処にいるのだろうか。
疑問を心の中で言葉にしていくと、察したのか、フィリップは片腕を組んで静かに言う。
「ここは、私の残留思念とも言うべき場所だ。
アニマを食われた私に、残された時間は少ない…」
「…!」
その言葉で、ギュスターヴは我に返った。ある程度は冷静になってきた頭で思考を巡らせ…漸く事態を把握する。
そう、弟はアニマを食われてドラゴンになったのだ。それを自覚しているということは『ドラゴンになった』という事実は変わらない。
弟の『残留思念』という言葉から、フィリップという人間のアニマが食われながらも、この場所は根強く残り染み付いている風景だとわかる。
そして「残された時間は少ない」ということは…
『僅かに残るアニマでこの場所にギュスターヴ自身を、或いはギュスターヴの意識を呼び寄せた』
…理解した瞬間、ギュスターヴは弾かれたように立ち上がった。フィリップを見て、詰問するように言葉を投げかける。
「お前は今、何処にいる?」
「北大陸に位置する、遥か遠い森の奥…
地図にすら載らない、誰にもわからぬような場所だ。」
場所を聞いたギュスターヴの視線から、今度はフィリップが逃れるように目を逸らして言う。今度こそ確信し、ギュスターヴは目を閉じて反芻した。
遥か遠い森の奥、地図にすら載らない、誰にもわからぬような場所。あの、道中で出会った商人や集落の男が言っていた「東の森」だろう。
深く胸に刻み込んだギュスターヴは、手を差し伸べる為に、フィリップに歩み寄った。
「私を追うな」
大丈夫だ…そう言おうとしたギュスターヴを遮る声。発せられた冷たい音に、歩を止める。射抜かれたように、指一本動かせなくなる。
――今、この弟はなんと言ったのだ。
恨みや憎悪が残っているのならば素直に受け止めていたが、そういったものではなかった。何処か弱々しさを感じる声音に、そんな冷酷さは感じられない。
「…何を言っているんだ、フィリップ?
お前は俺に、助けを求めに来たんじゃないのか?」
手を伸ばせば触れられそうな距離は、拒絶したフィリップによって遠くなる。目を合わせることもなくバルコニーの奥へと進むフィリップに、ギュスターヴは虚勢を張るような言葉しか返せない。
いつもそうだったと、ギュスターヴは回想する。構えば構うほどやめろというのに、本質は変わらず、実際はもっと構って欲しくて堪らない。寂しがり屋で、泣き虫な弟であることを知っていたから、ギュスターヴはそれでも構い続けていた。
一定の距離を保ちながら、兄弟として。
だが、ギュスターヴの回想は、フィリップの一言によって壊れていった。
「私を追うな…私のことなど、忘れろ。」
――呼び出しておいて、そんなことを言うのか、お前は。
ギュスターヴの淡い期待は裏切られた。前にも襲った、強い眩暈と吐き気を覚える。弟の手前、蹲ることなどしなかったが、口に手を当てて目を閉じる。
甘く苦い…恋というには、あまりに深くなりすぎた思い。それはギュスターヴの負い目と背徳感を煽り、凍てつく氷柱のような冷たさを持って、ギュスターヴの心に深く突き刺さった。
溺れるような息苦しさを紛らわせる為に、深く息を吐いて、再び歩を進めた。いつも弟に向けていた微笑を浮かべて、ギュスターヴは言う。
「…人を呼び出しておいて、追うなは無いだろう。」
「お前は、私を追っている。止めるには、理性が保たれている今しか無い。」
「別に、お前が俺を止める義理など無いだろう。そんな必要が何処にある?
俺はお前の為だけでは無い、自分の意思でお前を追うと決めた。」
静かに、しかしはっきりと否定の言葉を続けるフィリップに、ギュスターヴはそれでも反論した。
『弟に会いたい』という思いは、全てを捨てて底無しの闇を彷徨うギュスターヴにとって、一筋の光明とも言えるものだった。それは奥底の煩悩を差し引いても変わらず、死んだ「ギュスターヴ」の遺志…今のギュスターヴの意思でもあった。
ギュスターヴの強い反論に、フィリップは口を閉ざす。漸く頷くかと思ったギュスターヴは、垣間覗いた下心を抑え付け、兄として慰めてやりたい一心でフィリップの肩を寄せようとした。
だが、出来なかった。振り向いて、弱々しく、悲哀を含んだ声音で、フィリップは言った。
「…私を、悲しませたくないのなら…
今から言うことに全て耳を傾けて、私を忘れろ。」
同じ瑠璃色の瞳を真っ直ぐと向けて、真剣な表情でギュスターヴを正面に捉える。息を飲むギュスターヴに構わず、フィリップは言葉を続けた。
「今の私はただのモンスターだ。
村を焼き払い、荒らしていくだけの…人を食う怪物だ。
私が襲ったことにより、失われた物の重さは、お前も知っているはずだ。
お前と顔を合わせたところで、何も思い出しはしない。」
「理性はもう何処かにいった。俺を食う可能性があると?」
フィリップに続けて言ったギュスターヴは肩をすくめた。「何を言っているんだ、この弟は」と、そんなおどけた様子で。
「俺はお前に食われるのならば構わんぞ。
俺は一度、死んだ身だ、その覚悟も」
「私の手を汚したいのか。」
自嘲の色を交えて返した言葉は、フィリップに遮られた。その眉を寄せ、今にも泣きそうな顔に、ギュスターヴは驚く。
弟のこんな表情を見たのは、何十年ぶりだろうか…未だ心を許していないフィリップが、その表情を向けるとは思ってもいなかった。
「…逆恨みした罰にしては、随分と重たいものだな。」
ぽつりと呟くフィリップの思いがけぬ言葉に、ギュスターヴは愕然とする。
――罰?逆恨み?
それは死んだ「ギュスターヴ」が、今のギュスターヴが、余生を過ごす中で背負っていかなければならないものだった。寧ろ、所謂「贖罪」をさせる側であるフィリップが、何を背負う必要があるというのだろう。
慕っていた筈の兄に、全てを奪われた…まだ五歳だったフィリップは、その辛苦を憎悪に変えて乗り越えざるを得なかったのだ。どれほどの罰を下されても許されるものではない罪を、何故かフィリップが自責している…その瞳は暗く、かつて死んだ「ギュスターヴ」が宿した絶望と似た色を現していた。
ギュスターヴの頭は、疑問符で埋め尽くされた。
「…何が言いたいんだ、フィリップ?」
間を置いて平静を装い、詰問にならないよう気遣いながら問う。ところがフィリップは答えず、尚も顔を歪めたまま…腰に下げた短剣を、己の首筋に当てた。
「この手を汚すくらいなら私は――!」
言葉を聞くより先に、ギュスターヴの体が動いた。短剣をあてがう手首を掴み、ギュスターヴは馬鹿なことをするなと言おうとして、フィリップを見た瞬間…何も言えなかった。
眉を寄せ、目尻から流れた涙が頬を伝った。それが雫となって、ギュスターヴの手に落ちる。再会して以降…儀式の前日まで七年間、心を開くことの無かったフィリップが、ギュスターヴの前で泣いていた。
短剣を握り締めるフィリップの手は震え、下手な動きをすれば、すぐにでも首筋を斬ってしまいそうだ…激情に駆られているフィリップを見て「ああ、やはり変わらないな」と、ギュスターヴは心の底で安堵する。
漸く素直な感情をぶつけられたことが、嬉しかった。待ち望んだその日が遠くなかったことを実感し、喜んだ。長く祈り続けた願いが叶ったのだと。
そうして、今度は真剣な面持ちでフィリップを正面に捉える。ずっと垣間見えるだけだった、フィリップの素直な感情を、正面から受け止めてやるために。
「…言っただろう、覚悟は出来ていると。」
「私は…私はお前を手にかけたくはない!」
涙声で返されたギュスターヴは、予想外の言葉に戸惑った。再会した日には「貴様を殺しにきた」とまで言ったフィリップが、逆のことを口にしてくれていたからだ。
恨みや憎悪がそこまで増したのは、それだけ慕っていたということだ。奥底にある未だ変わらない本質を、向けられた当人であるギュスターヴは誰よりも理解していた。だからこそ「殺されても構わない」と、そう思ってずっと負い目を感じていたのだ。
そんなギュスターヴにとって、フィリップの言葉はあまりに暖かすぎた。
「フィリップ…」
「だから、私を忘れろ…私を忘れて生きろ…!」
――月明りの中、凛然と言う姿は美しい。
激情をぶつけるフィリップが本当に綺麗だと、ギュスターヴは思った。炎のように激しく揺れ動き、燃え続けるそれは、ギュスターヴが鮮明に思い出せる「フィリップ」のものだ。
…抵抗する様子も無いフィリップの、震える掌から短剣を奪って捨ててやる。俯いたフィリップの頭を、ギュスターヴは優しく撫でようとしたが、今度は身を震わせたフィリップがその手を払った。
「私に触るな!」
この場に別の誰かがいたら、咎められてしまうであろう程に強い口調で、フィリップは言った。空気を張り詰めさせるその声は、ただ聞いただけでは拒絶の色を表しているようだ。裏がわかるのは、母を除いて自分だけだと、自負していたギュスターヴは穏やかに微笑する。
…その微笑がおそらく、母のものと被ったのだろう。怯えたように首を横に振りながら、フィリップは一歩、後ずさろうとした。しかし背が手すりに当たり、逃げ場が無いことに気付いたのか、先程より大きく身を震わせて動きを止める。
「ありがとう…俺に、生きろと言ってくれて。
お前にそう言ってもらえるなんて、思ってもいなかった。
嬉しいよ、フィリップ。」
そんなフィリップに何とも思わず、正直な気持ちを述べると、ギュスターヴはその手でフィリップの肩を撫でた。怯えと寂しさ、悲哀を宿す、同じ瑠璃色の瞳を、じっと見つめながら。
「何を…何を、言っている…?
私は村を、襲ったのだぞ…焼き尽くして…」
声を震わせ、フィリップは続けて言う。
「畑を荒らし、無抵抗の人々を傷つけて…殺したんだぞ…!」
記憶が残ってしまっているという衝撃、それを思い出してしまった恐怖に、弟は苛まれていた。助けを求めたのだとしても、野性の獰猛なドラゴンにある本能が勝り、理性を無くしているフィリップはその相手を殺してしまうだろう。
だから最後に、僅かに残っている理性を振り絞り、最も傷つけたくないギュスターヴを呼んだ。そして自ら、差し伸べられた救済の手を断った。誰よりもその人に救ってほしいと、助けに来てほしいと願いながら。
――壊れそうな心を必死に立たせてまで、忘れろと言わなければならないのか。
ギュスターヴはそんなフィリップを思い、愛しくて堪らず肩を引き寄せた。さらさらとした髪の毛が指先を流れる。二十年経ち、七年経ち…十五年の時を経て、ギュスターヴは初めて、大人になったフィリップの温もりに触れた。
着重ねしている為か、逞しく見えた肩や背は意外にも小さい。声のみならず震える体を、安心させるように撫でてやると、嫌々と子供のように首を横に振る。
「挙句、人を…ただの、肉のように食った…
ただの人殺しではない、私は、人を…」
懺悔するように弱々しく吐くフィリップは、誰もが知っているフィリップの姿ではない。それはギュスターヴと、母ソフィーだけが知る本当の「フィリップ」だった。
…死んだ「ギュスターヴ」が、守ってやりたいと訴える。今のギュスターヴも、同じ気持ちだった。
衝動に駆られて、少しだけフィリップを胸に抱き寄せる。手を離し、後頭部のサークレットより少し下の位置から背にかけて、ゆっくりと撫でた。
何の香水だろうか、上品な花の香りが、仄かにギュスターヴの鼻腔を掠める…初めて知った弟の匂いを噛み締めて、ギュスターヴは囁く。
「大丈夫だ、フィリップ…俺がお前を、守ってやる…。」
思えば思う程に、胸が張り裂けそうになる。甘く疼いている想いと合わさり、どうしても抑えられず、離れたギュスターヴは、未だ涙の伝う頬を両手で包んだ。
幼い頃と変わらぬ泣き顔を目に焼き付けて、涙で濡れたフィリップの瞳を見つめる。
「だから、追うな、なんて…悲しいことを言うな。
俺がお前を、必ず助けてやる。」
「約束を違えたお前に言われる筋合いは無い!」
ギュスターヴに、フィリップは強く反発した。言われても仕方の無いことだとわかっていたが、幼い弟の姿が脳裏を過ぎり、胸がひどく痛んだ。事実だったからだ。
だが同時に、わざと傷つけようとしているのだと、ギュスターヴはフィリップの真意を見抜いた。その証に、頬を包む両手は振り払われず、伏せた目からは一層、涙が溢れている。逸らされた視線が向けられることも無かった。
――これほどに守ってやりたいと思う人が、何処にいるというのだろう。
「そうだな…俺は幼い頃の、お前との約束を破った…。」
息を吐き出すように言って、目を閉じたギュスターヴは回想する。
「ずっと一緒にいようね」と、幼い弟と指切りをした、幼い自分。あのような結末に終わった儀式の後、母と共に去ってしまった、幼い自分。
ギュスターヴは覚えていた。振り向き、深く頭を下げた母につられて、涙を浮かべながら見上げた、大きなテルムの城。その中から、幼い子供の…聞き慣れた、甲高い泣き声がしていたことを。
母はあのとき、何を思っていたのだろう…己を呪いながら、何十年と経った今でも、ずっと気にかかっていることだ。母は既に、ギュスターヴが二十歳を迎える前に病気で他界している為、もう二度と聞くことは出来ないが。
そう、ギュスターヴという人間は、多くの人々との「約束を違えた」のだ、それは全てを捨てて生きている今も、同じことだった。
――違うだろう、今のお前は。
心の中で反駁した「ギュスターヴ」の言葉に、回想を終える。
そうだ、今のギュスターヴは、死んだ「ギュスターヴ」とは違う。誓ったのだ、必ず救い出すと。例え多くの犠牲を払ってでも、見つけ出すのだと。
…目を開けたギュスターヴは、フィリップを真っ直ぐに見つめた。
視線を逸らしているフィリップに前を向かせると、ギュスターヴは話を切り出した。
「…フィリップ、聞いてくれ。
俺は自軍の、南方の砦で死にかけて、生き延びた。
全てを捨てて、生き延びた俺は、お前が狙ったという村まで来た。
ある場所で、お前の話を聞いて…会いたくなったからだ。」
唇を噛み締め、堪えるように聞くフィリップの悲痛な表情から、決して目は逸らさなかった。フィリップも同じだった。
瞬き一つせずに、ギュスターヴは続ける。
「フィリップ…俺を、信じてくれ。
俺はお前を助けたい…必ず、お前を助けてやる。」
ギュスターヴの、射抜くような真剣な眼差しは、フィリップの心に突き刺さった。痛みから逃れるように、頬を包み込む手を剥がそうとして、逆に掴まれる。
「もう一度だけ、チャンスをくれないか。
そして、俺と約束して、信じてくれ。
俺が助けに行くまで、自分を傷つけるようなことはしないと。
今ここで、お前を救いたいと思ったことを、否定しないと。」
次第に、景色が薄らいだ。フィリップのアニマか、或いは残留思念か…それが限界を迎えたようだ。
見慣れた風景が、色褪せていく。悲しそうなフィリップの表情は、変わらない。
それでも、ギュスターヴは言葉を紡ぎ続けた。目の前のフィリップに向けて、一方的だとわかっていても話しかけた。
「確かにお前は村を襲い、罪無き人々を殺しただろう。
話は聞いていた、鋭い牙や爪で傷つけられたり、食われたと。
フィリップ。それでも、俺はお前のことを悪く思ったりしない。
お前は俺の弟だ。何があっても、お前は俺の弟の「フィリップ」なんだ。」
…フィリップからの返答は無い。内に秘めていた情が溢れ、堪え切れずに、ギュスターヴは景色に透けていくフィリップを抱きしめた。
「理性を無くしたお前はまた暴れて、村を襲うだろう。
そのとき、お前が望むのなら…俺がお前を殺してやる。
心配するな。寂しくないように、俺もその後に逝くさ。
俺だって、お前を殺して生き延びようなんて考えていない。」
儚く消えていくフィリップから、息を飲む音が聞こえた。薄れていく温もりが惜しくて、ギュスターヴは抱く腕に力を込める。
幸いにして、理性は保たれていた。いつも野次を飛ばす『何か』の声も聞こえない中、ギュスターヴは語りかける。
「もしお前が理性を取り戻すことが出来たなら、俺と共に行こう。
何処へだっていい。ああ…お前の行きたいところについていこうか。
お前の姿を見て、人はお前に容赦無く当たるだろうが
そのときは、俺がお前の盾になろう。
たとえ何があっても、お前を守ってやる。
必要なら、俺が持つこの剣のようになってやるさ。」
もう、温もりも無く、抱き締めていた腕には何の感覚も無かった。呼吸の音すら聞こえない。
「だから…ほんの少しだけ、待っていてくれ。
つらいだろう…だが、あと少しの辛抱だ…。
俺がお前を助けに行くまで、もう少しだ。
もう少しだけ、耐えてくれ…」
色褪せた景色は暗闇に落ちていき、語りかけていたギュスターヴの意識も薄れていった。
…フィリップの跡が完全に消えたことがわかると、一筋の光も見えない暗闇で目を閉じる。
――もう、いいか。
最後まで消えることの無かった、甘く苦い想い。決して言わなかった…言えなかった言葉。
「フィリップ…愛している…」
いなくなったフィリップの容姿を、匂いを、薄れる意識の中で鮮明に浮かべる。名残惜しそうに残った想いを吐露して、やがて吸い寄せられる感覚に身を委ねた。