北大陸に到着し、歩き始めてからおよそ二週間が経った頃。商人が言っていた北東の村を目指し、広大な草原を抜けたギュスターヴは、見えてきた光景に眉を顰めた。
僅か5軒ほどの、今にも崩れ落ちそうな民家がぽつぽつと、五角形を描くように建っている。民家はどれも藁葺きの屋根で、想像していた村とは似ても似つかないそれは、村と言うよりは集落であった。
商人の噂が事実ならば、おそらくここが村「だった」場所なのだろう。正体はどうあれ、獰猛なドラゴンに訳も無く襲われ、家や周囲の木々は焼かれ、畑は荒らされた。それが幾度か繰り返され、現在も尚、その攻防が続いているのだとすれば納得が行く。
「…テルムの貧民街より酷いとはな。」
心にも無いことを、ギュスターヴは口にした。動悸で胸が痛む理由を、あえて隠す為だったが、しこりのようなものが重く残る感覚までは消えなかった。
…冷めた頭で考え、目を閉じる。
平穏な村を荒らされ、住人はドラゴンに、悔恨と憎悪を抱いていることだろう。そのドラゴンの正体が何であるか、何故、人を襲うようになったのかなど、過程は関係無い。
罪も無い人々を殺めていったという結果が全てだ。遺された人々から家を、作物を、自然を、生きていくのに必要な全てを奪ったという成れの果てが、この集落なのだ。
――お前が数多の人々を犠牲にしたのだ。
再び現れた『何か』が、それ以上の言葉を紡ぐ前。深い闇を振り払うように、ギュスターヴは集落に足を踏み入れた。
出迎えたのは、ギュスターヴより年が一回り下、四十代くらいの男だった。集落より少し外れた場所に位置する畑に、男は一心不乱に鍬を振り下ろしては掻く作業を繰り返していた。
「…作業中にすまない、一つ聞きたいことがあるんだが。」
声をかけると、男は作業の手をぴたりと止め、顔を上げた。その視線は警戒心を露わにしたもので、快くというわけにはいかなさそうだった。
こんな未開の過疎地では無理もないと一蹴して、ギュスターヴは言った。
「驚かれただろうが、私は東大陸より、故郷の仇を追い求めてここにきた者だ。
二日程前、すれ違った商人より、赤いドラゴンが村を襲撃していると聞いた。
私の記憶が正しければ、ドラゴンは私の仇と同じものだ。
故郷にいる両親の、妻子の仇を取りたい。それでこの村が救われるというのなら救いたい。
詳しい話を聞きたいのだ。すまないが、村の長の下に、案内して頂けるだろうか。」
酷い嘘を吐けたものだと、我ながら内心、苦く笑った。実情は述べたものとは真逆で、最初からそんな気は無いというのに。
…返答は無く、重い沈黙が続いた。暫しの間、ギュスターヴと男は互いの目を見つめていたが、探られるかと危惧したギュスターヴの意図は、まもなく外れた。
深いため息と共に目を伏せて、男は言葉を発した。
「…村の長は死にました。今は私が、代理を務めております。」
静かな声から僅かに読み取れた悲哀は、男の背負った宿命の重さを物語っていた。溜息を吐いて以降、土に汚れた顔は暗く陰る。その目からは、絶望しか感じ取ることは出来ない。子分や護衛者を犠牲に、生きる意味を見出せないまま駆け出し、絶望を水面に醜く映した何処ぞの覇王に、男はよく似ていた。
男を哀れむ思いとドラゴンへの情が綯い交ぜになり、ギュスターヴも目を伏せた。『何か』から逃れるように聞いた問いの答えは、気休めにすらならなかった。先程から続く胸の痛みが増しただけだ。
…またあの嘆きのような声が聞こえる前に、首を横に振る。
「そうだったのか…配慮が足りず、申し訳ない。」
「いいえ、むしろこちらが申し訳ない…仇のためとはいえ遠路遥々、こんな偏狭の地までお越しくださったのに
旅人であるあなたを疑った上、用意できるものが何一つ無いとは…お恥ずかしい限りです。」
男は恐縮して言うと、鍬を置いて頭を下げた。人柄の良く、温厚な人物だと察するには十分な言動だった。
この男ならば大丈夫だろうと、警戒を少し解いたギュスターヴは歩を進めた。
そこは畑というには悲しいくらいに荒らされ、作物と呼べるものは二つ、隅にぽつんと佇み風に揺られる葉だけだった。芒のような形状から、作物はおそらく『コーン』なのだろうが、人が食す段階に至るまではまだ当分先だろうと容易に想像できる。
あまりの惨状に無言のまま、ギュスターヴは案じた…これではろくに食事も出来ないのではないだろうか。育つ前に刈られてしまうのではないか。
自分ならどうなのか。何度も同じような目に遭い、それでも再び耕そうなどと思えるのだろうか。
村の代表になってしまい、自分の所為でも無いのに、旅人に頭を下げなければならず、そんな屈辱に耐えながら荒地を耕すこの男を、放ってなど行けるだろうか。
自分の弱さと向き合ったように見せて、逃げて死んでしまった「ギュスターヴ」は、この男に何が出来るのだろうかと。
沸いてくる感情は憤りか、それとも憐れみか。誰に対してのものなのかもわからない。
「…よければ私を、この村の一員に加えてくれないか。」
ギュスターヴは頭を下げる男の前に、手を差し伸べて、そう言った。それは先程のようなでまかせでは無い、死んだはずの「ギュスターヴ」が、本心から放った一言だった。
男は顔を上げ、驚いた様子でまじまじとギュスターヴを見つめていた。ギュスターヴも、むざむざ追い込まれるような真似をした己の言動が理解できず、かと言って差し伸べた手を引くことも出来ず、当惑する。
――本来の目的を忘れたのか?
それは『何か』の言葉ではない、ギュスターヴ自身の問いかけだった。
忘れるはずなど無い。もう十余年も前にドラゴンと化して消えてしまった弟を探し、弟の為に余生を尽くすと決めた、あの酒場での出来事を。
それは、恋や愛などと甘い誘惑に唆されたのでは無い、純粋な贖罪だ。己の存在で弟を何処までも不幸に陥れたことへの罪を、償わなければならない。
――わかっていながらお前は好意を振り撒き、この村の住人まで不幸にするのか。
影を潜めていた『何か』が現れる。ギュスターヴの答えを否定し、今すぐその手を引けと命じるが、心は頑なに拒んだ。ここで言うとおりに引けば、己の意思が無になってしまうからだ。
死んだはずのお前に意思を貫く権利など無いと『何か』は笑う。だが『何か』の言うことを聞く気は無い。
「仇をとりたいのは事実だ。
しかし、それよりも先に…この村を復興させたいんだ。」
心の内で鬩ぎ合う声を払い除け、本心から望んだことを口にする。対して、男は最初「そんなことを言ってくれるとは、気持ちだけで十分だ」と断った。
しかしギュスターヴが強く願い、男は折れた。その言葉は、男にとっては本当に喜ばしかったようで、最後には咽び泣き、泥に汚れた手で握り返した。
今はただ、男のそんな姿に胸が熱くなると同時、罪悪感を覚えるだけだが、後のギュスターヴにとって、この握手は忘れられないものとなった。
…男は泣き止み、はにかんで人の良さそうな表情を見せた後、立ち上がってギュスターヴに村の中を案内した。
「ドラゴンに荒らされ、今は集落のようなものですが…
また前のように、長閑ながら活気ある村に復興させていきたいものです。」
案内している途中、男はそう言った。そういえば名を聞いていなかったが、と素朴な疑問を言いかけたギュスターヴに、男はこう答えた。
「そうですね…名を持たないと言えば、おわかりいただけるかもしれませんが。
この村に住む者は皆、行き場を失った孤児(みなしご)なのですよ。
もう何十年も前の話に遡りますが、私も含め、戦災から逃れる為に
この辺境の地に越して、貧しいながら暮らしてきたのです。」
…男を後ろから見て、その話を聞いたギュスターヴの胸中は、穏やかではなかった。孤児ということは、争いの中でギュスターヴ達、ハン・ノヴァの兵を見ていた者がいても何らおかしくはないからだ。いつ、身元がばれてしまうかという心配があった。
が、それ以上に、行き場を失った者達への罪悪、良心の呵責に苛まれていた。帰る場所を失くし、新たな家を築き上げて生きていた人々が、再び同じ苦境に立たされている…その過酷な人生が並大抵のものでは無いことを、人と違う存在に生まれ、疎まれてきたギュスターヴは理解していた。
だからこそ、それを蔑ろにした「ギュスターヴ」が戦争を続けた挙句に一人生き延び、全てを捨てて気ままな旅をしているというその現実が、心に深く突き刺さった。まして、求めているのが彼らの居場所を簒奪した者ともなれば尚の事だ。
「…ここが私の家です。」
一人で思う間に、気付けば家々を回り終えていたようだ。思いに耽っていたギュスターヴは我に返り、男の家を見上げた。お世辞にも綺麗とは言い難い外観だが、組まれた藁は他の家よりも多く、壁代わりにと積まれている僅かな丸太や大きな石は、原始的だが長の家であることを知らせていた。
話によれば、周囲は東の森林から連なるように木が多く、家の造りも木を主としたものだったが、ドラゴンに襲われたことで木々が無くなり、今ではその多くがただの焦土と化したという。木が貴重な資源となった今では、野原から掻き集めた草を代用してみたり、瓦礫の山から使えるものを探して組み立てているようだ。
男に案内され、中に入ったギュスターヴは、室内を見渡して驚いた。暖炉も無ければ椅子も無く、簡素な造りの室内には家具と思しきものがいくつかあるだけだ。一見すれば野営の様子にも似ていたが、目を引いたのは室内の中央だ。
それは何処へ行っても見たことの無い、四角形の穴がぽつりと開いた場所。そこには灰と薪が入り混じっており、おそらく暖炉の役目をしているのだろうとは予測出来るが、見たことも聞いたことも無い部屋の造形は、ギュスターヴの好奇心を強く揺らした。
「…ああ、それは『囲炉裏』という、暖炉の一つですよ。
この村にいた、建築家の勉強をしていた青年が、異国の建造物を
研究しているときに発見した技術だそうです。
野営と同じように暖を取れるし、調理も出来る。
椅子など無くても良く、談話をするにも使える。
村が唯一、誇れる長所ですよ。
教えてくれた彼はドラゴンを退治しに行って…それきりですが。」
ギュスターヴが中央を凝視していたことに気付いたのか、男はそう説明した。思わず感嘆の声を上げ、不世出の技術を純粋に惜しむ。しかし未開の地で得た新たな発見は、一瞬ながらギュスターヴを童心に返し、長く荒んでいた精神を癒すことが出来た。
目を輝かせながら『囲炉裏』に座したギュスターヴを見て、男は柔和な笑顔を浮かべる。
茶を用意し始めながら、男は話を始めた。
「ドラゴンが村を襲い始めたのは、およそ一月前でした。
襲われる一月前は、もっときちんとした造りの家も
建っていましたし、良い造りの『囲炉裏』があったんですがね。
火が燃え移る恐れから、本来はもっと深く穴を掘り、丈夫な枠で囲むんですよ。
床も、燃え難い材質を使っていたんですが…」
「…全てドラゴンにやられた、か。」
「ええ…」
茶を差し出したまま、男は言葉を詰まらせた。受け取ったギュスターヴが言葉を続けると、表情を曇らせて頷く。
冷静になった頭脳が受け止めたその言葉から読める現状は、ギュスターヴに重く圧し掛かった。
街を案内する際に聞かされた話からまとめれば、この村には三十人程の住民がいた。彼らは孤児で名も無き人々だったが、貧しいながらも独自の技術を持って村を発展させていった。東から連なる森林の中、自然豊かなこの村は建築だけでなく、果実や葉を始めとした作物もその恩恵を浴していた。
一月前、突如として現れた赤いドラゴンは、そんな村の全てを地獄に葬り去った。抵抗した人々はドラゴンの吐き出した炎に焼かれ、ある者は尖った爪で傷を負い、ある者は鋭い牙で食われ、豊富な種類の作物を育んでいた畑は荒らされた。
それも一度や二度ではない、もう四度目だという。その間、襲われた者を救出しようと、或いは仇を討とうと出立し、帰らぬ人となった者もいた。医者もドラゴンに襲われていなくなった状況下、負傷者はろくに手当ても受けられず、傷が元で死んでいった。
そうして死んだ者を看取り、断腸の思いで仇討ちを諦めた人々が、現在、ここにいる男を含めた数名だという。その中には小さな子供もいると聞き、胸が引き裂かれたように痛んだ。あらゆる情が渦巻く胸中で、ただその子を不憫に思った。
それでも尚、弟に対する想いがあることは滑稽だ…ギュスターヴの想いからくる目的は、目の前にいる、人の良さそうな男を裏切る行為、そして子供の将来を奪う事なのだから。
…男が淹れた茶を口に含みながら、暫く他愛の無い話をして気を紛らわせる。茶は透明な緑色をしていたが、これは『緑茶』と言って、普通の茶とは違い、蒸して発酵させるのではなく、発酵を止めて乾燥させたものだという。工程の違いから出来る茶葉が違うという知識は、未だ世に知られていない。ギュスターヴは世に開化を齎すであろうこの村の文明に、純粋に感動し、興味を抱いた。
「素晴らしいな…こんな辺境の地で、そんな発見をするとは。」
「『こんな辺境の地だからこそ』ですよ。
何も無いところでしたからね、そんな知恵の出し合いも
生きていく為に必要なことでした。」
…懐かしそうに言って目を閉じた男の瞼には、発展して豊かになった村の光景が、まだ鮮明に残っているのだろう。次に男が開いた目には、涙が溢れていた。
――この男の苦労を水泡に帰すのだ、お前は。
影を潜めていたはずの『何か』が囁く。罪の意識から逃れようと、耐え切れなくなったギュスターヴが室内の風景に目を見遣る。
粗末な造りで開いている壁の隙間から、夕陽が差し込んでいる。既に暮れ時であることがわかった。
「…話をすると時間が早いな。」
思い出して気落ちしそうになる男を気遣い、ギュスターヴはわざと話題を逸らした。すると男はそれを聞いて、はっと息を飲んで涙を手の甲で拭う。
かと思うと、すくっと立ち上がった。先程の落ち込みようとの差に、目を丸くしながら「大丈夫か」と問えば、人の好さそうな笑顔で頷いて言う。
「浸ってしまい、申し訳ありません。
この夕刻、村にいる者は皆、見張りも兼ねてここで
『囲炉裏』を囲んで食事を共に摂るのですよ。」
なるほど、と納得しかけて、ギュスターヴは止まった。それはつまり、この村の者達に顔が割れるということで…数える程の住人と言えど、彼らは何処から来たかも知れぬ流れ者。万一、正体がばれては、元も子も無い。
「待て、私は…っ お、おい、待ってくれ!」
慌てて呼びかけるが既に遅く、男は既に、住民に知らせようと外に出ていた。誰もいない今のうちに去ろうとしたが、自らが望んだ結果でもあるという事実が、ギュスターヴを思い止まらせる。
…考えてみれば、この辺境の地に来た友好的な客人を、もてなしてやるという厚意を拒むのもおかしな話だ。それに自分は、協力者として支援の手を挙げた。表面上、疚しい事は何一つない。ならばいっそ、堂々としていればいい。
我ながらよくやったものだ。自らの退路を断つような己の言動に頭を抱えつつ、ギュスターヴはその時を座して待った。
その後、男の知らせを聞いて来た住民…と言っても五人程で、その中には幼い子供もいたが…共に『囲炉裏』を囲んだギュスターヴは内心、いつ身元がばれるかと冷や汗をかいていた。
が、幸いにして各々の事情があるからか、互いに名乗ることも名乗らせることもしなかった。誰一人として素性を知らず、また干渉も無い様子に、安堵の息を漏らす。
このとき、忘れていた一つの懸念事項を思い出したが、住人は気にすることもなく優しく接してくれていた…そう、自分が『術不能者である』ということに対しても、誰一人として咎めなかったのだ。
アニマ至上主義の風潮が濃い世の中で、これは稀有な事だった。金属の匂いがするだけでも嫌悪を露わにする者も、少なくなかったからだ。
来たばかりに関わらず良いもてなしを受け、少数の輪というのもあったのだろう。ギュスターヴは少しだけ態度を和らげて、輪の中へ入った。改めて言葉を交わせば、輪の中にいた齢十二か十三歳頃の少年は寧ろ、こんな言葉を送った。
「この鎧、鉄だろ?
すげーなー、かっこいいなー!」
『金属はアニマを妨げるから忌み嫌われる』という認識が未だ世に広まっている中で、賞賛の言葉など初めてだった。それほどにこの村の者達は純粋で、温厚なのだ。
ギュスターヴは心から、この村に来て良かったと思った。異端である己を受け入れてくれる場所は、確かに存在したのだ。知ることが出来たのは、死んだ「ギュスターヴ」にとっても喜ばしいことだった。
しかし逆に、そんな人々の優しさがつらくもあった。それを裏切る行為が、旅の目的なのだから。
――今だけは、この暖かさに触れていたい。
心の底で呟いた「ギュスターヴ」の本心が、旅に出て以降、初めて自然に微笑を浮かべさせた。
もてなしてくれた礼にと談笑に混じれば、まるで気兼ねない旧友のように話が弾む。素性こそ明かせぬが、少しずつ旅の話を打ち明けて行けば、同じく旅してきた住人達も、共感して話を合わせてくれる。
こんな人と人との交流は、本当に久しぶりのものだった。尽きない話の種に、いつしか夜も更けてきていた。
やがて、旅の疲れが出たのだろうか。不意に襲ってきた睡魔に勝てず、ギュスターヴも遂に手を挙げた。
察した住人達が快く引き上げていく一方で、ギュスターヴを招いた男は詫びていた。
「すみません、こんな夜遅くまでお付き合いを。」
「いや…寧ろ、良い時間を過ごせた。感謝している。」
ギュスターヴの返答に、嘘偽りはない。事実、ギュスターヴも知らぬ話が多く聞けたのだ。必要な情報ではないにしろ、知識として留めておく分には損の無い内容だった。また、しがらみを感じさせぬ人との交流は、擦れた神経には丁度良かった。
先程、鎧に目を輝かせていた少年が、男の指示で掛け布代わりに藁を敷いてくれる。悪いと声をかけると、少年は「いい男は堂々としてろ」と快活に笑った。
「おやすみ」という、未だ声変わりしていない少年特有の高い声を遠くに聞きながら、ギュスターヴは深い眠りに身を委ねた。