…北大陸の玄関口である村、ノースゲート。発展途上のこの村にあるものといえば最低限の家屋だけで、これと言ってめぼしいものも特に無かった。村の住民同士が顔見知りであることが災いして、欲しい情報も全くと言っていい程に手に入らない。
もらった食糧もある。これ以上、ここにいる必要は無いと判断して、ギュスターヴは早々にこの地を後にした。
歩き始めて数十分。周囲の景色は、実に長閑だった。ゆっくり歩きながら見ているうちに「ああ、確かヤーデもこんな長閑なところだったな」と、回顧する。
ここのように、民家がぽつりとあるだけでは無かったが、流れる時間が早いような気がした反面、ひどく緩やかであったようにも思う。あれはきっと、母と友の温もりに触れていたからだろうか。
「…親友、か。」
ぽつりと呟いて、目を閉じた。浮かんだ笑みが、郷愁から自嘲に変わった。
かけがえのない親友に、全てを投げてここにいる。親友を置いて、歩き続けている…。
ふと立ち止まり、目を開けて、来た道を振り返った。振り返った先には、何も無かった。景色は変わらず、長閑な草原だったが、人気が無い故に静かで、何処か寂しさも募る。
一年前…第五次南方遠征、東大陸統一を掲げて赴いたあの日が、鮮明に思い起こされる。
何者かの急襲で焼け落ちる砦の中で、傍に付き添って離れなかった青年二人のうち、一人は逃した。が、もう一人…ヤーデにいた頃から連れ添った、柔和な笑顔が取り柄の子分は、逃げろと命じたはずなのに戻ってきた。
燃え盛る砦の中、満身創痍だったギュスターヴは、どうにか逃げ道を見つけた。地面に剣を深く突き刺し、逃げる気は無いと覚悟を決めたギュスターヴは、背後を支える彼に「あの道から逃げろ」と言ったが、それでも聞かなかった。
ギュスターヴには、わかっていた。自分と同様に術を使えないその子分は、いつも自分の後ろをついてきた。子分は最期の瞬間まで共にと、願っていたのだ。
だから炎の中で、二人とも死ぬのだと思っていた。或いは、二人とも生き延びるのだろうと。二人はいつだって、一緒だったから。
だが、そうではなかった。
ほんの一瞬の隙を突かれて、態勢を崩したときだった。モンスターと共に炎が彼等を包み込んだ。無理矢理にでも掴んで逃げ道に突き飛ばそうとして、その一瞬、ギュスターヴは逆に、華奢な筈の子分から突き飛ばされたのだった。
突き飛ばされたといっても、そう遠くに飛んだわけではない。後ろに倒れたギュスターヴは、火に巻かれる子分の手を強引に掴んで引き寄せようとしたが、彼はそれを拒んだ。
熱かっただろうに、苦しかっただろうに、それでも、笑っていた。幼い頃と変わらない笑顔を向けて、彼は掠れた声で言った。
「僕の幸せは…ギュス様のために生きて、ギュス様のために死ぬことです。
僕の一番の幸せは、ギュス様が、笑って生きてくれることだからっ…!」
出会ったときも、笑顔だった。別れたときも、笑顔だった。
砦から抜け出したギュスターヴは、その言葉を、笑顔を、片時も忘れまいと誓って駆け出した。何処へ駆け出したかなど、あまり覚えていなかった。
そうして着いた付近の川で無我夢中に水を飲み、年甲斐も無く漏れた嗚咽を抑え、溢れて止まらぬ涙を幾度も洗い流し、気付けば顔面には刺すような痛みを覚えていた。水の冷たさと顔の腫れのどちらによるものか、もう見分けもつかなかった。
見上げて水面に映った顔は憔悴しきっていて、先立たれた弟妹と同じ瑠璃色の瞳には淀んだ絶望の色しか無かった。あまりの醜さに、思わず笑いが込み上げるほどに。
――アニマを持たぬ出来損ない、覇王ギュスターヴは死んだのだ。
心の底に棲んでいた、暗く、冷たく、淀みきった『何か』を持つ黒い影はそう言い残して、姿を消した。ギュスターヴはこのとき、何の権力も持たない一人の人間として生まれ変わったのだ。否、生きねばならぬという使命感が、奥底の希死念慮をかき消した。
立ち上がり、最期の言葉を背に、笑顔を糧に、ギュスターヴは生きて歩み続けた。それが、彼を最期まで守り続けた者達への、せめてもの償いだと信じて。
…陽炎に揺らめく子分の笑顔は消えて、炎の赤しか見えなかった眼前に長閑な緑と空の色が映し出され、現実に引き戻される。それでいい、と言い聞かせて、また前を向いて歩き出す。
ただの我儘で進み、自分勝手に切り拓いたこの『道』に、付き添いなどいらない。
ギュスターヴは歩み続けた。ただ何も考えず、前だけを見据えていた。
「フィリップ…。」
黙っているのがつらくなれば、こうしてその名を呼んだ。そうして思考するのだ。
炎に包まれ、火竜となって消え去った弟の名。儀式を成し遂げ、殺されてしまった甥の名。そして、もう一人の甥…義弟の、親友の子の名。
妹との第二子を授かった親友に『フィリップ』の名を与えるよう願い、二度と失わないようにと愛でた。影を重ねはしまいと誓い接するも、出来なかった。
失った弟とも、甥とも違う子だというのに。
仕舞いには二人の影を重ねて、心の底で見えない影に謝るように『フィリップ』を可愛がった。その『フィリップ』に、どれほどの苦痛を与えていたのかも、彼の兄であるチャールズをどれほど痛めつけていたのかも、長兄の立場を無くしてしまった元凶だというのも知っていながら、ずっと目を背け続けて。
無心に求めたのは、自分の存在で弟を不幸にしてしまったという負い目からか。歴史に名を残す事もなく夭折した、弟の子への弔意からか。あるいは、血筋を継承したがる人間の本能だろうか。
「幻じゃ、ないよな?」
…自身にも分からぬ真意を探り続けていた時、不意に聞こえてきた声に、前を見た。
白い顎髭を生やした無骨な男が、同様に驚いて一歩後ずさっている。
「こんな異端な男の幻を出せる人間など、ここにはおらんだろう。」
おどけたように言って肩をすくめると、ギュスターヴは続けた。
「まさか、こんなところを通る人間がいるとは思ってもいなかった。」
「……」
続けた言葉に構わず、無骨な男の方は、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くしていた。このような発展途上地に人がいることに驚きすぎたのか、それとも…。
格好を見たところ、この無骨な男は旅商人のようだ。店と違い、仕入れてくるのは品物だけではない。街から街へと流れる情報をも上手く掴む職業だ。
昔こそ、術不能の出来損ないと罵られて隅に追いやられていたが、今では、良くも悪くも顔を知られている。自分の正体が暴かれ、逃げたところで未開の地、無事でいられる保証もなく、いられたとしても他国に居場所が漏れる可能性は高い…。
とすれば、成すべきは一つだ。
万一の為を思い、短剣の柄に手にかけたギュスターヴを尻目に、商人は目をぱちくりさせながら、目の前の人物に触れてみたり、息を吹きかけたりしている。
「…何をしているんだ。」
「はっ、いやいや…これは申し訳ないことを。」
気付いたギュスターヴが怪訝な顔で瞥すると、商人は慌てて手を振る。
「発展途上の地とはいえ、そこまで人が通るのは珍しいことか?」
「珍しいなんてもんじゃありません。私は二年程前にここに来たのですが
二年間ずっと行き来し続けてすれ違った人は、あなたが初めてですよ。」
「そうだったのか…いや、ちょっと待て。
ずっと行き来していると言ったが、何処と何処を行き来しているんだ?」
商人の言葉に、ギュスターヴは素直に驚いて問いかけると、商人は自分の来た道を指差して答えた。
「この先に、小さな村があるんですよ。そこと、ここから西に進んだところに
自分で建てた小屋がありまして…ああ、この先の村は、本当に小さいので
住んでいる人は五、六人いくかいかない程度です。
…ついこの間、赤いドラゴンに襲われるまでは、もう少しいたんですがね。」
「なっ…赤いドラゴン…?!」
ギュスターヴはすぐさま反応し、飛びかかるように問いつめた。
「赤いドラゴンというのはどんなやつだ、村を…人を襲ったのか、一体、何処から…」
「ま、まあまあ、そう、慌てずに…ドラゴンのこと、ご存知なんですか?」
「知っているも何も、そいつは、俺の…」
驚いて宥める商人に、食いつくようにして言いかけたギュスターヴは我に返った。そして、俺の弟なんだと、出かかった言葉を飲み込んだ。かわりに、こんな嘘を吐いた。
「そいつは、俺の…大切な人の、仇なんだ。」
「あ…そ、そうだったんですか…それで、そんなに…。」
「何か、何でも良い。赤いドラゴンについて、知らないか?」
逸る心を抑えて、ギュスターヴは問いつめた。商人は憐憫の眼差しで見るが、そんな視線など気にしていられない。
漸く新たな情報を得られるのだという期待と、商人の言いかけた話への不安が、一気に胸中を占めていた。
「…例えるなら、獰猛な肉食動物、ですよ。まあ例えでなく、本当にそうなんですが。
先程も言ったとおり、この先の村を襲っているんですよ。
もう狙っていると言ってもいいくらい頻繁に来ているので、私も何度か、見たことがあります。
出方からして、北東の村の更に東にある、森の中にいるのではないかと言われています。
その森自体は至って普通なんですが、ドラゴンの退治に出た村人が、そのまま帰ってこなかったとか…。
仇というのなら、仕方ないとは思いますが…今からでも、遅くはありません。
引き返した方が良いですよ。」
「……」
…獰猛な肉食動物。その言葉を聞いた瞬間、腸が煮えくり返る程の怒りが沸いた。殴りかかろうと拳を握りかけたと同時に、そう言われても当然だろうという冷静な頭が、ギュスターヴの動きを制した。
「…引き止めてくれてすまないが、俺はこのまま帰るわけにはいかない。
村が襲われていると聞いては、尚更だ。」
落ち着かせるように、握った拳を開き、脇腹に押さえつけた。掌は、思った以上に汗ばんでいた。
「え、え…?あの」
「村はこの先の、何処にある?どれくらいで着きそうなんだ?」
あっさり引き返すと思っていたのだろう。予想外に冷静な反応を見て、困惑している商人を遮るようにそう聞く。
「はぁ…村はここから北東に行ったところにありますが
こんな地なので、急いでも十日はかかるでしょう。
…食糧、大丈夫そうですか?」
観念したように答えた商人は、ギュスターヴの持つ袋を見遣って問い返した。それにつられて、視線を移したギュスターヴは一言、頼むとだけ言って、クラウンを渡して食糧を買った。
大量に貰ったとはいえ『十日は持つ』と言われたものだ。この先、何があっても良いように、持てるだけ持っておいた方が良いだろう。
…それに、旧友の思いが詰まったこの袋を、無闇に開けたりはしたくなかった。
「…じゃあ、お気をつけて。」
「ああ…ありがとう。」
クラウンを受け取り、食糧を渡した商人は最後まで、ギュスターヴを憐れむように見ていた。仇討ちの為に、こんな僻地で命を落とすのだと思われているのだろう。
――最悪の事態が起これば、本当にそうなるが。
「理性を無くしているのか…」
商人が去った後、ギュスターヴはぽつりと呟き、髪をかきあげた。表情は苦々しく、明るいとは言い難い。
アニマを喰われた者が、人として生還したという例は無い。人間であった頃の習性は残っているというが、それは生物的本能と言うものだろう。
人間の言葉を発することも無く、意思の疎通を図ることも出来ない。自我があるかどうかも不明瞭だ。
無理もないと覚悟はしていたが、やはり人伝に聞けば心が痛む。
…先程と同様、最悪の事態を想定しようとした時。急激な吐き気と眩暈が、ギュスターヴを襲った。
耐え切れずに座り込み、口に手を当てて目を閉じる。身内を殺したくないと言う感情がそうさせているのか、それ以上にもっと大きな、あの暗く冷たい、淀みきった『何か』がそうさせているのかは、わからなかった。
――わかっているのならば認めればいいものを。
思考する前に『何か』は言う。
全てを奪った弟に対する罪悪を、清らかな妻子を築き、穏やかで暖かい家庭にいる弟への羨望を、その家庭を壊した悲劇を、悲劇の発端である己への劣等感を、己への呪詛の言葉を、走馬灯のように思い出させて。
その中に、見出してはならない感情があるのを思い出して、ギュスターヴは無意識に両手で耳を塞いだ。
やめろ、やめてくれと、懇願するように願い、前のめりに崩れる。
――愛していたんだろう?
『何か』は笑う。嘲笑い、そんなギュスターヴを見下していた。
離れていた年月を思えば無理は無いのだろう。取り戻せない過去への後悔もあったのかもしれない。ギュスターヴにとってフィリップは、実弟以上の存在になっていた。
発せられる言葉は何れも棘を含んでいて、針のように尖り、氷のように冷たい。それでも、その瞳には、未だ幼い頃に見た『弟』が残っていて。そんな弟の、穏やかな光を湛えた瞳を、ギュスターヴは見つめながら笑っていた。
歪な形にせざるを得なかった心が溶けて、昔のように素直な心へ戻ること、昔のように笑ってくれることを思えば、何を言われても苦痛になどならなかった。
年月が過ぎると、次第に言葉から棘が無くなった。一言一句が柔らかく、時にそれは暖かさすら覚えた。
寂しがり屋で「にいさま」と慕い、追いかけて転んでは泣いていた、泣き虫な弟。昔から変わらない本質を見抜いて安堵すると同時、ギュスターヴは気付いてしまった。
滅多に崩さない、丁寧に結われた三つ編みはこの頃、自室では解かれていた。腰まで降ろした艶やかな金髪は、あまり露出しない為に色白な肌と相俟って、端整な弟にはよく合っていた。過酷な境遇に置かれたからか、鋭利な刃のように細められた目は少しずつ、穏やかなものになっていた。
あまり意識しなかった、瞳を魅せる緩い睫。逸らされた秀麗な横顔、僅かに見え隠れする項。目に留まった線の細さ。
最初、ギュスターヴは呼吸を忘れた。息を飲んだまま動けず、その美しさに見惚れた。
少量の酒で仄かに酔った弟の目は、普段と変わらぬ刺すような視線を向けていた筈だが、その色はひどく艶めかしく、全身に熱を感じた。動悸を覚えるが抑えることも出来なかった。
…血の繋がった実弟を、妻子を持つ同性である人を、ギュスターヴは愛してしまった。
それでも、弟が幸せであるのなら、昔のように笑い合えることが出来るなら、それだけでいいと思っていた。同性であり、兄弟であり、所帯を持つ弟を無理矢理にでも手に入れたいとは思わなかった。
しかし現実には、隠し切れていたのかも危うかった。無意識のうちに、視線は弟を追っていた。筆を握り、紙に綴られる文字の形すらも。
――お前が愛した者は皆、不幸になる。知っていながら、お前はそれ以上を望んだ。
――顔を合わせることも許されなかったはずのお前が、弟に欲情など寄せるから。
――だから不幸になったのだ、弟は。全てを奪い尽くしたのだ、お前が。
――アニマを持たぬ出来損ないのお前には、人を愛する資格など無いのだ。
『何か』は沈黙するギュスターヴを一方的に詰り、痛めつける。頭を抱え、蹲り、何も言えなくなったギュスターヴを哄笑し、余韻を残しながら消えていった。
「…っは…ふぅ…」
やがて、ギュスターヴの中から全てが消えた。吐き気が治まったことを確認して深呼吸すると、首を横に振り、顔を上げる。
今の自分は醜い表情なのだろうと苦笑しながら、髪をかきあげた。
「悪い夢を見ていただけさ…」
呟き、立ち上がったギュスターヴは何事も無かったように荷を携え、再び歩き始めた。