南方の砦から生還した後、ギュスターヴは各地を転々と巡っていた。ハン・ノヴァに戻ることをあえてしなかったのは、見つからぬ為ではない。あくまでも生きる為だ。地位に囚われず、一人の人間、ギュスターヴとして世を歩んで生きると決めたが為に、あるべき場所へは戻らなかった。

 …が、現実はそううまくも行かず、実際は自分が生きているということを、自分を中心とした権力者達の目につかぬよう、素性を隠したままの行動が主だった。

 そうして表立った行動を取れない窮屈な日々が続き、いい加減に嫌気が差した頃。何処の街だっただろうか、昼間の酒場で、ギュスターヴはとある噂を耳にした。

『北大陸の奥地で赤いドラゴンが目撃されている』

 …赤いドラゴン。そう聞いて真っ先に浮かんだのは、悲劇の中に消え去った弟、フィリップの姿だった。

 頭の隅に追いやってしまいたい出来事。思い出した瞬間、雷に打たれたような衝撃を受け、射抜かれたように硬直し、締め付けられるように胸が痛んだ。

 鮮明なフィリップの姿が、頭の中を駆け巡っていた。フィリップへの複雑な感情が、胸中を占めた。

 何処にいるのか、無事に過ごしているのか、あのときのままなのか。

 ――許されるのならば、会いたい。

 噂を聞いて以降、日増しに強くなっていく想いを胸に、ギュスターヴは歩を進めた。あらゆる町村で赤いドラゴンのことを聞いて回った。

 しかし北大陸は発展途上の地。内情を知る者は見当たらず、かと言って、出港している船は、小さな交易用の商船のみ。

 商船の者に顔を知られる恐れから接触は出来ず、とすれば自身で直接、確かめる他に無いのだが、密航でもしなければ辿り着くことは不可能だ。

 幼い頃に城を追放されて以来、密航など慣れたものだが、今回の場合は見つかったときのリスクが大きすぎた。知人が乗っていないとも限らない。ましてや、生死不明となったが故に新たな火種となった身だ、顔が割れれば戦禍はこれまで以上に広がるだろう。

 甘いと言われればそれまでではあるが、余計な混乱を招きたくはなかった――少なくとも、弟を見つけるまでは。

 …ところが、ギュスターヴが躊躇していた折、予想外の出来事が起きた。港町から月に一度、出航する小さな商船に目をつけ、乗り込んだ先のことである。

「…まさか、こんな船にお前が乗ってたとはなー。」

「へっ、“天下の船乗り”の異名を持つこの俺をなめるなよ!」

 船内の最奥にある倉庫。ギュスターヴはそこで、かつて共に海を渡った男、バットと、およそ30年ぶりの再会を果たした。

 バットは元より思慮深く、頭の切れる海賊であった。そのため、密航者の気配…ギュスターヴの存在には、誰よりも早く気付いたのだ。そしてその人物が誰であるかを察し、かつて自分が『ギュス』と呼んだ男であることも見破った。年を経て尚、その頭の切れは健在である。

 バットはこの小さな商船の船長を務めていた。船長という立場から、密航者は発見次第、すぐに報せなければならない筈だが、海を荒らす人間はともかく、そうでない人間は全て見逃していた。ギュスターヴは特に、バットにとっては思い入れのある相手で、船を乗っ取るような罪人ではないことを知っていた為、寧ろ密航を手伝おうと考えているところであった。

「まあ、お前が生きてて良かったぜ、ギュス。これは俺からの餞別だ、飲めよ。」

「おいおい、いいのか?船長が密航を許したうえ、そいつに酒を飲ませるなんざ

 些かおいたが過ぎるんじゃないのか。」

「『おいたが過ぎる』のはお前の方だ。遺体が見つからんとか逃げ延びたとか死んだとか…

 後継者争いで騒がれる中で、こんな僻地に向かう船に密航なんざ、正気の沙汰じゃねえ。」

 酒を勧められたギュスターヴが問うと、既に飲んでいたバットは饒舌になって毒吐いた。

 …いくら酒に強い海の男でも、30年ぶりに再会した相手となると、少量の酒でもほろ酔い気分になるものだ。それを熟知していたギュスターヴは、酒を一滴も飲むまいと固く心に決めていた。今の自分が微量でも酒を含めば、たちまちぼろが出るだろうと、わかっていたからだ。

 思い入れのある目の前の男は、今となっては唯一、気兼ねなく話せる男だ。しかし、それとこれとは話が別だ。どれほど気を許せる相手でも、いかなる事情も話すわけにはいかなかった。

「何と言われようと、道を変えるつもりはないさ…。

 変えるわけには、いかないんだ。」

「…そうかい。」

「悪いな、何十年ぶりかに会ったのに、素っ気無い態度しかとれなくて。」

「けっ、気持ち悪い!なに素直に謝ってやがる。お前が素っ気無いのは元々だろ。」

 頭の切れるバットもまた、察してか、それ以上の追及はしなかった。丁重に断って謝るギュスターヴを笑い飛ばして、肩に腕を組むと、少しだけ声を落として言った。

「…何も聞きやしないと思ってたが、一つだけいいか?」

「一つだけ、か。質問次第だな。」

「なに、そう深いことじゃあない。

 …もう、帰ってこないのか?」

「……ああ。」

 バットの問いに、ギュスターヴは少し間を置いて、そう答えた。事情を聞かれなかったことに、幾分か心が救われ、安堵すると同時に『帰ってくるのか』と聞かなかった辺り、やはり察してくれているのだろうと理解する。

「まあ、なんだ。ここから北大陸へはそう遠くない。順調に行けば二月で着く。

 お前にとっちゃ長いんだろうが、俺はもう慣れっこだ。ここで大人しくしてろよ。」

「その台詞、そっくりそのまま返してやるよ。

 俺は向こうに着くまで、お前の口が滑って、誰かに何か喋ったりしないか心配だ。」

「この野郎っ」

 立ち上がろうとして言うバットに、そう返したギュスターヴは小突かれた。互いに顔を見合わせて、にっと、若い頃と同じように笑う。

 …ギュスターヴにとってもバットにとっても、今はただ純粋に、この時間が楽しかった。

 そうして、船が北大陸に向けて出発し、二月と数日が経った頃。天候に恵まれながら、遂に船は、北大陸の玄関口である村、ノースゲートに辿り着いた。

 北大陸、人跡未踏の地…あまり来訪者が無い故か、商船が見えてくると、ある者は警戒し、ある者は歓迎し、またある者は慄いていた。

「着いたぜ。」

 船が止まったのを感じて、ギュスターヴが辺りを見回したとき、バットが扉越しに声をかけた。開けても大丈夫だという合図であることを察し、扉を開ける。

「北大陸…か。何処の街の酒場でも、人がいるのは南東周辺ぐらいだとしか聞いたことがないくらいだ。

 まだまだ未踏の地が多いんだろうな。」

「そりゃそうだ。この村の名前も『ノースゲート』で、意味もそのままだしな。」

 …そんな会話を交わすうちに船の甲板へ出ると、村の人々が荷物運びを手伝い、船員達を囲んでいるのが見えた。船員達もまた、村の人々と意気投合して、共に荷物運びに精を出しているようだ。皆、忙しなく動き回っている。誰も、船長と素知らぬ男の二人が出てきたことなど気付かない。

「ほう、これは見つからずに行けそうだぜ、ギュス。」

「…すまん。ありがとう、バット。」

「礼を言うくらいなら、たまにはお前の方から土産でも贈れよ!」

 バットは笑顔でそう返した。肩を叩かれたギュスターヴも、つられて笑う。

「…ああっ、そうだ。ちょっと待てギュス!」

 船から降りて、見つからないように去ろうとしたギュスターヴを、バットが止めた。駆けて船内に戻り、また駆けてきたバットは、大きな袋をギュスターヴに投げ渡す。

「うわっと…これは?」

「余分に残しといた食糧だ。それだけあれば十日は持つだろう。」

 受け取ったギュスターヴが聞きながら袋を開けると、そこには多くの食糧が入っていた。それも腐らないような乾物で、水筒まである。

 …確かに、これだけあれば十日は持ちそうだ。

「お前、こんなに持って行かせて大丈夫なのか?」

「心配ご無用。船員の分はきちんとわけてある。

 というか、この俺が、考えずに持って行かせるわけないだろう。」

「…バット…。」

 胸を張って言うバットに、ギュスターヴは心の底から、出会えて本当に良かったと思った。昔の仲だからと、多くは聞かず、ここまでしてくれるバットの優しさが、胸に沁みた。

 …目頭が熱くなるのを感じて、ギュスターヴは大きな食糧の袋を持って背を向けた。

「…俺は、お前のファンなんだぜ、バット。」

「気持ちわりいこと言うんじゃねえ。」

 その昔に交わした会話を、背中越しに繰り返して、ギュスターヴは去った。バットもまた、何事も無かったように、船員に紛れ込んで荷物運びを手伝った。

 別れの挨拶など、いらなかった。これで本当に、もう会うことも無いだろうから。

 人だかりを避けるように道を歩き、ギュスターヴは村の中へ入った。

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