魔弾〜Der Freischutz〜




「……ねえ、ルックは、僕の事、すき?」 突然聞いてきた彼。 僕はその時本を読んでいて、 それも前々からずっと読みたいと思っていたものだったから、 いつもならば顔を上げて返事をするところを今日は視線を本に向けたままで。 「………さあ」 おざなりな返事。 今思えば、どうしてこの時きちんと向き合わなかったんだろう。 どうしていつもと声の調子が違う事を見抜けなかったんだろう。 「………そっか」 ごめんね、邪魔して。 そう小さく付け加えて、彼は紅茶のポットを持って部屋から出て行ってしまった。 お湯を汲みに行ったのだろうという考えは甘かった。 それ以後そのドアが開けられる事はなかったから。 「………遊びたい」 さっきから後ろにいる小猿が煩い。 確かにここ一月ばかり、 敵状把握やレベル上げ、軍議がずっと続き、休みが取れていないのである。 今日も今日とてこのあと始まる軍議に出なくてはいけなくて。 「葛葉さんに会いたい」 解放戦争の英雄である彼を慕っている軍主は、 暇さえあれば彼に会いに行っていたのだがそうもいかない。 それはまた、ルックも同じ事。 「ねえ、ルックはいいの?」 「は?」 「葛葉さん。最近会ってないんでしょ?」 彼は彼なりに気を使ったらしいのだが。 「…………別に。全部済んでからでもいいんじゃないの?」 そう、別に後でもいい。 だから小猿がいくら勧めてきても、手紙も書かなかった。 あの事があった後だというのに。 彼の家を訪れたのはそれからまた2週間を軽く過ぎた頃。 パーティーについていきながらも、 彼に最後に会った時のあの質問にどう答えようかと考えていたら、軍主の騒ぐ声がした。 「葛葉さん、いらっしゃらないんですか?」 「ごめんなさいね。このところお出かけになられる事が多いみたいで」 「そんなあ。いつ頃……」 「それがね、お聞きしてないもんだから……」 心底すまなそうにクレオが答えて。 遠い所へ旅に出たわけではなさそうだ、というのはその表情から窺い知れた。 折角会いに来たのに君はいないんだね。 悩んでいた事が無駄になってしまった気がして、 少々投げやりにそんな事を考えた。 朝は綺麗に晴れていたのに、 空を見上げるとどんよりとした雲で覆われていて。 ポットを食堂へ持っていったのはいいものの、 彼のいる部屋に戻れそうにもなくて誰にも何も言わずに城を出た。 きっと自分は、いつもどおりではいられないから。 平然と受け流せるだけの事ではなかったから。 自宅に戻る気にもなれず、お気に入りの場所に転移魔法で移動して座り込む。 晴れた日ならばもっと見晴らしの綺麗な場所。 意外にも溜息すらつけなかった。 悲しい、と言う気持ちは湧いてこなかった。 むしろ…… そう経たないうちに、大粒の雨が降り出した。 傘なんて持ってないし、雨を避けようという気すら起こらないから濡れるままに任せて。 いっそのこと雨がやむまでここにいようかとすら思っていたのに。 「………くーちゃん?」 聞きなれた声だった。 振り返った自分はどんな顔をしてたんだろう。 見た事がある後姿だとは感じたけど、 こんな雨の中外にいるなんて思ってもいなかったし、 大体葛葉は雨がすきじゃないから人違いだと思い直した。 でも、その姿が泣いてる気がして。 放っておいた方がいいのか迷ったけど、最初に感じた直感のまま呼んでみた。 一瞬遅れて振り返ったのは確かに葛葉だった。 「どうした?風邪引いちまうだろ?」 近くまで行って、さしている傘に葛葉を入れると顔を覗き込んだ。 寒さのせいか、 ただでさえ白い肌が透き通るような青白さに染まってしまっていて。 泣いているのかと頬に手を添えてみたけれど意外にも冷たいままで。 葛葉は何も答えないままだったけれど、 このままここに入させておくわけにも行かないから、 「とりあえず、おいで」 腕を引いて、家に連れて帰った。 それから何回訪ねて行っても、彼はいつもいなかった。 謝るクレオの声を聞くのももう何度目だろう。 後回しでいいとずっと思っていたのに、 ここまで時間が開くとなるとそうも行かなくなってくる。 彼がこんなに頻繁に家を空ける事は珍しい。 たまにふらりと何処かの景色を見に行くような事があっても、 今回のような事は一度もなかったのに。 彼は今どこで何をしているのだろう。 もしかしたら自分のこの間の言葉を気にしているのではないかとも思ったけれど、 半ば日常茶飯事とも化しているのだから、と可能性を否定した。 けれど長期間の心配はやがて怒りに変わる。 思いつく場所全てを探したのに彼はどこにもいなかったから。 もうすきにすれば、とさえ思えてきた。 「どうした?言ってもいいって思えたらちょっとだけ教えてくれるか?」 コーヒーの入ったマグカップを手渡す。 連れてきた頃は茫然自失としたまま動かなくて、 濡れていた服も着替えようとしないから本人に断って着替えさせたくらいだったけれど、 今では大分落ち着いた、と思う。 小さく反応を示した葛葉に、慌てて付け足した。 「あ、いや、言いたくねえ事だったら、無理に聞かねえからさ」 その一言が効を奏したのか葛葉は口を開きかけたけれど、逡巡しているようで。 とにかくそれを飲むように勧めて暫く待ってみた。 「……………すきってどういう事、なのかな」 久し振りに聞いた声は、蚊が鳴くように細かった。 「すき」ってなんなんだろう。 自分は彼の事が「すき」で、彼と一緒にいたいと思った。 彼もまた自分を「すき」だと言ってくれた。 だから一緒にいた。 しかし彼は自分に対してそう言ってくれたのはただの一度きりで、 エンジュの頼みに付き合って城にも行ったけれど、 個人的に会うという事は殆どなかった。 もしかしたら嫌われているのかもしれない。 自分だけが会いたいと願っても、彼にとって負担になるのならばそれは嫌で。 自分の「すき」と彼の「すき」は違うのかもしれない。 そう思っても本人に聞く事は躊躇われて。 会いに行けないまま、ずっと考えていたけれどわかるわけがなくて。 軍師の頼みで実家に戻ってきたらしいシーナに、聞いてみる事にした。 「………つーと……付き合ってるのかどうかわかんないって事なんかな?」 ずっと話を聞いてくれたシーナはそうまとめてくれた。 「………うん」 「俺はそう…ってか、付き合ってる常態なんだと思ってたけど……」 「そう……」 「でもさ、本人に聞かねえとやっぱわかんない事もあるから、自分で聞いてみるしかないかもな」 「うん………」 「自分の事はすきなのかって聞いてみ?あいつは馬鹿じゃないから気付くと思う。それでもすきって言ってもらえなかったら……」 だから聞いてみた。 ルックの答えはある意味予想通りだった。 「それでもすきって言ってもらえなかったら?」 「…………最悪、もうそういう対象じゃないのかもな。あいつは嫌いな人間は側には寄らせないからさ、嫌われてはないと思うけど……」 「今日はあなたにお願いがあるのです」 久し振りに師匠に呼び戻される。 また何かの使いかと思っていたら、ルルノイエの城の内部捜査だった。 唯一命令を絶対に断れない師匠に話を通すとは軍師も狡いものだ。 それでも文句を言いながらも転移魔法を唱えた。 予想通り、城は広かった。 大まかに、重要と思われる部屋だけを頭に叩き込んでいく。 後で見取り図を書かなくてはならないだろうと考えていたら視界の端を何かが通った。 敵? いや、敵の本拠地にきているのだからそれは当たり前の事だが、油断してはいられない。 守りの天蓋を唱えかけた時、背後で気配がした。 「ん?お前か。偵察ごくろーさん」 「………あんたか」 敵といえども顔見知りの彼が後ろにいた。 「おう。大変だな」 「………見取り図を誰かがくれたら楽なんだけどね」 「それは乗れねえ相談だな。兵に紛れ込めばいいんじゃねえの?」 「………どっかの皇王様と同じ事をさせる気?」 悪びれずに言うルックに小さく苦笑した。 「そういえば……最近葛葉いないんだけど、知らない?」 「ん?いねえの?こっちには来てねえよ」 「………そう。じゃあね」 「おう、じゃあな」 用は済んだとばかりに転移魔法でルックは行ってしまって。 黙って見送ってていいのかと思いつつもあえて何も言わない。 魔法の余韻が空間から消えるのを待って、同僚のいる部屋へ向かった。 淡々と語られた内容。 今にも泣き出しそうなのに、泣くわけでも溜息をつくわけでもなくて。 それが余計に痛かった。 何か言おうと口を開きかけたけど、何を言えばいいのだろう。 応援?同情?心配? でも思いついた言葉はみなあまりにもありふれすぎていて、白々しいものばかりで。 それでも。 「       」 それだけ言って抱き締めた。 だから正直、彼の居場所を聞かれた時に焦った。 本当は居場所を教えなくてはいけないのかもしれない。 でも。 「シード?」 「……ん?なんでもねえよ」 …………誰が言うかよ。 ずっとここにいたいと思った。 帰らなくてはいけないのはわかっていたけど、帰ったらエンジュが来るだろうから。 協力する事は嫌ではないけれど、ルックには会いたくなくて。 心配してくれているクレオには、手紙を書いた。 そう、ここにいたい。 嬉しかったから。 欲しかったから。 わかってくれたから。 側にいてくれるから。 側にいさせてくれるから。 「くーちゃん、どうした?」 一緒にいて欲しいから。 「またいないのか……」 エンジュに話を聞いて自分でも彼の家に行ってみた。 クレオに話に聞いてた通りの応対をされて。 試しにカマをかけてみる事にした。 「んじゃ、いつ帰ってくるかわかんないんだ?」 「そうね……お聞きしてないわ」 「でも探しに行かないのは、居場所がわかってるからだろ?」 「え?」 「葛葉がいる所がクレオにとって安心できる場所だから、探しにいかねえんだろ?」 「………ここで留守を守る事が私の務めよ?」 それだけ聞ければ十分だった。 葛葉の友好範囲は広いけれど、誰にもばれずにいられる場所なんて1つしかないに等しいから。 でも居場所がわかっていても呼び戻せる? いなくなった理由を知っているだけに、 自分が入り込めないその場所であるだけに、 「あいつ、気付かなかったのか?」 呼び戻せると思う? 彼がいない。 どこを探しても彼がいない。 彼に会いたい。 きちんと話をしなくてはいけない。 彼は誤解しているのだろうから。 でも彼への連絡手段は何一つない。 前は紋章の気配でだいたいの位置はわかっていたけれど、今ではそれも皆無。 探す事さえ不可能に近くて。 「真の紋章は引き合います。それが気持ちの相容れる者、力の強い者同士ならば尚更の事です」 昔師匠が言っていた言葉。 僕はもうその資格はない? 僕は君に拒絶されている? 「葛葉……」 空の声が宙を舞った。 私は知ってたの。 知ってたけど気付いて欲しかったから、敢えて何も言わなかったの。 任せておけばいいって思ってたから。 「………いいわけ?」 「私1人では決められないから、あなたにも聞いてるのよ、シーナ。大事な事だから」 「……結果的にはいいかもしれないし、事態も変わりゃしないけどさ……」 「しないけど?」 「………クレオが、ここまで考えるとは思ってなかったかな、正直さ。葛葉には、無理とかかけさせたくないって、ずっと言ってたし」 「……………それは今も昔も変わらないわ。 私は状況を半分しか理解していないから言える事なのかもしれないけれど、それでも坊ちゃんの御気持ちはわかるような気はするの。だから」 「荒療治だな」 「それがどう転ぶかわからないし、今以上に傷ついてしまわれるかもしれないけれど、それでも選択肢だけは残しておきたいから」 「………じゃああいつに伝えていいんだな?」 「ええ……シードには、手紙を書くわ」 しゃしゃり出てごめんなさい。 それでも私は恩着せがましいけれど坊ちゃんの事を考えて、この選択を選んだの。 幸せでいて欲しいから。 カゲがクレオから預かってきた手紙。 いつかはそうなるだろうと思ってたし、そうしなきゃいけないのもわかってた。 だから彼女の判断は正しいのかもしれない。 それと同じ比率でこれを知らせるべきか迷っている自分がいるけれど。 「………くーちゃん」 「なあに?」 どこか心配そうな瞳が向けられる。 どうしてこんなに察しがいいんだろう。 俺、いつもどおりに切り出せなかったんだな。 「………ルックが、くーちゃんに会いに来る。もちろん、くーちゃんが会いたくなければ会わなくてもいいんだけど……どうする?」 ………何を俺は聞いてるんだろう。 久々に通る気がする、石版の前。 2ヶ月前だったら確実に、ここには石版の管理人の他にもう2人いたはずだった。 それが見えなくなったのは、そのうちの片方が来なくなってしまったから。 相も変わらず管理人は不機嫌で。 いや、不機嫌を通り越しているのかもしれないけれど。 1つ溜息をついて話し掛けた。 「……最近淋しいのな」 「何が?」 「葛葉こなくなったじゃん」 「だから?」 「会いに行かねえの?」 「行った。けどいなかった」 「お前、葛葉に会いたい?」 「まあね」 彼は相当気にしているらしい。 意外にも素直に返ってきた反応に少々驚いたけれど。 「葛葉は?」 今更? 「………ハイランド」 この鈍感魔法使いめ。 何で俺はこんな事聞いてるんだろう。 黙っていればよかったのに。 大体この間ルックに葛葉の居場所を聞かれても、知らないと答えたのは自分なのに。 言ってる事とやってる事が矛盾してる。 会わせたくない。 帰したくない。 向き合わせなきゃいけない。 いつまでもこのままじゃいけない。 相反する気持ちが混ざり合っている。 「どうする?」 この答えを聞いて自分はどうするのだろう。 そもそも選択肢など書かれていなかったのに。 「………葛葉?」 時間切れ。 予告どおりにきた魔法使いは、葛葉に僅かに微笑みかけた。 久し振りだね、という声も、 どこか安心したような笑顔も、 腕の中にいる事さえも、 まるで別の次元で起こっているような感じ。 それでも、 自分が望んでいた事は確かにこういう事で、 もっと嬉しいはずなのに、 きっと自分は幸せなはずなのに、 どうして自分はそう感じないのだろう。 二人の話も遠くて。 まるで水の中で物を見ているように世界がぼんやりしている気がして。 どうしてだろう? どうしてなんだろう? 何も返事をしないまま、 何一つはっきりわからないまま、 気がついたら光の中にいた。 これでよかったのかな。 こっちに戻ってきてから、 誰も僕の事を怒らなかった。 どうして怒らないの? 勝手にいなくなったのに。 怒る価値がないから? 怒ってもしょうがないから? 怒る意味がないから? 戻ってきてから毎日のようにエンジュが迎えに来てルックともよく会うようになった。 でもそれだけ。 何にも変わらない。 そもそもどうしていなくなったのかすら聞かれてないんだから。 僕はどうでもいいのかな。 別に試したわけじゃないけど、 やっぱり僕はルックにとって必要ないのかもしれない。 もう一度踏み込んで傷つくのが嫌でそれを確かめる事は出来ないけれど、 いなくなる前と現状が変わらないのなら返事も同じだろう。 僕はルックにとって何なのかな…… 迎えに行った彼は酷く驚いているのか黙ったままで。 とりあえずシードに御礼を言って連れて帰ってきたけれど、何を話せばいいのかがわからない。 どうしていなくなったのか聞きたいとは思った。 自分に非があると言う事は、何となくでもわかっていたから。 でもそれを聞ける勇気がなかった。 聞いて彼を傷つけてしまわないかと、 どうしても切り出せなくて結局彼がいなくなる前と自分の態度は変わらないままで。 それではいけないと、 ちゃんと頭では理解しているのに、 どうしても踏み込めないままで。 自分にとって彼はどんな存在だったんだろう。 彼にとっての自分は? それさえも曖昧になってきて何も出来ない。 話をしたかったから迎えに行ったのに。 心配だったから迎えに行ったのに。 触れれば届く距離にいたのに。 帰したくないと思っていたのに。 どうして帰してしまったんだろう。 初めはちゃんと割り切っていたのに。 二人の事を考えれば今の状態は当然の事で、 寧ろ邪魔だてした事は自分の罪であるくらいで、 それでも一緒にいたいと思って、 矛盾だらけな自分の行動に腹が立つ。 一緒にいたかったからルックに嘘をついて、 彼の幸せを考えたからこそ自分は受け入れて、 それでも手を離した事を後悔して、 それでよかったんだと自分を無理やり納得させようとして。 だから余計に驚いた。 ここにいないはずの彼がいた事に。 身体が動いてた。 いつもならちゃんと先の事まで考えて行動するのに、ただ何かに引きずられるかのように。 ただ確かめたかっただけ。 そうでなくては自分は彼の事だけを考える事が出来なかったから。 湧き上がる疑問が片付かなくては先には進めないから。 でもそれはもしかしたら言い訳なのかもしれない。 「……くーちゃん?」 彼が酷く驚いているのがわかる。 「どうしたんだ?」 それは自分が1番知りたい。 本音と建前の境界線がわからない。 「………わかんないよ……」 自分の気持ちも彼の気持ちも、 不意に出てきた疑問のその意味さえも。ぶち当たった疑問。 ルックは自分の事がすき? それはどんな風に? 彼は自分といて楽しい? 彼にとって自分は必要? 相手に聞かなければわからない質問の答え。 僕はルックがすき。 それはどんな風に? 自分は彼をいて楽しい? 自分にとって彼は必要? そう、ルックがすき。 どんな風に? ――――恋愛対象として? ルックをいて楽しい? ――――わかんない。 自分にとってルックは必要? ――――わかんない。いなかったら、淋しい。 でもルックにとっては自分は……? 彼に聞けない質問は底に沈んで自分を縛り付ける。 他のどの仲間よりも大事。 でも、 何故かシードとは比べられなかった。 それがどうしてかなんて、 僕にはわからない…… そんなつもりはなかったのに。 話聞かなければよかった? ルックに早く居場所を教えればよかった? 雨の降ってたあの日に声をかけなければよかった? あるいはもっと以前? それよりも今? 彼と同じような疑問は、 自分の中でもう葛藤した後だった。 正確にはまだ葛藤しているところだけど。 でもそれは本当なら埋葬されるはずだった。 気のせいだったのかもしれないって、 彼との間に出来るはずの距離がそれを薄れさせるだろうって、 無意識の間にきっと期待してた。 それなのにどうして彼に会ってしまったんだろう。 それは謀られた事でも何でもないし、 自分としては彼に会いたいくらいだったのに、 自分自身は自分のその気持ちを否定しに掛かる。 否定しなきゃいけないのに。 言っちゃいけないのに。 今手を伸ばしたらいけないのに。 この気持ちは謀られたものですか? 「…………俺はくーちゃんがすきだよ」 それは甘く禁断の言葉。 それを聞いて正直喜んでいる自分がいた。 彼も同じ気持ちでいてくれたらと、 浅ましくも期待していたのかもしれない。 それは自分の気持ちを正当化させるための言い訳で、 本当は一体何なんだろう。 あの人が言ってくれない言葉を言ってくれたから? ただ自分はそれに甘えているだけ? それとも自分が感じているものは本物? 気持ちに理屈が追いつかない。 それでも嬉しかったのは本当で。 自分も彼をすきな事は本当で。 それでも自分はあの人の事もすきで。 どちらか選べと言われたらどうするかなんて、 比率的にはもう答えは出つつあるというのに、 それは単に自分の努力が足りないからなのかもしれなくて、 だから、 溢れだした雫は一体誰のものですか? 自分の言った言葉の重大さに気付いたのは、 目の前の彼の綺麗で痛い雫を見てからだった。 自分を抑える事はきっと可能だったのに、 それでも口にしてしまったのはやはり自分が彼と一緒にいる事を望んでいるからで。 「………くーちゃん」 彼の涙は自分に向けたもの? あいつに向けたもの? それとも自分自身に向けたもの? それすらもわからない。 泣かせてしまったのは自分で、 その原因を作ったのは紛れもない自分で、 でも自分は彼に対して何か言う事は出来ないから、 華奢なその身体を抱き締めた。 自分の浅ましさがそこにある事を理解してる。 ここで言った事を取り消す事はまだ可能なのに、 やはりそうはしない自分がいる。 彼をすきになった事は罪な事ですか? 暖かい。 ここにいたい。 その言葉が欲しい。 ずっと一緒にいて欲しい。 それを強く願ったその相手は最初は彼ではなかったはずなのに。 いつから変わってしまったんだろう。 いつからそう思えなくなったんだろう。 いつの間に自分は変わったんだろう。 逃げてないだなんて浅ましい事は思わない。 ルックと話をする事を恐がって、 それで自分で勝手に出した解釈なのだと、 頭ではきちんと理解しているのに。 心の加速は止めようがない。 心の中の比率は誤魔化しようがない。 だって本当だから。 彼をすきでいる自分を否定できないほど、 それは余りに大きくなってしまったから。 「…………シードが、すきだよ……」 とても小さなその声はあなたに届きますか? 逃げているだけの自分が出した結論を、 どこかで届かないように必死で願いながら、 それでも聞こえていて欲しいと、 ただ抱き締めてくれた彼にしがみついた。 後悔したって遅いのは知ってる。 彼がどこにいるのかも、 彼が誰を見つめているのかも、 今の状況から察するのは容易い事。 取り戻した彼に踏み込めなかったのは、 また彼を傷つけて失うのが恐かったから。 何か言ってもう1度失うのが恐かったから。 だから踏み込めなかったけれど、 踏み込まなかったせいでこうなったのだとしたら、 自分は本当にどうしようもない。 ここから姿を消すのはただの逃避。 自分の罪から逃げていくだけ。 ここで帰りをただ待って、 彼に一言告げてそれでおしまい。 彼がすきだから。 傷つけたくない大事な人だから。 だからこの選択を選んだ。 でもそれはきっと言い訳で、 本当は誰よりも彼がすきなんだと今更言っても、 彼に届かないのは自業自得。 「…………帰らなきゃ……」 今更の罪悪感? それでも目の前にいるシードは頷いた。 自分の業との対面。 それはそれはとても痛い事だけれど。 「……ばいばい」 転移魔法の光の中にいる彼が、 それきり消えてしまうように感じて。 「迎えに行くよ」 そう言って見送った。 そこにいるのが誰かなんてすぐにわかったから、 正直目を開けるのが恐かった。 まず何て声をかけたらいいのかわからなくて、 逃げ出したくなるほどに胸が痛い。 ひとまず目を開けて。 「おかえり」 彼からかけてくれた言葉に、 「ただいま」 そう小さく返すのが精一杯で。 恐らく彼は自分がどこに行っていたのか、 これから自分が何を言おうとしているのか、 きっと知っているのだろう。 その証拠に彼は自分の言葉を待っていて。 その上で言わないのは更なる逃避。 「…………ごめんね」 出てきたのはそれだけ。 言わなきゃいけない事はたくさんあるのに、 泣くのはずるい事だとわかってるのに、 痛くて痛くて、 そうしたのは自分だってわかってても、 コントロールできないのはきっと、 彼が一番ではなくなってしまったにせよ、 自分の中では大事な人だから。 彼の事がすきなのは本当の事で。 それなのに自分は彼の事を傷つけてばかりだった。 泣かせてしまってばかりいて、 彼の言葉を聞く事も彼の気持ちを理解する事も出来ないままだった。 「泣かないでよ」 泣いている彼に手を伸ばして綺麗な雫を指で拭った。 「………言わなくてもわかるから。だから泣かないでよ」 本当ならここで抱き締めてあげたいけれど、 それは出来ない事だから。 それは彼が望まない事だってわかってるから。 そんな事をする資格はもうないってわかってるから。 こうやって言葉をかける事しか出来なくて。 「君が幸せならそれでいいから」 優しい君は僕の事を心配してくれるけれど、 そんな勿体無い事はしなくていいから。 ねえ、僕の一番大事な人。 どうか今度はちゃんと幸せになって。 「じゃあね」 ねえ、葛葉? 最後に君の微笑みを見たいというのは我が侭ですか? それすらも壊してしまった自分の浅ましい願いだけれど。 彼が何も言わないのは自分がそれだけ彼を傷つけてしまった証拠。 手を伸ばす資格はもうなくて、 他に何も言えない中で浮んだ言葉はただ1つ。 「………ありがとう」 それを聞いて彼は僅かに驚いた顔をしたけれど、 自分がすきだった綺麗な微笑みを向けてくれて。 「僕の方こそね」 そう言い残して彼は背を向けて行ってしまった。 自分から立ち去る事を決めたのは、 君の後姿を見つめていたら自分は君の腕を引いて自分の腕の中に閉じ込めておきたくなってしまうから。 でも女々しいってわかっていながら、 君がもうそこにはいないだろうとわかっていながら、 後ろ髪を引かれるように振り返った。 君が最後に向けてくれた僕の為だけの微笑み。 僕はそれを網膜に焼き付けた。 もうそれを目にする事はないから。 さあ、僕の聞き分けのない気持ちが君の所に行ってしまわない前に、 君を本当に幸せにしてくれる人の所へ行ってよ。 僕は不完全でも君の事を愛しているから。 あとがき。 要するにお互い言葉が足りないがゆえに擦れ違っちゃったね、っていう話なんです、要約すれば。 ルックの気持ちはくーちゃんには届かなかったけど彼は彼なりにくーちゃんがすきで、 くーちゃんはそれがわからなかったけどくーちゃんなりにルックがすきだったんですね。 何処で違っちゃったんだろうね……

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