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新プロ「日本語」>藤原正彦先生を囲んで(平成9年か10年か定かではありません。)


藤原??

私は、数学者なのですけれども、数学関係の講演はよく頼まれるのですが、何処へ行っても国語、国語、国語と言っているのですね。

あまり教育のことには触れないつもりでずっといたのですが、中教審などでいろいろなことがありまして、去年の初めぐらいからだんだん世論が誤った方向に話が進んでいくようなので、これでは黙っているわけにはいかないなと思った次第です。

今日は、どうして私が、算数ではなくて国語、国語と言っているかについて、お話しようと思います。

どうしてそう思うかというと、小学校の場合、1に国語、2に国語、3、4がなくて、5に算数といい、国語が他の科目とまったく本質的に違う重要性の条件で位置づけられているわけです。

中高になると違いますけれど。どうしてそう思うかというと、今のところ、平成元年から週5日になる予定が中教審でやっていて、有馬さんがこの前書いてくれたのが、すごい陳情書の山になっているのですね。

国語学会もやっているに違いないし、数学学会や日本の社会の中でも。

そういう状況の中、日本ではどうするかというと、皆に等しく血を流してもらうことに決まっているのですね。

学校において皆に血を流してもらう平等にですね。

従ってそうすると、国語もですね、平等に血を流すことになる。

中教審の方は、総合学習ということで、小学校に何を入れるかというと、まず英語ですね。

それから外国語、情報教育ですね。

それから環境教育、異文化理解の教育。

それはすべて私は大反対です。

それは誤った方向です。

結論的には国語に行き着くわけですけれども、その前に、順々に理由を述べていきます。

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初等・中等教育のカリキュラムもちろん、今出てきた教育というのは、これから 21 世紀のカリキュラムをどうしようか、ということですけれども、21 世紀のカリキュラムを考えることは、21 世紀の日本をどうするか、ということにほとんど等しいわけです。

従って、そういう思いで決めてくれないと困るわけです。

単に重要だからカリキュラムに入れる、というのが最も危険な考えということです。

これがどんどんいくと、詰め込むことになるのです。

そこで、初等・中等教育のカリキュラムを決定する3原則というのを、私は自分で作りました。

その3原則とは何かというと、第一は学校で教えるのが適当かということです。

これは、全国で小学生が毎年、自転車で何十人か、何百人か死んでいますね。

それは、何百人死のうと、小学校のカリキュラムに自転車の安全な乗り方というのを入れてもらっては困るということです。

その何百人の命が救われるとしても、入れてはいけない、ということですね。

それは、学校で教えるべきことではないということです。

家庭とか、社会とかそういうところで教えるべきなのです。学校では自転車の安全な乗り方は教えない。

それは、今の第一の原則、学校で教えるのが適当かに関してです。

第二の原則は国民の大多数にとって必要かです。

例えば、バイオリン演奏というのは小学校では教えません。

それは、国民の大多数にとって必要ではないからです。

私の息子はバイオリンの演奏を5歳から習っています。

そのお陰で、絶対音感というものがついています。ピアノの音を適当に4つぐらい弾くと、ぱっとあてることが出来ます。

このように、すばらしい効果があるわけです。

しかし、国民大多数にとって必要ではない。

従って、カリキュラムに入れるのは困るというわけです。

第三番目の原則は、子どもの発達に即しているか。

これは、別のことばでいうと、適齢かということです。

例えば、哲学というのは、人間がどう生きるか、最も重要なものであるはずです。

しかし、小学生には絶対教えてはいけない、ということですね。

これは重要でありながら、適齢ではないからです。

カリキュラムに何を入れて重要視するかということは、この3原則をどれほどよく満たすか、それで科目間の優先順位が決まる、こういうふうに考えたわけです。

特に、今言った 3 つの中で一番大切なのは、3番の適齢のところです。

これが、ほとんどの学会では忘れている部分です。

例えば、英語を入れるとか、コンピュータを覚えさせるとか、環境教育、異文化理解などは、適齢という点から非常に疑問に感じます。

思考と情緒の基盤としての国語

この3つの原則を思うと、どう見ても、小学校での最優先教科は国語と算数である、ということは間違いないことであります。

昔から「読み書き算盤」と言われていたのが、「算盤」を算数に変えてみれば、故人の言うとおりだということになると思います。

とりわけ、どうして国語の重要性がずば抜けているか、そういうことを思われたと思うのです。

これは、国語は言語教育だけではなくて、すべての思考と情緒の基盤となる、そういうふうに考えるからです。

もちろん、人間というのは思考した、考えた結果を言語に表現するわけです。

なんですけれども、それと同時に言語を用いて思考するという面があるわけです。

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すなわち、言語と思考というのは、ほとんど区別がつかないものです。

あるアメリカ人で日本に 10 何年いた人が、日本人は肩が凝ると言うがどうして肩が凝るかわからなかったというのですね。

ところが、10 何年経って日本語がわかるようになって、「肩が凝る」ということばを理解したら、本当に肩が凝り始めてしまった、というようなこともあるぐらいですから、生理的なことさえ言語と関係しているわけです。

非常に思考と言語は紙一重であるわけです。

例えば、私の専門分野の数学みたいなものでも、言語というのは非常に重要です。

例えば、和算というのが非常に発達しながら、ヨーロッパの数学にどんどん引き離されて、迎合されてしまったかというのは、一つには言語化という面で遅れをとってしまったのですね。

要するに、言語化ということは非常に重要である。

数学というのは、言語と思考の平行運動のようなものなのですね。

言語と一番離れているような数学でもそうですね。

日本にいろいろ外国人が来て住んだりして、日本人の特徴についていろいろ言っているわけですけれども、昭和初年に、イギリスからサムソンという人が来たのですね。

その人が東京に暮らしてジャーナリストに頼まれて書いた文があるのですけれども、非常に日本人の美的感受性というのは素晴らしい、というのですね。

そのような美に対する日本人の繊細な感受性というのは、世界でも際立っている、と彼女は言うわけですね。

他の人も非常に多くの外国の人も言っているわけですね。

そのような感受性は日本人の特徴である。

あるいは、一昨年、私の家をスタンフォード大学の教授が訪れたのですが、夏、皆で暑い、暑いと言っているときに、外で虫の音が聞こえたのですね。

そうしたら、彼が「あのノイズは何か」と聞きました。

あのノイズ、雑音は何か。

私の田舎のおばあちゃんは、秋になって虫が鳴くと、「もう秋だね」と目に涙を浮かべていたわけです。

そのような「もののあはれ」とか、そういうようなものに関する感受性は日本人は非常に素晴らしい。

このような日本人としての感覚とか情緒というのは、もちろん親から子へ、口から口へ移されたと同時に、重要な部分は詩歌をはじめとする文学を通して、日本人の胸に継承されてきているわけです。そういう意味でも、そういう文学を教えるという上からもことばの重要性というのは、ますます増しているわけです。

国際化に必要な日本人の「情緒」

これから、どんどん国際化ということになりますね。

国際化というとすぐ、英語だとか、あるいは世界一だとか、あるいは世界一計画だとか、あるいは西洋マナーだとか、外国事業だとか、そういうことになるわけですけれども、結局、そういうものをいくらマスターしても、外国に行って誰も認めてくれないのですね。

誰も尊敬してくれません。

英語がいくら上手く使えても、国際人にはなれないのですね。

それは、アメリカ人もイギリス人も皆英語は上手いけれど、国際人といえる人は僕から見ると5分の1もいません。

そうすると、国際人というのは英語とは全く無関係なのですね。

国際人というのはもちろん西洋マナーも無関係です。

外国の地理も歴史も事情も無関係です。

国際化ということに対して、一番強力なものは何かというと、一つ挙げるとすれば、私が今言ったような日本人固有の情緒です。

そういうものは素晴らしいものである。

外国人もこれは直ちに認識して、高く評価してくれる情緒なのです。

私はアメリカで 3 年、イギリスで 1 年暮らしてました。

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けれど、そういう印象を受けました。

向こうの大学に行って、ノーベル賞級の学者たちと争うわけですが、競争になって、研究上挫折などをすると、「もうだめだ」と考えたりしがちだったのですけれども、そういうアプローチなしに西洋文化に立ち向かっていくときに、自分を支えてくれたのは、そういうような美しい情緒の国に生まれた、というような誇りです。

世界における何かをしようとするときに、最も重要なものになるのですね。

そういうところがほとんど誤解されているようなところだと思います。

日本人のアイデンティティともいうべきものは、今言った情緒です。

美的、繊細だとか、「もののあはれ」です。

そういうようなものは、どんどん伝統軽視の中で、信頼が膨らんでくるのです。

こういう情緒を培う上で、文学、結局国語が重要な役割をするわけです。

小学校における英語教育についてそれで、総合学習とさっき少し申し上げましたが、いちいち全部反対しないと、国語も算数も救われないので反対しているわけです。

NHKで一度出されている「英語の教育を小学校に入れるかどうか」ということについても、私は反対なのです。

小学校に英語をいれるなどということは、とんでもない大誤りなわけですね。

これをしたらば、大変なことになる。

世界の一流国で外国語を小学生に教えるということはほとんどありえないことです。

中学校からは当然、特に日本は英語の授業が大変少ないですから、もっと増やさないといけないと思うのですけれども。

小学校はまず、国語を確立しないと、思考の形成がなくなってしまうわけですね。

そういうわけでどうしても国語をきちんとしなければいけない。

ただ、その席である英語の学者にきくと、英語をすると、国際人になれるとか。

これは、さっき言ったようにですね。

それから、その人はある会社の社長なのですけれども、英語をすると、その会社を全部英語で運営したい、というようなことなのですが、英語を公用語にして、英語でやると商談も上手くいくし、事業が円滑にいく。

従って、英語をもっと小学校から勉強すべきだ、というのですね。

結果として、国も経済的に反映するというのです。

従って、私がイギリス人は皆英語が上手いけれども、この 100 年間経済は斜陽です、というのです。

要するに、英語がしゃべれるかどうかは、経済とは全然関係ないです。

一般に言われている国際人は、本当の意味での国際人ではなくて、自己とか日本人としてのアイデンティティを失った国籍不明人、という意味ではないかと私には思えるわけです。

従って、小学校から英語を教えれば、英語もかなり流暢にしゃべれる。

日本語もかなり流暢にしゃべれる。

そういう意味で、国籍不明人ができるわけです。

しかし、思考のベースである国語というものがぐらついている以上、国際人にはなり得ないということになるわけです。

一番いけないのは、例えば、日本語能力が日本人の6割、英語能力がアメリカ人、イギリス人の 6 割、そういうのが最も役に立たない人間なのですね。

これは間違いないのです。

10 と0の方がはるかにいいですね。

日本語 10、英語0、あるいは英語 10、日本語0の方が、6+6よりよい。6+6=12 だから、10 より 12 の方が大きいからよいと思うと大間違いでして、どちらの国でも使えない人間にしかなれない。

もちろん、10+5にすれば、一番理想ですけどね。

なかなか 10+3にできるかわかりませんからね。

 

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とにかく、どちらかを 10 割にするということが、ある意味で、座標軸の確率というわけで、一番重要になるわけですね。

思考のベースである「情緒」

先ほどから、思考のベースだとか、座標軸とかいっていますが、どういうことかといいますと、人間の思考というのは、単純化するとどういうことかというと、それは、Aという出発点から出発して、AならばB、BならばC、CならばDといって、最後にZというところで結論がでるわけです。

Aというのが最初の出発点。

Aならば、というと矢印が伸び、これが論理ですね。

そういう論理の鎖をやっていって最後のZというところに着くわけです。

従って、論理的思考というのは、すぐにできていかないのです。

Zにいくと思いきや、そうはいかないのですね。何故かというと、一番最初のAというのは出発点であって、ここにはどこからも矢印がきていないわけですね。

通常、Aの選択はその人の情緒力で選んでいくのです。

常に、Aというのは仮説ですから、この仮説というのはその人の情緒力で選んでいく。

その情緒力というのは、何によって培われていったものかというと、その人がそれまでに、どのような親に育てられたか、どのような先生に出会ったか、どのような読書をしたか、どのような悲しい別れをしたのか、あるいは、どのような初恋をしたり、失恋をしたのかですね。

そういうものすべてが、その人の情緒力となって、最初の出発点Aを選んだのです。

その情緒力が十分に発達していないと、例えば、出発点Aを間違って選んだ場合、その人が論理的に優れていればいるほど、頭が良ければよいほど、結論は絶対誤りになってしまうわけですね。

最初の出発点が誤っていて途中の論理が正しければ、結論は必ず誤りになってしまう。

その人があまり頭がよくなくて、途中で2転、3転論理の誤りを犯せば、元に戻って正しい結論になりますけれども、頭の良い人の怖さ、危険というのはそこにあるわけですね。途中の論理は間違えない、しかし、最初の出発点を間違えて選ぶ。

ヒットラーのような頭の良い人も同じことですね。

そのように、いくら頭が良くても最初を誤ると大変な結論になるわけです。

例えば、卑近な例で申し上げますと、一週間何も食べていない乞食がうろうろと歩いていた。

そして街角のパン屋さんでパンを盗んで逃げたとしますね、それを見たある人が、

「日本は法治国家である。

法治国家において国民は法律を厳守しなければならいけない。

あの乞食は人のものを黙って店からとってしまった。

それは窃盗余罪である。

従って当然法律に照らしあわせて罰しなければいけない。

従って警察に通報しよう。」

と論理を展開する。

ある別の人は、同じ光景を見て

「ああ、かわいそうだ。

確かに日本は法治国家である。

しかし、あの乞食はパンを食べないと死んでしまうかもしれない。

人間の命は一遍の法律よりも尊いものがある。

従って見て見ぬふりをして、通り過ぎよう。」

と結論を出すかもしれない。

そうすると、最初の人は出発点は

「日本は法治国家である」結論は「警察に通報しよう」ということです。

二番目の人は、出発点は

「ああ、かわいそうだ。」が出発点です。結論は「見て見ぬふりをして通り過ぎよう。」

どちらも論理はきっちりと通っているわけです。

しかし、出発点のAが違うために結論が全然違うというように、論理的に正しくても、全くAの選び方で全く違う結論に達するわけです。

すなわち、Aを選ぶ情緒というものが、非常に重要なわけです。

そこがキーポイントなわけです。

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もちろん、日本ではアメリカでも世界中そうですが、教育に関しては論理的思考力というのが常に重視されています。

従って、私は論理的思考力については、あまりいう必要がないと思って言いません。

しかし、情緒力の方ですね。

ほとんど誰も言っていません。

この情緒力がなければ、とても私の言っているようにはいかない。

これは、いわば、先祖の方向感覚みたいなものです。

例えば、決められたルートを船をこいでいくときには、そのようなものは要らないですね。しかし、嵐の夜、暗い夜に船で出るときには、どこに行っていいか、全くわからない。

そういうときには、方向感覚というものが必要ですね。

この情緒力というものが非常に重要である。

この情緒力を培う上で、国語というのが、教科の中では最も重要である、というふうに私は思います。

情緒力を培うもの昔は、この情緒力を選ぶ上で、何が一番よい教師であるかというと、貧困なのですね。

世界中で貧困が一番いい教師だった。

私が小学校のときは、例えば、給食費が払えないために、給食時になると、外に出て砂場で遊んでいる子がいました。

小学校3年生ぐらいでしたけど、そういうのを見ておりますと、こちらの胸がぎゅうと締めつけられるわけですね。

小学校3年生にでも、そういう貧困で食べられない子どもが仲間にいるということで、非常に目をひくわけですね。

深い情緒というものを考えるわけです。

そういう貧困というものが、現に一番影響した。

私のクラスでは、その子が給食費を払えないどころか、遠足や修学旅行になると、必ず欠席しましたね。

電車賃が払えないですから。

ある程度先生がたまりかねて、給食費をポケットマネーで払ってやった。

そういうことを通して、先生の気持ちですとか、いろいろな点でいろいろな情緒力を育てる上でいろいろ勉強になるわけです。

しかし、現在、貧困というものが無くなってしまった。

現在、貧困が日本にあるといっても、それは美味しいものが食べられないだとか、よい車が買えないだとか、大きな家に住めないとか、そういう貧困で、私が言っている貧困というのは、餓死するかしないかという貧困ですから、そういう意味で日本やアメリカにはないわけです。

その際、どうやって情緒を育てるかということが、これからの一番大きな問題だと私は教育の中で思うわけです。

それには、いくつもあるわけですけれども、その中の大きな一つは、自然に親しむというのは素晴らしいですね。

あるいは、祖父母と近しい関係を保つということも素晴らしいですね。

例えば、私の父もそうでしたし、井上靖さんも似たようなこといっていましたし、祖父母に育てられた作家というのは非常に多いです。

やはり、祖父母というのは親と違って、非常に情緒的な教育というのがしやすい立場にありますから。

その他いろいろありますけれども、やはり、小学生のうちに、叙情文学をよく読ませるとかですね。

あるいは、昔だと山彦学校とか、添田正綱さん、作文のいろいろなものがあります。

ああいうのを読みますと、本当に当時の東北の貧困というものがどういうものか、あれによって、いろいろなことを学ぶことがあると思います。

そういうような作文ですとか、文学を通じて、国語でいろいろな重要な情緒を学ぶ。

情緒教育の大きな一端をになわなければいけません。

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大人になる前にしておくべきこと

昔、芥川龍之介が神田かどこかの女学校に講演に行ったのですが、そのときに、ある女学校の生徒が立ち上がって、

「先生、私は作家になりたいのですが、作家になるのに今のうちに何をしたらいいでしょうか。」

と聞いたそうです。そうすると、芥川龍之介が

「算術をよくしときなさい。数学をやりなさい。」と言ったそうです。

私がもし、女子校で講演をして同じ質問をされたとします。

「私は数学者になりたいけれども、今のうちにどういう勉強をしたらよいだろうか。」

という質問をされたとしたら、

「今のうちによく文学を読んでおきなさい。」と必ずそう応えると思います。

そのような教育というのは、今言ったような出発点Aを選ぶということなのですけれども、学問をする上でも非常に重要なことです。

そういうことがないと、なかなか大きくなれない。

特に、お茶大のすぐ側に、お茶大は護国寺というところを降りるのですが、護国時の地下鉄を降りると、講談社なのです。

講談社の右手を上ると、そこに「少年少女世界文学全集」というのがあって、その横に「早く読まないと大人になっちゃう」と書いてあるのですね。

私はその文章をを見て、非常に感激したのです。

早く読まないと大人になっちゃう」、やはり子どもの頃にしておかなければならないことがあるわけです。

それが、まさに国語であり、文学を読むこと、そしてそれを読んで涙を流すことですね。そういうことが、大きな一つではないかと思うのです。

あるとき、数年前に、「朝日ジャーナル」という雑誌がまだあった頃、何人かの人々に子どものときに読んだ本で一番感激した本をもう一度読んでみて、それについて感想を書くということをやったのです。

私も頼まれましたが、私が小学校のときに何に感激したかといいますと、『クオレ』という本に一番感激したのです。

これは、今ではもう流行らないらしいのですけれども、「愛の学校」とかいう、その中には「母を訪ねて三千里」などの話がつまっているのです。

そういうのを涙を流しながら読んだわけなのですけれども。

それを再読しろというので、読んだのです。

そうしたら、あまりにもくだらなすぎて読めないわけです。

そのとき思ったことは2つのことだったのです。

1つは、あのとき読んでおいてよかった、あのとき十分に涙を流せてよかった、とつくづくそう思いました。

それから、2番目に、自分はまだ鋭い感受性を持っていると思ったけど、やはり多くのものを失ってしまったのだな、という2つの思いを感じたのを覚えております。

小学校のときにそのような情緒をきちんと教えるのは大切だと思います。

総合学習への疑問

もちろん、先ほど英語がよくないと言ったことと同時に、パソコンも同じことです。

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