□Crazy for you□
いつものように練習を終えて。
いつものように乾の部屋を訪れて。
けれど海堂はいつものように穏やかな時間を堪能しようとはしなかった。
「別れる?」
海堂がいるのは指定席と化した乾のベッドではなく、その傍ら。
荷物を下ろしもせずにそこに立っている。
「って・・・何で?」
いすを回転させて、海堂と向き合う。
彼はうつむいたまま、答えを紡いだ。
「…別れたいからですよ」
嘘。
別れたいわけがない。
ただ、自分は年下で。
彼に頼りきった子供で。
負担になるのだけは嫌だから、言ったのだ。
『もう、別れる』と。
「・・・・・・正直に答えなさい。なんで?」
あんなちゃちな嘘が通用するとは思っていない。
乾ならあっさり見抜くだろうことも承知だ。
けれど。いや、だからこそ。
「先輩」
海堂はまっすぐに乾を見据えて答えた。
「俺は、本気です」
理由は嘘でも、決意は本物。
これも、乾には正確に伝わる。
たとえば、そうして離れてしまった後で。
俺が切なさに狂いかけても、この人がそれを見て嘲笑っても。
足枷とならないためなら、俺はその苦しみにも価値を見出すだろう。
この人のためと思い込めれば、それだけで生きていける。
だから――――――――
「そう。でも俺は君を手放す気なんかないんだ」
「――――!?」
あっさり言い切って、乾は海堂を軽く突き飛ばす。
唐突なその衝撃に、彼はベッドに倒れこんだ。
「っ、何を・・・」
倒れたままに睨みあげ、海堂は動きを止めた。
人工の光を背負い、眼鏡を外した目で自分を見る乾は、別人のようで恐ろしかった。
顔に浮かぶ微笑が柔らかいから、なおさら。
「葉末くん」
ゆっくりと、乾が口を開く。
唐突に出てきた弟の名に海堂が内心で首を傾げる。
「彼が事故に遭ったりしたら嫌だよね?」
口元はやはり微笑んだまま。
けれど乾の目には、見たことのない色が浮かんでいた。
いや、見覚えはある。最近どこかで見た気もする。
ただ思い浮かばない。
あまり見れる類のものではないはず・・・。
「飛沫さんの銀行にハッカーが入っても困るよね?」
乾は静かにベッドに歩み寄る。
正確に言うならば、そこに横たわる海堂に。
「ありもしない噂や中傷で穂摘さんの精神が病んだら苦しいよな?」
自分の家族の名を挙げてはやけにリアルな『不幸』を語る乾。
ゾッとするような感覚とわけのわからない恐怖が海堂を襲う。
「例えばの話、だけどさ」
微笑みに、酷薄さが宿る。
そこまで来て、ようやく海堂は悟った。
乾の目に宿る、見覚えのある感情。
狂気だ。
「…薫が俺から離れなければ、とりあえず起こりえない話」
離れれば起こりえるのだとだと。
暗に示され、背筋に震えが走る。
それは恐怖からくるものだったけど、それ以外の感情も確かに伴っていて。
「そん、なに・・・」
そんなに、自分が必要なのだろうか。この人は。
狂気をその目に宿せるほど求めてくれているのか。
「手放すなんて、冗談じゃない。・・・いざとなったら」
恋人の頬に手を添えて、乾は静かに微笑む。
先ほどの酷薄さはどこかに消えていて、いっそ穏やかな微笑。
けれど続いた言葉は、その穏やかさを完全に裏切っていた。
「殺してでも、側に置くよ」
眼鏡越しでない目は、思いのほか感情が読み取りやすくて。
柔らかな狂気を宿したそれからは偽りを見出せなくて。
嘘でないことが、すぐにわかる。
乾は、本気だ。
「ねえ、薫」
頬に添えられていた手が、するりと滑って喉元に来る。
冷たい感触。
幻想ではないと、無言で告げている。
「どうする?」
尋ねてくる人は、それでも優しく微笑んでいた。
熱い水滴が頬を流れる。
海堂はそれを拭おうとはせずに、ただ黙って目を閉じた。
「側に、いる・・・」
掠れた声で紡がれた答え。
乾は恋人の目元に口付けてその涙をすすった。
「良かった。生きてる薫が側にいた方が嬉しいからね」
囁かれる平坦な声。
それを聞くのは苦しくて、切なくて。
無抵抗のままに、海堂は腕を伸ばして乾の首に回した。
「・・・側に、いたい・・・・」
脅しに屈したわけじゃない。
自己犠牲精神でもない。
狂うほど愛してくれているなら。
それほど求めてくれているなら。
もういい。
『離れた方が幸せ』なんて、下らないこと思わない。
腕に力を込めて距離を縮め、もう一度言葉を紡ぐ。
「側に・・・いさせて・・・・」
俺が、貴方を不幸にしてもいいなら。
貴方が、俺を傷つけてもいいから。
「…うん」
答える乾の声は平坦ではなくて。
言外の思いも伝わったことを確信して。
止まらない涙はもう無視して、海堂は乾の唇に自分のそれを重ねた。
捕らえて捕らわれて一緒に堕ちて。
行き着く先は闇の中。
どれほどの傷と罪を背負っても、抱きしめる腕だけは離さずに。
否。離せずに。
二人、愛に狂った薔薇になる。
END.