ぼくは「ぼく」だった。「ぼく」になっていた。日焼けの跡一つない色白の少年になっていた。
 それにしても変な光景だ。台所を除いてすべての部屋が畳敷きで部屋と部屋との間は襖(ふすま)で区切られている。古ぼけたアパート風のぼやけた雰囲気。それなのに、ガラスがはめられた障子の向こうには見下ろしても見下ろし切れない空間があって、あるはずの底は見えないまま暗がりとなって視界から消えている。
 近代的な近未来のイメージがその暗がりを無限に作っている。その広がりを一望できることが不思議でならない。
 木造アパートが数百階建てになっていて、その一室にいるんだと納得するしかない光景だった。飛行船のように宙に浮かびゆっくりと漂っていく夜鳴き蕎麦の屋台が夕日を横から浴びて高層ビルの壁面に影を落としている様子を想像してほしい。

 父は苛立っていた。白いTシャツの半袖を捲り上げてたくましい両肩を露にしたジーパン姿が岩城滉一のように似合っていて若々しかった。そしてその若々しさは首筋に浮かぶ血管、湯だった頭の予測困難な動き、突然口走る幼児のような自己中心的言語にまで行き渡っていて、向かい側に座っているでっぷりした中年男の落ち着き払った態度と対照的だった。
 父は借金でもしたのだろうか。ぼくには、あの太縁の眼鏡をかけた男に追い詰められているように見えた。中年男はときどきお茶の入った湯呑みに手を伸ばす以外は、言葉一つ身動き一つなくじっと座り続けていた。
 ぼくはどうしてこんな場面に落ち込んでしまったのだろう。父もぼくも現実と違うことははっきりしているのに、芝居を演じているという虚構の感覚がいざというときの逃げ道として板一枚の向こうに、あるいはぼくの意識の中にあったりしないことしか感じられないなんて。あのお茶は誰が淹れたのだろう。

 突然、父がおっさんの首根っこをジャックナイフで刺した。その直後におっさんの頭はバネ仕掛けのように跳び出した。バーン。首筋は普段隠されていた内部構造が露になり、引っこ抜かれた街路樹のように床に横たわった。ぼくの鼻を刺激したのは血の匂いではなく、クラッカーが破裂した後の火薬の匂い。おっさんはバネだけでなく火薬も仕込まれていたのか?
 ぼくはなにがなんだかわからないまま、床に広がっていく血だまりを見つめていた。そして、警察に連絡しなければと思った。そしてこわごわとそのことを父に言った。
「警察に連絡したらおまえもこうなるぞ」
 父のタンドリーチキンのようにこんがり焼けたたくましい体はものすごい勢いで汗をほとばしらせていた。
 ぼくは圧倒されたまま、自分を包む空間を時の流れがいつまでも旋回し続けるのを感じた。摩擦熱は見えないものを焦がし始めていた。

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