文学作品は、作者が知覚した人間社会の断層を、共感と拒絶の提供を通して読者の意識内に仮設展示する実験である。──堀内悟, 2002
けっして読者にとっての読みやすさが第一条件ではない。
読者がその文章を読んでいて、違和感をまったく覚えない、日本語を母語とする人が書いたに違いない、きわめて日本的な名文だと感じる訳文が常に批判を免れるとは限らない。
私にとっては「日本語を母語として育った人が書いたのだろう、ただ英語(各言語)特有の発想と表現形式が言葉づかいに見られる文だ」と読者に思わせるものがよい翻訳文である。
また、いささか形式的になる視点からいえば、「その訳文をもとにして英訳した時に原文になるべく近くなる、つまり可逆性と日本語としての自然さのバランスがよい文章」と表現できるものが当たる。
おそらく、この定義は烈火のごとき反論を招きかねないだろう。しかし、私の定義は翻訳を日本文化のパラダイムとして考えた上でのものである。翻訳とは基本的に異文化の果実をおいしくいただく手段なのだろう。しかし、異物を完全に消化して翻訳時点における自身が存する文化的状況に完全に順化させてしまったら、そもそも翻訳という作業の存在意義は残るのであろうか。
今日、われわれは翻訳を意識的に差異に触れる手段としてとらえなおす時期に来てはいないだろうか。
中国語には「犬がうんこをたべるのをやめさせることはできない」という意味のことわざがある。日本の「三つ子の魂百まで」というような意味だが、三つ子の魂百までと翻訳してしまっていいのだろうか。もちろん場合によるのだが、基本的には望ましくないと思う。そのまま犬がうんこを〜とすべきである。そうすれば読者は異質な言語の体系の一端に触れることができる。場合によっては訳注を付して読書上の不便に備えればよいだろう。(実際にはケースbyケースなのでいずれ分類してマトリクスにすること)
くたくたジャガーのぽこらしさはその輪郭のみによるものではない。
これこそすべての心得を包摂する最大のおきてである。原作者は、無限にある言葉の組み合わせからあえて原文を成す文字配列を選択した。その重みを常に忘れず、なぜ目の前の言葉がそのような姿をしているのかよくよく考える。原文はくたくたジャガー1億頭より重い。
1. ポウエティックライセンス(詩的許容)は原作者にあるのであって、翻訳者にあるのではない。そもそも言葉を補うことは修辞(ことばを有効に美しく使うこと)ではない。
2. 根本的な原文誤読に基づく言葉の補完をいったんしてしまうと、それが誤読の煙幕になってしまうことがある。
くたくたジャガーは無造作に寝かせておくのが一番。
実例(著作権上の問題を調べて問題がなければ掲載する)
S1 V1 and V2 ..., and S2 V3...
上のような文の時に「, and」を境にして二つの文に分けることは場合によっては許される。しかし、最初のandで区切ることが許される状況を想定することは難しい。くたくたジャガーだってへたな持ち方をしたらちぎれてしまう。
(文化商品として市中に出回っている文章の一部を、例としての妥当性を損なわないように書き換えた文)
That afternoon, spring pouted and became darker and darker over Jacksonville, and heat wavered on the sidewalk.
その日の午後、春の空は機嫌が悪かった。黒い雲がジャクソンビルの空に集まり、歩道には陽炎が揺らめいた。
その日の午後、春はジャクソンビルの上で機嫌が悪く、しだいに憂鬱さを深めていったが、それでも歩道の上では熱気がゆらゆらしていた。
おなじみの基本動詞はほとんど多義語である。辞書を引くのを怠ると痛い目にあう。くたくたジャガーはぬいぐるみでも表情は毎日違う。
Kawasaki grew too rapidly, so he couldn't find his own streets.
川崎は成長があまりに急だったので、自分でどこにどういう通りがあるのか把握できないほどであった。
川崎は成長があまりに急だったので、独特の街並を望むべくもなかった。
(1)「オレガワルカッタ」とブーラビは言った。
(2)「オレガワルカッタ」とブーラビはわびた。
問 どっちが好ましいだろう?
答 どっちでもいい。(2)は有名な翻訳者の仕事にも見受けられる、初歩的なプロの技である。ただし、同じ作品中に、
"Ore ga warukatta." Boorabi apologized.こんな文があった場合、どのように訳すべきか。これもまた(2)のように訳すと原文の差異が訳文において消失することになるので、その点について自ら納得のいく見解を用意する必要がある。
その他に、「〜が言った」の部分を除去してしまう方が日本の小説らしいということがあるが、これは編集者の意向によって左右される面がある(ふつう省略は考えられないが、翻訳の定義そのものに関わってくる問題なのはまちがいない)。
個人的には「〜が言った」を一切省略しなかった結果、読者から
誰々が言ったといちいち書かなくたって誰だかわかるんだよ、日本語は老若男女の違いがはっきりしてるんだから
なんていう文句が出たとしたら、「だって外国文学なんだもん
」と答えるだろう(笑)。
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そもそもなぜ英語の小説では発話者の明示が多いのか。これについては研究を進めていないが、一つ考えられるのは、よく言われる日本語と比較した場合の言葉の無性性と無縁ではないものの、他に朗読の際の便宜という問題もあると思う。日本語のように人物の属性の書き分けが定型化している言語にあっても、会話文の話者を逐一明示することは聞き手にとってありがたい配慮である。さらに、文は根本的に記録であるから、誰がどんな言葉を語ったのかを正確に記す行為の本質的意義は普遍的である。したがってこれを省略することは洗練なのである。
いずれにしても朗読の影響は一考に値するのではないか。
翻訳がいかに困難な仕事であるか、職業として成り立たせるために必要な覚悟とはいかなるものか、という根本的な問題について歯に衣着せぬ語り口で述べられている。翻訳という仕事について漠然と甘い夢を抱いている人は冷や水を浴びせられるだろう。まさに翻訳界のスズキ・メソードである。個人的には翻訳者になりたくて翻訳学校に行くような人は見込みなし!と言わんばかりのところが好きだ。翻訳学校を経営している人たちが怒り出しそう(※)。
「産業翻訳の基本がわかるWebマガジン」内には、山岡さんの舌鋒がさらに鋭くなっているインタビュー記事があり、これも必読。私はこっちを先に読んで非常に感銘を受けた。職業の別を問わず、プロ意識の重要性を再考させられるはず。
※ 私自身は翻訳学校に通った経験がないので翻訳学校にとやかくいう筋合いはありません。また、産業翻訳では独学が難しい知識がたくさんあるのは確かでしょう。文芸翻訳でもジャンルによって必要な知識があり(たとえばミステリなら外国の警察・司法機構や銃の知識)、それらを効率的に学べる場所が翻訳学校であるのは事実だと思います。ここではあくまでも、山岡さんが言いにくそうなことをあえておっしゃっていて、そこに自らの職業に対する愛情を垣間見られるほどである、ということを評しているわけです(山岡氏は翻訳学校の講師を務めた経験をお持ちです)。ですから誤解して短絡的に悪の道を珍走しないでください。おねがいしますよ、みなさん。なにかご意見があるときにはちゃんと名前を名乗って常識的な体裁を整えて送ってきてください。それにもともとこのページは自分のために作っているわけですから、政府の財政を悪化させるようなことをされても困るのです。
(2003.3.27)
英語で書かれた小説(19世紀後半以降のもの)の翻訳を承ります
──スピリチュアル翻訳師・堀内悟──
翻訳サンプル製作中
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Despite the statement above, this page isn't essentially commercial appeal, but weak objection to *part of* Japanese activity.(2004.3.21, 11.01: part of)
Despite the statement above, I am willing to serve you as an honest translator. You are welcome to give me any question or trial file. (2004.11.01)