女性探偵ラブデイ・ブルックの事件簿

トロイトズ・ヒルの殺人

キャサリン・ルイーザ・パーキス

(初出 「Ludgate Monthly」1893年3月)

〔 〕:訳者注




「ニューカッスル警察のグリフィズスがこの事件を担当しているんだが、」ダイアーが言った。「あのニューカッスル人たちは頭の切れる抜け目ない連中だし、外からの干渉に関して用心深い。いつものようにしぶしぶと連絡してきたよ、その屋敷の中できみの慧眼を働かせてもらいたがっている」

「最初から最後までわたしがグリフィズスといっしょに仕事をするんですか、あなた抜きで?」ラブデイが言った。

「そうだ。この一件のあらましを伝えたら、わたしが関与すべきことはなにもない、だから何か援助が必要になってもグリフィズスに頼らざるをえないというわけだ」

 ここで、ダイアーは自分の大きな帳面を勢いよく開くと、慌ただしくページをめくり、<トロイトズ・ヒル>という見出しと<九月六日>という日付を見出した。

「用意万端ですわ、」聞き手の趣きで椅子にもたれながらラブデイが言った。

「殺害されたのは、」ダイアーが話を再開した。「アレクサンダー・ヘンダーソン、通称オールド・サンディーという、カンバーランド州トロイトズ・ヒルのクレイブン氏に仕える小屋番だ。小屋は平屋で部屋が二つ、寝室と居間があるだけで、これをサンディーが一人で使っていた、親類も縁者もいなかったようだ。九月六日の朝、農場から牛乳を届けに登ってきた数人の子供がサンディーの寝室の窓が大きく開いたままになっているのを発見した。好奇心にかられて子供たちが覗いてみたわけだ。すると、おぞましいことに、年老いたサンディーが寝間着姿で床の上に横たわって死んでいるのを目撃した、しかも窓際から背後へ卒倒したような格好だったそうだ。子供たちは異状を知らせた。検証の結果、死因は握り拳かなんらかの鈍器でこめかみを痛打されたことによると判明した。部屋は足を踏み入れると奇妙な状況を呈していた。猿の群れが乱入して好き放題暴れていったような様子だった。位置が変わっていなかった家具は一つもなかった。ベッドの寝具はひとかたまりに丸められて煙突に詰め込まれていた。寝台の骨組みは鉄製であったが横倒しになっていた。室内のある椅子はテーブルの上に乗っかっていた。暖炉の鉄囲いと鉄製用具は洗面台にひっかかり、そこに元々あったたらいはもっと先の隅で長枕と普通の枕に抱きついているところを目にするありさまだった。マントルピースの真ん中に置き時計が転倒、片側に寄って立っていた花瓶その他の装飾品はドア方向へ一列に整列。老人の衣服は丸めてボールにされ、彼が手持ちの貯金とすべての貴重品を収めていた背の高い戸棚の上に放り投げてあった。だが、この戸棚はいじられておらず、中身はそのままになっていたので、盗難が犯行の目的ではないことは明らかだ。続いて行われた検死では、人数はいざしらず何者かによる『謀殺』との判断が下された。地元警察は精力的に本件の調査にあたっているが、今のところ逮捕には至っていない。目下近隣では、この犯罪をしでかしたのは脱走でもした狂人であろうという見方が言いふらされており、地元の精神病院では失踪あるいは最近退院した入院患者について捜査が行われている。だが、グリフィズスはわたしに違った方向に疑いの目を向けているのだと話した」

「検死で重要なものが何か見つかったんですか?」

「特に重要なものはない。クレイブン氏は証言する際、サンディーと自身の間に続いていた親密な関係にふれ、サンディーの生前の姿を最後に目にした時のことを述べると泣き崩れてしまった。執事と、女性の召使のうち一人か二人から得た証言も明快なものだったが、そこからサンディーは彼らに受けがあまりよくなかったことがうかがえる、主人のかさを着て横柄な態度をとっていたようだ。ヤング・ミスター・クレイブンは十九ほどの若者で、オクスフォードから長期休暇のために帰郷しているが、取調べは受けていない。提出された医師の診断書によると、腸チフスの熱に苦しんでいるため、生命を危険にさらしてベッドから離れる訳にはいかないという話だ。この若者はかなりろくでもない人間らしい、たいした年でもないのに紳士気取りのいかさま師の風情だという。グリフィズスは彼の病気にうさんくささを感じている。彼は幻覚症状に冒されてオクスフォードから帰ってきた、その後健康を回復したんだが、それが突然、殺人のあった翌日、ミセス・クレイブンがベルを鳴らし、息子が腸チフスにかかったと伝えて医師の問診を頼んだということだ」

「クレイブン氏はどういう人なんでしょうか?」

「彼は物静かな年配の男で、学識と経験を具えた言語学者だ。近所の人間も家族も彼を見かけることはあまりない。ほとんど書斎にこもりっきりで比較言語学についての七、八巻にも上る論文を書いているらしい。彼は裕福というわけではない。トロイトズ・ヒルは郡の中でそれなりの地位を持つとはいえ、わりのいい財産とはいえないし、現にクレイブン氏は維持できずにいる。わたしが聞いた話としては、彼は息子を大学にやるためにあらゆる支出を削らねばならなかったし、その娘は最初から最後まで母親から教育を受けたということだ。クレイブン氏は元々聖職を志していたが、どういうわけか、大学を終えた時、聖職位授与式に出席しなかった、かわりにナタール〔現在の南アフリカ共和国内にあった英国の植民地〕に行き、そこで民間の職を何か得て、十五年ほど過ごしたそうだ。ヘンダーソンは彼のオクスフォード時代の後の方の使用人で彼から厚い信頼を得ていたとみてまちがいない、というのは、ナタールでの仕事で得られる給料はささやかなものなのに、彼はその中からサンディーに毎年ボーナスを出していたからだ。約十年前、彼は兄の死によりトロイトズ・ヒルを相続し、家族と共に帰郷した、サンディーはすぐに小屋番に任命されたが、その給料は執事の報酬が引き下げられたほど恵まれていたんだ」

「あ、それじゃ執事の心象はよくなるわけないですね、」とラブデイが大きな声で言った。

 ダイアー氏は話を続けた。「しかも、高報酬にもかかわらず、小屋番としての務めはたいした苦労もなかった、なにしろ仕事は基本的に庭師の息子にやらせて、彼は屋敷で食事を取ってのんびりしているのだから、しかもおおざっぱな言い方をすれば、なんにでもちょっかいを出してくる始末だ。二十一年仕えている召使についてのことわざを知っているだろう、『七年はわたしの召使、七年はわたしの同僚、七年はわたしのご主人様』というやつだ。そう、これがクレイブン氏とサンディーの場合にぴったりなわけだ。言語学の研究に没頭している老紳士が手綱を離してしまうのは無理もない、だからサンディーがそれを手にするのも容易だろう。召使たちは用事をうかがいに彼を尋ねる必要があったくらいで、彼が居丈高な態度で取りしきるのが恒例になっていたんだ」

「ミセス・クレイブンはそのことを黙認していたんですか?」

「奥さんのことはあまり聞いていない。おとなしい感じの人のようだが。彼女はスコットランド人の宣教師の娘だから、たぶんケープ使節団〔ケープは南アフリカの州名と思われる〕かその類に時間を使っているんだろう」

「それからクレイブン氏の息子の方ですが、サンディーのしきたりと衝突でもしたんですか?」

「ああ、それはいい質問だ、グリフィズスの推論に関わってくる。若者とサンディーはクレイブン一家がトロイトズ・ヒルを所有して以来ずっと角突き合わせる仲らしい。学童として主人ハリーはサンディーに反抗し狩猟用の鞭で彼をおどかすありさま、時間がたち、若者になってからは年老いた召使に自分の代わりをさせようと大いに奮闘したという。グリフィズスが言うには、殺人のあった前日、二人の間にひどい一幕があったらしい、若き紳士が数人の面前で年老いた召使を強い言葉で威圧したとのことだ。さあ、ミス・ブルック、わたしが知っている事件の状況はこれでぜんぶ話したことになるんだが。これ以上の詳細はグリフィズスに聞いてもらいたい。彼とはトロイトズ・ヒルの最寄りのグレンフェル駅で落ち合うことになるだろう、そこできみが屋敷に入るためにどんな地位を用意したのか教えてくれるはずだ。その件では、今朝方彼がわたしに電報をよこして、きみが今夜のスコッチ急行に乗車できることを希望していた」

 ラブデイはグリフィズス氏の希望をかなえる準備が整っていることを伝えた。

「望みとしては、」事務所のドアの前でラブデイに手を振りながらダイアーが言った。「きみにすぐに戻ってきてもらいたいのだが、そうすぐにというわけにはいかないようだな。この一件はちょっと長引きそうな気がするんだが?」疑問をさしはさむ口調だった。

「それについてはまったく見当がつきません」とラブデイは答えた。「仕事に取りかかる際にはまったく予断を持たないようにしています、実のところ、心の中は真っ白です」

 このように言う彼女の虚しい無表情の顔つきを見たならば、誰もがその言葉をそのまま受け入れるだろう。

 グレンフェルはトロイトズ・ヒルに最も近い郵便本局所在地であったが、あわただしく、人の多い小さな街で、南は工業地帯、北は不毛な丘陵地に臨んでいた。その中にそびえるのが、昔日の国境守備、あるいはさらに遡ってドルイド僧の砦で名を馳せるトロイトズ・ヒルであった。

 グレンフェルの<ステーション・ホテル>という名前で威厳を得ている小さな宿で、ニューカッスル警察のグリフィズス氏はラブデイと落ち合い、トロイトズ・ヒルのミステリのさらなる詳細へと彼女を誘った。

「当初の騒ぎはいくぶん収まっています、」挨拶の言葉を交換し終えると彼は言った。「しかし、今だに物騒な噂が飛び交い、律儀に口にされています、まるで絶対的真理であるかのように。うちの上司と同僚はおおむね最初の確信を貫いています、犯人は突然発狂してしまった浮浪者か逃げ出した精神病患者であると、同時に遅かれ早かれ犯人の男のしっぽはつかまえられると自信を持っています。仲間の推測としては、サンディーはパーク・ゲイツでなにか奇妙な物音を耳にして、その元を確かめようと窓から頭を出した矢先に殺気のこもった一撃をくらったという読みです。その後、狂人が窓から部屋に飛び込み、狂気にかられたまま何もかもひっくり返したというわけです。同僚たちはクレイブン氏の息子への疑念をわたしと共有することは拒否しています」

 グリフィズス氏は長身で、ほっそりした顔の男性だった。髪は黒っぽい灰色であったが、妙に頭にぴったりと密着し、何事にも動じずただへりにへばりついているかのようだった。それはいささか漫画的な印象を彼の容貌の上方へ与え、その口が常に帯びている憂色との奇妙な取り合わせになっていた。

「トロイトズ・ヒルでの手はずは整えておきました、」彼はすぐに話を続けた。「クレイブン氏は一家のために顧問弁護士を雇えるほど裕福ではありません、そのため彼は折にふれて地元の弁護士ウェルズ氏とサグデン氏に依頼しているのですが、この二人は時たまわたしのために大いに役立ってくれるのです。彼らから聞いた話では、クレイブン氏は筆記者の助けを借りたがっていました。わたしはすぐさまあなたのことを申し出ました、あなたのことをわたしの友人で財産が困窮した女性だと紹介し、賄い付き下宿で毎月一ギニーももらえればその役目を仰せつかまつるでしょう、と言っておきました。老紳士はすぐにこの申し出に飛びついてきて、今度はトロイトズ・ヒルにすぐにでも来てもらいたいとはやるありさまでした」

 ラブデイはグリフィズス氏が彼女に説明した計画に満足した後、質問を少しした。

「教えてください、」彼女は言った。「クレイブン氏の息子をお疑いになったそもそもの根拠はなんでしょう?」

「彼とサンディーの相互関係、そして殺人のまさに前日にあった険悪な一幕です、」グリフィズスは間を置かずに答えた。「しかしながら、事情聴取ではなにもつかめませんでした、サンディーのクレイブン家一同との関係がきれいに取り繕われただけです。その後ハリー・クレイブン氏の私生活に関して多いに発見がありました。とりわけ、殺しのあった夜に彼は十時過ぎに屋敷を離れたのですが、今のところわたしが確認できた限り、彼が何時に戻って来たのか誰も知らないのです。ミス・ブルック、ここで注意してもらいたいのは、検死による医学的証拠から殺人が実行されたのは十時から十一時の間にちがいないということです」

「では、殺人はその若者によって計画されたとお考えなんですね?」

「そうです。彼は当夜サンディーが小屋に収まるまであたりをうろつき、その後外で物音を立てて彼を起こし、その原因を探ろうと老人が外を覗いた時に、棍棒か鉛が詰まったステッキで殴り、死に至らしめた、と確信しています」

「十九歳の少年にしては冷酷な犯罪ですよね?」

「そうですね。彼は容貌もすぐれ、紳士的な若者で人当たりもミルクのようにまろやかです、が、誰に聞いても卵のように悪意が詰まっていると言うのです。そこで別の要点に入るならば、もしも、こうしたひどい事実を鑑みて、彼の病気の唐突なことを考慮すると、疑わしさが浮かび上がってくると同時に、調査を逃れるために彼がたくらんだことだと考えても無理ないとあなたも納得するのではないですか」

「彼についている医師は誰ですか?」

「ウォーターズという男性です。どう見ても経験豊かとはいえないようで、おそらくトロイトズ・ヒルに呼び出されたことに誇りを感じているでしょう。クレイブン家は家自体の主治医を決めていません。ミセス・クレイブンは伝道の経験から半ば医者のような立場なので、深刻な急患の場合を除くと医者を呼ぶことはけっしてないそうです」

「診断書はれっきとしたものですよね?」

「疑いなし。しかもこの件のゆゆしさに色を付けたいとばかりに、ミセス・クレイブンからは召使たちへ、感染が怖い者はすぐに帰郷してかまわないというお達しを出しています。メイドの何人かは彼女の言葉にあずかって荷物をまとめました。ミス・クレイブンは繊細な少女ですが、お付きのメイドとともにニューカッスルの友人の元に身を寄せています。ミセス・クレイブンは自分の患者と一緒に屋敷の使われていない翼の一つにこもっています」

「ミス・クレイブンが目的地のニューカッスルに到着しているかどうか確かめた人はいるんですか?」

 グリフィズスは眉根をよせて考え込んだ。

「そういうことが必要だとは思いませんでしたよ」彼は答えた。「わかりかねますね。どういう意図ですか?」

「あ、なにも。重要視しているわけではありません。参考にする分には興味があるということかもしれません」彼女はしばらく間を置いた後、言い足した。

「では執事のことをもう少し教えてください、サンディーの給料を上げるためにその人の報酬は減らされたという話でした」

「ジョン・ヘイルズ? 彼はほんとうに立派な尊敬すべき人物です。クレイブン氏の兄の執事を五、六年続けた後、クレイブン氏の元で務めを続けています。疑うべきところはまったくありません。殺人の話を耳に入れた時のヘイルズの驚きは無実を証明するに余りあるほどです。『老いぼれがいい気味だ、』彼はこんなふうに叫んだんですよ。『日曜日を一月分かき集めようが、やつのためなら涙一つ出せやしないよ!』どうですか、ミス・ブルック、疑わしい男ならわざわざそんな言い方をしないでしょう!」

「あなたはそう思われますか?」

 グリフィズスは彼女をじっと見つめた。「この女性にはいささか失望した、」彼はそう思った。「こんな当たり前のことが理解できないとは、彼女の能力は少し誇張されていたんじゃないだろうか」

 彼は大きな声で少し鋭い口調で言った。「ええ、この見方は独り善がりなものではありませんよ。ヘイルズの陰口を言ったことのある者はいないし、そんな話が仮にあっても彼は苦もなくアリバイを証明できるはずです、彼は屋敷の中で暮らしていて、彼の評判は誰からもいいんですから」

「サンディーの小屋はそのままになっているんですよね?」

「ええ、現場検証で証拠になるものをすべて取り去った後は、なにもかもそのままになっています」

「現場検証では足跡はどの方向にも見出せなかったんですか?」

「日照りが続いていたのでそれは望めませんでした、サンディーの小屋は砂利を敷きつめた車道のすぐ脇に建っている上に、その周りに花壇や芝生の類がありませんから。ところでミス・ブルック、まさか小屋とその周辺に時間をかけるなんてまねをする気じゃないでしょうね。その方面については微に入り細を穿(うが)つまでわたしとわたしの同僚が徹底的に調べた後ですよ。あなたにしてもらいたいのは屋敷に直行してハリーの病室に注意を払い、そこで何が起こっているのか探り出すことです。六日の夜屋敷の外で彼が何をしたのか、それは必ずやこのわたしが自分でつきとめられるでしょう。ミス・ブルック、あなたは立て続けに質問をされたが、わたしはそれにできる限りの回答をしました。今度はわたしの質問に答えてもらえますか、わたしと同様率直な形で。殺人の後の朝に警察が入った時のサンディーの部屋の状況は詳しく聞いていると思います。今でもそれはすっかり思い浮かべることができるでしょう? 横倒しになったベッド、まっ逆さまになった置時計、煙突の中ほどまで昇った寝具、ドアに向かって一列に整列した小さな花瓶と装飾品の数々を」

 ラブデイはうなずいた。

「それはよかった。では聞かせてもらいますが、この混乱した場面を考えた時真っ先に浮かぶのはなんですか」

「大学生たちが押しかけてきた後の、人気のないオクスフォード一年生の部屋かしら、」とラブデイはすぐに答えた。

 グリフィズスは両手をこすり合わせた。

「そのとおり!」彼はいきなり大声を発した。「どうやら究極的にはわたしたちはこの問題で一つになれているようですな、表面的な意見の食い違いは見られたわけですが。きっと、徐々に、アルプス山脈の下の別々の地点からトンネルを掘っている技師のように、同じ場所で出逢い握手を交わすことになるでしょう。ところで、あなたとわたしの毎日の連絡手段としてトロイトズ・ヒルに手紙を届ける郵便配達の若者を手配しておきました。彼は信頼に足る人物ですから、彼に渡した手紙は必ず一時間もせずに私の手元に届くでしょう」

 サンディーが自らの死に遭遇した小屋を通り過ぎ、トロイトズ・ヒルの前庭の門をくぐったのは午後三時を回った頃だった。バージニア・ツタとスイカズラに覆われた小屋はこじんまりとしたもので、内部で起こった悲劇を外からうかがわせるものは何もなかった。

 トロイトズ・ヒルの庭園と遊技場は広大であったが、屋敷そのものも赤レンガの堂々とした造りで、おそらくダッチ・ウィリアム〔英国王ウィリアム三世(1650〜1702)のこと〕の趣味が国内で流行した時期に建てられたのだと考えられた。正面はどこかさびれた風情があり、八フィート四方ある中央の窓だけが人の住む標(しるし)となっている印象があった。北翼の寝室がある階の一番端に窓が二つあり、そこに病人とその母親がいるはずであった。南翼の一階部分の端にも窓が二つあって、ラブデイはそこがクレイブン氏の書斎だと見て取った。これらを除くとどちらの翼もブラインドかカーテンが掛かった窓は一つもなかった。どの翼も広々としたものだったが、その一端に熱病患者が家族から隔離されていることと、別の一端ではクレイブン氏が言語学研究を推し進めるのに不可欠な静寂と邪魔をされない自由とを確保しているさまが容易にうかがえるのだった。

 屋敷と手入れの行き届いていない庭はともにこの土地の主であり所有者である者の収入の少なさの印だった。屋敷の正面と同じ幅のテラスと、一階のすべての窓は無惨にも修理が施されずに放置されていた──横木、戸口の側柱、窓の下枠、バルコニー、どれをとっても塗装工の手当てを求めて声を上げていた。「われを憐れみたまえ! われはかつて良き日々を見たり」ラブデイは古い屋敷の入口になっている赤レンガのポーチにかかる銘文を想像することができた。

 執事ジョン・ヘイルズはラブデイを迎え入れ、彼女の鞄を肩にかけると部屋への案内を申し出た。彼は背の高い、がっしりした体格の男で、顔は赤らみ、頑固そうな相貌の持ち主だった。折にふれて彼とサンディーの間に激しい衝突があったのも自ずとわかった。彼はラブデイに気安い気取らない態度で接したが、それは明らかに筆記者が子供の家庭教師と同じ地位にあることを示していた──つまり貴婦人付きのメイドの少し下であり、ふつうのメイドの少し上である。

「わたしらは手が足りない最中なんだ」彼は幅の広い階段を先に上りながらきついカンバーランドなまりで言った。「下の階の娘たちの中には熱病を怖がって家に戻った者がいるのでね。調理人とわたしは人手がかからんけど、ただ一人残ったメイドのモギーはマダムとハリー様のお世話をするように言いつけられているよ。あんたは熱病を怖がっていないのかな?」

 ラブデイはそうではないことを述べ、北翼の一番端にある部屋が“マダムとハリー様”のために使用されている部屋かどうかを尋ねた。

「そうですよ」と紳士が言った。「病人の世話にはふさわしいものでね。厨房に直接下りる階段があるし。奥様が望まれたものはすべて階段の下に置いておき、モギーは絶対に病室には入らないようにしているのだよ。あんたが奥様に会うことは何日もないだろう、しばらくはね」

「ミスター・クレイブンとはいつ会えますか? 今夜の夕食時ですか?」

「それはなんともいえませんね」とヘイルズが答えた。「真夜中すぎまで書斎から出てこないこともあるし。午前二時や三時までこもりっきりのときもあるから。あの方が夕食を取りたくなるまで待たない方がいいよ、あんたにはお茶と肉の切り身でも用意した方がいいな。奥様は食事のときに旦那様をお待ちすることはないのだよ」

 話し終わったところで、彼は鞄を通路に面しているたくさんのドアの一つの前に下ろした。

「ここはミス・クレイブンの部屋です、」彼は再び話を始めた。「料理人とわたしはここがあんたにふさわしいと思ったんだ。他の部屋に比べて手間がかからないからね、それでも手がとても足りないときにはたいへんなことに変わりはないがね。驚いた! あんたのために目下尽くしている料理人がいるよ」最後の一言が付け加えられた時、ドアが開かれ、雑巾を片手に鏡を拭いている料理人の姿が見えた。ところが、ベッドが整えられているのを除いては、ミス・クレイブンが急いで荷物をまとめて出ていったままになっているのは明らかだった。

 二人の使用人にとっては意外なことにラブデイはこれを気にかけなかった。

「部屋をしつらえるのは天才的なのでわたし一人に任せていただけるとありがたいですわ」彼女はこう言った。「ほら、先ほど話に出たお肉の切り身と紅茶を用意してくださる方が、わたし一人でできる仕事でお二人をわずらわせるよりも心苦しくないのです」

 しかし料理人と執事が連れ立ってその場を去ったのにもかかわらず、ラブデイは先ほど自慢した“天才的”な技能を披露するそぶりすら見せなかった。

 彼女は錠に差した鍵を慎重に回すと部屋のすべての隅で念入りな調査を行った。家具、化粧道具のどれをとっても持ち上げられ、つぶさに観察されなかったものはなかった。灰皿の灰、燃え尽きた火の痕ですらかき集められ注意深く見つめられたのであった。

 ミス・クレイブンの身の回りについて念入りな調査に四十五分ほど費やした後、帽子を片手に階段を下りていったラブデイは、ヘイルズが約束通り紅茶と肉の切り身を持ってホールからダイニングへ横切ってくるところを目にした。

 客が百五十人はたやすく入ろうかと思われるダイニング・ホールの中で、彼女は静寂と寂寥に身を置きながら簡素な食事にありついた。

「暗くなる前に敷地を見なきゃ」と独り言を言った彼女は窓の外の影がすでに傾き始めていることに気づいた。

 ダイニングホールは屋敷の裏手にあり、正面と同様、窓が床まであるために出入りは容易となっていた。屋敷のこちら側には花壇があって、斜面を下った先は樹木に恵まれた景色が見事に広がっていた。

 ラブデイは感じ入る間も置かず、屋敷の南の角をさっさと曲がると、執事へのさりげない質問によってクレイブン氏の書斎であることを確かめていた部屋の窓にやって来た。

 細心の注意を払いつつ彼女は窓辺に寄った。ブラインドは上がり、カーテンも引き寄せられていたからである。しかしながら横目でちらっと覗いただけで彼女の不安は消え去った。その部屋の住人は、窓に背を向けて安楽椅子に座っていた。伸ばした手足の長さから彼は明らかに長身の男だった。髪は銀色の巻き毛だったが、顔の下の方は椅子に隠れていた。それでも片手が目と眉にきつくあてがわれている様子は目に入った。全体像は物思いに沈む男のものだった。部屋そのものはこざっぱりとしたものだったが、本と手書きの原稿が四方八方に散乱していた。書き物机の脇にある紙くず籠からは破かれた大判紙(フールズキャップ)の山が溢れ出し、この学者が自分の仕事に疲弊したか不満を覚えたかしたために、それに対して遠慮なく断罪したことを宣告していた。

 ラブデイは窓辺で中を覗き込みながら五分以上立ち尽くしてしていたが、もたれかかる人影に生きている気配が微塵も見られないので、物思いではなく眠りについているのだと考えた方がよさそうだった。

 彼女はこの場からサンディーの小屋の方へ足向きを転じた。グリフィズスが言っていたとおり、戸口へ上がる段まで砂利が敷き詰められていた。ブラインドはきっちり引かれ、使われなくなった山小屋のありふれた風情を漂わせていた。

 小屋の間近にセイヨウバクチノキとアルブツスの太い枝がアーチ状にかかっている細い小道があるのが彼女の目に入った。彼女はすぐに足の向きを変えた。

 この小道はさかんに曲がりくねり、クレイブン氏の敷地の正面を囲む低木の茂みを通り抜け、幾度となくジグザグに進んだ果てに、馬小屋の近くで終わっていた。ラブデイはそこに足を踏み入れた途端、背後の陽光に文字通り別れを告げた思いにとらわれた。

「回りくどい心をたどったような感じ」影に包まれた彼女はそうつぶやいた。「アイザック・ニュートン卿やベーコンがこんな曲がりくねった小道で思案したり〔“It is in life as it is in ways. The shortest way is commonly the foulest.”,フランシス・ベーコン『学問の進歩』〕、いい気分になったりするとは思えないわね!」

 小道は暗がりの外にぼんやりと姿を見せていた。そろそろと彼女はたどっていった。そこかしこに月桂樹の老木が地面から押し分けるように生えており、彼女の足取りをたどたどしくさせた。しかし薄暗がりに慣れた彼女の目は、進みながら周りの様子をくまなく探ることができた。

 一羽の鳥が右手の茂みからびっくりした鳴き声と共に飛び立った。華奢な体つきの蛙は道の先から月桂樹の下のしなびた葉っぱへ飛び移った。その蛙の動きを追った彼女の目は葉に囲まれた何か黒くて固い物をとらえた。なんだろう? 塊──光る黒いコート? ラブデイは膝をつき、両手を使って目の助けとしたところ、その二つは立派な黒いレトリーバーの死んで固くなった体と接触するはめになった。彼女は常緑樹の低い枝をなるだけ分けた上で、憐れな動物を詳しく調べた。開いたままの両眼はぼんやりした光を放っていた。疑いの余地なくなにか重い鈍器で殴られたことによる死だった。頭蓋骨の片方はほとんど叩きつぶされていた。

「サンディーとまったく同じ死に方だ、」彼女はそう考え、凶器がないものかと木の枝の下をあちこち探しまわった。

 探しても無駄だと深くなるばかりの暗闇が警告するまで彼女の探索は続いた。その後、ジグザグの小道をたどり、馬小屋の脇へ出ると、そこから屋敷へ戻った。

 その夜、彼女は執事と料理人に一言も告げぬまま床についた。しかし翌朝クレイブン氏は朝食のテーブル越しに自己紹介をした。彼は実に端正な容貌を持った男で、身のこなしも卓抜なほどに優れていたが、その眼は物悲しく、哀願するようなところがあった。彼は活気に満ちた態度で部屋に入って来ると、妻の不在と前日彼自身がラブデイを出迎えなかったことについて詫びを入れた。そして朝食をくつろいで取るように命じ、自分の仕事に助手が得られたのを喜んでいると伝えた。

「それがどんなに偉大な──途方もない仕事か、理解してもらえるかな?」彼は椅子に沈み込みながら言葉を加えた。「どんな時代が来ようとも刻印を続けるような仕事だ。わたしのように三十年もの間比較言語学を探究してきた人間だけが、わたしが自分に課したこの仕事の重要性を測れるんだ」

 最後の言葉をもって、力が尽きてしまったかのように、彼は椅子にもたれかかると、まさに昨夜ラブデイが目にした時のように片手で両目を覆ってしまった。朝食を目の前にして、しかも見知らぬ客人がテーブルについていることなど眼中にない様子であった。執事が別の料理を持って入ってきた。「朝食を自由に食べた方がいいですな」彼はラブデイに囁いた。「あの方は一時間はあんなふうに座ったままですから」

 彼は主人の前に料理を置いた。

「キャプテンはまだ帰っていません」彼は主人を夢想から醒まそうと声をかけた。

「えっ、なんだって?」片手を一瞬目から離してクレイブン氏が言った。

「キャプテンです、旦那様。黒いレトリバーですよ」と彼は繰り返した。

 クレイブン氏の眼にある悲しみの色が深くなった。

「ああ、かわいそうなキャプテン!」彼はつぶやいた。「一番いい仔だよ」

 そして彼は再び椅子に沈み込むと、手を額にあてがった。

 執事はもう一度主人を目覚めさせようとした。

「奥様が新聞を旦那様に用意なさってますよ、旦那様がお読みになりたがるとお考えになったんです」彼は主人の耳に向かって叫ぶようにして話しかけると、朝刊をテーブルの上の皿の横に置いた。

「いまいましい! うせろ」クレイブン氏はいらだたしく言った。「馬鹿者めが! どいつもこいつも間抜けばかりだ! 貴様らのつまらん事柄と邪魔のせいで仕事が未完成のままわたしはあの世逝きだ!」

 彼はまた椅子に身を沈め、両目を閉じると外界を拒絶した状態になってしまった。

 ラブデイは朝食を続けた。彼女はクレイブン氏の右手へテーブルの位置を変えた。彼がじっくり読むように届けられた新聞が彼とラブデイの間に来るようにしたのである。新聞はまるであるコラムの特定の部分に注意を向けようとするかのように長方形に折りたたんであった。

 部屋の隅にある置時計がけたたましく時刻を告げ、反響がこだました。クレイブン氏ははっとして両目をこすった。

「えっ、なんだこれは?」彼が言った。「なんの食事だろう?」とまどったように辺りを見まわした。「えっ、きみは誰だ?」彼はラブデイを睨みながら続けた。「きみはここで何をしているんだ? ニーナはどこだ? ハリーはどこだ?」

 ラブデイが説明を始めると、やがて彼に記憶が戻って来た。

「ああ、そう、そう」彼は言った。「思い出した。きみはわたしの偉大な仕事の手伝いにやって来たんだった。はまってしまった穴からわたしを助けてくれるんだったな。比較言語学の特定の難題についてきみはとても熱心だと聞かされている。ではミス──ミス、きみの名前を忘れてしまった──すべての言語に共通する話し言葉の基本的な音声についてきみの知識を少し聞かせてくれないか。基本的音声をいくつまで減らせると思う? 六つ、八つ、九つ? まあ、ここで議論をする気はないがね、カップと皿に気を取られるし。屋敷の別の端にあるわたしの書斎に来てくれ。そこなら完璧な静寂を得られる」

 そして彼はまだ自分が朝食に手をつけていないことを無視してテーブルから立ち上がると、ラブデイの手首をつかまえて、部屋の外に連れ出し、長い回廊を進み、南翼を抜けて書斎までやって来た。

 しかし書斎に腰を落ち着かせると彼の精力は再び急に尽きてしまった。

 彼はラブデイを書き物机の傍にある座り心地の良い椅子に座らせると、ペンの好みを尋ね、彼女の前に大判紙を広げた。そして自分も安楽椅子に落ち着いたが、まるでこれから二つ折りの帳面の内容を彼女に向かって口述しようとするかのように、背中をライトの方へ向けていた。

 大きなはっきりした声で彼は研究課題、副部の題名、ついで目下のところ彼が取り組んでいる章の番号と見出しを繰り返し述べた。そして片手を頭にあてた。「基本的な音声こそわたしがつっかえている問題なんだ」彼は言った。「さて、恐怖の音声に含まれない苦痛の音声を認識することがはたして可能なのだろうか? もしくは歓喜や悲哀のどちらにも属さない驚嘆の音声などは?」

 この後、彼の精力は尽きてしまい、早朝から日が陰る頃まで書斎に座り続けていたにもかかわらず、ラブデイの筆記者としての仕事は文章十節分にも満たなかった。

 ラブデイがトロイトズ・ヒルで過ごしたのはわずか二日間だけだった。

 初日の夕方、グリフィズス刑事は信頼できる若い郵便配達夫を介して彼女から次のような簡潔な書簡を受け取っていた。

「ヘイルズがサンディーに百ポンドの借りがあったことが判りました。折にふれて借りたもののようです。この事実を貴方がどれくらい重要視されるかわたしには分かりかねますが。──L.B.」

 グリフィズス氏は最後の一文を何気なく繰り返した。「もしハリー・クレイブンが被告側に回ったら、彼の弁護士はこれを最も重要視するだろう」彼はそう呟いた。そしてその日の残りをハリー・クレイブンの嫌疑に関する自身の仮説を保持するか、それとも放棄するかどうか、心かき乱された状態で執務を続けたのだった。

 翌朝次のように記した簡潔なメモがもう一つ届けられた。

「付随的な関心事としては、二日前にロンドン港からナタールへ向けて出発したハロルド・カズンズと自称する人物がボニー・ダンディー号〔ボニー・ダンディー(Bonnie Dundee)はスコットランドのダンディーにステュアート朝の旗を掲げた初代ダンディー子爵ジョン・グラハムの称号〕にいるかどうか調べてください」

 この手紙への返信としてラブデイは次のようないささか長めの速達を受け取った。

「先だっての貴女のメモの趣旨はまったく分かりかねますが、要望に応えるためにロンドンの情報員に電報で伝えておきました。わたしの方も連絡すべき重要な知らせがあります。ハリー・クレイブンの殺人当夜における屋外での行動をつきとめたのです。さらにわたしの申請によって彼の逮捕令状がすでに発行されています。本日中にそれを彼の元に届けるのがわたしの任務となるでしょう。事態は彼にとってまさしく暗転し始めていますし、わたしは彼の病気は偽計であると確信しています。彼を問診するように頼まれたウォーターズに会って問い詰めたところ、クレイブンの若殿を診たのは、病気になった初日の一度きりだということを認めました。しかも彼は診断書をミセス・クレイブンが息子の状態について述べた説明のとおり作成したにすぎないのです。こうした事情を鑑みると、彼の最初かつ唯一の訪問の際に、ミセス・クレイブンが彼に問診を続ける必要はないと伝えたと考えられます。彼女はこの事態に充分対応できると考えたのでしょう、彼女はナタールの黒人達の熱病を相手に豊富な経験を持っているからです。

「ウォーターズの家を後にしてから、わたしはこの重要な情報を得ました。現地で低級の宿屋を経営しているマックイーンという男に声を掛けられたのです。男はわたしに重要な話があると言いました。話を要約すると、このマックイーンという男は、六日の夜、十一時を少し過ぎた頃、ハリー・クレイブンが高価な食器──飾り皿(イパーン)を携えて自分の家にやって来て、百ポンドを用立ててほしい、ポケットには一ペニーもないと言った、と語ったのです。マックイーンは彼の要求にソブリン金貨十枚程度で応えたそうですが、今になって怖くなり、わたしを尋ねて盗品の受け取り手になってしまったことを告白し、誠実な人間の役を得たいという話でした。彼が言うには若き紳士殿が要求した際、かなり動揺していたのに気づいたそうです。しかも彼が訪れたことを誰にも話さぬよう懇願したそうです。殺しのあったと推定される時間に小屋を通りすぎたという事実を若旦那が一体どうやって乗り越えるのかわたしは興味津々です。さらに、屋敷に戻る途中で小屋をまた通りすぎたのにもかかわらず、満月が照らす中、大きく開いた窓に気づかなかったという矛盾からどう抜け出すのでしょうか?

「もう一点! 令状を届けるために午後二時と三時の間にわたしが屋敷に到着した時あなたは関与しないでください。あなたのお手を煩わせるのは本意ではありません。あなたはその屋敷でまだ我々の任務にあたってもらわなくてはいけないはずですから。

「S.G.」

 ラブデイはこの書簡を読み終えると、クレイブン氏の書き物机の横に腰を下ろした。老紳士は彼女の傍らでじっと安楽椅子にもたれている。──「あなたはその屋敷でまだ我々の任務にあたってもらわなくてはいけないはずですから」この言葉を読み直すと彼女の口の端に軽い笑みがこぼれた。

 クレイブン氏の書斎で過ごすラブデイの二日目は、初日と相変わらず味気ないものになりそうだった。グリフィズスの手紙を受け取ってからたっぷり一時間彼女は座ってペンを握ったままクレイブン氏の思いつきを筆記できるように身構えていた。だが、目を閉じたまま呟かれるのはこんな言葉だった──「ぜんぶあるんだ、わたしの頭に、しかし言葉にできない」──半音節すら彼の唇を離れなかった。

 その時間の終わりに、外の砂利を踏みしめる足音に彼女は頭を窓の方へ向けた。それは二人の警官と一緒にやってくるグリフィズスだった。彼女は玄関のドアが開いて彼らを迎え入れるのを聞いたが、その後は物音一つしなかった。使われていないこの翼のずっと先の端にいる他の家族との繋がりから完全に切り離されてしまったことを彼女は悟った。

 クレイブン氏はいまだに半ば恍惚としたままもたれかかっている。殺人の容疑を掛けられた自分の一人息子の逮捕がこの屋敷で遂行されようとしているという一大事に少しも気づいていないのは明らかだった。

 その間に、グリフィズスと警官は北翼に続く階段を昇り、メイドのモギーの慌しい姿に案内されて病室へ通じる廊下を進んでいった。

「フー、奥様!」娘が叫んだ。「男が三人、階段を上ってきます、警察官が三人、そろいもそろって──何をするつもりかお尋ねになりますか?」

 病室のドアの外にミセス・クレイブンが立った。彼女は背の高い砂色の髪の女性だったが、その髪は急速に灰色に近づいていた。

「これはどういうつもりです? ここで何をしようっていうんですか?」部下を従えるグリフィズスを指差して彼女は高圧的に言い放った。

 グリフィズスは鄭重に自分の職務を説明し、傍らに退いて彼女の息子の部屋へ入らせるように要求した。

「ここは娘の部屋ですよ。ご自分でお確かめになってください」と貴婦人は言うと、その言葉通りドアを引いてみせた。

 グリフィズスとその部下たちが中に入ると、可憐なミス・クレイブンが蒼白となって怯えながら、丈の長い優雅な化粧着を身にまとった姿で暖炉の傍らに腰掛けていた。

 グリフィズスは慌しく、心乱した状態で去っていった。ラブデイと仕事に関する会話を持つ機会もなかった。その日の午後彼は四方八方にやたらと電報を打ち、あらゆる方面へ使者を至急派遣した。最後にニューカッスルの上司に向けた念入りの報告書を書き上げ、ボニー・ダンディー号に乗ってナタールを目指しているハロルド・カズンズの身元調査を請け負い、トロイトズ・ヒルのハリー・クレイブンに関しては遠く離れた地方の警察当局と速やかに連絡を取るべきだと意見を述べた。

 その報告書を書き上げたペンのインクも乾かないうちに、ラブデイの筆跡でしたためられたメモが彼に手渡された。

 ラブデイがこのメモを届けてくれる人間を探すのに苦労したことは明らかに思えた。なぜならそれを運んできたのは庭師の若者だったからである。若者は手紙をきちんと届ければソブリン金貨一枚をもらえると婦人に言われたとグリフィズスに語った。

 グリフィズスは若者に金を渡して追い払うと、ラブデイの連絡文を読み進めた。

 それは鉛筆で走り書きされており、次のように綴ってあった。

「事態はきびしいものになってきました。これを受け取って下さったらすぐに、あなたの二人の部下と一緒に屋敷まで来てください。そして見張りができて人の目につかない敷地内の場所に待機して下さい。あなたが到着する頃までに暗くなっているでしょうから問題はないはずです。今夜あなたの助けがいるかどうかははっきりしませんが、いざという時のために朝まで敷地内で張り込んでくださらないと困ります。とにかく書斎の窓から目を離さないで下さい」(以下は下線が引かれていた)「緑の覆いのランプを部屋の窓にかざしたら、すぐに窓から入ってください、錠を外したままにしておきますから」

 グリフィズス刑事はこれを読み終えると額を、ついで両目を撫でた。

「よし、まかしておけ」彼は言った。「だが、どういうことなんだ、いったい。彼女のやり方はどうしても理解できない」

 彼は腕時計を見た。針は六時十五分を指していた。九月の短い日は急ぎ足で終末に近づいていた。彼とトロイトズ・ヒルの間には五マイル強の距離があった。一刻も無駄にはできなかった。

 グリフィズスが二人の部下を連れ、調達できる最良の馬の後ろに身を置いてグレンフェル・ハイロードに沿って出発した頃、クレイブン氏は長いまどろみから身を起こし、あたりを見回していた。そのまどろみは長く続いたが、けっして穏やかなものではなく、老紳士が普段眠りについている時に苦しげに漏らすのと同じような、呟き混じりの喚きが寄せ集まったようなもので、それゆえにラブデイは部屋のドアを開け、ついで走り書きした手紙を出すためにこっそり抜け出したのだった。

 その日の朝の出来事が屋敷内の人間にどういう影響を与えていたのか、建物の中の孤立した片隅にいたラブデイには確かめる術がなかった。ヘイルズがいつものように五時きっかりに彼女のためにお茶を運んできた時、彼の顔にどこか具合が悪そうな表情が浮かんでいたのに気づき、彼がお茶を載せた盆をかちゃっと音を立てて置く際に、「立派な人物でいること」や「あんな『事件』には不慣れだ」などとぶつぶつ呟くのを耳にしていたくらいだった。

 その後、クレイブン氏が突然目を覚まし、周りをきょろきょろ見回してから、部屋に誰が入ってきてたのかとラブデイに尋ねるまで一時間三十分も経たなかった。

 ラブデイは昼食時に一度、五時のお茶の際に一度執事がやって来たけれど、それ以降は誰一人として中に入った者はいないと説明した。

「ふーん、それはちがう」とクレイブン氏は鋭い、いつもと違った声音で言った。「やつがこの部屋に忍び込んでいるのを見たんだ、哀れな声を出しながら、説教めいたことを言う偽善者を、きみだって見たはずだ! やつの声を聞かなかったのか、キーキーした老けた声だよ。『ご主人、わたしはあなたの秘密を知ってるんです──』」彼は突然話を打ちきってしきりに周りを見渡した。「えっ、なんだって?」彼は大声を出した。「いや、いや、わたしが悪いんだ──サンディーは死んで埋められた──彼らは彼のことを調べた、そしてわたし達はそろって彼が聖者であるかのように称賛した」

「彼は悪人だったに違いありません、あの年寄りのサンディーは」とラブデイは同情を示すように言った。

「そのとおり! そのとおり!」クレイブン氏は興奮して椅子から跳ね起きると彼女の手をつかみながらそう言った。「一人の男がはたして死に値するかどうか、やつは値する。三十年もの間やつはわたしの頭の上に鞭をちらつかせ続けた、そして──ああ、何の話だったかな?」

 彼は片手を頭に当てて、まるで力尽き果てたかのように、再び椅子に沈み込んだ。

「その男に知られていた、大学時代の若気の至りについてじゃないですか?」とラブデイは言った。朦朧としている頭脳に信念がまだ揺らめいているうちにできるだけ真相に迫りたいという思いに駆られていた。

「それだ! 悪評の立つ娘なんかと結婚したわたしが馬鹿だった──街の酒場の女給なんかと──しかもサンディーのやつが結婚式に参列したんだ、それから──」ここで彼の両眼がまた閉じられ、呟きも支離滅裂になった。

 十分間彼はそんなふうに呟きを発しながら椅子にもたれていた。「金切り声──うめき」呟きからラブデイが聞き取れた言葉はそれだけだった。その後、突然、ゆっくりと、はっきりした口調で、まるで素朴な質問に答えるかのように彼は語った。「ハンマーが見事に命中して、それでことが済んだんだ」

「そのハンマーをぜひ見てみたいものですわ」とラブデイは言った。「どこかに保存してあるんですか?」

 彼の目が大きく見開かれ、狡猾な光を放った。

「ハンマーの話なんて誰がしてる? そんなもの持っているなんて言った覚えはない。ハンマーでわたしがそんなことをしたと誰かがいったなら、そいつは嘘をついてるんだ」

「二度か三度もハンマーについてわたしにお話し下さいましたよ」とラブデイは穏やかに言った。「あなたの飼い犬のキャプテンを殺したやつです、それを見てみたいんです、それだけなんです」

 老人の目から狡猾な光が消え去った──「ああ、不憫なキャプテンよ! ほんとにいいやつだったのに! そう、それで、なんの話だ? 何を話していたっけ? あ、思い出した、あの晩さんざん悩まされた話し言葉の基本的音声だった。きみはここにいたのか? わたしは一日中犬の苦痛の叫びを人間のうめき声に融合させようと努力していた、しかしできなかった。あの考えがわたしに取り憑いた──どこに行こうともわたしを追っかけてきた。もし両者がともに基礎的音声ならば、共通点があるはずだ、しかし両者の繋がりをわたしは発見できなかった。そしてひらめいた。わがキャプテンのように育ちが良く、訓練も充分に積ませた馬小屋の犬でも、死の瞬間には野良犬のような純然たる叫び声を上げるのではないか、死の叫びの中に人間の声音の一部がないのだろうか? 試してみる価値がある問題だったんだ。学術論文の中にこの問題における事実の断片を書き込めたら、その価値は犬一ダース分の生命に匹敵する。それでわたしは月影の中に出ていったのだ──これですっかり分かっただろう──ねえ、きみ?」

「はい。キャプテンは可哀相でしたね! 叫んだんですか、うめいたんですか?」

「ああ、大きな、長い息の、おぞましい叫びを一声上げたよ、ありきたりの野良犬みたいに。わたしはあいつを放っておけばよかった。別のけだものに窓を開けさせ、こっちを見張らせただけだった。やつは割れた老け声でこんなことを言いやがった──『ご主人様、夜中のこんな時間に何をなさってるんですか?』」

 彼はまた椅子に沈み込み、目を半分閉じてわけの分からない言葉を呟いた。

 ラブデイは一分ほど彼をそのままにした後、もう一つ別の質問をしてみた。

「その別のけだものというのは──あなたが殴った時に叫んだりうめいたりしたんですか?」

「なに、老いぼれのサンディーがね──けだものだって? やつはそっくり返ったよ──ああ、思い出した、やつのぺちゃくちゃよくしゃべる老いぼれ舌を止めたあのハンマーを見たいんだね──そうだったろ?」

 少したどたどしく椅子から体を起こすと、長い脚をなんとか引きずるようにして部屋を横切り、端にある飾り戸棚まで行った。戸棚の引き出しを開けると、地層と化石の標本の真ん中から地質学用の大きなハンマーを取り出した。

 彼はそれを自分の頭の上で少しの間振りかざした後、指を唇に当ててぴたっと動きを止めた。

「シーッ」彼は言った。「注意しないと、馬鹿者どもはわしらを覗きにしのび込んでくるぞ」そしてラブデイにとって恐ろしいことに、突然ドアに近寄り、錠に鍵を掛け、引き抜くとポケットにしまい込んでしまった。

 彼女は置時計に目をやった。針は七時半を指していた。グリフィズスは彼女の手紙を意に沿う時間に受け取っていただろうか、そして彼らはたった今、庭にいるのだろうか? そうあってほしいと彼女は祈るばかりだった。

「明かりが目にきつすぎますわ」彼女はそう言って、椅子から立ち上がると、緑の覆いが付いたランプを持ち上げ、窓際のテーブルの上に置いた。

「いや、いや、それではいかん」とクレイブン氏が言った。「わしらがここでしようとしていることが誰からも丸見えになってしまう」彼はそう言いながら窓辺に近寄り、ランプをマントルピースの上に移した。

 ラブデイは、ランプが窓辺にあった数秒間のうちに外にいる見張りの者の目に触れたことを願うばかりだった。

 老人は近くに来て凶器をよく見るようにとラブデイに手招きした。「ぶんぶん振りまわしてから、」その言葉に合わせた動きを見せながら彼は言った。「振り下ろすとガツンといくんだよ」彼はハンマーをラブデイの額から一インチにも満たないところまで持っていった。

 彼女ははっと退いた。

「ハ、ハ」彼は耳障りで不自然な笑い声を立てた。両眼に狂気の光が踊っている。「怖がらせてしまったかな? そこをこつんと叩いたらどんな音がするんだろうね」そして彼は彼女の額にハンマーをそっと当てた。「当然、基礎的なものになるだろう、ね?」

 ラブデイは神経をなんとか落ち着かせた。狂人に射竦められ、彼女の唯一のチャンスは刑事たちが屋敷に到達して窓から突入する時間を稼ぐことに置かれているのだった。

「少し待ってください」クレイブンの注意をそらそうと彼女は言った。「サンディーさんが倒れる時どんな基礎的音声を発したのか、まだお話しになってませんよ。ペンとインクを貸してくだされば、わたしがそれをすっかり筆記しますから、後で論文に取り入れることができますよ」

 ほんの少し老人の顔に本物の喜色がちらっと浮かんで消えた。「あのけだものは音も立てずに倒れたんだ」彼は答えた。「ほんとに無駄だった、あの夜の苦労は。だが、まったくの無駄というわけではない。そう、もう一度繰り返したってかまわないくらいだ、あの老いぼれの死に顔を見下ろし、やっと自由になれたと感じたあの時に感じたゾクゾクするような興奮を味わうためなら! やっとの自由を!」彼の声は熱を帯びながら大きく響いた──彼はもう一度ハンマーを乱暴に振り回した。

「しばしの間、わたしは若い自分に戻れた。やつの部屋に跳び込んだ時には──月が窓から皓々と照らしていた──大学時代の日々と、ペンブルックで得た楽しみに思いを馳せた──何もかもやりたい放題だったんだ」彼は急に話を打ちきってラブデイに一歩近づいた。「残念でならないのは、」甲高く興奮した声から低く憐れみをさそうような調子に突然落として彼は言った。「あいつがなんの音も立てずに倒れたことだ」彼はもう一歩歩み寄った。「不思議だよ──」彼はそう言うと、またも口をつぐんでラブデイの傍らににじり寄った。「たった今ひらめいた」ラブデイの耳に唇を寄せて言った。「死の苦しみを味わう最中の女性は男より基礎的音声を発声する可能性が高いんじゃないかって」

 彼はハンマーを振り上げた。ラブデイは窓の方に逃げた。すると三組のたくましい腕が窓を外から持ち上げた。


「これがわたしの最後の事件なのかと考えました──あんなにきわどく難を逃れた経験はありません」グリフィズスの横に立ったラブデイは、グレンフェル駅のプラットフォームでロンドンに帰る列車を待ちながらそう言った。「あの老人の狂気を疑う人がいなかったのが不思議に思います──ただ、わたしには、彼の奇行にみんなが慣れていたせいで、それがどれくらいあからさまな狂気になっていたのか気づかなかったんだと思えます。事情聴取のときにはその狡猾さが役立ったに違いありません」

「こうであるかもしれません」とグリフィズスが感慨深げに言った。「あの殺人以前は、奇行癖と狂気の間の細い線を完全にはまたいでいなかったのではないかということです。犯罪の発覚から生じた興奮が後押しして境界線を越えさせたんでしょう。ところで、ミス・ブルック、あとほんの十分であなたが乗る列車が来てしまいます。職業上の関心からぜひ説明をお願いしたいことが少しあるんです」

「よろこんで」とラブデイは言った。「質問を範疇ごとに順番になさってください、お答えします」

「なるほど、では、手始めに、あの老人を疑ったのはどうしてですか?」

「あの人とサンディーの間に続いていた関係は、一方が妙に怖がりすぎて、もう一方が圧倒的すぎるように映ったんです。それにナタールでクレイブン氏が困窮していた間にサンディーに支払われたお金も口止め料のようなものに思えました」

「あさましいやつだ! しかも、彼がずいぶん若い時に結婚した女性も乾杯の後すぐに死んでいると聞いています。しかしわたしはサンディーが主人の再婚後もその女性の存在について作り話をだいじにとっておいたんだと確信しています。では次の質問です。ミス・クレイブンが兄になりかわって病室にいたことを知った経緯はどうなります?」

「到着した日の夕方、わたしが泊まった部屋の掃除がされていない暖炉に、かなり長い、きれいな髪が房になっているのを見つけました。その部屋は普段ミス・クレイブンが使っている部屋だったんです。急に閃きました、若い娘が髪を切り落とすなんて、犠牲に見合うよほど強い動機があるに違いないと。まもなく、彼女の兄の病気についての疑わしい状況がその動機として思い当たったんです」

「あっ! まったく腸チフス熱の件はうまくやってのけたものだ。屋敷に召使が一人もいないとは、すっかり信じ込んでしまった、それにしても若旦那のハリーが上の階で病の床に臥し、ミス・クレイブンはニューカッスルの友人の元にいるなんて誰が考えたついたんだろう。あの若者は殺人があってから一時間もしないうちに出発したに違いない。妹の方は、翌日ニューカッスルに行かされて、メイドをその地で解雇したんだな、聞いた話では、彼女の友人の家に宿泊しないことを埋め合わせるために、若い娘一人に休みを与えて実家に返し、彼女自身は真夜中にトロイトズ・ヒルに戻ったそうですよ、グレンフェルから五マイルも歩いて。おそらく母親が彼女を簡単に開く正面の窓から中に入れて、すかさず髪を切り落とし、兄を装ってベッドに押し込んだんでしょう。ミス・クレイブンがハリーに似ていること、しかも部屋が暗いことも手伝って、医者の、しかも一家と親しいわけでもない医者の目をごまかすのは容易だったんでしょう。ねえ、ミス・ブルック、こうした巧妙なごまかしと裏表のある言行をひっくるめたら、わたしの疑いがあの方面へ強く引きつけられるのも当然でしょう」

「わたしは全体を違ったふうに読んでいるんですよ」とラブデイは言った。「あの母親は息子の悪行を知っていたので、おそらくあったと思われる彼の無実の主張にもかかわらず、疑ってしまったんじゃないかと思えるんです。息子はたぶん家のプレートを担保に入れた後屋敷に戻る途中で、ハンマーを手にしたクレイブン氏に遭遇したんです。きっと自分の父親に罪を着せずに自分の潔白を証明することがどれだけ難しいか、一目で悟ったんでしょう、彼は取り調べに証拠を残そうとあえてナタールへの逃避行を選んだんです」

「じゃあ彼の偽名は?」グリフィズスはきびきびと言った。ちょうどその時列車が駅に入ってきた。「ハロルド・カズンズがハリー・クレイブンと同一人物で、ボニー・ダンディー号に乗っているとどうして分かったんですか?」

「ああ、それは簡単でした」と列車に乗り込みながらラブデイは言った。「クレイブン氏へ妻が新聞を届けたんです、それは船便の一覧に注意を向けるように折りたたまれていたんです。その中にその二日前にナタールへ出発したボニー・ダンディー号がありました。そうなるとナタールとミセス・クレイブンを結びつけるのは当然です。彼女は人生の大半をそこで過ごしたんですからね。それに彼女がやくざな息子を自分の旧友の元に置きたいと願ったのも理解できます。彼が乗船するのに使った偽名もすぐに分かりました。それはクレイブン氏の書斎のメモ帳にやたらと書きなぐられていたんです。きっとクレイブン氏は妻から息子の偽名として繰り返し耳に吹き込まれたんでしょう、老紳士は記憶に留めるためにそんな方法を取ったというわけです。あの若者が新しい名前の下で新しい評判を獲得するよう願いたいですね──いずれにしろ、彼は悪い仲間と大海原を隔てているんですからより良い機会に恵まれるでしょう。では、グッバイ〔この語には永遠の別れになるかもしれないというニュアンスがある〕、ですね」

「いや」とグリフィズスは言った。「オ・ルヴォワール〔フランス語で「またお目にかかりましょう」〕ですよ、あなたは巡回裁判のためにまた戻って来なくてはならないし、クレイブン氏に余生を精神病院で送ってもらうための証拠を提出しなくてはならないんですから」

(了)

翻訳 堀内悟(C)2004-2008


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