女性探偵ラブデイ・ブルックの事件簿

ファウンテイン・レーンの幽霊

キャサリン・ルイーザ・パーキス

(初出 「Ludgate Monthly」1893年7月)

〔 〕:訳者注

BGM:(1)「ラブデイ・ブルック」 (2)「イノセント・クライム」(2曲とも要ループ再生)




「わたくしの居場所をどうやってお知りになったのか話していただけます?」ミス・ブルックは少し腹立たしそうに言った。「誰にも知られないようにきつく言っておいたんですが」

「わたくしはさんざん苦労してダイアーさん〔ラブデイが勤める探偵事務所のボス〕から教えてもらったにすぎません、じつは、電報を三度も打ってやっとわかったのです」ミスター・クランプはそう答えてから、こんなふうに続けた。「たしかに、休暇中のところをこんなかたちでお邪魔してまことにかたじけなく思っております、しかし──しかし、失礼ですが、休暇とは名ばかりのようにお見受けします」ここでクランプ氏は、ラブデイが向いているテーブルが新聞、メモ、参考書で散らかっている様子を意味ありげに見渡した。

 彼女はかすかな溜息を漏らした。

「おっしゃるとおりだと思います」彼女は返答した。「休暇とは名ばかりですわ。わたしも含めて働き通しの者は、しばらくすると、休んでいることに我慢できなくなってしまうものではないでしょうか。わたくしなど一週間まるまるの怠慢と海風にこがれていたものですから、机を閉じて逃げ出して来たんです。ところが、海と空の壮大な絵をいざ目の当たりにすると、すぐに目を閉じてしまって、かわりに毎日の新聞に目をやって、携わる見込みのないおかしな事件に頭をひねり、情熱を傾けたりしているのです」

 その「海と空の壮大な絵」はブライトン〔イングランド南東部の海辺の避暑地〕の<メトロポール>〔ホテル〕の五階の一室にある窓に縁取られていた。心身に重税を課していたラブデイはしばしの猶予を求めてこの場所にやって来ていた。そこで地方警察隊のクランプ警部が彼女を探し出し、重要な事件に思われることの次第を彼女に述べようとしたのだった。警部はさっぱりした小粋な男で、歳は五十前後、この職業の男にありがちな無愛想で事務的な感じはあまり見受けられなかった。

「あの、そのおかしな事件はどうかほっぽってください」彼はまじめな口調だった。「そのかわり、おかしいとは程遠い、きわめて興味深い別件に“情熱を傾けて”もらいたいのです」

「それがおかしな事件の四分の一くらいは興味を持たせてくれるものかどうかあやしいですね」

「詳細を聞くまではそれでいっこうにかまいませんよ。お話しましょう」警部はそう言うとポケットから新聞の切り抜きを取り出し、声に出して読み下した。

「イースト・ダウンズ教区のチャールズ・ターナー牧師所有の小切手が奇妙な事情下に盗難の憂き目に遭っていた。氏は親戚の死去により急遽故郷から呼び出され、しばらく不在が続くと思われたため、妻に四枚の無記名小切手を預け、必要額を記入させるようにしておいた。本人および持参人に支払い可能になっていたそれらの小切手はサセックス銀行から引き出された。ミセス・ターナーは事件の最初の事情聴取において、夫の出発後すぐに自分の筆記机の中にしまいこんだと述べた。彼女はしかしその後この陳述を訂正し、花を切りに庭に出ていた間テーブルの上に放置していたことを認めた。いずれにせよ夫人は本人の弁によれば十分間ほど不在であった。花切りをすませて中に戻った夫人はすぐに小切手をしまった。彼女は夫から小切手を預かった際に枚数を数えてはいなかったので、自分の書き物机(ダベンポート)にしまう時に三枚しかないのを見て、それが元々夫が自分に残していった数だと思いこんでしまった。数が足りなくなっていることは約一週間後に夫が帰って来るまで気づかれなかったのである。その事実に気づいたターナー氏はいち早くウェスト・サセックス銀行に支払いを差し止める電報を打ったが、六百ポンドと記入された小切手が二日前に差し出され、(金の形で)払い出されていたという憂えるべき事実を知るばかりとなった。払い出しに応じた職員は、小切手を提出した人物について、紳士らしい身なりだったこと以外これといった特徴を挙げられず、しかもその男の特定は自分には無理だと弁明する始末だった。金額の多さが職員の疑心をまったく惹起するに至らなかったのは、ターナー氏が資産家であり、六か月ほど前になる結婚以来、牧師館の改装を続け、古いオークの家具や絵画に多額の出費をしていたからだった」

「どうですか、ミス・ブルック」と、読み終えたばかりの警部が声をかけた。「もし、この詳細に付け加えるならば、若妻に疑いを向ける事情が若干あるといっておきましょう、これより興味深い、もっとあなたの能力にふさわしい事件なんて見つかるはずがないと思いませんか」

 ラブデイは返事の代わりに、テーブルの上の、彼女のすぐ横に置いてあった新聞を手に取った。「あなたの興味深い事件はそれとして、」彼女はこう告げた。「では、わたしの方のおかしな事件をお耳に入れますわ」そして次のようなくだりを朗読した。

「信憑性のある幽霊譚(たん)。シップ・ストリートに通じる小さな町角ファウンテイン・レーンの住民たちが通りのまっただ中に突如出現した幽霊に大混乱をきたした。先週火曜日の夜、十時と十一時の間に、靴職人夫婦の手伝いとして通りの五番地に住むマーサ・ワッツという少女が恐怖に駆られた状態で寝間着姿のまま町中へ飛び出した。聞いてみるとベッドの横に幽霊が現れたという。少女は元の家に寝に帰るのを嫌がったため、近隣の住民が預かることになった。フリーアという靴職人夫婦は事件のことを近所の人々に尋ねられると、不承不承ながら彼らも幽霊を目撃したことを認め、兵士のような姿で額が広くて白く、腕を胸の前で組んでいたと説明した。この説明は少女マーサ・ワッツの話とすべて一致した。マーサは幽霊を目にし、以前に見たことがあるナポレオンの絵を思い出したと主張した。フリーア夫妻によると幽霊はまず前夜に夫妻の家で開かれた祈祷会のさ中に現れ、それをフリーア氏がはっきりと目撃したという。その後真夜中に突然目がさめた夫人がベッドの端に立っている亡霊を見たのだという。両人とも事件の説明には苦労している。現地ではこの事件のせいで大騒ぎとなったが、新聞・雑誌が報じてからは幽霊見物に期待する群集がこの通りに殺到して地元住民が家の出入りに難儀するほどである」

「こけおどしですな──低俗なこけおどし、ただそれだけですよ」ラブデイが新聞を脇に置くかたわらで警部はそう言った。「では、ミス・ブルック、まじめな質問をします、あなたがそんな愚の骨頂である陳腐なペテンを解明したとして、それがあなたの評判を増すことになるんですか?」

「ではわたくしが小切手の盗難などというくだらなくて陳腐なペテンを解明したとしたら、いかほどなんでしょう、知りたいものですわ、評判がどれくらい上がるのか」

「まあ、それはおいといて、神を信ずる者の慈悲でちょっと話を聞いてもらいたいですね。若妻の疑いが晴れてまともな方向へ移るまで続くあの紳士の家の不幸を考えてごらんなさい」

「ファウンテイン・レーンにある家の家主はどうなるんですか、住み込んでいる人がみんな逃げ出してしまったら悲惨ですよ、幽霊話が解決しないかぎり、おそらくみんな出ていってしまうでしょう」

 警部は溜息をついた。「そうですか、あなたが事件に関わらないのは当然だと思わねば、ということですか」と彼は言った。「あなたが見たがると思って例の小切手を持参したんですがね」

「ありきたりのものでしょう?」ラブデイは関心がなさそうにそう言うと、自分のメモをひっくり返し、幽霊譚に戻ろうとする様子を見せた。

「そーおですね、」と言ったクランプ氏は手帳から取り出した小切手に目をやっている。「ありきたりのものだと思いますよ。裏に鉛筆で<144,000>という数字が小さく走り書きされているのですが、これも特に変わった印とはいえないですからね」

「なんですって、クランプさん?」ラブデイは自分のメモを横において尋ねた。「十四万四千っておっしゃいました?」

 無関心だった彼女の様子はがらりと変わって興味津々である。

 クランプ氏は喜色を浮かべて立ちあがると、ラブデイの前のテーブルの上に小切手を置いた。

「<600ポンド>という書き込みの筆跡は、」とクランプ氏が言った。「ターナー氏のサインによく似ているのです。これはターナー氏自身わたしに話してくれたことですが、小切手をこの金額で振り出したことはないというしっかりした記憶がなかったなら、それを自分の字だと思いこんでいたはずだ、とのことです。見てのとおり丸っこくて子供みたいな字ですから、まねるのは簡単なわけです。三十分ほど練習したらわたしでも書けました。飾り書きにしたところも、これといった特徴もありませんからね」

 ラブデイから返事はなかった。小切手をひっくり返し、裏面に鉛筆で書かれた数字を念入りに調べている最中だった。

「当然の話ですが、」と警部は続けた。「その数字は小切手の表の数字を記入した人物が書いたわけではありません。といっても、それはたいした問題じゃありません。本件において重要性が少しでもあるとはまったく思いません。六百ポンドが何ペンスになるか、誰かが計算して書きつけたんでしょう──いうまでもなく六百ポンドはきっちり十四万四千ペンスになります」

「この事件をあなたに相談したのは誰です、銀行それともターナー氏ですか?」

「ターナー氏です。小切手の紛失が発覚した当初、ターナー氏は興奮と怒りにかなり駆られた状態で、一昨日わたしを訪ねてきた時など、ロンドンに電報を打って刑事を半ダースも呼ぶには及ばない、わたしがロンドンの連中に引けを取らない仕事をしますから、と説得するのに苦労しました。しかし、昨日視察と事情聴取のためイースト・ダウンズに赴いた時に、わたしは様子がすっかり変化してしまっていることに気づいたのです。ターナー氏は何を聞いてもきわめて消極的で、質問攻めにすればかんしゃくを起こすし、そもそもこの件を訴え出なければよかったと言わんばかりでした。この態度の唐突な変化のせいでわたしの意識はターナー夫人の方へ向かいました。六百ポンドがなくなったのに大の男がほっぽらかしにしたいと願うなんて、よっぽどの理由があるはずです、なにしろ状況からして銀行が矢面に立つことはないでしょうから」

「ターナー氏の心の中で別の動機が働いているのかもしれませんね、古い召使への配慮だとか、家の醜聞を避けたいとか」

「まさしく。そのこと自体怪しいわけではないのです、ただし、わたしがその後突き止めた別の事実と結び付けると、まちがいなくやっかいな話になるのです。その事実とはすなわち、ターナー夫人が結婚前に自分で作ったブライトンでの借金を夫の不在中に返済しているというものです、金額は五百ポンド近くに上ります。しかも金(きん)の形で返しているんです。盗まれた小切手を銀行で提示した紳士が金での支払いを希望したことはあなたにもう伝えたでしょ」

「そのご婦人の役割について、単なる共犯者というだけでなく、純真さといっしょにかなりの狡猾さを思い浮かべていらっしゃるんですね」

「そのとおり。1の純真さに対する3の狡猾さこそ女性犯罪者を構成するものです。そして、往々にして、1の純真さが彼女たちを裏切り、逮捕のきっかけになるのです」

「ミセス・ターナーは他の点ではどういった人なんですか?」

「夫人は若く、顔立ちも家柄も立派なもの、ですが、田舎の牧師の妻におさまりそうな感じではありません。彼女は社交界に漬かっていただけあって派手なことが好きで、しかもローマカトリック教徒なのです。わたしが聞いた話では、夫の教会を完全に無視していて、日曜にきまってブライトンへ赴きミサに出席しているそうです」

「家の召使はどうなんですか? 信頼できるちゃんとした人たちのようでした?」

「表面的には彼らの中の誰かを疑わせるものは皆無です。ですが、あなたが現地に足を運ぶのがなによりなんです。といっても牧師館の壁の内側にあなたをお連れするのは無理でしょうけど。ターナー氏があなたを中に入れるはずはないでしょう、間違いありません」

「何か良い方法は?」

「村の女性教師の、いやもっと正確に言うなら、女性教師の母親であるミセス・ブラウンの家しか思いつきません。牧師館からは目と鼻の先です。じっさい窓から牧師館の庭を見渡せます。四部屋ある田舎家なんですが、ミセス・ブラウンという人はとても立派な人でして、夏の間、田舎の空気を吸いたがっている女性宿泊者をわずかな報酬で受け入れているのです。あそこへあなたをお連れするのはたやすいことですよ、余分な部屋が今空いていますから」

「牧師館にいられたらよかったんですけど、それがかなわないのならば、ミセス・ブラウンの方をあてにするしかないですね。行き方はどうなります?」

「ここへは昨晩泊まった村の宿で手配した二輪馬車に乗って来ました。その宿には今夜も泊まるつもりです。よかったらあなたをお運びしますよ。たかだか七マイルです。馬車に乗るには絶好の日和(ひより)ですしね、そよ風が吹いて、しかも埃は立っていない。三十分くらいでしたくできますか、どうですか?」

 しかしラブデイは、それは無理です、と答えた。彼女にはこの日の午後特別な用事があった。街中である礼拝が開かれ、彼女はそこへの出席を強く望んでいたのだった。それは少なくとも三時までは続く見込みなので、イースト・ダウンズへの出発はどうしても三時半以降ということになる。

 クランプ氏は、職業上の役目よりも礼拝の優先を訴えられて言いようのない驚きの表情を浮かべたものの、この約束に異議を唱えなかった。こうして三時半には、大きな車輪付の軽装馬車に乗り込み、マリーナ沿いをイースト・ダウンズに向かうラブデイと警部の姿が見られることになった。

 ラブデイの口からはもう幽霊の話は出なかった。そのためクランプ氏の方が流儀を脱し、やむなく触れてみる気になった。

「ファウンテイン・レーンの幽霊話の全体をわたしが聞いたのは昨日のことです、イースト・ダウンズに出発する前でした」警部は続けてこう言った。「わたしにはこう思えます、もちろんあなたの立場は尊重しますけど、ミス・ブルック、つまり日常茶飯事のこと、腹にこたえる夕食や、ビールの飲み過ぎその類で説明がつく話ではないかということです」

「今回の事件には陳腐な幽霊譚と区別できる点がいくつかあるのです」とラブデイは応じた。「たとえば、あのような信心深い人たちなら、フリーア夫妻がまさにそうですが、天使たち、または少なくとも一人きりでいる聖者などを目にするんじゃないでしょうか。ところが彼らは兵士を見たのです! しかもすべての信仰心にとって忌むべき男──皇帝ナポレオンに似ているという〔ナポレオンは神の奇蹟を否定し、民衆の信仰心を統治に必要な道具として論じた〕」

「フリーア夫妻はどの宗派なんですか?」

「ウェスレー〔メソジスト〕教です。夫妻の両親が元々ウェスレー教徒だったのです。親戚や友人も一人残らずウェスレー教徒だそうです。しかも一番重要なことに、フリーア氏はウェスレー教の牧師たちとの間に靴の独占的なつながりを持っていると聞いています。これは、彼が言うには、小さな靴職人にとって一番お金になるコネだそうです。半ダースのウェスレー教の牧師たちの方がごまんといる教会の聖職者たちより三倍以上お金を使ってくれるそうです、ウェスレー教の牧師は常に信者を訪ね歩くけれど、教会の聖職者はいろいろ理由をつけては田舎で馬の世話をしている、さもなくば学者に変身して書斎にこもっているからだそうです」

「ハッ、ハッ! たいしたものだ」クランプ警部は笑い声を立てた。「その話をウェールズの国教会防衛協会に聞かせたらどうですか。最高級の子馬(すてきな贈り物)になりませんかね? あと十分もすればイースト・ダウンズが見えてきますよ」

 長く、埃っぽい道のりがようやく尽きると、細い、坂になった小道に入ったが、その両脇にはサンザシとプラムの樹で造られた生け垣が並んでいた。そこから漏れてくる八月の日差しはようやく傾き始めていた。遠くにある木からはフルートやパイプのような音がかすかに聞こえ、まるでムクドリたちが夕べの賛美歌に備えて音合わせをしているかのようだった。

 突然現れた急な曲がり角を折れるとイースト・ダウンズの景色が開けた。家屋数三十ほどの小村で、初期イングランド様式の教会の尖塔がそびえている。教会の隣には牧師館がある。けっこうな大きさの家で、広々とした敷地を備えている。敷地の脇を通る小道に面して村の学校と女性教員の宿舎がある。後者は部屋が四つあるだけの小屋でかわいい庭の中に建っている。その庭ではバラの群生とスイカズラが八月の最盛期を謳歌し、屋根にまで登りつつあった。

 この小屋の外でクランプ氏が手綱を引いた。

「五分ほどお待ちくださるかな、」と彼は言った。「中に入って気のいいご婦人に友人を宿泊人としてお連れした、ブライトンの喧騒とギラギラした光からいっとき逃げ出したがっている、と話すことにします。もちろん例の小切手盗難事件は知れ渡っています、だが、わたしの考えでは今のところ、あの事件とわたしを結び付けている者は皆無のはずです。わたしはブライトンから来た紳士だと思われていて、牧師が売ろうと思っている馬を買いたがっているけれど条件がどうにも折り合わない、ということになってます」

 ラブデイが荷馬車(カート)に乗ったまま外で待っていると、幌のない四輪馬車がやって来て牧師館の門をくぐっていった。馬車の中には紳士と婦人が一人ずつ乗っていた。彼らが村の子供たちから受けたうやうやしい挨拶から、彼女はそれがチャールズ・ターナー牧師夫妻だと思った。ターナー氏は血色のいい、赤毛の人物だったが、困ったような表情がありありとうかがえた。ミセス・ターナーの風貌についてラブデイは好意的な印象を持たなかった。たしかに端正な顔立ちの女性ではあったが、表情が硬く、上唇が冷笑をしているようにゆがんでいた。その装いもロンドンの流行の極みだった。

 二人はすれ違いざま探りを入れるようにラブデイを見たので、彼女はミセス・ブラウンの家庭の新たな増員をめぐって様々な憶測がすぐに村中を駆けめぐるだろうと確信した。

 クランプ氏はすぐに戻ってきて、ミセス・ブラウンがよろこんで空き部屋を提供してくれることを伝えた。二人でアラセイトウとモクセイソウの密な植え込みの間を家のドアまで進む途中、彼は小声で忠告をした。

 その内容は以下の通りである。

「質問は一切してはいけません。さもないと矢を射る直前のように身構えてしまいます。それからあのご婦人はいかなる醜聞にも関心を寄せません。ただほうっておけばいいのです、そうすれば水車の水流のように休むことなく、あなたが知りたいことを何から何までたっぷりしゃべってくれるでしょう。彼女と村の女性郵便局長は親友同士です、二人の間でこっそりと、村じゅうの家で何が起こっているかをそっくり知ることができるのです」

 ミセス・ブラウンはふくよかな、赤ら顔の女性で歳は五十前後、黒い生地のガウンをきちんと着込み、大きな白いキャップとエプロンをつけていた。彼女はラブデイを丁重に迎え入れ、明らかに少し自慢げに娘を紹介した。その娘は村の学校で教師をしている、話し上手な二十八歳くらいの若い婦人だった。

 クランプ氏は二輪馬車とともに村の宿に赴いたが、翌朝氏がブライトンへ戻る前にこの家にラブデイを訪ねてくると言い残していった。

 ミス・ブラウンもお茶を用意しますと言って立ち去った。ラブデイ一人になると、ミセス・ブラウンはさっそく舌をゆるめた。彼女にはクランプ氏とクランプ氏の村での仕事について質問が山ほどあった。あの、あの方がイースト・ダウンズに来られたのは牧師様の馬を一頭買うためだけなんでしょうか? 彼女はクランプ氏は牧師館の召使たちを見張るために警察から派遣されてきたのだという噂を耳に入れていた。彼女はそれが真実でないことを願っていた、というのは彼らよりきちんとした召使は、どこの家を探しても見当たらないほどだったからである。ブルックさんは例の小切手の盗難は知っていますか? なんて恐ろしい事件でしょう! ミス・ブラウンは事件がロンドンに知れ渡っていると聞かされていた。ところで、ブルック様はこの事件の記事をロンドンの新聞で見ましたか?

 ここでラブデイの返事が否定だったために、小切手盗難事件の微に入った詳細を物語る口実ができた。それは本当にかすかな違いを除けば、ラブデイが事前に耳にしていた話と大差はなかった。

 彼女は辛抱強く話を聞いていた。心の中でクランプ氏の忠告を意識しながら、質問を控え続けた。しかし十五分ほどたち、ミス・ブラウンがお盆を手に入ってきた頃になると、ラブデイは牧師館の日頃の家庭生活に関する試験があったとしても及第点を得られるほどになっていた。問題の新婚夫婦の不仲についてもいくつかの質問に答えることができた。彼女はこんな知識を得ていたのである──夫婦が朝から晩まで口論していること、口論の主な議題が信仰とお金の問題であること、牧師は怒りっぽく、思ったことは何でも口にすること。美人の妻は口の速さでは負けるけれど、かなり冷酷な皮肉屋で、おまけにいろんなことにひどく散財しているということ。

 こうした興味深い事実に加え、牧師館の召使の数、名前や年齢、それぞれの職務といった情報をラブデイは補えるようになっていた。

 お茶の間、会話が少しはずまなかった。ミス・ブラウンの同席がどうやら彼女の母にとって圧力になっていた。そのため食事がすみ、ラブデイがミセス・ブラウンに部屋を案内される段になって、ようやく会話の続きをする機会が訪れたのだった。

 ラブデイが先に口を開き、村に非国教派の教会がまったく見当たらないことに触れた。

「ふつう、小さな家が少しでもあれば、国教会の教会が端っこにあって、それ以外の教会が別の端にあるものでしょう」彼女はこう言った。「でもここじゃ、否応無しに国教会の教会にいかなくてはなりませんね」

「非国教派教会に属しているんですか、奥様?」とミセス・ブラウンは応じた。「オールド・ミセス・ターナー──牧師様の一年前に亡くなったお母様はそりゃあ“プロテスタント寄り”でして、非国教派といってもいいくらいでした。それなのにブライトンまで馬車で出かけて行き、ハンティンドン伯爵夫人の教会に出席するのもしょっちゅうでした。牧師様の母親としては考えものだとみんな噂してたんですよ、だけど今の有り様と比べたらどうってことないでしょう? なにしろ牧師の妻が毎週日曜日にかかさずブライトンのカソリック教会に行って蝋燭と肖像に祈りを捧げているんですもの。部屋を気に入ってくださってうれしいです、奥様。羽毛の長枕、羽毛の枕、おわかりですか、奥様? わたし、ベッドには頭痛の原因になる綿くずやウールは使わないんです」ここでミセス・ブラウンは強調のつもりか、しみのない真っ白なカバーをかざしながら、ふくらんだ枕と長枕をたたいたりひねったりした。

 ラブデイは家の窓際に立ち、田舎の空気の新鮮さを満喫していたが、おりしも夕刻のカーネーションとジャスミンの濃厚な香りが重苦しいほどだった。道の向こうの牧師館からは夕食を知らせる鐘の音が大きく響き渡ってきたと思えば、ほぼ同時に教会の時計が七時を告げた。

「小道をやって来るのは誰でしょう?」とラブデイが尋ねた。彼女はにわかに背の高い、ほっそりした人影に引きつけられた。古びた黒服を着て、大きくてやぼなボンネットをかぶったその女の手にはバスケットがぶら下がり、使いから戻る途中のように見える。ミセス・ブラウンはラブデイの肩越しに覗き込んだ。

「ああ、あれはさっき話した変わり者の若い女です、奥様。マリア・ライルといって、ターナー家の大奥様のメイドだったんです。今はそんなに若いとは言えません、なんのかんのいっても三十五ですから。大奥様の死後も牧師様が奥さんのメイドとして留めておいたのですが、若奥様はあの女にいっさい関わろうとしないんです、そりが合わないそうです。それでターナーさんは何もしてない女に年に三十ポンド払っているというわけなんです。だけど、マリアがそのお金を全部はたいてしていることがわからないんです。あの女は服にはお金を使わないんです、まちがいありません、それに友人も親戚もいないし、金をほどこしてくれる者だって一人とていません」

「おそらくブライトンでの慈善事業に寄付しているんでしょう。あそこには金の出口が山ほどありますからね」

「あの娘は、」とミセス・ブラウンはぼんやりと口に出して言った。「機会があればきまってブライトンに行ってるんですよ。大奥様がまだいらした時にはウェスレー教徒で、すべての伝道集会を欠かさずにほうぼう回っていました。だけど今はよくわかりません。ブライトンのどの教会に通っているのか、誰も知りません。毎週日曜日にミセス・ターナーといっしょに馬車で出かけていくんですが、あの娘が蝋燭や肖像を拝む気になるわけがないのはみんな知っています。トーマスという御者が言うには、あの娘をブライトン中央部の汚い小路で下ろして、ミセス・ターナーを教会で拾った後にまた乗せるそうです。まったく、怪しいったらありゃしない」

 マリアは牧師館の下宿小屋の門をくぐった。うなだれたまま歩き続けるその両目は地面に向けられている。

「怪しいったらありゃしない」とミセス・ブラウンが繰り返した。「こっちから話しかけないとあの娘は誰にも口をききません、そんなんで一人世間を渡ってるんですよ。向こうの牧師館の敷地にある古いあずま屋がご覧になれますか、果樹園と家庭菜園の間に建っている、じつは、毎日夕暮れ時になるとマリアが現れてあそこに入っていくのです、しかもあそこに一時間以上ずっといるんですよ。そこで何をしているのか、神のみぞ知る、ですよ!」

「おそらくそこに本を置いて、勉強でもしているのでしょう」

「勉強ですって! 先だってうちの娘が五年生用の新しい本を見せてやったら、マリアは娘にくってかかってきて、世界中で学ぶべき本はたった一つしかない、それは聖書だってきっぱり言ったんですよ」

「牧師館の庭はなんてすてきなんでしょう」と、ラブデイはいささかぼんやりと言った。「牧師様はみなさんがめでるのをお許しになっているんですか?」

「ええ、さようです。牧師様は皆があのあたりを散歩するのをまったく気にしません。つい昨日もわたしにこう言われました。『ブラウンさん、もしもあなたが“塞がれている”ような気分になったときは、』ええ、“塞がれている”っておっしゃいました。『ご自分の庭の門をくぐって、わたくしの庭に来て、果樹園の中で存分に心遊ばせてください』って。わたしは牧師様のご親切をいいことにずうずうしいまねをするつもりはありません。けれど、もし奥様があちらを散歩したいのなら、よろこんでお供しますよ。池のふちに立派な古いセイヨウスギがあって遠くから見物人が来るんです」

「興味があるのは古いあずま屋とこじんまりした果樹園です」ラブデイは帽子をかぶりながらそう言った。

「心おきなくしている場所のすぐそばでわたしたちを見つけたら、マリアはびっくり仰天してしまいます」と、階段を先に下りながらミセス・ブラウンが言った。「こっちです、いいですか奥様、家庭菜園をまっすぐ行くと果樹園に出ますから」

 夕闇が急速に暗さを増して夜になりつつあった。鳥のさえずりも今は聞こえず、虫の飛びまわる音、遠くの蛙のしわがれ声だけが夕べの静寂を破っていた。

 家庭菜園と果樹園の境になっている門をミセス・ブラウンが閉じたところへ、ひょろ長く真っ黒なマリア・ライルの人影が反対方向から近づいてきた。

「ほんとにもう、どうしてあの女が毎日夕方に果樹園をすっかり自分のものにしたがるのかわかりません」と、ミセス・ブラウンは首を少し振りながら言った。「西洋スグリの茂みに気をつけてください、奥様、服にひっかかるんですよ。あらま! 牧師様は今年なんてすばらしい実りに恵まれたんでしょう! こんなにたわわな梨の樹は見たことないわ!」

 すでに二人はミセス・ブラウンの家の窓から見えた「こじんまりした果樹園」の中にいた。古いあずま屋に続いている小道の角を曲がってみると、マリア・ライルがもっと先の曲がり角を曲がって来たところだったので、お互いに顔を見合わせるかっこうになってしまった。マリアが絶えず地面を凝視していなかったなら、さっき二人が彼女の噂をした時にすぐさま侵入者たちの接近を知っていたはずであった。ところが彼女は今初めて二人を見たので、いきなり面食らい、ちょっとためらった後、くるっと踵を返し、向こう側へそそくさと立ち去った。

「マリア、マリア!」とミセス・ブラウンが声をかけた。「行かないで、ここに長居するつもりはないんだから」

 その声に返事はなかった。マリアは振り向きもしなかった。

 ラブデイは古いあずま屋の入口に立った。その家は相当の期間修繕を受けておらず、また明らかにマリア・ライルを除いて足を踏み入れる者もなさそうだった。掃除がまったくされていないそのありさまを見ると、蜘蛛やその他の気味の悪い生き物の棲家になっているのはたしかだった。

 ラブデイは思いきって中に入り、狭苦しい空間を半円形に囲んでいる長椅子に腰掛けた。

「なんとかあの娘さんに追いついて、わたしたちがすぐに立ち去ることを伝えてください」彼女はミセス・ブラウンにそう話しかけた。「わたしはここにしばらくお邪魔しますから。あんなふうにあの人を驚かしてしまって申し訳ありません」

 ミセス・ブラウンは、いやいやそうに、しかも「他人の顔をまともに見られない人間のばかばかしさ」に不満をこぼしつつ、マリアを追いかけるために立ち去った。

 あずま屋の中はもう薄暗かった。ただそれでも、腰掛けた長椅子の隅にささやかながら本の束があるのを見つけられるほどの明るさはあった。

 ラブデイは一冊ずつ手にとり目を近づけて念入りに調べた。一冊目は読み抜かれた、鉛筆による書き込みの入った聖書だった。その他に、「集会の賛美歌集」、「時代の終末」と題した本──赤と黄色で描かれた天使が大きな黒い瓶から血と炎を溢れ出させている強烈な絵が紙表紙に印刷されている──があり、さらに、それらより小さ目で表紙は同様に紙でできた本もあったが、そこには巨大な黒馬が火と硫黄を黄土色の雲の中へ吹き込んでいる様が描かれていた。この本は「聖人年鑑」という題がつけられていたものの、単なる罫線入り日記帳で、一年を通して日毎に感動的なモットーが付せられているというだけだった。ところどころであるが、この日記には大きくて雑な手書きの文字が書き込まれていた。

 こうした本の中にマリア・ライルが夕刻の孤独と人気のないあずま屋を愛する理由が横たわっているように思えた。

 ミセス・ブラウンはマリアが仕える家にある使用人出入り口まで彼女を追いかけて行ったものの、結局つかまえられず、マリアに完全撤退を決め込まれてしまっていた。

 彼女は少し熱くなって、少し息を切らし、少しかんしゃくを起こしてラブデイのもとに戻って来た。それはかなり滑稽だった。彼女はこんなことを口にした──どうしてあの女はその場にとどまっておしゃべりできないんだろう? とはいえ、おしゃべりなしでは害が生じる、と言わんばかりに聞こえたわけではなかった。ラブデイはこの村の他のすべての人間と同じく、彼女(ミセス・ブラウン)が、他人の身の上に関する根も葉もない噂や意味のないおしゃべりには無縁であることを承知していたからである。

 だがラブデイはここで、彼女のとりとめのない話にいささか鋭く口をはさんだ。

「ミセス・ブラウン」彼女は声をかけた。しかし、ミセス・ブラウンに好印象を与えていたラブデイの声と態度は、三十分前の感じのよい、おしゃべりな女性のものからすっかり変貌を遂げていた。「申し訳ありませんがあなたのすてきな家に一晩泊まることすらかないません。ついさっき今夜ブライトンでかたづけなくてはならない大事な用を思い出したのです。旅行かばんはまだ開けてません、ですからお庭の入口に運んでいただけないでしょうか、あとで取りに来ます──わたくしはこれから、今すぐ宿に行って、今夜ブライトンへ連れていってもらえるかクランプさんに確かめることにします」

 ミセス・ブラウンはあっけにとられて驚きを表す言葉が見つからなかった。しかもラブデイはミセス・ブラウンが彼らを引き止めるすきを与えなかった。十分後、彼女は申し分のない夕食にありついたばかりのクランプ氏を駆り出し、できるだけ早くブライトンに戻らねばならないという驚嘆すべき声明を発表した。さて、彼はラブデイ・ブルックを送り届けてくれるほどお人よしなのだろうか?

「なんなら馬だって二頭くらい買いましょう、」彼女は付け加えた。「道はいいし、十五分もすれば月明かりも照らすでしょう。来た時の半分の時間しかかからないはずです」

 二頭立ての四輪馬車(フェイトン)と一組の馬の準備が整えられる間、ラブデイは事情を簡単に説明した。

 古いあずま屋にあったマリア・ライルの日記が、小切手の盗難と犯人を結ぶ証拠の鎖の最後の輪をもたらしていたのである。

「警察署に直行するのがいちばんいいでしょうね」と言った彼女はこう続けた。「令状が三枚いりますよ、一つはマリア・ライル、他の二枚はそれぞれリチャード・スティール──ブライトンのゴードン・ストリートにある教会の先任の牧師と、ジョン・ロジャース──以前同じ教会の長老だった者のためです。事情をお話ししましょう、」彼女は少し微笑んで言い足した。
「もしあのファウンテイン・レーンの奇妙な幽霊の一件がなかったら、おそらくこのお三方は略奪行為をもうしばらく自由に続けられたと思います」

 これ以上言葉を費やしているひまはなかった。数分後、二人はブライトンへ向かう道を疾走していた。男が一緒にいたせいで──イースト・ダウンズに馬を戻す必要があるために同行を拒めなかった──さっきの簡単な説明に断続的かつ断片的な補足をするのがやっとだった。

「ジョン・ロジャースが逃亡してしまったかどうか心配です」と、ラブデイが声をひそめていったん言う。

 するとまた、ちょっとたってから、なめらかな道がしばらく続きひそひそ話が可能になったので、彼女はこう言う。

「スティールの逮捕状を待つわけにはいきません、警察はわたしたちを追いかけてドレイコット・ストリートの十五番地まで令状を持って来てくれないと」

「しかしあの幽霊については知っておきたいですね」とクランプ氏は言った。「あの“奇妙な幽霊”に興味津々です」

「ドレイコット・ストリートに着くまで待ってください」ラブデイはそう答えた。「あそこに行けば、すべてお分かりになると思います」

 教会の時計が九時十五分前を知らせた時、彼らはケンプ・タウンを駆け抜けているところだったが、その速度たるや道行く人をして生死に関わる使命に奔走しているのだと思わせるものがあった。

 ラブデイは警察署で降りなかったが、この警察署の担当警部と交わした五分ほどのやり取りで、クランプ氏は三人の犯罪者の逮捕のために要する手はずをすっかり整えた。

 ブライトンは「観光旅行者の日」のようだった。鉄道の駅に通じる通りには人だかりができていて、裏通りを進もうにも大通りから流れてきた人の氾濫に行く手をさえぎられるようなありさまだった。

「歩いた方がよさそうです。ドレイコット・ストリートはここから目と鼻の間ですので」とラブデイは言った。「ウェスタン・ロードの北側に曲がり角があって、そこからすぐです」

 こうして二人は馬車を乗り捨てた。ラブデイが口数の少ない案内人を務めながら狭い町角をいくつか抜けて、半ば町中で、半ば郊外の、ダイクへ続く路が通る区域に足を踏み入れた。

 ドレイコット・ストリートはすぐに見つかった。ここは部屋が八つある、下宿や貸家向きの新築の家が二列になってできていた。十五番地の二階の部屋の窓からは薄明かりが漏れていた。ただ下の階の窓は暗いうえにカーテンもかかっておらず、バルコニーの手すりに下がっている板が「貸家(家具なし)」であると告げていた。家のドアは少し開いていた。それを押し開くと、ラブデイは、パラフィンランプが中ほどまで照らし出している階段に進み、二階へ上がっていった。

「場所はわかっています。わたしは今日の午後ここに来ていました」彼女は連れにささやいた。「これはあの男にとってみんなの財布からくすねた金を持ってユダヤに出発する、言いかえると、逃亡する前の最後の講演なのです」

 二人が進む先にある部屋のドアは二階にあり、おそらく暑さのせいで開いたままになっていた。そのため二列になっている背のない長椅子に八人ないし十人くらいが放心状態で座っている様子があらわになっていた。顔を仰いでいる彼らは、まるで部屋の向こうの端にいる伝道師に釘付けになっているように見え、しかも恍惚と悲痛が同居した表情──ときおり信仰復興運動者の集会で、くすぶる興奮が炎へと燃え上がるのを前にした参加者の顔に見受けられる表情──を浮かべていた。

 ラブデイが相棒ともども階段をあと一息のところまで上って来ると、伝道師の声──かなり大きな、引き付けられるような、反響に包まれた声──が二人の耳に飛び込んできた。上りきって部屋の外の狭い床に立てば、半分開いたドアの隙間から伝道師を視界に入れることができた。

 伝道師は背の高い、威厳のある顔つきの男で、歳は四十五くらい、白い髪を短く刈り込み、眉は黒く、らんらんと輝く瞳が印象的だった。まさしくその声──断然大衆を扇動・指揮・統治するために生まれてきたような男の声──にふさわしい外見といえた。

 少年が一人隣の部屋から出てきて、中に入って講演を聴かないのかとラブデイにうやうやしく尋ねた。彼女は首を振った。

「暑くてたまらないの」彼女は言った。「ここに椅子を持ってきてくれませんか」

 講演はどうやら終わりかけているようだった。ラブデイとクランプ氏は外に座って聞いていたが、聴衆を比喩から別の比喩へといざない、演説を最高潮にもっていく伝道師の達者な話しぶりにときおり鳥肌が立つのを禁じえなかった。

「あの男は生まれながらの雄弁家ですね」とラブデイはささやいた。「声の力に加えて目にも力があります。聴衆は本物の催眠術師に身をゆだねたみたいにすっかりとりこになっています」

 彼らが聞いた演説から察するかぎり、伝道師は「至福千年派(ミレナリアン)」と総称される数多い宗派の一つに属しているようだった。伝道師の話の中心は悪魔(アポルオン)とアルマゲドンという大戦だった。彼はそれを生々しく、まるで自分の目の前で繰り広げられているかのように物語った。しかもその話しぶりは、ほとんど誇張ではなく、聴衆の耳の中に大砲をとどろかせ、負傷者の痛ましい泣き声を響かせたといえるものだった。彼は戦場の殺戮をおぞましく描写した。野原には血が川のごとく流れ、人馬は押しつぶされ、そこに四方八方から襲いかかる猛禽類と山の穴ぐらから這い出してきた虎と豹が添えられた。「しかしこの真っ最中に、」伝道師は突然、ささやき声からこの上なく大きな、ぞっとするような声に切り替えて言った。「大虐殺の場を静かに見下ろしながら、眉をひそめ、腕を組みながら、立っているのが皇帝アポルオンです。アポルオンとわたしは言いましたか? 失礼、訂正します、災厄の日に現れて佇む彼の名はナポレオンです! ナポレオンは、その日、サタンのごとき威厳の化身として登場します。霧の中から突然、彼は歩き出します。背の高い、黒い人影は眉をひそめ、唇をきつく結んだままです。彼は支配する者、駆り立てる者、殺す者なのです! 強大なアポルオン、皇帝ナポレオン、彼らは一身同体です」

 ここで先頭に座っていた婦人の一人からすすり泣く苦しげな声が漏れて演説が中断されたので、聖堂番として務めるさっきの少年が水の入ったグラスを持って部屋に入った。

「さっきの説教は以前から行われています」とラブデイが言った。「これでファウンテイン・レーンの幽霊の出所はおわかりになりますよね?」

「ヒステリーの発作は伝染しやすいものですね、女性がほら、また一人失神している、」とクランプ氏が言った。「こんなことをやめさせる潮時です。ピアソンが令状を持ってもうじきここにやって来るはずです」

 その言葉が言い終わらないうちに、階段を上がってくる重々しい足音がピアソンとその手中にある令状の到着を告げた。

「わたしはもうお役御免でしょうね」ラブデイはその場を離れるつもりで腰を上げながら言った。「明日の朝十時にホテルまでお越しくだされば、小切手の盗難と“奇妙な幽霊”を結びつけたいきさつを丁寧に申し上げますわ」


「もみ合いになりましたよ──最初やつが闘志を見せたので」翌朝十時きっかりにラブデイを<メトロポール>に訪ねたクランプ氏はこう話した。「もしやつが機転をきかすひまがあってあの部屋にいた者のうち何人かに助けを求めていたら、わたしたちはまちがいなく手荒なまねをされたうえに、結局手の中からすり抜けられてしまったと思います。“生まれながらの雄弁家”とあなたが呼んだ連中の持つ力といったら、ちょっと理解を超えるものがあります」

「ええ、まさに」と応じたラブデイは感慨深げにこう語った。「わたしたちは“磁石のような感化力”についてもっともらしい話をしますけど、そのことばにどれだけ文字通りの真実があるのか、ほとんど理解していないんです。“民衆の指導者”と呼ばれた彼らは、フランス人の専門家に匹敵する絶対的で天才的な催眠力の持ち主だ、というのがわたしの確固たる見解なんです。まあおそらく意識的にみがかれたものではないのでしょうが。それでは、ロジャースとマリア・ライルの方のお話しをお願いします」

「ロジャースは、あなたが予期したとおり、逃亡ずみでした、親切にも牧師仲間のために現金化して得た六百ポンドと一緒に、です。表向き、やつの言い方だと、選民を一つの旗の下に集めるため、ということになっています。実際は、ニューヨーク行きの船に乗っていたのですが、電報のおかげで、向こうに着いた時点で逮捕され、帰りの荷とともに連れ戻されることになるでしょう。マリア・ライルはけさ、ミセス・ターナーから小切手を盗んだ罪で逮捕されました。ところで、ミス・ブルック、機会がありながらあなたがマリアの日記を手中に収めなかったことが惜しまれるのですが。あれはマリアと悪辣な仲間に関する値千金の証拠になるはずでしょう」

「そうする必要をいささかも認めなかったのです。いいですか、彼女は犯罪者の部類には入らないんです、熱狂的な信仰者なんです、それに開廷したら弁護側はすぐに罪を認めたうえで、宗教上の信念を酌量すべき事情として主張するはずです──少なくとも、十分な助言を得れば彼女はそうするでしょう。ミレナリアンが現在広めている扇情的な教義の弊害を、この日記ほど赤裸々に明かしているものはありません。ですが説法の時間をあなたからいただくわけにはいきませんね。あなたがことの次第、何よりもまず、わたしがミレナリアンの牧師こそ盗まれた財産の受取人だとみなした事情を知りたがっていることをわきまえています」

「ええ、まさしく。あの幽霊について知りたいんです。あれがわたしの関心の要ですから」

「おやすいごようです。昨日の午後あなたに話したとおり、今回の幽霊譚で初めにわたしの注意を引いたのは、幽霊が兵士風だった点です。人はフリーア夫妻のような情動的すぎるほど信心深い人々が幻を見ることを期待しますが、同時にその幻もそのような感情の性質を帯び、しかもどこかとらえがたく恍惚感に包まれているように期待するものなのです。そういう人たちにとってあのナポレオン風の幽霊は信仰上重大な意味を持つにちがいないと思えるのです。この確信にもとづいてわたしの意識はミレナリアンの方に向かいました、彼らは邪悪な悪魔(アポルオン)を偉大な皇帝の子孫の一人として人格化し、華々しい先祖の性質を全部授けることによって、(ろくなものではありませんが)信仰上の意義をナポレオンの名に加えていたのです。わたしはフリーア夫妻を訪ね、ブーツを一足注文しました。夫の方が寸法を取っている間、ミレナリアンの観念について鋭い質問を少ししてみました。主人は最初まったく言葉を濁していましたが、ついには自分と妻が本当はミレナリアンだということ、実は、ナポレオン風の幽霊が初めて現れた祈祷会はミレナリアンのものだったことを認めました。その祈祷会を開いたのは以前ゴードン・ストリートの教会のウェスレー派の牧師だった男だけれど、説教が不健全だとみなされて解任されたというのです。フリーアはさらに話を続けて、その男の人気がたいそう高く、集会にかかさず参加する者も多かったと話してくれました。堂々と通うものもいれば、あの夫婦のようにひっそりと、ふだん通っている教会の長老や牧師の機嫌を損ねないように気を使う者もいたようです」

「靴のつながりさまさまですね」とクランプ氏は笑い声を立てた。

「ほんとですね。ゴードン・ストリートのウェスレー派教会を訪ね、教会番と話してみると、このリチャード・スティールという内気な牧師の経歴をすっかり知ることができました。この教会番から、彼らが通う教会のジョン・ロジャースという長老が宗派から脱会してリチャード・スティールと運命を共にしていたこと、そして1901年4月11日木曜日に世界は終末を迎えるが、その五年前、つまり1896年の3月5日に十四万四千人の生きている聖人が天国に召されるだろう、と説きながら二人して国中を行脚していたことを突き止めたのです。さらにこの生きながらの昇天(トランスレーション)はユダヤの地で起こると語られています、つまり世界中のあらゆる場所の聖人たちがかの地へ急ぐことになる、そしてこの出来事を見る場所では、群集が宿無しにならないようにある団体が結成されていて、家を、たぶん一列になっているんだと思いますが、提供する役目を負っているというのです。しかも(非常に重要な点ですが)この団体への寄付はどちらの紳士も歓迎するらしいです。あなたが<144,000>という鉛筆書きの数字が入った盗品の小切手を持ってわたしを訪ねて来られた時、幽霊に関する調査は済んでいたというわけです」

「あぁ、わたしにも見えてきました!」とクランプ氏がつぶやいた。

「すぐにこういう考えが思い浮かびました。自分の思想の化身を思ったとおり人々に見せることができる人間なら、十戒に背くことに寛容な他人の心に影響を及ぼすのはたやすいのではないか。世界はただのまっさらな紙のような人だらけのような気がわたしにはします、力強い手なら思い通りに書き込めるでしょう。お医者さまならヒステリー体質と呼ぶのでしょうが、催眠体質という人もいるかもしれません。いずれにせよ、ヒステリーの状態と催眠にかかった状態とを分ける一線は、とてもぼんやりしていると思うのです。だから、あなた持参の盗難小切手を目にした時、わたしはこう心に思いました──その田舎の牧師館の中のどこかにまっさらな紙がある、それがわたしの見出すべきものだ」

「なるほど、ミセス・ブラウンの噂話のおかげで仕事が楽になったというわけですか」

「ええ。あの人は牧師館の壁の内側にいる人たちの歴史のあらましをすっかり話してくれて、その上、目の前で動き出さんばかりに活写してくれましたよ。たとえばマリア・ライルがミセス・ターナーのことをいつも“緋色の女〔ヨハネの黙示録に登場する大淫婦〕の子供”だとか“バビロンの娘”だといっていたことや、その他こまごまとしたことです。そのおかげで、いってみれば、マリア・ライルが女主人のことを堕落した信仰の一員だと毛嫌いしながら不承不承仕えつつ毎日のおつとめを果たしていたこと、同時に女主人の財産の一部をくすねて神聖な意義と思えることに捧げるのは信仰に背かないと考えていたとわかったんです。八月三日(小切手盗難の日)と七日(その次の日曜日)付のマリアの日記からわたしがそれぞれ書き写したものを二つばかり読んで差し上げます。七日など、マリアはまちがいなくブライトンでの祈祷者集会のどれかでスティールに会う機会があったんです」

 ここでラブデイは自分の手帳を出して次のように読み上げた。

「『今日あのエジプト人どもからぶんどってやった! バビロンの娘からけだものの力を増やすはずだったあれを取ってやった!』」

「さらにまた、八月七日に、彼女はこう書いています、」

「『今日バビロンの娘からくすねたあれをわたしの最愛の牧師様に手渡した。それはまっさらだったけれど、牧師様は十四万四千の選民が一ペニーずつ豊かになるように記入するつもりだとおっしゃった。なんて清らかなお考えなのかしら! これがわたしのつまらない手のしていることなんだわ』」

「なんともすばらしい寄せ集めです、あの日記にあった、ゆがめられた聖書の言葉──信愛する牧師への大胆な賛辞、病的な忘我は、頭の病気によるものだと人に思われそうなくらいです。わたしが思うに、ポートランド〔ドーセット州にある刑務所〕かブロードムーア〔刑事犯精神病院、1863年開設〕で実直な教戒師のご助力をいただけたなら、今のマリア・ライルにとってもっとも幸せな処遇だといえるんじゃないでしょうか。ついでに述べると、例の信者集会の時(イースト・ダウンズへの出発を少し遅らせたあれです)、スティールが、悪魔を相手に行うことになる戦いのための蓄えを頼もしくしてくれた人たちに熱烈な称賛を浴びせるのをわたしは聞きました。マリア・ライルのような精神力の弱い人たちがああいう雄弁さにとらわれ、善悪の新しい基準を自分の中にうち立ててしまうことは、わたしは不思議だと思いません」

「ミス・ブルック、もう少しお尋ねします。ミセス・ターナーが借金を急に返したのはどのように説明できますか──わたしはそもそもこの点に少し難儀しているのですが」

「ミセス・ブラウンはその話をいとも簡単に説明してくれました。二三日前にミセス・ブラウンが牧師館の垣根の反対側を歩いていると、あの夫婦が庭でいつものようにお金のことで口論していたそうで、ターナー氏が腹を立ててこういうのが聞こえたそうです。『たった一二週間前おまえのブライトンの借金の支払いに五百ポンド近くやったっていうのに、また別の請求書か』」

「なるほど、すっきりしましたよ。あともう一つだけお願いしたい。リチャード・スティールのような人物の(無意識のうちに磨かれたという)催眠術の力に関するあなたの理論は尊重すべきだとわたしも確信しますが、と同時に、こじつけた、空想が過ぎるくだらないものにも思えるのです。それを仮に認めたところで、あのマーサ・ワッツという少女のことをあなたがどんなふうに説明するか見当がつきません。あの少女は幽霊が現れた信者集会に出なかったし、牧師のリチャード・スティールと接触する機会もなかったのです」

「幽霊の目撃っていうのはしょう紅熱や麻疹(はしか)並みに伝染しやすいものだと思いませんか?」ラブデイは微笑みながらそう答えた。「ある家族の一員に特徴がしっかりしていて人に説明しやすい幽霊を見せたらどうでしょう、あの善良な人々が見たようなものを。週末までに十中八九同じ家の人間が目撃しますよ。誰だって『見れば信じられる』がふつうになっていますでしょ。ことわざの逆だってほんとうだとお思いにならないかしら。『信じれば見られる』になるって」

(了)

翻訳・作曲 堀内悟(C)2003


Catherine Louisa Pirkis (1839-1910)
ロンドン生まれの英国人。1877年から計14の著書を生む。夫フレデリックと共にNational Canine Defence League(全国イヌ科動物保護同盟)を設立、精力的なチャリティー活動を行う。動物の権利と生体解剖反対を訴えるこの活動に専念するため「Missing!」(1894)を最後にフィクションの創作から引退した。


ブライトンを舞台にした小説

ブライトンで撮影された映画

Brighton Rock 1947年公開
Brighton Rock 2010年公開


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