探偵ニック・カーター─驚異的事件の解決




第1章
47番街の殺人

 ある晩のこと、ニューヨークと呼ばれる街は、街一番の人気者の一人が無惨にも殺されていたという知らせに電気ショックをくらってしまった。

 ユージニー・ラ・ベルデが自室で死体として発見されたのだが、殺人者は手がかりとなるものを何一つ残していなかった。ただ、犯人を追う鍵はわずかに存在した。

 マドモワゼル・ラ・ベルデは、バレエダンサーとしてそれまで二つの季節に渡って舞台に立ち、並ぶ者のいない優雅さ、類まれな美貌としとやかさを兼ね備えた比類なきステップですべての観客を魅了していた。

 殺された日の夜も彼女はいつものように踊り、拍手喝采に包まれ、花束の洪水に見舞われていた。

 公演を終えるとすぐに47番街の自宅へ送り届けられたが、お供をしたのは長年世話をしている、余生が長いとはいえぬ一人のメイドだけだった。

 その夜、メイドはいつもと変わりなく世話をした。ラ・ベルデが服を脱ぐところまでつきそい、その後、ベルデの頼みに応じて本を一冊差し出し、退いた。

 ユージニーはいつものようにおやすみの挨拶をして、翌朝10時まではほうっておいてほしいと禁止事項を追加した。

 次の日きっかり10時に、デリア・デントというそのメイドが、主人の部屋へ着衣の手伝いに足を運んだ。ところが入ってみると、目にした光景に吃驚(びっくり)し、その場で気を失ってしまった。

 ユージニー・ラ・ベルデは、前夜メイドが立ち去る前に彼女が召すのを手伝ったふんわりしたネグリジェ姿のまま、ベッドに横たわっていた。

 彼女の顔はゆがみ、ほとんど見分けがつかないほどはれていて、ところどころ皮下での血液凝固のためひどく変色していた。口は開かれたままだった。目も見開かれ凝視した状態だったが、その表情には、彼女が死の直前に経験した恐怖がいまだに満ちていた。彼女のきゃしゃな、しかし芸術家のものとしては申し分のない両手は、爪が柔らかい肉に食い込み、血が滴るほどきつく握られていた。その姿はわが身を押さえつけられた状態から必死で逃げようとした痕跡となっていた。一方、喉の周囲にあるくすんだ青色の模様は、その死がいかにもたらされたのかをあからさまに語るにすぎなかった。

 ベッドも激しく凄まじい苦闘を物語っていた。カバー類はひどく乱れ、枕が一つ床の上に落ちていた。そして、殺された少女が殺人者の手につかまれたとき夢中で読んでいた本は破れ、くしゃくしゃになっていた。

 ユージニーは死に、部屋にあったすべてのものが、彼女の無惨な死に方と、殺害者の襲撃から逃げ出そうとする懸命な苦闘の無言の証拠となった。

 殺人犯の存在に関する証拠が探索されたが、種類を問わず手がかりは何一つ見つからなかった。

 バレリーナが読書をしていた部屋へ犯人はどうやって近づいたのか、凶行を遂げた後、どうやって立ち去ったのか、それが切れ者の刑事たちにも見抜けない謎だった。

 六月の蚊のように理論はいくらでもあった。しかしそれを支える証拠を備えたものは明らかに皆無で、一つ一つ地面に落ちては、無用な、あるいはばかげた代物として見捨てられていった。

 最後の頼みの綱としてメイドのデリア・デントに嫌疑がかかった。しかしそれはほんの一時のことだった。捜査員のうちで最も愚かな者ですら凶悪極まる犯罪の容疑を長くは確信できなかった。なにしろ、犯行に必要な体力を彼女が持ち合わせていないのは明らかだった。

 彼女には精神力もなかった。死んだ女主人への愛情ですら力になりえないほどに、この婦人はひ弱で抵抗とは無縁な性格だったのである。

 デリア・デントはその女主人の死後長くを生きなかった。

 ユージニーの死体を発見した際の恐怖の衝撃は、彼女のか弱い体力の限界を超えるものだった。彼女の神経は打ちのめされ、四週間悪化の一途をたどった後、かつぎ込まれた病院で息を引き取った。

 一時多くの支持者を得たある説に、デリア・デントが殺人者とぐるになっていて、それで犯人を家に入れることも、犯行後静かに立ち去ることも可能になった、というものがあった。

 しかしその説も、それ以前の他の説以上に荒唐無稽だとして放棄された。 デリアは病院で療養する間に死を悟り、しかも死の直前に蓄えのすべて──1万ドル近くに上った──を、ユージニー・ラ・ベルデ殺害犯を法の裁きにかけられた者への報酬として顧問弁護士に預けていたのだった。ユージニーの殺害現場となった47番街の家は、当時ユージニーとメイドのデリアのみが住んでいたが、地階部分はまったく使われていなかった。月に一度ガスメーターの検査員が職務を果たすためにやって来ていたが、そのおりには地下室へ向かう途中で地階のホールを通り抜けた。しかし検査が済むと、デリアはきまって地階と居間をつなぐドアに鍵と鎖をかけた。しかもそこは翌月同じ用事が生じるまで邪魔が入ることはけっしてなかった。

 ユージニーは家ではまったく正餐をとらなかったし、メイドも彼女を放っておくことはなかった。彼女の朝食は珈琲とロールパン一つだけだったが、いつもメイドによって、ユージニーが睡眠をとる部屋のアルコールランプの向こう側に用意されていた。

 事件の発見後、外部への抜け道になる可能性が少しでもある屋内のすべての窓とドアが念入りに調べられた。

 そのどれもが閉ざされている状態だった。おまけにすべてのドアが椅子によって安全を加えられていた。

 小窓にさえ複雑な南京錠がかかっていた。

 いじられているものは何一つなかった。

 窓の留め具、ドアの錠、チェーンボルト、小窓、天窓に何かされた形跡はなかった。

 犯罪が行われた後に発見されたこうした事件の状況から考えて、犯人が真実の証拠を何も残さずに家に近づくことはまったく不可能だった。それに、殺人犯が屋内にあらかじめ潜伏していたと仮定したところで、証拠を残さずに出て行くことは同じように不可能だった。

 デリア・デントは、前述したとおり、自分の若い女主人の死体を発見した際に気絶してしまった。彼女は気を取り戻すと、廊下のメッセンジャー・コールまでよろよろと歩いていき、わずかな力をふりしぼって警察へ電話した。それから、依然として半ば気を失った状態で、かろうじて階段の下へ足を運んだのだが、電話がつながったときにはまだ玄関のドアのチェーンを外していなかった。彼女によると気絶は二度起こった、もしくは、犯罪の発見と警察の到着との間、意識が半分ある状態だったという。

 調査が進むにつれ、謎は深まるばかりだった。

 事件には年季と筋金の入った刑事たちが投入された。当初彼らは賢明な印象を与え、誰に対しても実行犯のすばやい逮捕を確信させた。しかしその後、頭を悩ますようになり、ついには完全に混乱してしまった。しまいに彼らのうちで最も勇気のある者が、当初と比べて彼らが真実に近づいたとはまったくいえないと白状するに至り、さらに、一番抜け目のない者の口からは、ありそうもない犯人の自発的な告白以外に犯人特定の方法はありえない、というずうずうしい物言いが聞かれるありさまになってしまった。

 そのために、世間の関心事が他のことに移るまで事件の迷走は続いた。新聞は最初この出来事にページをいくつか割いたが、その後欄少々となった。一週間も経つと、欄一つで事足りるようになった。ついには一行記事になり、消滅し、この謎だらけの殺人事件はほとんど歴史の片隅に追いやられ、忘れ去られてしまった。

 しかし、忘れない人物がいた。その人物は本庁の警部だった。

 彼の打てる策は尽きていた。彼の優秀な部下たちはこの事件を手がけ、挫折していた。彼は個人的に他の職務から工面できるすべての時間をユージニー・ラ・ベルデ殺害事件に費やした。しかしそれでも依然として混迷から抜け出せずにいた。明確なまたは筋の通った問題の解決法はどこにもなかった。

 ユージニーの高価な宝石は、化粧道具入れの上に手つかずの状態で発見された。数百ドルに上る、丸められた紙幣はいちばん上の引出しの中にあった。それは事件当夜、殺された少女が無造作に投げ入れておいたものだった。

 殺人者が彼女になんの警告もなしにこっそり忍び寄ったことに疑いの余地がなかった。犯人は万力のように彼女をわしづかみにして、絞殺し、やって来たときと同じようにこっそりと彼女のもとを去った。彼女の体はあざ、打撲傷、その他の跡からして汚されてはおらず、犯人の意図が殺害のみにあったことを示していた。それは犯人が犠牲者の絞殺以外の肉体的暴力によって彼女の抵抗を止めようとはしなかったことの証拠でもあった。

 彼女の喉に残った痕跡は奇妙でとても印象的だった。

 刑事の中には殺人犯が両手を同時に使ったのだと考える者がいた。その他に、ロープの一端を片手で握った上で、被害者の首に二回巻きつけたのだという意見もあった。

 しかし、既存のすべての説を転倒させる事実が一つあった。部屋と廊下をつなぐドアが、錠はかかっていなかったものの、閉じられていたのである。

 ユージニーが殺されたベッドは、彼女に発見されずに部屋に入ることは誰だろうと絶対に不可能だと言える位置にあった。明るく燃えていたガス灯は、事件後の朝にそのままの状態で発見された。デリア・デントの記憶では、彼女の女主人が読書中に眠りに落ちてしまったことも、いざ眠ろうとするときにガスを消し忘れたこともなかった。

 ユージニーだけが顔見知りであった第三の人物でもいたのだろうか?

 ばかげている! デリアがそんな事実に気づかぬわけはなく、おまけにその人物が発見されることも、脱出方法の跡を残すこともせずに家を後にしたはずはないのである。

 ユージニー・ラ・ベルデが噂の種になったことは皆無だった。しかも検死官の検証結果は、彼女の慎み深さと純朴さに対する世評を裏付ける形になった。

 バーンズ警部がニック・カーターの家の階段をそそくさと登ったのは、事件からすでに一月がたったある日の暮れて間もない頃だった。

 この警部は、事件にさじを投げただけでなく、彼自身ですら世間にそう思われることを望んでいる、とすべての人に思い込まれていた。

 そんな中、彼は、この謎を解決できる男がニューヨークにいると結論づけていた。

 それゆえにニック・カーターを内密に訪問したのだった。


第2章
面談

 警部が訪れたときニック・カーターは在宅中だったが、警部に応対する彼の様子は、彼自身の接待を受ける人物がニューヨークに誰一人いたためしがなかったと思わせるものだった。ニックが信頼を得ていたのは、あらゆる人から遠ざかることで、その変幻自在の変装をまったく見破れないものにしていたからでもあった。

「お会いできてうれしいです、警部さん」彼は警部にこう挨拶した。「座ってください。煙草はご自由にどうぞ、お互い忌憚のない話をしましょう、なにしろここへは仕事の件でこられたようですから」

「そのとおりだ、ニック」

「重大な用件もなしにあなたが来られることはないですからね。今夜なにが?」

「ユージニー・ラ・ベルデ事件だ」

「どうして、あれは迷宮入りになったと思ってましたよ」

「誰だってそうだろう、このわたしをのぞけば」

「あっ! あのですね、あれは知ってますよ」

「デリア・デントが死んだことかい? そのとおりだが」

「彼女が事件についてなにも知らないと信じているんですか、警部?」

「なにも知らんだろう。彼女はきみや、わたしと変わりないほどに潔白だ」

「私見では、といっても、あの事件については当然無知なわけですが」

「理論ありなのか、ニック?」

「いいえ。わたしはチフスか天然痘と同じくらい理論は御免なんです。おっかないし感染力もあるので」

「そのとおりだな。それにもかかわらず人は頭をひねる」

「ええ──不幸なことに」

「ニック、わたしは手持ちの本件をきみに預けて徹底的に洗ってほしいんだ」

「言うは易し、行うは難し、です、警部」

「きみならだいじょうぶだと踏んだんだ」

「難事件です、これは」

「他の者はすべて挫折した。やってくれるか、ニック? ホシはどこかにいる、何年かかろうとつきとめなきゃならん。やってくれるか?」

「はい」

「感謝する。わたしの考えじゃきみが断って、そのくせ……」

「そのうちわたしがお願いをしてくるって?」

「まさしく」

「いつ手をつければいいですか、あなたのご指示は?」

「きみ次第だ、それに誰にも気兼ねせずに好きなようにやってくれ。わたしから言うことは一つだけだ」

「それはなんですか?」

「われわれ以外は誰一人として、きみが本件にかかわっていることを知られてはいかん」

「引き受ける条件としてその点を考慮すべきでした、警部」

「事件の詳細については把握していると思うが?」

「ええ、着手できる程度ですが、あなたから特に助言をいただかないかぎり」

「いや、本件の場合なにもない」

「フーン! ユージニーに遺族は?」

「いる。母親だ」

「彼女は財産を残したんですよね?」

「ああ、母親が相続した。母親の人間関係については調査が完全じゃない」

「家はどうなりました? 彼女の持ち物だったんでしょ?」

「ああ。今は錠がかけられ、ほっぽってある」

「あぁ──鍵をお持ちなんですね!」

「たしかに」

「わたしにくれるんですか」

「そうだ。持ってきた。これだ」

「なるほど。わたしの活動中は、警部、家を手つかずのままにしてもらえますか?」

「そうしよう」

「新聞はこの事件について全部正確に書きたててましたか?」

「まあ、そうだな。周辺の事情に関して言うべきことはほとんどない、つまり、連中が基本的なことを押さえていたのは確かだと思う」

「跳ね上げ戸、引き戸、どかせる枠、そういうものを全部探したんでしょう?」

「たしかに。徹底的に探したさ」

「でもなにもなかった!」

「何一つな」

「でも、わたしが挑戦してみたって害はありませんよね」

「たしかにない」

「今までわたしはその手のものをありそうもない家で発見してきました。あの家でもなにか見つかるかもしれません」

「そうだな」

「でも、そうは思われないんでしょう?」

「そうだ。正直思わない」

「では、殺人犯はどうやって家に出入りできたんでしょう?」

「ニック、わたしはその疑問を自分自身に少なくとも一万回はぶつけたよ」

「だけど答えは出なかった?」

「ひとつもな」

「そうですか、なにか見つかるという確信ができてきました」

「見つかるといいな」

「事件はこうですね。一人の少女が殺害された。ということは、何者かが彼女の部屋に忍び込んだらしい」

「そうだ」

「しかし、発見された家の様子からすると、事件当夜デリア・デントが彼女から離れた後に誰かが家に出入りするなんてことは、まったく不可能」

「そのとおり」

「だから、あなたがたが気づかないなんらかの手段、方法によったにちがいない」

「当然だ」

「では、秘密のドア、引き戸、その他の仕掛けによらないとしたら?」

「そこが問題なんだ。それで、どうなんだい?」

「はい、わたしはそれをまず探そうと思っています」

「その次は?」

「第一段階の成功しだいです。こんなところでよろしいでしょうか、警部?」

「そんなとこだ。現場は私が最初に検証しに行ったときのままになってる。それじゃ、おやすみ、ニック。」警部は立ち上がり、ポケットから大きな封筒を取り出しながら言葉を続けた。

「ここに、」彼は言った。「事件の一部始終がある。都合のよいときに目を通してほしい。省略は一切していない、まあ読む価値がある部分はほとんどないんだが」

「ユージニー・ラ・ベルデが絞殺され、犯人は逃亡、しかも、犯人の正体、居場所をつかむための鍵が微塵も残されていない、ということのですね」

「そのとおり。そして今度はきみがホシをあげる番だ」

「やってみます」

「誰かやれるとしたら、それはきみだ」

「ありがとうございます。やらせていただきます」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 ドアが閉まり、刑事たちの偉大な指導者が去った。


第3章
最初の手がかり

 翌朝、配管工に変装したニックは、ただちに47番街のユージニー・ラ・ベルデ邸を訪れた。

 ユージニーが使っていた部屋は、殺害の翌朝発見されたときとほとんど同じ状態にあった。念入りな調査にもかかわらず、探偵に直接示唆するものは皆無だった。

 寝室から、応接間のある階に移ったニックは、そこですべての窓の留め金、器具、枠、そして羽目板を詳しく調べた。

 成果はまたもなかった。

 まもなく彼は応接間のある階から下へ降りる階段にとりかかった。

 連絡用のドアは階段の下にあり、内側も応接間側もともに鍵と鎖が掛けられていた。

 錠も、鎖も、ドアも欠陥はまったくなかった。明らかに完全だった。そこで彼は注意を階段へ向けた。

 階段というものは秘密の通路を作るのにうってつけの場所である。ニックがほうっておく理由はなかった。

 突然彼は発見した。下から三番目の段がしっかりしていなかったのだ。

 二時間以上彼は探索を続けた。しかしそれ以上の成果はなかった。

 暗闇が迫る頃、彼は空腹であるという事実に気づいた。彼は静かに屋敷を後にし、近場のレストランを探した。

 二ブロック先にビア・サロンが見つかった。そこは二十四時間営業をうたっていた。

 中に入り、注文をすませると、彼はまもなく食事に精を出した。そこへ日焼けした質の悪い男が二人店に入ってきて、ニックのテーブルから二台目のテーブルに腰を下ろした。

 男たちの発した最初の言葉に引きつけられ、彼は耳をそばだてた。

「キャプテン、バーンズ警部が昨日の晩に出かけていったんですよ」

「どこへ?」キャプテンと呼ばれた男が訊いた。

「あの鬼みたいな探偵のところですよ。ここでやつの名前なんか口に出したくないですよ」

「ああ、シンダールが小さな巨人と呼んでるやつか? まったくだ」

「ですよ、それで?」

「やつはおれたちを商売の種にしてるのかもな」

「フン! ばかな。そんなわけないでしょ。あの警部はおれたちの存在すら知らないんすよ」

「やつはあらましを知ってる」

「そうすね、でもおれたちのことは何も知りませんよ。可能性はあるでしょうが。アニキは『小さな巨人』を見張ってたんすか?」

「ああ」

「やつは退散したんすか?」

「誰にもわからん、だが、おれは違うと思う。一時間前におれはあそこをおさらばした、そしてトニーが交代した。おれが立ち去ったときやつはまだ屋敷にいたということしか言えん」

 ニックは微笑した。

「行くぞ、ジョン」とキャプテンが言った。「ここに長居しすぎた。おれたちには別の仕事が待ってんだからな。もう暗いじゃないか、行くぞ」

 二人はさっと立ち上がり、その場を離れた。ニックはすぐに彼らの尾行を思い立った。


第4章
尾行

 ニックは二人の男が立ち去っても、すぐに店から飛び出したりはしなかった。かわりに、カウンターまで無造作にぶらぶら歩いていき、飲食代の勘定をすませ、それからゆっくりと外に出た。

 彼が思ったとおり、男たちは遠くには行ってなかった。縁石の上に立ったまま熱心に話し込んでいる。だが、本当のところは、つけられていないかどうか確かめようと様子をうかがっていたのである。

 男たちが用心深かったおかげで、追跡に趣が添えられた。

 ニックは何気なく二人を通りすぎ、六十メートルほどしか離れていない大通りまで進んだ。

 二つの店の間にある廊下のドアが都合よく向こう側へ半開きになっていた。彼はそこの住人であるかのように入っていった。

 暗い廊下で立ち止まると、彼は変装の早変わりを始めた。まもなくその身なりは、重労働に明け暮れた後の晩に外で酒を一杯か二杯ひっかけるような恵まれない境遇の老人となった。

 五分あるいは十分ほどして、例の二人が突然分かれた。ジョンと呼ばれていた方は反対方向へ急ぎ、キャプテンの方はちょうど通りかかった客車に飛び乗った。

 後部デッキに立った彼は背を車体の方に向けていたが、その姿は追跡者の存在を気にかけているように見えた。

 通りに一台の客車が進んできた。そのまま進むとキャプテンが乗る客車とニックの間を通過することになる。

 少しの間、ニックはダウンタウンカーのデッキから見えないことになるのだった。

 彼はこの瞬間を最大限利用した。

 すばやく道路へ飛び出すと、二台の車がすれ違う前に二つのドアをうまく通り抜けることができた。

 客車がすれ違ってみると、<ジン・ミル>のドアの前で造作なく立ち尽くしているニックの姿があった。まるで出てきたばかりのようにのんびりと歯をほじっている。

 まもなく通りを進んだ彼の足どりはかなり速かったが、当然、誰かをつけているのではと疑わせるほどの速さではなかった。

 ほどなく次の車が彼に追いついたので、彼は前のデッキに乗り込んだ。

 二台の車は1ブロックも離れていなかったので、探偵が追跡の相手を見るのは容易だった。

 14番街に来ると、キャプテンは後ろを向いて突然乗車中の客車の中に入っていき、前のデッキに出た。

 そして今、マッチの電光石火のきらめきによって、彼が煙草に火をつけているところだとわかった。

 ここでニックはすばやい走りで乗っていた車を後にし、キャプテンが乗り込んでいる車に追いつくと、中に入って進行方向側の端に腰を下ろした。

「こっちの方が快適だ」と彼は思った。「ここからだとやつを見張るのが楽だ」

 街角を次々に通過すれど、キャプテンは客車を離れる気配を見せないため、彼もそれに従った。そのうちに終点のアスターハウスに着いてしまった。

 彼は降車し、南行きのブロードウェイ・カーに乗りこみ、サウス・フェリーに着くまで降りなかった。

 キャプテンはここでハミルトン・フェリーボートに乗って、ブルックリンに渡った。そして水辺沿いを中心部から遠ざかる方向へ進んだ。

 ニックの追跡が1マイルを超えた頃、突然キャプテンが方向を変えて船着場に上がった。

「先まで行ったら止まってあたりを見回すぞ」とニックは考えた。「だからおれはここで待つことにしよう」

 彼は水が間際に迫る深い闇の中に身を隠した。そこにちょうど一艘のボートが船着場の上のくさびにロープで係留されていた。

「願ったりかなったりだ!」とニックは考えた。

 彼はあっという間にロープをほどき、オールを一つつかんだ。そして、小さな舟を急いでこぎながら桟橋の陰を静かにつたった。

 突然、彼が追跡していた男が立ち止まった。そして振り向き、船着場のへりにやって来ると、ニックをまじまじと見た。


第5章
とらわれの身

「おい、」とキャプテンが言った。その声はニックの耳に届くに十分なほど大きく、同時に用心深さがこめられていた。

 ニックは漕ぐのをやめたが、返事はしなかった。

「一、二ドル稼ぎたくないか?」が最初の質問だった。

「もちろん!」ニックは簡潔に答えた。

「船に乗せてくれないか」

「どれくらい?」

「湾のちょっと先まで行きたい」

「わるい相手に当たっちまったね、旦那。あっしはそういうモンじゃないんですよ」

「5ドル出す」

「どれくらい行きなさるんで?」

「半マイルくらいだ」

「どこまで?」

「それはおれ次第さ。さあ、乗せる乗せないのどっちだ? おれはここで夜通しもめてるわけにはいかないんだ」

「サツにでも追われてるんですか、ボス?」

 男は肩をすくめて遠ざかった。

「そんなに遠くないなら乗せますよ」とニックは呼んだ。「乗りなせえ」

 キャプテンは戻ってきた。ボートが船着場に引き寄せられると、見覚えのない男は飛ぶように舟中央のシートの一つに腰を下ろした。

「さあ、急いでくれ」と男はせかした。

「どっちへです、旦那?」

「下る方向だ」

「どこまで?」

「おれが止まれと言うまでだ」

 ニックは従った。

 潮は彼らの行き先を向き、水車を回す水流のように走っていたので、舟はすいすい進み、静かに一マイルは過ぎた。

 ニックはそこで漕ぐのをやめた。

「ねえ、旦那」彼は口をきいた。「半マイルって言いましたよね、もう一マイルは来ましたよ。まだ遠いんですかい?」

「もうちょっとだ。漕げ」

「へえ、その前に5ドルもらっておきたいんですが」

「もらうだって? これを見ろ」

 男はニックの心臓へ六連発銃をじかに向けた。

「見てますぜ」とニックは冷静に言った。「でも5ドルの代わりになるわけもないですな」

「漕ぐか?」

「いいや、払ってもらうまで漕ぎません」

「このやろ、いったとおりにしろ、さもなきゃ見通せるほどでっかい穴をぶちあけるぞ」

 ニックは静かにオールをボートに引き上げた。

「あのね、」彼は言った。「なにがなんでもあっしを遠くへ連れ出す気ですかい、旦那? あっしは旦那のハジキにびびってるウサギみたいなもんだと思ってる? とんでもない! 旦那が夜のこの時分にここでそんなものを使ったりしないのを承知してると思わないですか?」

「殺すには早すぎますよ、旦那。あっし自身その手の仕事を一つか二つこなしたことがあるし、通じてるんすよ。払いなさいよ、そうすれば旦那が行きたいとこまで漕ぎやしょう、だけどあっしがやって旦那がやらないのは腹が立つんだな、わかりますか?」

 乗客は呪いとしかとれない言葉を唸るようにしぼり出したが、ポケットから金貨を一枚取り出すと、それをニックに投げつけた。

「さあ、行くんだ」男はささやいた。「なにしろ遅れてるんだ」

「他でもない旦那のせいですよ」とニックは返事をした。そして彼がオールをつかむと、ボートは再び進み出した。

「休め、よし、休め」と乗客が突然言った。「向こうにスループ(縦帆装船)が見えるか?」

「見えやす」

「あれに乗りこむのを手伝え」

「キーレクトですね、旦那。前に目にしたことありますよ」

「あるって、え? なんでだ?」

「それがあっしの仕事なんです、わかります? こういうものに目を向けるのがね」

「あっ! 河海賊か、え?」

「あっしが? ちがいますよ! あっしは港湾仲買人ですよ。さあ、ここですね。ケッチ(二本マスト帆船)には手すりがあります。じゃあ」

 乗客はスループによじ登って乗りこんだが、ニックはボートをそのままの位置に留めていた。

「おい、何を待ってるんだ?」とキャプテンが聞いた。

「旦那です。あっしに帰り舟を頼まないんですかい?」

「ああ。いらん」

「後で拾いに来るのも?」

「ああ」

「後でどうする気です? 岸まで泳ぐんで?」

「おそらくな」

「それじゃあ、おやすみなさい、旦那。ハジキにお気をつけて。暴発することもありやすから」

「おまえがここからとっとと消えないなら、その可能性は高いぜ」

 ニックはくすっと笑い、スループからボートを押し離した。そしてオールをつかみ上げて暗闇の中を遠ざかった。

「今夜川下まで漕いでやったのがニック・カーターだと知ったら、やつはどんなことを口にするかな」と若き探偵は思った。

 スループが停泊している場所から程遠からぬ所に、もっと質素な造りの、しかし大きさはずいぶん上回る船があった。

 それはスクーナー船だった。ニックはボートの船首をそこへ向けた。

 その輪郭はかろうじて目に見えた。夜は刻々と深まっていた。

 東の方向から大きな雲がやってきた。三十分もせずに文字通り真っ黒な夜になると気づいた探偵は満足を覚えた。

 彼はスクーナーに到達し、それを通過すると、漕ぐのをやめ、ボートがゆっくり漂うのにまかせた。しばらくして彼は黒い船体の陰にすっかり隠れるかたちになった。

 その後三十分間、彼は座って待っていた。

 夜はますます闇を深くしていった。

 目の前にある自分の手さえ見えないほどに暗くなったころ、大粒の雨が彼を叩き始めた。

「こういう仕事にはうってつけの夜になった、」と考えながら、彼はボートをスクーナーの側面から押し離した。「それに私がよっぽどのへまをしない限り、姿を見られたり物音を聞かれたりせずに、あのスループに結わえ付けられる。とにかくやってみよう」

 潮の流れが依然として強力だったので、望みの場所へたどり着くのに舵取り以上のことはほとんどいらなかった。

 目に見えるものは何一つなかった。全世界が突如として消滅し、背後に暗黒だけを残して無に帰したかのように思えた。

 程なくして彼はオールを引っ込め、舳先(へさき)に移った。

 まさにぴったりの潮時だった。

 スループの船体にぶつかりそうだと、見ることなしに直感した彼は、右手を差し出して衝撃と衝突音を防いだ。発見されれば彼の企ては失敗してしまっただろう。

 こうして彼は音をたてずにすんだ。

 ニックは船によじ登り、船室に下りる階段入口の方へそっと忍び寄った。二歩ごとに足を止めて耳をそばだてたが、何も聞こえなかった。

 甲板を渡りきると、警戒を同じく続けながらついに船室へ降りた。

 裏をかかれた、スループはもぬけの殻だ、とニックが結論を出そうとしたその時、突然、なんの前触れもなく、一撃がその頭を襲い、意識を失った彼を甲板に沈ませた。

「やつをたたきのめしたか、ジョン?」と男の冷淡な声が尋ねたが、それは「キャプテン」のものだった。

「ドア並にのびきってやす、キャップ」

「よし。光が外に漏れないようにハッチを閉めろ、それからやつの姿を拝むんだ」

「さっさと河に投げちまった方がいいですぜ」とジョンがぶっきらぼうに言った。「おれがめちゃめちゃたたきつぶしてやります」

「だめだ。おれの言ったとおりにしろ。やつの死を確認してから外に放り出しても遅くない」

 昇降口が閉められると、明かりが点った。

 キャプテンは意識を失っているニック・カーターの体に覆いかぶさり、彼の顔をまじまじと見つめた。


第6章
絞殺魔のトニー

 キャプテンによる発見の後、不吉な静寂が続いたが、まもなくそれはジョンの唸り声によって破られた。

「さっさと刺しちまいますか?」

「いやいや、待て。急がば回れだ。それにこいつが水浴びする前に聞いておきたいことがあるんだ」

 その口にブランデーが少し注がれると、やがてニックは目を開き、あたりを見回した。

 彼は船室に男が五人いるのを目にし、自分が殺人をいとわぬギャングの手に落ちてしまったことをすぐに悟った。同時に、わずかな慈悲を施すつもりが男たちにあるのを彼らの表情から読み取った。

 彼の正しさはその後の展開が証明した。

 キャプテンは彼のすぐ近くに立った。ニックは男の表情が硬く冷淡であることに気づいた。

 同時に別のあることにも気づいた彼は大きな満足感を得た。

 男たちは数的優位の強みに自信満々だった。彼らのいけにえが痛打を浴びたせいでおとなしくしていることもあった。そのために、男たちはニックを縛るべきだとは考えずにいた。

 一人の男が五人の男の元から逃げ出せるなどとは彼らの脳裏に浮かばなかったのである。とりわけ、彼らはニックをスループに見合う小さな船室内に囲い込んでいたのだから。

「おまえは誰なんだ?」とキャプテンが冷淡に訊いた。

「あっしが知りたいよ」とニックは答えた。「頭に一撃くらってぼうっとしてるんだ」

「答えろ!」

 冷たくいかめしい声だった。しかもその要求は探偵の眼前にかざされたナイフのきらめきによって強調された。

「あっしは河の商人(あきんど)です」とニックは冷静に答えた。

「忘れるなよ、おれたちは今、開けた河の上にいるわけじゃないんだぜ、若造、だから人に聞かれる心配もない。おれに撃つ気がないと見抜いた度胸は買うが、ここでおれたちを馬鹿にするようなことがあったら容赦しないぞ。答えろ、おまえは誰なんだ?」

「あっしは上潮のビリーです。聞いたことありやすか?」

「見え透いてるな、我が友よ。おれたちみんなビリーと知り合いだ」

「知ってるって? よかった。じゃあ何を聞いたんで?」

「おまえの名は?」

「へえ、もうわかってるんじゃ、ちがいやすか?」

「本当の名前じゃなかった」

「旦那の方があっし以上に詳しいんじゃないすか」

「どうしてこの船に戻ってきたんだ?」

「スループに行こうが、スクーナーに行こうが、それでなきゃクラフトだってあっしの勝手でしょ? でしょ!」

「おい、おい! そんなまねはおれたちの前でさせねえぜ。お前が誰か察しがついてるんだぞ。河の海賊はかつらやにせものの口髭はつけねえだろ」

「ねえって?」

「おまえ、私服のデカだな」

「あっしが、へえ?」

「おまえの職も知りたいところだ」

「知りたい、ですか?」

「そうだ、大いにな、おれたちは」

「わたしも同じです」

「何のためだ、え?」

「利益です」

 短いやり取りの間に、ニックは時間と力をともに得ていた。賊の顔をうかがいながら、自分を取り囲む男たちの強さを見積もっていたのである。

 彼は逃走の決意を固めていた。頼みの綱は類稀なその強さと敏捷性だった。

 彼はまだ床の上に伸びていたが、事情はいささか違っていた。というのは、彼の筋肉は活気を取り戻していたので、そんな姿勢でいるにもかかわらず、椅子の上から飛び出すのと変わらないほどすばやく立ちあがる準備が整っていたのである。

 キャプテンが腕時計をちらっと見た。

「事の次第をぜんぶ吐いちまうか、それとも死ぬのか、決めるのに一分やろう」とキャプテンは言った。「おまえら、ナイフを抜け、おれがこのハンカチを落としたらデカをさっさと片付けちまえ」

 五本のナイフが一斉に光を放った。

「15秒」とキャプテンが言った。

 ニックの目は顔から顔へ、最初の攻撃先を物色しながらさ迷った。

「30秒」

 ニックはまだ沈黙を守っている。その間にも悪漢たちの、ニックに襲いかかり切り刻む瞬間への熱望は高まるばかりだった。

「45秒」

 聞こえるのはキャプテンの手に握られた腕時計が時を刻む音だけだった。

「50秒」

 ついにニックが動いた。

 電光石火のごとく彼は立ち上がった

 彼の拳が砲弾のように炸裂し、他の連中より少し先んじていたジョンが、打たれた雄牛のようにひっくり返った。

 気の荒い獣たちの咆哮にも似た怒号とともに、他の連中がいきがったナイフと残忍な心に任せて突進してきた。

 しかしニックが彼らの敵でないことは相変わらずだった。

 その足がぱっと上がると、先頭の男の手にあったナイフは叩きのめされた。拳がそれに続き、男は仲間のところへ飛ばされた。悪漢たちはあっという間に混乱をきたした。

 ニックはこうして得た優勢に乗じた。

 彼は前に躍り出ると、殴り飛ばしたばかりの男をわしづかみにした。

 ついで男を赤ん坊のように床から持ち上げた探偵は、再び襲いかかろうとしていた連中に向かって投げつけた。

 人間ミサイルが敵に命中すると、悪漢のうち三人が草刈り鎌に払われたかのように転倒した。

 四人目はキャプテンだった。

 ニックの前に飛び出したキャプテンは、目の前にいるのが他でもない小さな巨人、ニック・カーターだと確信したことで、二重の怒りに満たされていた。

 ところが、ニックは彼に歩み寄っていった。

 目にもとまらぬ早業によってナイフを握る手がつかまれた。

 そしてありったけの力でキャプテンの手首をすばやく後ろに折り曲げた。

 パイプが折れるような音がして、キャプテンの痛々しい悲鳴が上がった。

 ニックの左腕が振られ、容赦なく力を込めた拳が男の鼻を正面からとらえた。

 今こそうってつけの潮時だった。

 彼は背を向けると、昇降口へひとっ跳びした。

 ハッチは閉ざされ、しっかり留められていた。しかしここでも並の敵では及ばぬ彼の力が証明された。

 あっという間にハッチを破って闇の中に跳び出した。二丁の回転式拳銃(リボルバー)の銃声がそれに続き、二つの弾丸の反響が耳に届いた。

 しかし彼は無傷だった。

 暗黒界(エレボス)のごとき夜の闇の中、彼は前方へ跳躍すると、スループの甲板上にひっくり返されている小さなボートの陰にうずくまった。

 男たちが彼をつかまえようと、甲板へうなされるように飛び出してきた。

 中の一人は知恵を回して点灯済みの半球レンズ付ランタンをつかんできていた。男はそれで船の周りの水面を光が届く限りくまなく探した。

 当然ながらニックの姿はどこにもなかった。

「甲板を探すんだ」と一人が言った。「船外には行ってないはずだ」

「ここにまだいるだって? とんでもない!」

「あいつはおっかねえやろうだ、だろ?」

「明るくしたってあのやろうには無駄だ」

「やつは何者なんだ?」

「いいか、トニー。あんなまねができるやつはニューヨークにたった一人しかいねえ、ニック・カーターっていう若い悪魔だ」

「あっ! 例の小さな巨人か」

「それがあいつだ。やつが首を突っ込んできたんだ」

 トニーと呼ばれた男は声を出してくすくす笑った。

「おれの出番ってことか、え、モーガン?」彼は言った。一方、ニックは男の声に表れた歓喜が帯びる震えに気づいた。

「ああ──おまえのひものな」

「あれがなきゃ始まらないぜ、モーガン。インドで使った時間は無駄じゃない、人殺しにひもほどうってつけのものはないんだぜ。レッド・マイクを覚えてるか?」

「うおーい」とモーガンが言った。「びっくりさせるなよ、トニー。おれは人を刺したり、鉛の塊をぶち込んだりするのは平気だがよ、おまえのひもが誰かののどに巻きついて舌や目玉が指みたいに飛び出てくるのは、遠慮しとくぜ」

 低音の笑いがトニーの返事だった。そして二人は甲板の探索を始めた。

 しかし、二人はニックがまだ船にいるとは思っていなかったため、見つけられると期待していなかった。探索は本気とはいえず、刑事がボートをぐるっと回りながら彼らの視線をよけるのはたやすかった。

 ランタンから放たれる光は向けられた一点に注ぐのみで、周囲の闇をかえって際立たせるばかりであった。

 これはニックにとって大いなる便宜だった。彼はそれを最大限利用するのを怠らなかった。

 殺人に絡んだ言葉を最初に耳にした時、彼はその会話に釘付けになった。そして男たちから発せられたその後のせりふから、トニーが絞殺犯だということが明らかになったのである。

 トニーが風変わりでなおかつ恐ろしい武器の使用術を学んだ場所としてインドを口にしたことは示唆に富むものだった。

 猫のようにひそやかで、運命のように決定的、かつコブラのように危険な奇妙なその一派については誰もが知っているものである。

 ユージニー・ラ・ベルデは絞め殺された。彼女の殺害事件とニューヨーク湾に浮かぶスループを密会の場とする悪人たちとの間に、何か関係がありはしないだろうか?

 47番街で起こった犯罪の手がかりをニックは最も思いがけないところで発見したということなのだろうか?

 いずれにせよ、彼はトニーという男の観察、そして五人の男の目的のさらなる探索に意識を注ごうと決心した。


第7章
絞殺犯の脅し


 探偵は完全に逃げ失せてしまったのだと納得したトニー、モーガン、そして仲間からクラフティー(ずる賢いやつ)と呼ばれている男の三人は帆船の船室に戻った。

 ニックは彼らの後にくっついて、昇降口へ、さらには話し声をすっかり聞ける所まで近づいた。

「どうした?」三人の男が甲板から戻って来るとキャプテンはこう問いただした。

「逃げられました」とモーガンが簡潔に答えた。

「どうやって?」

「飛んでったんでしょう。気配すらなかったです」

「みろ!」と、キャプテンは右腕を持ち上げた。手首は格闘の際ニックに折られている。「おれの手首は折れてる。この落とし前は必ずつけてやる。あいつが何者なのかわかってるのか、トニー?」

「モーガンが教えてくれました」

「なんていってた?」

「小さな巨人だ、と」

「わかった。そうにちがいあるまい。おれはそいつのことをしょっちゅう耳にしている、だが見たことはなかった。トニー、あいつには消えてもらうしかない」

「おれの手で?」

「ああ」

「いつ?」

「今すぐ。なるだけ早い方がいい」

「じゃあ、明日に」

「ふんっ! 一週間以内にあいつを叩きのめせたら、おまえに一千ドルやるよ」

「まかせてくれ、キャップ。やつは死んだも同然だ。ひもがおれを裏切ったことはない。あれで倒したやつは一人じゃない、やつらが苦しそうにあえぐのを見るのは大好きだ」

「風はどうだ?」とキャプテンはぶっきらぼうに聞いた。

「まったくありません」とモーガンが答えた。「雨のせいですっかり静まり返ってしまいやした。今夜隠れ家に着くのは無理でしょう」

「なら陸(おか)に上がろう。シンダールが待っている。行くぞ」

 ニックはそれ以上話につきあうことはせず、ボートに急いで戻り、もやい綱をほどいた。

 滑るように離れようとすると、帆船の船室から甲板に上がってきた男たちの低いささやき声が聞こえてきた。

 まもなく穏やかな水しぶきが上がったが、ニックは、彼が隠れていたボートを男たちが押し出して彼の探索にいきり立っているのだと理解した。

 彼らが付近の岸に集合場所をいくつか持っている以上、どんな危険を冒そうとも悪党たちを追跡してやろうとニックは決意した。

 オールが一本ついたボートのともに立ち、彼は影のようにひっそりと舟を押し出すことができた。その間、悪党たちが漕ぎ出せばオールの音をたどることができると読んでいたのだった。

 彼は正しかった。

 男たちはボートに乗り込み大急ぎで漕ぎ出した。彼らを追跡する間ニックはオールを漕ぎ彼らと同じ速度を出した。湾に伸びる長い桟橋が近くなると、彼らはそこに一直線に向かった。

 男たちのオールが立てる水音がやむと、ニックも動きを止めた。悪党たちが桟橋の下に入ったのはわかっていた。

 少したってから彼は両手漕ぎで慎重に前進した。

 ボートが桟橋に着いた。オールを引き入れると、彼は厚板(プランキング)に両手をかけてボートを前に押し出した。

 桟橋の真下まで来ると、止まってまた耳をそばだてた。

 死の静寂と三途の川(スティックス)の漆黒が頂点に達した。

 ニックは慎重に小型の暗い角灯をポケットから取り出し、ばねを押すとスライド部分を開けた。

 光の束が水面を照らし出した。

 男たちが駆っていた、スループから出てきたボートはニックのすぐ目の前にあったが、もぬけの殻だった。

 そのボートは桟橋の横げたに結わえ付けられていたが、ちょうどそこに小さな家が水の中に建っていた。

 男たちが河に飛び込んだとは思えなかった。つまり、小屋を抜ける、あるいはそこからドックへ行く道があるはずだった。

 ニックは自分のボートを前進させた。

 彼が小屋を探索し、丹念に調べていると、何か得体の知れないものが突然彼を振り向かせた。

 その動きが彼の生命を救った。

 火花が散り、大音響がした、と思った瞬間、弾丸が彼の耳の後ろをかすめたのだった。

 彼は弾丸のごとく振り向き、火花が生じた場所へ跳んだ。一瞬彼の目に男の影が映っていたのである。

 彼は怪力を秘めた手で男をわしづかみにしたが、弾丸を放ったばかりの男はそれでも逃げようともがいた。

 ボートのへりの上でニックがバランスを取っているさ中に取っ組み合いが始まった。その直後、二人は河の中で潮に流されていた。

 格闘はすぐに終わった。たった一人でニックに立ち向かうのはどだい無理な話だった。

 水面に出た瞬間、ニックは体をひねって絡みつく相手の腕をかわすと、男の顔に痛烈なパンチを食らわせた。

 たとえハンマーで殴られたとしても、これほどあっという間にのびてしまうことはなかったはずである。ニックはとらえた男を携えて一番近くにある波止場まで静かに泳いでいった。

 波止場に着いたニックは、厚板の上に男を引き上げ、スリのような手慣れた動きで男の持ち物を探った。

 彼の興味を惹くものはなかった。そこでドックに男を残し、息を吹き返す、あるいは失神したまま発見されるにまかせた。卓越した泳ぎ手であったニックは再び水に飛び込んだ。

 彼は自分のボートを残してある桟橋にまっすぐ向かい、無事たどり着いた。と同時に、ボートを調達した桟橋に向かって出発した。その夜さらに調査をするには、守備についている男たちの数が多すぎると思ったのである。

 陸に上がると、フェリーに急ぎ、ニューヨークを横断し、高架鉄道に乗った。

 彼の行き先は47番街の家だった。

「あの男たちはユージニー・ラ・ベルデの死について何か知っているにちがいない」と彼は考えた。「そして、あのトニーは他の連中よりもさらに詳しく知っているはずだ」

「議論をするならその前提として、トニーが犯行当夜あの屋敷に赴き、ひもで少女を絞殺したということにしよう」

「もし彼がやったとすると犯行の動機はなんだろう?」

「連中はバレエダンサーを殺して何を得ようとしたのだろうか? 金や宝石でないのはたしかだ、両方とも化粧だんすの上にたっぷり残されていた」

「外の通りからどうやって家に侵入し、出て行ったのか?」

「キャプテンは明らかにアメリカ人だが、ユージニーの死によって得をするというのか?」

「あの連中は今、警戒態勢に入っている。わたしが彼らを追っていることを知っているから、トニーがわたしの首に死のひもを首尾よく巻きつけない限り、普段より用心深くしているだろう」

 彼はほどなく47番街の家に再び足を運び入れた。ほかでもないユージニー・ラ・ベルデが突然のしかも謎めいた結末に出遭った場所である。

 家に入ると、彼はユージニーの部屋にまっすぐ向かった。

 敷居をまたぐ時、女性が床を横切る時に服が床にこすれて出る音に似てなくもない摩擦音が聞こえたような気がした。

 彼ははっと立ち止まり耳をそばだてた。

 また音がした。

 小型角灯をさっと前に出した彼はボタンに触れ、ほのめく光を部屋に投げかけた。

 廊下に身を置いたまま、彼は光線を至る所に投じてみた。

 部屋には誰もいなかった。

 ひとまず手短な探索で納得したニックだったが、物音を聞いたという確信には揺らぎがなかった。

 なんだったのだろう?

 敷居をまたいだ時に人がいたのだろうか? もしそうなら、その人物はどうやって部屋から立ち去ったのか?

 彼が聞いた物音はネズミの類が立てるようなものではなかった。

 監視を逃れたがっている人間が部屋に住みついているとした場合、その人物はなぜニックが下の階にいる間に逃げないで、彼が部屋の入口に立つまで待っていたのだろう?

 おそらく彼が入った時、眠っていたアパートの居住者がちょうど目を覚ましたのだろう。

 不思議に思いながらニックはベッドに近づいた。彼が中に入った時、部屋にいたのは人間ではないような奇妙な感覚が彼を襲い、しかも彼の知性もまたその説を支持したからであった。

 いきなりガスランプを点してからベッドの方に振り返った彼ははっとした。

 彼の目の前にあったのは、彼がその場所を去った後に、誰かあるいは何かがその場所にいた証拠だった。

 彼は以前訪れた時に枕がどのように置かれていたか完璧に記憶していた。しかし今は枕の位置が変わっていた。それ以前、枕の一つはベッドの足元近くに、もう一つは床の上にあった。

 それがまるで使用されたかのようにくっついている。


第8章
“影”との闘い


 その夜、ユージニー・ラ・ベルデの部屋の敷居をまたいだその時に、どれほど近く死の間際にいたのかを、ニックはしばらく後まで知らずにいた。

 それにもかかわらず、その場の調査を行い、枕を点検するうちに奇妙な考えが彼の心に浮かんできた。

 彼はまた、憶えのないおかしな匂いにも気づいていた。それは彼の神経を刺激し、なんとも言いがたい感覚を引き起こした。

 床の上にあった枕は、人が寝心地をよくするために行うような具合にたたかれていたふうに映った。しかしベッドの方は最近使われた様子などなかった。

 男または女がこの場所にいてベッドに寝そべったのなら、その事実を印す証拠がなにかしら残されるであろう。しかし何ひとつないのであった。

 当初の意図としてニックは家の迅速な調査をすませて帰宅し、翌日まで休息を取るつもりだった。

 ところがこの時、彼は心に引っかかりを感じた。

 やがて彼はゆっくりと階段を下り、正面のドアを開閉したが、外に出ては行かず、静かに階段の足元に戻って聞き耳を立てた。

 一時間、身動き一つせずにじっとしていたものの、人間の存在を明らかにする物音はまったく聞こえなかった。今夜これ以上待っても収穫がなさそうだと納得した彼は、ようやく家をひっそりと後にして、家路についた。

 ニックが自宅近くにやって来た時、道路の反対側で黒い影がかすかに動くのが彼の注意を引いた。

「誰かがこっちを見てる」彼は心の中でそうつぶやいた。「トニーなのか、ひもを持っているのか? そうなら、早かったじゃないか、やつがここに早々とお出ましになるってことは、47番街で聞いた音の説明になる。もし首絞め犯だったら、夜明け前にちょっとからかってやろう」

 彼はまっすぐに自宅の階段を上って中に入った。

 ニックの住まいがどこにあるのかは広く知られていたが、彼がその真裏にある、他の通りに面した家も所有していることは誰一人知らなかった。

 その家は彼がしばらく前に購入し、人に見られたり尾行されたりする恐れなしに本来の家に出入りできるよう整えてあった。

 だが、たった今望むのは、彼がニック・カーターであることをトニーに知らしめることだった。

 自分の部屋にかけ込んだ彼は、濡れた服をあわただしく脱ぎ、ポケットに必要な物をいくつか入れると、再び外に出ていった。

 道路を進むと、間もなくトニーが後をつけているのがわかった。そこで彼は本格的に行動を開始した。

 三番街に急ぎ足でやって来ると、彼は階段を駆け上がり、下り列車をつかまえた。ちょうど駅から出ていくところだった。

 トニーも走らざるをえなくする狙いだった。絞殺犯と“じゃれる”その真意は、男の顔をしっかり見ることにあったのである。

 確かに、ニックはすでに男を帆船(スループ)の船室で、あの騒ぎの時に見ていた。だが、男たち全員を一斉に見た中でどれがトニーであるかは知らずにいたのだ。

 ニックは彼の“影”が走っているのを見た。男は交通規則を無視し、押し戻そうとする警備員もそっちのけで、すでに動き出している列車のデッキに跳び上がった。

 探偵は列車内を後方へ移動してトニーが物静かに座っている客車にやって来た。

 絞殺犯の真向かいに席が空いていた。ニックはそこに座り、目的の隠蔽に苦労せずに男の顔をつぶさに見ることができた。

 列車がヒューストン・ストリートに着くと、ニックは立ち上がって下車した。

 トニーもそれに従った。

 ニックは階段を下りて路面客車に乗り込んだ。

 トニーもそうした。

「生意気な!」とニックはつぶやいた。「やつはわたしのことを馬鹿だとおもっているのか? よし、もうこれで十分だ、あいつをまいて家に帰ろう」

 14番街まで乗り続け、そこで下車した彼はモートンハウス・ホテルまで西へ進んだ。

 彼はブロードウェイと14番街が交差する角を曲がった。トニーとの距離は約二百フィートである。

 その距離はたっぷりとは言えなかったが、十分だとは言えた。

 角を曲がるやいなやニックは早変わりを始めた。

 二十ヤードも行かぬうちに彼の身なりはすっかり切り替わっていた。

 それは若者からかなり年のいった老人への変身だった。あっさりした口ひげは、雪のように真っ白なグリーリーばりの頬ひげに取って代わられていた。かぶっていたダービーハットは消え失せて──それは“押しつぶす”感じだった──代わりにつば広のフェルト帽が乗っかっていた。手にしていたしゃれたステッキは分解されてポケットに突っ込まれていた。鼻には眼鏡が添えられ、歩き方も長年リューマチの痛みに苦しんでいる人のおずおずとしたものになっていた。

 変身に要した時間は一分にも満たなかった。そしてそれが完了するやいなやニックは踵を返し、来た道を引き返した。

 彼は角を曲がり、サード・アベニューに向かって歩いた。

 トニーと出くわし、そのまますれ違った。その時、絞殺犯が足取りを速めるのを見て取った彼は笑みをこぼした。

 通りすぎる際、相手に触れられるほどだった。しかも、彼はあまり紳士的ではないまねに打って出る誘惑に駆られた。

 しかし実行しなかった。ほどなくトニーは角を曲がり、見えなくなった。

「今夜あいつには用なしだ」とニックは考えた。「さあ、家に帰って寝るとしよう」

 三番街に来た彼は客車に乗り込み、家の近くの角で下りた。

 そして彼は立ち止まった。愉快そうな笑みが彼の顔に浮かんだ。

 彼の到着を待ちわびている様子でトニーが町角に立っていたのである。

「こいつは思ったよりも賢いな」とニックはつぶやいた。

「おれの変装を見破ったのか、それとも元の姿で現れるのを期待してここで待っているだけなのか?」

 彼は再びトニーを通りすぎたが、相手は彼に目をくれなかった。

 道を進みながら、彼はまもなくポケットから小さな鏡を取り出し、体の前に掲げた。

 鏡は背後でひたひたと忍び寄ってくるトニーの姿を映し出した。

「この悪党は今夜自分のゲームをやらかすつもりだ」とニックはつぶやいた。「一日あたりのお代が高い薬を与えなくてもうまくやってほしいもんだ」

 トニーはどんどん近づいてくる。

 ニックはまだ鏡を持っているので、殺人志望者の蛇のようなこそこそした動きがわかった。

 歩きぶりから男の熱気みたいなものも見て取れた。まるで殺人へ向かう情熱を、それが満たされた時にだけ抑えられる、血に飢えた人間のようだった。

 距離がどんどん縮まってきた。

 二人はブロックづたいにある場所にやって来た。そこは彼らがすでに通りすぎた場所よりも闇が濃かった。

 突然トニーが前に飛び出し、猫のように駆けて来た。

 それと同時にニックは振り向いた。

 彼は身をかがめたかと思った瞬間、横にさっと跳んだ。

 ちょうどその時。

 空中にヒュッと怒気をはらむ音がした。ニックの首に巻きつかせようと絞殺魔がひもを使ったのだ。

 すばやい跳躍でニックはトニーの脇に立った。

 ニックはトニーをつかんで歩道に投げつけようとしたが、トニーはウナギのようにすり抜けてしまった。

 またヒュッとひもがしなった。ニックは今度もかろうじてこの奇妙な、しかし恐るべき凶器をかわした。

 男の強さ、すなわちひもがいったん首にかかったら助かる見込みがないことを探偵は悟った。

 彼はもう一度トニーに向かって跳躍した。もう一度トニーをつかんだ。今度はさっきのようにすり抜けられなかった。

 ニック・カーターに同じ技を二度使うのは無理だった。

 しかし男をしっかりつかんでいるニックの耳に大きな摩擦音が聞こえてきた。おまけになんとも毒々しい匂いがあたりに充満したのだった。

 それはコブラの持つ息が詰まりそうな匂いだった。ひらめきのようにニックは直感した。この男は蛇使いで、そのペットが彼を守っているのだと。

 ニックはトニーを放し、後ろにぴょんと跳んで危険から逃れた。

 そしてその拳は男の眉間を直撃した。


第9章
悪党のたくらみ



 言うまでもなく、絞殺犯トニーは銃で撃たれたかのようにニック・カーターの拳の下に倒れた。

 立ち上がろうとすることもなかった。強烈な打撃が男を死者のごとき無意識に陥らせていた。

 近づいたニックは男の様子をうかがった。しかし怒りに満ちたシューという音が間近に迫るなと警告を発していた。まもなくして二つのビーズのような眼が火花のように輝き、絞殺犯の胸の上で体を揺らめかせた。

 死の予感を漂わせるコブラの姿だった。蛇の知恵を働かせて、主人が傷を負っていることを察知したのだ。

 ニックは身震いして顔をそむけた。トニーがまもなく息を吹き返すこと、蛇が主人の元を離れないことも分かっていた。

 しかし誰かが通りかかり、のびているトニーの体を起こそうとしてコブラにかまれる恐れがあった。そこで彼は目前の出入り口に飛び込み、様子を見た。

 幸運にも誰一人やって来なかった。しかしやがてトニーが意識を取り戻した様子を見せ始めた。

 しばらくするとトニーは立ち上がり、無造作に頭をなでた。自分の居場所とそこにいる理由をいぶかしく思っているように見えた。

 記憶が一挙に蘇ったようだった。トニーはすばやく立ち上がると急ぎ足で出発した。

 ニックは再び変装をしながら後をつけた。

 逸することは許されない絶好の機会だった。

 明らかにトニーは車を必要としていなかった。47番街からイースト・ヒューストンまですべての距離を歩いて進んだ。

 ジョーク通りまで進んだところで、トニーは急に高層の汚いアパートの入口に飛び込んだ。そこは最も低級なアパートだった。

 ニックは遠からぬ距離を置いていた。

 絞殺犯はアパートの最上階まで登ったが、ニックは影のように静かな物腰で従い、遅れを取らなかった。

 トニーがくぐったそのドアに彼は近づいた。閉められるやいなや、だった。そして即座に耳を鍵穴にあてた。

「おい!」返事を求めるジョンのしゃがれ声が耳に入った。「してやったのか?」

「いや」

「なぜだ?」

「これが答えだよ!」トニーは眉間の打撲傷を指差した。

 ジョンは声に出して笑った。

「おまえのひもがしっくりこないやつを見つけた、だろ?」彼は冷やかした。

「おまえにはしっくりいくぜ」含みのある返事だった。そしてそれは明らかにジョンに対する効果をもたらした。ジョンはそれ以上冷やかさなかった。

「今夜これからあの刑事を絞め殺してやる、」トニーは続けた。「キャプテンがやつを片づけたがってるんだからな。今度はやつが死ぬまでつきまとってやるぜ、なにしろやつはおれをぶったたきやがった──おれを負かしやがった」

「やつはおそらく、おまえがひもを全然かけられないほどすばっしこいだろう」

「そんときは別の手がある、もっと確実だ」

「どういう?」

「見ろ!」

 大きな摩擦音を聞いたニックは、トニーが胸元からコブラを取り出したことを察した。

「ウワッ」とジョンが声を漏らした。「そいつは大嫌いだ! なんだってそんなものをここに持ち込んだんだ?」

「コブラはいつだっておれと一緒だ。おれたちはけっして離れることはない」

「ウワ! ヒャッ! おいトニー、おれは蛇を食ったことがあるんだ、だけど誰が年がら年中食えるかってんだ。好物じゃないぜ」

「そんなもん、これとは種類が違うだろ」

「いや、おれのはほとんどが緑だったし、頭が七つあるのもいたんだ。いいか、それをあっちにやれ、でなきゃ、また食っちまうぞ。そいつは体中震えがくるんだ」

「おまえは馬鹿だな、ジョン!」

「なぜだ? 蛇が嫌いだからか? たぶんそうだろ、だが、それは人それぞれだろ……ところで、おまえのその可愛いペットはかなりの見物だが、ひもが効かなかった時、それを使ってあのデカをどう始末するのか教えてくれよ」

「こいつは使わない、これに似た別のだ」

「もっといるのか、おい?」

「たくさんいる。それをあの刑事の家で放すことより簡単なことってあるかよ?」

「いやはや! そいつは妙案だ!」

「コブラにガブッとやられたらイチコロだ」

「しかし、おい!」

「うん?」

「他の人間もかまれちまうんじゃないか、ちがうか? 家族全員が、えぇ?」

「問題あるか?」

「いや、べつに。ちょっと気になった、それだけだ」

「あの刑事が死ぬんなら、一緒に何人死のうがかまうものか。あいつは死ぬべきだ」

「握手だ、トニー」

 二人の男が手を握り合い、死の盟約に調印した。

「いつやる気なんだ?」とジョンが続けた。

「ひもをもう一度試す。それがまたしくじったら、今度は蛇だ」

「家に入るのか?」

「おれが入り込めなかった家を見たことあるのか?」

「ない」

「ただ、玄関のドアを開け、バスケットのふたを開けてから中身をそっくり投げないといけない。ガタガタいわしてたたき起こしたりしたらコブラが怒り出す。コブラたちははい出して家中に散らばる。ベッドがあればそこにもぐり込む。人がいたなら好都合だ、ぬくいだろうからな。コブラに巻きつかれた人間が身動きした場合も、コブラは腹を立てるだろう、なにしろやつらはかんしゃく持ちだから。睡眠中に寝返りをうってコブラの上に転がるかもしれない。その時はコブラにかまれる時だ。目を覚ましてベッドを離れようとするかもしれないな──その場合コブラは人間に逃げられる前におのれの仕事を果たす。急に起きて、揺れ動く頭と矢のような舌、輝く二つの眼を鼻先で目にするかもしれん。そして恐怖のあまり叫び声を上げ、逃げ出そうとするだろう。その叫び声、逃走の企てが命取りなんだ。命拾いする唯一の方法は物音一つ立てずに目を閉じていることだ、だがそんな度胸のあるやつがどこにいる? おまえはどうだ?」

「だめだ、そんなことをしたら呪われちまう」

「次に蛇を食うとき挑戦してみろよ、ジョン」

「そうするさ、トニー、しかも一匹じゃなく、四千匹食ってやる、しかしおい、」

「なんだ?」

「朝が来たら、蛇以外生き残ってるやつはまったくないよな」

「ああ──皆無だ」

「ウヒャー! おれなら首を吊られた方がましだ」

「コブラたちと仲良くしないと、おまえの望みがかなうことになるぜ」

「そうならんように気をつけるよ。悪気はなかったんだ、トニー、ただおまえが執念深いやつだと思ったんでよ。あの娘のユージ……」

「やめろ! その名を口にするなと何回言わす気だ!」

 怒りに満ちたトニーの声は激しかった。少し間を置いてから彼は続けた。「ジョン、目の前でその名前をもう一度口にしたり、あの娘の死に方に触れたりしたら、おれはおまえの顔にコブラを投げつけて襲わせるぞ。覚えておけ、おれは本気だぜ」

「わるかった、トニー。うっかりしてた」

「くれぐれも忘れるな。シンダールはしないぞ。おら! いらないならその瓶をよこせ」

 しばらく静寂が続いた後、ジョンの声が問いかけた。

「‘巣’にはいつ行く気だ?」

「あの刑事、ニック・カーターが死ぬだけの余裕を見てからだ」

「承知したぜ!」

「あの野郎にいちいちつきまとわれてちゃなんにもできやしねえから」

「見かけによらず野郎はおっかねえ」

「ああ、あいつには三人分の力がある」

「三人? 十二人ならとんとんじゃないか。あいつは火花のようにすばしっこいし、怖いもの知らずだ」

「やつはすでに審判を受けているんだ」

「そうだな、おれはニック・カーターでなくジョン・クリスピーでよかったぜ。今夜やつとはどこで顔を合わす気なんだ?」

「やつの家でだ。あいつは中に入った後、また出てくる」

「あいつが外に出てこなかった場合は?」

「おれが入る」

「そしてベッドの中にいるあいつを絞めるんだろ、なっ?」

「そのとおり」

「それがおまえの一番お気に入りの方法なんだろ?」

「一番気に入ってるさ」

「いつまた仕掛けるつもりなんだ、トニー?」

「やつがベッドで眠りについたと踏んだ時だ。いったんはやつの自由にさせておこう、だが、今夜過ぎればあいつが目を覚ますことはもうないだろう。おれはすばやく、しかも音をたてずにやつを絞める。苦しみのあまりやつが誰かを起こさない限り、ベッドの横に人がいたって何が起きたのかわかりゃしない」

 その後、会話が二言三言交わされたが、二人の悪党はまもなくベッドに身を投げてぐっすり寝ついてしまった。

 ニックはようやく耳を離し、家路につく気になった。

 ただ、彼の胸はエセルを思っての不安感に満たされていた。

 彼自身についての危惧はなかったが、トニーの脅し、家にひそむコブラから予期される結末の生々しい描写を思い起こすと、それまで彼が身を晒し続けていた危険以上のものを痛感せざるをえなかったのである。

「まあ、いいさ。転ばぬ先の杖だ。」彼はつぶやいた。「それにわたしやわたしの愛する妻が絞殺魔トニーの犠牲になる運命であるはずがない。トニーは明日早朝やってくる、準備を整えなくては」

 彼にぬかりはなかった。

第10章
謎解き



 翌日、ニックは調査を続けようと47番街の家に再び足を運んだ。この事件に必要な証拠の欠くべからざる部分が、殺人者が家に入り、出ていった方法の説明になると理解したからである。

 すべてのものがこの前の夜のままになっているのを彼は確認した。

 彼が敷居をまたいだ時にその部屋に人がいたとしたら、それが誰だろうと、戻ってくるのは愚かなことだと考えるにちがいない。

 刑事はただちに地下室へ行き、秘密の通路を見つけようと徹底的な調査を開始した。だが、むなしく一時間が過ぎた後、以前彼を悩ませた階段の調査に再び取りかかった。

 重大な発見は偶然によることが多いが、それはこの事件においても同じだった。

 彼は階段の下側を調べる間足場にする箱を用意した。しかし実際に置いてみると、しっかり安定させることができなかった。しかもそのせいで彼が作業に集中している時に箱がぐらっと倒れてしまったのである。

 バランスを崩し、倒れそうになった時、ニックは体を守ろうと両手をとっさに上げた。すると、手の中に2×4インチの木材が握られていた。それは階段を補強するために設置されているように見受けられるものだった。

 しかし、その木は固定されたものではなかった。つかむとぐらぐらするが、落下を防ぐための信頼性は十分にある状態だった。

 飛び降りた後、彼は再び箱を置いて上がってみた。

 探索の必要性は、しかし、終息していた。

 木の棒を取り除いてみると、ごくふつうのつぼ釘と掛け鉤(かぎ)があり、それが移動可能な階段をその場に固定させていたのである。彼がその掛け金を外すと、階段が期待したとおりに動いた。

 これなら地下室から居間のある階へドアを通らずに行くことは可能だった。

 この発見はニックを満足させるものだった。そして見つけるべきものはもはや表通りに続くこのような抜け道だけだった。

 しかし一時間経過するたびに、なおも探索を続ける彼の姿があった。

 とうとう彼は顔をそらせた。その時、上の床を支える柱の一つの位置がおかしいことに気づいた。

 それを整えることはかなわなかった。そこで彼は手を伸ばして勢いよく引っ張ってみた。

 一番上の部分が動くことを発見した彼は驚きに打たれた。

 引っ張ってみると、その木材がレバーの役割を果たしているような確かな手ごたえがあった。背後では、小さな鉄製の輪の上で何かが動いているような、小さなきしむ音が聞こえてきた。

 振り返り、壁沿いにライトを照らしてみたが、何もなかった。

 それにもかかわらず、彼はレバーを完全に引っ張りきり、おもりをそこに置いて下に押さえたままにし、その間に仕掛けだと確信した物の隙間を探した。

「あっ!」

 喜びに思わず声を漏らし、彼は動きを止めた。

 目の前、壁近くに地下室の入り口があった。

 この階に敷かれている石の一つが五フィート近く沈み込み、彼が十分に入っていけるほど大きな口が開いている。明かりで照らしてみると地下室が見え、それが表通りへ続いているのも発見できた。疑いの余地なしにこれこそ彼が探し求めた秘密の入口であった。

 ニックは念のため、姿を現した不気味な隙間を降りる前にレバーにおもりを加えた。

 そして薄暗いランタンを手にして中に入った。

 通路は背をまっすぐ伸ばせるほどの高さがなく、幅もようやく通れるくらいだった。

 通路は表通りの方向へ対角線をなして約二十フィート続いた後、いきなり終わった。

 彼は目線を上げた。

 頭の上にあるのは屋敷の正面のドアに続いている石段だった。

「階段のドアがもっとある」彼はつぶやいた。「これはうまく隠せるものじゃない」

 そのとおりだった。

 戸を留めておくのに使われるふつうのかんぬきが一つあり、それはたやすく動かすことができた。実際にそうしてみると、外から動かせるようになっていることに気づいた。

 つまり、次のトゥーピースの一部が削り落とされているので、そこへ小さな鉄棒を突っ込めば留め具を動かせるのである。

 まず彼は石を押し上げようとしたが無駄だった。

 それから自分の方へ引き下げようとしたが、頑として動かなかった。

 ただ縦にずらすという方法が一つ残っていた。

 その努力はすぐに報われた。

 石は少しの抵抗もなく簡単に動き、平均的な大きさの男なら十分入り込めるだけの隙間ができた。

 ユージニー・ラ・ベルデが絞殺された際、殺人者が屋敷に出入りした方法がとうとう発見された。

 事件のあの部分がもはや不可思議ではなくなった。

 通りはまだ昼明かりだった。ニックはあわてて隙間を閉ざしたが、必要あらば外から開ける術はすっかり頭に入っていた。

 彼は地下室に戻り、レバーの上に置いていたおもりを取り除いた。

 意外なことにレバーは下がったままだったが、これは彼の予想通りだった。

 それからもう一度秘密の通路に足を運んだ。

 そこで石を引き上げ、元の位置に戻した。

 その下側に取っ手があった。

 彼はそれをつかみ、引っ張ってみた。すると石が手の届く位置に下りてきた。

 秘密は今や完全に彼のものだった。

 彼は秘密の通路を難なく往復することができた。

 謎はもう謎ではなかった。

「私はもう、トニーこそが殺人犯であり、物語全体が私の手中にあると自分自身に納得させるだけでいいんだ。ただ、動機を見出さねば、」と彼は思案した。「あいつらはなぜユージニー・ラ・ベルデを消し去りたいと思ったんだろう? 解くべき謎がもう一つ残っている」

 地下室のある階への入口を隠す平たい石はレバーで動かせたが、これは長い鉄の棒と二つの歯車の力を借りていた。

 それは巧妙な機械装置であり、誰が設計したにせよ強い動機の持ち主にちがいなかった。

「もうここですることは何もない」と彼は考えた。「家に帰ろう」

 彼が体を起こし窓辺に寄り、鼻歌のように口笛を小さく吹きながら物思いにふけったのは、帰宅して一時間ほどたった頃であった。

 突然彼ははっとした。

 暗闇が街全体を覆い尽くしていた。そして、向かいの空き家の出入り口に半ば身を潜ませているのは絞殺犯トニーだった。

「やつのことをすっかり忘れていた、」とニックは考えた。「だからといってあいつがつかまらずに逃げ失せることにはならない。やつ、コブラ、何もかもつかまえて警察本部に連行してやるつもりだ。すきがあれば、やつは家を蛇だらけにするはずだ。私はそれを望まない、特に私の留守中には」

 ニックはしばし窓辺に残り、物思いにふけった。

 突然彼は笑みをこぼした。よい考えが浮かんだのである。

 彼は電話機に近づき、バーンズ警部にかけた。

「男を一人あなたの元に届けるつもりです、その男を必要になるまで預かってほしいんですが」電話が通じるとすぐに彼は言った。

「わかった」と警部は答えた。「そいつに関してどういうことがわかっているんだ?」

「やつが殺人犯であるのはわかっています、もしかするとこの事件の犯人ではないかもしれませんが」

「どっちにしたってそれがそいつの性分なんだろ」

「というより、いいですか!」

「うむ」

「こいつは蛇使いなんです。やつをぶち込むには、やつが連れているコブラを殺さなくてはいけません。一時間以内にモット通りとブリーカー通りの角に二人よこしてもらえませんか」

「わかった。彼らがきみを見分ける方法は?」

「簡単です。彼らは私がまず男を倒すのを目にします。それからやつの上着からコブラがにょきっと頭を突き出すのをはっきりと目撃します。そして私がコブラを撃つのを見るわけです」

「よし。だがコブラの代わりにその男を殺したりしないでくれ」

「大丈夫ですよ」

「男をどうやってそこに行かせるつもりなのかね?」

「やつは今外にいます、私を待ちかまえてるんです」

「きみがやつを中に入れるのを待っているのか?」

「そうです。やつは裏稼業の男です。私をひもで絞め殺す契約を結んでいるんです。だから今、私を追っているんです」

「うむ! よし、そいつを連行してくれ。そいつの顔を拝みたい」

「了解しました。それじゃ」

「じゃあ」

 ニックは受話器を掛けると、急いで姿を少し変えた。

 そして警察本部へトニーを連行する作戦を開始した。トニーを警察の独房に閉じ込めて手出しができないようにするのがニックのねらいだった。

「さあ、心やさしいトニー、やって来るがいい」階段を駆け下りながらニックはそうつぶやいた。「おまえをいたずらができない場所に押し込めないかぎり、私はこの事件にあたれないし、家で落ち着くこともできない。おまえには私の後をついてくるだけの優しさはあるだろうから、道を案内してやろう」

 絞殺犯が彼を追跡する際の利便を最大限約束するために、ニックは高架道路を避け、路面客車を利用した。

 ブリーカー通りとボエリー通りに、ニックとその後をぴったりつけているトニーがやって来た。

 そこで探偵は客車から降り、西の方へゆっくりと、絞殺犯があわてた様子を見せることなく彼に追いつけるように歩いた。

 トニーが近づいてきた。その時間、ブリーカー通りには人影が多く、絞殺犯は獲物を見失うまいとやむなく距離を詰めていた。

 モット通りの角にさしかかった時、二人の距離は十フィートもなかった。

 ニックは縁石に達するまで淡々と歩いていった。

 そしていきなり振り向き、彼を絞める機会をうかがっていた男と対峙した。

 トニーは明らかにこの作戦にびっくりし、とまどった。が、ニックは彼をいつまでも疑心暗鬼の状態にしておかなかった。

 あらん限りの力を込めた探偵の拳が勢いよく放たれた。

 そんな一撃に耐えうる者はいなかった。

 銃で撃たれたかのようにトニーは卒倒した──まず頭が歩道に打ちつけられ、一瞬で意識を失った。

 わずかな間もなくニックが予想していたことが起こった。

 コブラが頭巾をかぶったようなおぞましい頭を、失神した男の胸の上で威圧的にもたげ、時計の振り子のように揺り動かしているのだった。

 騒ぎの兆候に集まってきていた数人の通行人たちは蛇を目にしたとたん恐怖を覚え、後ろに飛びのいた。

 ニックは手を振って彼らを後ろに退けると、回転式拳銃(レボルバー)を抜いた。

「やめろ!」群集の一人が叫んだ。「その男を殺す気か」

 しかしニック・カーターはそんな結果を心配するには及ばないほどの腕前を持っていた。彼は蛇の頭を貫通してもトニーには当たらないように低くかがみこんだ。

 周囲の人々への危険が皆無であるのを彼はひと目で見極めた。

 突然、閃光と大きな銃声が起こった。

 蛇は、頭を撃ち抜かれ、体をねじってのた打ち回ったあげく、トニーの服から解放された。

 蛇が歩道の上に出ると、年齢の様々な男たちがそれに飛びかかり、棒切れや舗装の石で、原形を留めないほど叩きのめしてしまった。

 野次馬がなおも動物を滅ぼしている間に、二人の男がニックの元に歩み寄り、指示を仰いだ。

「あいつを拾い上げて連れてってくれ」と、ニックはトニーを指しながら言った。

 男たちは躊躇した。

 彼らはトニーの服の中にひょっとするとまだ蛇が潜んでいるのではと考えたのだった。

 わずかな言葉が彼らを安心させた。トニーはほどなく警察本部の独房にしっかり監禁され、その間にニックは警部と密談を果たした。

 しかし彼は長居はしなかった。これまでに上げた成果の概略を警部に伝えただけだった。

「きみはすばらしいやつだ、ニック」警部は惚れ惚れしながらそう言った。「ピーナッツ売り場のランプしか明かりがなかったのに、すばらしい射撃だった。これからどうするんだ?」

「わかりません。それではこれで。あの男をしっかりつかまえておいてください、後で必要になるんです。時間があれば明日立ち寄ってやつと話すつもりです」

 ニックはあわただしく場を辞し、急いでゲルク通りに向かった。

 そこでジョンを見つけられる自信が彼にはあったし、ジョンを利用したいという考えもあった。

 目的地の近くに来ると、彼は建物の入り口にしばらく身を隠した。姿を現したときにはもう黒人の姿で、その顔は周囲の闇と区別がつかなかった。

 時はまさに、キャプテンとモーガンがゲルク通りでの密会を終え、ともにヒューストン通りの方へ立ち去ろうというところだった。

 ニックは安全な距離をとって追跡した。

 二人の男は緑の客車に乗りこみ、西42番街の端まで移動した。

 そしてウィホーケン・フェリー(訳注 マンハッタンとハドソン川対岸のニュージャージー州Weehawkenを結ぶフェリー。1700-1959存続。但し西暦2015年現在ウィホーケン及びホーボーケンとマンハッタンを結ぶフェリー船が就航している)に乗ったのでニックも同乗した。

 彼にはついに「巣」に向かっているのだという感覚があった。

 ウィホーケンに着くと、キャプテンとモーガンは人気のない街の中の小さな馬小屋に直行し、一頭のたくましい馬に繋がれた幌なし馬車にすぐ腰を下ろした。

 姿を見られずに彼らを追いかける方法がニックにあるだろうか?

 それは難しい質問だった。ニックも彼らを結局見失ってしまうのかとあきらめかけた。その時、たばこを買いに道を渡る間馬を引き止めておいてくれ、とキャプテンがモーガンに言うのが耳に入ったのである。

 モーガンは馬の鼻先に移動し、キャプテンは離れていった。

 今こそニックのチャンスだった。

 彼は暗闇の中を慎重に進み、馬車の後輪に忍び寄った。

 彼は次に、ニック・カーター並の強さなくしては誰一人成し遂げられないようなことをやってのけた。

 車輪を車軸に留めているナットをつかむと、レンチの助けを借りずにそれをゆるめてポケットにしまったのである。

 そして、影のようにひそやかに後ずさりして姿を再び隠した。

 そこへキャプテンが戻ってきて、モーガンとともに馬車に乗り込んだ。

 彼らは急いで車を出した。ニックも快足を飛ばして追いかけたが、そう遠くに行かぬうちに車輪が外れ、二人が道に投げ出されてしまうことを頭に入れていた。

 ところが、問題の車輪は思いの外長持ちしたといってよい。なにしろ一マイル近く進んでからようやく事態が発生したのだから。

 ニックは一息つく機会を喜んだ。それまで足取りがとても急だったのである。

 馬車の中の二人にとって幸運なことに、車軸が落ちたのは、馬の息を少し楽にしてやろうと速度をちょうど緩めたところだった。

 モーガンは道に落下し、こうむった打撲に大きな罵声をあげた。しかしキャプテンは反対側に跳び出したおかげで無傷のまま難を逃れた。

 それから彼らは車輪を確かめ、すぐに問題の原因を知った。

「いいさ、まだずっと先までいくわけじゃない」とキャプテンが言った。

 きわめて巧みな策略もなんのその、彼らは車輪をなんとか固定させ、とてもゆっくり走ることで車輪の位置を保つことができた。ニックの方でもなんの苦労もなく彼らを追跡できるようになった。

 一時間あるいはそれ以上彼らの旅が続いた頃、大きな通りを外れ、小道に入った。その道を四分の一マイルほど行くと、林のへりにぽつんと立っている、人が住んでいるようには見えない大きな家にたどり着いた。

「隠れ家だ!」とニックは思った。「これからの数時間たっぷりと話を聴けるはずだ、やつらがそうしないわけがない」

 二人の男は家の後ろを通り、古い納屋に馬車を回すと、そこで馬の世話をしたが、ニックは一瞬たりとも彼らから目をそらさなかった。

 ついに彼らが家に入った。そしてすぐに発見されてしまうという不要な危険がなくなったのを見計らって、ニックも後をつけた。

第11章
一夜にして二つの殺人


 ニックは真っ暗闇に包まれたが、携行していた小型角灯のボタンに触れて部屋にまぶしい光線を向けると、闇はすぐに一掃された。

 目の前にドアがあり、それをくぐると幅のある廊下に出た。

 物音一つ聞こえなかったが、先に進むと話は違った。

 複数の声が低くささやくのが耳に入ってきたのだ。

 彼は音のする方向へ進み、男たちが腰を下ろしているのが明らかな部屋のドアの前までやって来た。

 モーガンのしゃがれ声は容易に聞き分けることができた。同時に所々キャプテンの落ち着いた声がドアを通り抜けてきた。

 もう一つ別の声もあった。はっきり聞き分けられるほどの大きさではなかったが、ニックはそれがシンダールのものであると判断した。

 彼は彼らの話を一言も聞き取れなかった。そこでもっと近づこうとあたりを見回した。

 廊下をさらに進むと、男たちが話をしている部屋の隣にある部屋のドアがあった。彼は廊下をひそやかに進み、ドアをくぐった。

 にわかに声がはっきりしたものになった。

 明かりを周囲に向けたニックは、元々はダイニングルームだった場所にいるのを認めた。同時に、男たちが会話をしている部屋との仕切りを背にして食器棚がいくつかあることもわかった。

 食器棚が仕切りの向こうにつながっているのなら、それはありえることだが、会話を聞き取るのがたやすくなるはずだった。

 細心の注意を払い、影のようにひっそり動きながら、ニックは慎重に食器棚の戸の一つを開いた。

 食器棚は二つの部屋を結ぶだけでなく、仕切りの反対側の戸はガラスでできており、話された言葉をもらさず聞けるだけでなく、そこで起きていることをすっかり目に収めることができた。

 彼が目撃した一団は風変わりだった。

 そこにいるのはキャプテン、モーガン、シンダール、そして年のいった黒人の女で、その女は話にすっかり聞き入っていた。

 この連中は全員がダイニングテーブルの周りに座っており、そのテーブルの上には瓶が一つ、コップが数個、煙草の箱一つが置かれていた。

「いや、」キャプテンが口を利いていた。「今夜あいつがここにやって来る心配はぜんぜんない。おれはあってくれた方がいいんだがな。もう二度とおれの元から逃げ出せないだろう、誓ってもいいぜ」

「あいつは悪魔だ!」とモーガンが思い切ったように言った。

「悪魔であろうとなかろうと、前にあったような機会がもう一度おれにあれば、あいつは死ぬしかない。おれはあいつと折り合うつもりはない」

「どうしてやつがこの場所に向かっているとわかるんだい?」とモーガンが尋ねた。

「わかるわけじゃない、心配しているんだ。やつが来たらおれたちはみんな罠にかかったネズミみたいに一網打尽だ」

「そうだな!」

「ともかく出発した方が安全だ」

「ここは人が寄りつかない場所だぜ」

「そうだ、しかも、移動中の大半の場所でおれたちの誰かの後をつけるのはたやすい。47番街の家が今のおれたちにとって一番安全な場所だ」

 ニックの好奇心はさらに高まった。

「あの家は見張られているんじゃ?」

「ふん、そんなことはないさ」

「見張られてると思うのが当然だろ」

「やつらは殺人捜査をとっくにあきらめてる、しかもあの家は墓場並みに人気がない」

 モーガンはくすっと笑った。

「あの犯罪を解決できるほど頭のいい刑事を想像してみろ」彼は言った。

 すると二人の男はともに声を出して笑った。

「おれの考えじゃ、そいつが犯人に手錠をかけるところを想像する方がおかしいや」

 この考えが彼らのツボにはまったのはまちがいない。彼らはやかましいほど笑い声を響かせた。

「そいつがそのために奮闘するのを見てみたいですね」歓喜が引いて元に戻ったモーガンがそう言った。「特にあのニック・カーターのやろうが」

「ええ、おれたちでやつを始末すべきです。やつの拳と強さはたいしたことないですよ──そうだ、トニーのやつ今夜どこにいるんでしょう?」

「わからん。おそらくカーターに打ちのめされてひっつかまったのかもしれない」

「コブラもみんな?」

「それはちと難しいだろう。だがあの野郎はなんだってやってのける」

「いや、キャップ、あいつにできないことが一つあります」

「それはなんだ?」

「ユージニー・ラ・ベルデ殺害犯をつかまえることです」

「やつならやるだろ」

「なぜ、キャップはやつを打ちのめしたはずですよ」

「いいや、トニーはおれにそれを望まなかった、で、おれはやつの勝手にしてる」

「やつは変わり者です」

「かなりな。あいつは毎週食いもんをあそこへ差し入れてるんだからな!」

「悪魔さ! 自分の妹を殺したやつに食わせてやるなんて!」

「まったくだ!」

「ねえ、キャップ!」

「なんだ?」

「おれがあの家に住むのは遠慮させてもらうのが筋かと」

「よくわからねえ!」

「つまりですね、あの家は趣味じゃないんですよ、一人になれないから」

 キャプテンは笑い声を立てた。

「ユージニーを殺したやつが怖いんだろ、えっ?」

「言っちまうと、そうです」

「なあ、おれはおまえを責めてるわけじゃないぞ、モーガン。しかも全然危なくなんかないんだ」

 ニックは耳にした会話に好奇心をかき立てられた。といっては、彼の興奮の表現として弱すぎるだろう。

 彼は驚愕すべき多くの事実をいっぺんに知ったのである。

 第一に、ユージニー・ラ・ベルデを殺した犯人は、連中の知り合いの中にいるのは確かなようであるけれども、少なくともトニー、モーガン、シンダールの誰でもないということである。

 第二に、殺人犯は犯行があった当の家に身を潜めているということ。

 第三に、トニーがユージニー・ラ・ベルデの兄弟で、なおかつ自分の妹を殺した人間を守るだけにとどまらず、時々食事を運んでいるということ。

 ニックは真犯人を目にしたことはまだないことを思い知った。一度暗闇の中わずかな距離を隔てて同じ場所にいたことはあったのだが、それはユージニー・ラ・ベルデの居室の入口をくぐり、誰かがその場から立ち去る音を聞いた時だった。

「もしも犯人がモーガンの怖がりようが大げさでないほど危険なやつなら、そいつはいったいなぜユージニーにしたようにわたしを絞め殺そうとしなかったんだろう?」探偵はこうつぶやいた。

 キャプテンがいきなり話題を変えた。

 彼は腕時計に目をやった。

「いくぞ、」彼は言った。「もう真夜中近くだ、出発しなきゃ」

 黒人女はキャプテンの指図通りに部屋を後にしたので、三人の悪党たちだけが残っていた。

「モーガン、」とキャプテンが言った。「おまえが先に行け、その後シンダールとおれが別の馬でついていく。フェリーボートに乗って、47番街の家に行くんだ。ニューヨークに着いたらゆっくり進め、シンダールとおれが家に最初に着くように」

「シンダール行かない」アラブ人は穏やかな口調で言った。

「なんだって!」とキャプテンが叫んだ。

「シンダールは行きません」

「行かなきゃだめだ、おい」

「やつが生きてる限り、シンダールはぜったいあの家に入りません」

「じゃあおれに従わないわけか?」

「シンダールはもう話した」

「このやろう! これでもくらえ」

 キャプテンは電光石火のように回転式拳銃を抜き、アラブ人の顔のすぐ近くで発射した。

 男は唸り声ひとつ立てず後ろに倒れこんだ。

「テーブルの下にこいつを押し込めろ。こいつにはうんざりしたぜ」ポケットに拳銃を収めながらキャプテンが冷淡に言った。「それからここだけの話だが、モーガン、おれはトニーにもうんざりしてきた」

「あいつに探偵を殺させてから、あっしらでやつを消しましょう。そうすれば殺しの手間をやつに押しつけられます」とモーガンが言った。

「やつを消せるなら手段はどうでもいい」

「この死体をどうするんですか?」

「テーブルの下に寝かせて腐るにまかせろ。おれたちゃ今夜この家におさらばするんだ、永遠にな」

「サルが戻って来る前に別の問題についてちょっといいすか。計画の準備は万端なんですか?」

「万端だ」

「いつやらかすんで?」

「今日は水曜だ。日時は金曜の深夜に決まっている」

「それでおれたちの手に……」

「十万だ」

「すげえ! あと、も一つなんですが」

「なに?」

「ジョンとトニーと分け合う必要があるんですか?」

「ジョンとトニーは生きてるからな」

「そうですよね! だけどもしやつらが死んだら」

「全部おれたちのものだ」

「そうだったらうれしいでしょう、フィル?」

「やつらが自分の分け前目当てでやって来ないなら、おれはおかまいなしだ」

「なるほど! サルが来ました」

 そこへサルが部屋に入って来た。

 モーガンはキャプテンからの合図を受けると、腰を上げて家を離れた。

「おれが外に出るまで行くな」キャプテンはそう言って、黒人女と二人きりになった。

「なあ、サル」彼は話しかけた。「おまえの世話はもう必要ないんだ、それで今給料を払いたいんだよ」

「そうなんですか」

「礼はいくらかな?」

「24ドルです」

「それだけ? なぜだい、安いな。来なヨ、渡してやるから」

 黒人の女はいぶかしそうなそぶりもなくテーブルの周りをキャプテンの方へ近づいた。ニックですら直後に起こることを予測できなかった。

「これがおまえの報酬だ!」サルが近くに寄ると悪党はそう叫び、一瞬のうちに彼女の心臓にナイフを突き刺した。

 彼女は苦悶の息を大きく吐いた後、仰向けに倒れて絶命した。

 キャプテン・フィリップは一夜のうちに意図的な殺人を二件も犯したのだった。


第12章
糸のより合わせ



 その時その場所で二人の男をとらえるのはニックにとってたやすいことであったが、彼からすればそうするのは得策ではなかった。

 ユージニー・ラ・ベルデの殺人犯はなお不明で、しかもこの男たちは謎の解明を後押しする上で大きな価値を持っていた。

 彼らは47番街へ直行しつつあった。ニックが注意している彼らが御役御免となったときは、悪漢たちをそこでいつでも逮捕することができるのだった。

 黒人女が息絶えると、キャプテンはすぐに部屋から静かに抜け出した。そこに置き去りにされる二人の犠牲者の亡骸(なきがら)に対する後悔の念など微塵たりとも持ち合わせていなかった。

 ニックは後を追った。入った時のように家を離れるのではなく、キャプテン・フィリップの足取りを直接たどった。

 モーガンは馬と馬車の準備をほぼ終えていたが、仲間がその作業の仕上げを手伝うかっこうになった。。

「上がれ」とキャプテンが言った。

「もう用なしなんですが、他の馬はどうしますか?」

「ほうっておけ。いてもしょうがないんだ」

「ですが、やがて飢えちまいます」

「そうさせろよ」

「少なくとも自由にしてやりましょう」

「こらっ! 臆病め! 上がりやがれ、いったじゃねえか。つまらんことにかまう時間はないんだぞ」

 モーガンは従った。ニックは二人の手に負えない冷酷さにぞっとした。

 それにもかかわらず、彼らは意図しない形でニックを助けてやった。彼は歩かず市内に戻る手段を手に入れたのだった。

 彼らを追跡する気はなかった。必要なときに彼らを発見できる場所を知ったからである。

 それまでの間、彼は別の行動に出た。

 男たちが出発した後、たっぷり時間を取ってから、彼は小屋から馬を引っ張り出した。

 古びた馬具(ハーネス)が納屋にあった。彼はそれを少してこずりながら取りつけた。

 彼のポケットには幌なし馬車のナットがあった。そして彼は間もなく道を滑るように疾走していた。

 彼はウィホーケンで止めずに、ホーボーケンまで走らせた。

 そこで馬を貸し馬屋に預け、用がある時までの世話を頼むとニューヨークに急行した。

 彼はバーンズ警部の家に直行した。

「警部、」警部に迎えられると彼は口を開いた。「今夜、殺しが二件ありました、犯人はわたしが追跡していた男たちです。やつらはユージニー・ラ・ベルデ殺しについて何もかも知っている連中でもあるんです! やつらの犠牲者の遺体はパリセーズからほど遠からぬ家にまだそのままになっています」

「きみには驚かされるよ、ニック。その家の場所を教えてくれ、ジャージー警察に打電しよう」

 ニックはそれに応えたが、こうも付け加えた。

「わたしが合図するまで、事件を派手にしないでください。ジャージーのマーフィー署長に、警部が犯人の正体を知っていることを伝えてください。それから、週末までに犯人を手渡すつもりであることも。それまでは犯人をびくびくさせたくないんです」

「わかった」

「もう二つ」

「なにかね?」

「警部はユージニー・ラ・ベルデの殺害犯を逮捕する時、わたしと一緒に出かけられますか?」

「そのつもりだが、いつのことだ?」

「明日の夜です。八時にわたしの家に来てください」

「そうしよう。もう一つの話とは」

「わたしが本部に連れてきたあの囚人に会えというあなたからの命令です。やつと話したいんですが」

「今?」

「はい」

 その命令は即座に下された。ニックは一刻もむだにせずマルベリー通りの警察本部へ向かった。

 彼はすぐトニーの独房へ案内された。

「わたしを知ってるかな、トニー?」彼は問いかけた。

「いや。黒人のやつなんか知らん」

「知らないって? そうか、わたしはきみを知っているんだ、少し聞きたいことがあるんだ」

「聞きやがれ」

「きみはなぜ妹さんを殺したやつに食べさせてやってるんだ?」

「生かしてやるためだ」

「殺してしまうのが筋じゃないのかい」

「ふん! なぜだ? おれのコブラを殺したやつがいたらそいつを絞め殺してやるぜ」

「絞め殺す? もしその男と向かい合わせにしてあげたらどうする?」

「遠慮なく聞きやがるな」

「きみの妹のユージニーを殺したやつに食べさせるところを見せてくれ。そうすればわたしが代わりにやってあげるから」

「おれの妹だってどうやって知ったんだ?」

「気にするな。知ってるだけだ」

「そろそろ食わせてやらないと飢えてしまう。でなきゃ家から出ていっちまう」

「明日の夜に?」

「ああ、だが、やつは機嫌を悪くするだろう」

「そいつが怖いのか?」

「おれが? やつがおれを傷つけることはない」

「けっこうだ。明日の夜、わたしはきみをそこに連れていってやる。きみのコブラを撃った男と対面させてやることを約束するよ」

「両手を自由にしてもらえるのか?」

「そうだ」

「おまえは誰なんだ?」

「それは問題かな、約束を果たしても?」

「いや」

「明日の夜まで元気でな」

 次の日の夜八時きっかりにバーンズ警部の姿がニック・カーターの家にあった。

 ニックは自らの冒険談の一部始終を手短に述べた。

 それから署長が待つ間、本部に急ぎ、トニーを連れ出した。

 途中、絞殺犯は手錠をかけられたままだったが、ニックは念のために再び黒人に変装し、47番街の家に赴いた時に自由に振る舞えるように計った。

 家に着くと、ニックは──トニーには驚きだったが──階段の下の秘密の通路から中に入った。

 彼はトニーに、殺人犯にはどんな食事を与えればいいのか尋ねていた。絞殺犯の方は家の中に少し保存していると彼に請け合っていた。

 だから彼らは中に入った。

 地下室に他の者たちを残し、ニックは静かに階段を上り、そこでキャプテンが一人でいるのを発見した。裏座敷でゆったりと腰を下ろし、新聞を読んでいた。その様子はまるでこの家の持ち主であるかのように泰然自若としている。

 ニックは彼の注意を引くために小さな物音を立てた。するとキャプテンは間髪をいれず目線を上げた。

 さらにピストルを手に、立ち上がって廊下に向かってきた。ニックは闇の中で彼を待ち構えた。

 キャプテンがやって来るとニックはすかさず彼をひっとらえた。

 武器を使うひまもなく、彼は一瞬にして投げられ、床に仰向けにされると、手錠をかけられた。さらにくるぶしには足かせがはめられた。

「どうだ、キャプテン・フィリップ、これでじたばたできないぞ」とニックは満足そうに言った。

 キャプテンはまったくの無言だった。ののしりすらしなかった。ただおとなしかったが、逃げ出す術を案じているのはありありとしていた。

 地下室に戻ったニックを驚嘆が待ち受けていた。バーンズ警部がニックとほぼ同じ手法でモーガンを捕らえていたのである。

 警部はモーガンが秘密の通路をやって来る音を察知したため、状況を呑み込む前に彼を逮捕していたのだ。

 二人の男は奥の居間にしっかりと合わせてくくられた。

「さあ、トニー」とニックが言った。「殺人犯に食わせてやろうじゃないか、来い」

「おまえらはやつと顔を合わせるなよ」とトニーが言った。

「ああ。われわれは姿を隠しておく」

「この輪っかを取ってくれ」

 ニックが手錠を外すと、トニーは先導するかたちで階段を上った。

「食べ物はどこにあるんだ?」とニックは聞いた。

「同じ部屋だ。隠してある」

「えっ!」

「さあ、進めよ」

 トニーはユージニーの部屋のドアまで進んだ。

 そこで彼は立ち止まり、聞き耳を立てた。

 まもなくドアを開け、さっと中に入るとガスを灯した。


第13章
ユージニーの殺害犯、新たな生贄を発見



 トニーは部屋の中央に立ち、手をたたいて大きな音を出した。

 すぐに壁に掛かる大きな絵が激しく震えた。

 突然、蛇の頭が絵の裏から現れ、前後にゆらめいた。

 トニーがお祈りを唱え始めると、蛇は近くに寄ってきた。ニックと警部は、蛇の二十フィートに収まりきらぬ姿が化粧たんす、そして床へと行進して来るのを目にした。

 彼らは後ずさりして距離を保った。ニックは頼みの綱である連発式拳銃(リボルバー)を怠りなく握りしめていた。

 トニーは頭を後ろへ揺らし始めたが、祈りはなおも唱え続け、位置も部屋の真ん中にとったままだった。蛇は滑るように近づいてきた。

 まもなく蛇は頭を持ち上げて、ぎらぎらした眼をトニーの眼の前わずか数インチのところまで近づけた。

 そして蛇は彼に頭を預けると、おぞましい体を滑らせて絞殺犯に巻きついた。

 それからトニーは振り向いて別の絵のところへ行き、それを横にどかした。すると格子のはまった隙間が現れた。

 彼はそれを開き、腕を突っ込むとウサギを引っ張り出した。ウサギは床の上に落ちた。

 ウサギはしばらく何気なく跳びまわっていたが、開いているドアを見つけるとそこを駆け抜けて姿を消してしまった。

 トニーはそれを留めようとしたが、一歩踏み出すことすらままならず苦痛による叫びをあげて立ちすくんだ。

 ウサギが逃げたことに腹を立てた蛇が、絞殺犯の体に巻きつけているそのとぐろを締め上げていたのである。

 いたずらにトニーは祈りを唱えた。彼は仕事柄手慣れた技をむやみにためした。しかし蛇はまじないにちっともかからない。

 とぐろはますますきつくなる。蛇の頭が生贄の眼前で意地悪そうに揺らめいた。

 突然トニーは床に倒れた。蛇は体勢を変えようとしている。

 とぐろは上の方にずれ、絞殺犯の首に巻きついたように見えた。

 その間ニックは連発式拳銃を使うすきをうかがっていた。

 蛇が頭をもたげた時、絶好の瞬間が訪れた。

 弾丸が標的を正確にとらえ、蛇の頭は鉛弾(だま)に貫かれた。

 ニックと警部は前に跳び出した。

 二人はトニーをつかんで起こした。

 彼は気絶しているものの死んではいなかった。

 「助からない」とニックが言った。「できるなら生き返らせたい。あばらが折れて、おまけに内部出血している。ひどい」

 トニーはやっと目を開いた。

 彼が物語った話は支離滅裂であったが、かいつまむと以下のような内容だった。

 彼は蛇使いの家の一員で、その中でも彼と妹のユージニーが一番の使い手だった。

 ずいぶん前に彼とユージニーは、彼の不誠実なやり方をめぐって喧嘩になった。ユージニーはもはや我慢ならなくなった。

 キャプテン・フィルの求めに応じてトニーは彼女を説得し、47番街の屋敷を手に入れさせた。屋敷は犯罪者たちの憩いの場となっていて、キャプテン・フィリップはそこが警察の目につかぬように立ちまわったのだった。

 あの複数に及ぶ秘密の通路は元からあったものだった。彼はそれらを造った者も、どこに造られているのかも知らなかった。

 ユージニーは蛇をすべてトニーに譲ったが、溺愛していたニシキヘビ(パイソン)だけは残した。

 メイドのデリア・デントさえパイソンの存在に気づかず、ユージニーの蛇への愛着についてもまったくの無知であった。

 トニーは妹が死を迎えた夜、ジョンとシンダールを伴って屋敷に金をせびりに訪れていた。

 彼が妹の部屋のドアにやって来た時、ちょうどパイソンが絵の裏の壁にある隠れ家からはい出して来た時だった。

 彼がいることに怒ったのか、蛇は飼い主の首に巻きついて大きな威嚇音を発した。

 彼は蛇がユージニーを絞めあげているのを目にして、彼女を助けようと飛び出した。

 そうすればパイソンが彼の方に向かってきたと思われるが、それが頭をよぎったトニーは踵を返して逃げ出してしまった。妹は悲運とともに取り残された。

 トニーは目撃した一部始終をジョンとシンダールに語って聞かせ、そしてシンダールが子供時代、蛇に夢中だったことと、効力のある不思議な催眠の呪文を唱えずに近づくのは無理だということを初めて知った。彼はパイソンがいるために屋敷を怖れた。

 その後、トニーは屋敷に戻り、蛇にえさをやった。それはなぜなのか、蛇が好きだということ以外、彼にもわからなかった。

 彼はコブラの隠し場所もニックたちに明かした。警部は念入りにコブラを全部退治した。

 物語りを完全に終わらせずにトニーはけがが元で死亡した。そのためユージニー・ラ・ベルデの出生についてまったく明かされぬままになった。

 だが彼女の殺害犯が蛇であったことは判明したのである。

 ゲルク・ストリートへの踏み込みにより、モーガンがかつての脅迫を実行に移し、ジョンを殺していたことが判った。ジョンは心臓に短剣を突き刺されていたが、それがモーガンによるものだと証明する証拠が挙がったのだった。

 彼とキャプテン・フィリップはその後、それぞれの罪の罰を受けたが、後者の場合、自首をしてジャージーの裁判官の容赦ない慈悲にあずかることとなった。

 帆船(スクーナー)と、南ブルックリンの桟橋の下にあった隠れ家はともに捜索を受けた。前者は売却され、後者は石で埋められた。

 ユージニー・ラ・ベルデ殺しはもはや謎ではなくなり、殺害犯であった蛇もニック・カーターのリボルバーから放たれた弾丸を受けて息絶えたのだった。



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