金塊(The Golden Ingot)

フィッツ=ジェイムズ・オブライエン

〔 〕:訳者注




 わたしは床についたばかりでした。M・ブラウンセカールの生理学上の新しい仕事について勉強したせいでわたしの両目はめしいたような状態でした。そんなとき夜間ベルが乱暴に引かれたのです。

 冬のことでした。ですから、正直に言うと不満を漏らしながら起き上がり、ドアを開けるために階下に行ったのです。わたしはその週に二回も真夜中をだいぶ過ぎてからささいな原因のために起こされていました。あるときは、金持ち一家の息子で後継者である者を診(み)るためでした。彼は親指をペンナイフで切ったのです。たしか、それをベッドに持ちこんだのだと主張していたようでした。もう一方は、若い紳士の意識をもどすためでした。彼は階段の上で意識を失ってのびているところを震えあがった親に発見されたのです。いずれも患者にはダイアキロン〔膏薬の一種。豚脂、酸化鉛、薬草の汁等から作る〕あるいはアンモニアしか要りませんでした。ですからこのときの呼び出しに際しては、引き合いに出した例よりも必要性がないんじゃないかとちょっと疑ったのでした。ですがわたしは年季が浅かったので断わることはできませんでした。医者は膨大な数の患者を診て初めて思いやりを失った状態になりうるのです。わたしはそのはしごの一段目にいました。ですからつつましくドアを開けたのです。

 女性が突っ立っていました、その足首はポーチに積もった雪に埋もれていました。彼女の姿を認めることはできましたがちらっと見えただけです。その夜は曇っていたのです。しかし彼女の歯がカスタネットのようにカチカチいう音は聞こえました、それに鋭い風が彼女の体をかすめて服をあおったので、彼女がろくに服を着込んでいないのを見分けることができました。

「入って、入って、どうぞ」わたしはあわててそう言いました。風が玄関を居場所にしようとやっきになっているようでしたし、半分開けたドアから勢いよく吹き込んできたからです。「入ってください、しなきゃならない話はぜんぶ中で話してください」

 女性はまるで幽霊のように滑り込んできました、わたしはドアを閉めました。仕事場の明かりを灯す間、暗いホールで彼女の歯がまだカチカチいっているのが聞こえました、骸骨のおしゃべりのように思えたくらいです。灯がつくとすぐに、部屋に入るよう彼女に言いました。そして彼女の外見を特に気にすることもないまま、ふいにその用件をたずねました。

「わたしの父がひどい事故に遭ったんです」彼女は言いました。「すぐに手術が必要です。父の元にすぐにかけつけてほしいんです」

 彼女の声の新鮮さと抑揚にびっくりしました。あのような声は美しい人じゃないとめったに出ないものです。わたしは彼女を注意深く見ましたが、ありふれたショールを頭に巻いているせいで、青ざめた痩せた顔と大きな目のほかは認めることができませんでした。彼女のドレスはひどいものでした。古びた絹が、色がもはや判らないほどでしたが、体にぴったり張り付いていて、そのしわくちゃの様子は窮乏ぶりを雄弁に物語っていました。折り込まれていた部分のしわは擦り切れていて穴が空きそうでした、しかもスカートの端は縁取りの形がふぞろいになっており、おまけに泥のせいで凝り固まって変色していました。靴──不充分な服に半ば隠れていました──は水分のせいで型崩れを起こし柔らかくなっていました。その両手は、頭を覆うとともに胸にもかかっているショールの端に隠されていました。手の形は痩せて角張っていましたが優雅さをたたえているように見受けられました。貧困というものは、部分的に覆い隠されたときにはめったなことでは注意を招くことにしくじらないものです。モンティの<ベールをかぶった乞食>の像をご覧なさい。

「お父さんはどんなふうに傷を負ったんですか?」わたしは尋ねました。最初の質問よりもだいぶ声をやわらげました。

「自分自身を傷つけてしまったんです、ひどい傷です」

「あ! なら、お父さんは工場にいるんですね?」

「違います、父は化学者なんです」

「化学者? なんだ、同業者じゃないか。ちょっと待っててください。コートを着たらいっしょに出かけましょう。家はここから遠いんですか?」

「七番街です、この通りの端から二ブロックもありません」

「それはよかった。数分でお父さんのところへ行けますね。誰かお父さんのそばに残してきたんですか?」

「いいえ。父はわたし以外の者を実験室に入れることを許さないんです。わたしは父にそれをやめるよう説得することができませんでした」

「そうですか! お父さんはきっとすごい研究に従事しているんでしょうね? そういう事例を知ってますよ」

 わたしたちはランプポストの下を通過するところでした。女性が突然向き直り、私を恐ろしい形相で見つめたので、わたしはしばらくの間意図せず自分の周りをぐるっと眺めました。わたしの目に入っていないなにか恐ろしい危険なものがわたしたちに迫っているような気がしたのです。

「わたしに質問はいっさいしないでください」彼女は息を切らしながら言いました。「父があなたにすべてを話すはずです。でも今は急いでください! お願いです! 父はたった今死んでいるかもしれないんです!」

 返事はしませんでしたが、彼女にわたしの手を握らせました。彼女の手は骨ばっていて握り方もおどおどしていました。彼女は四苦八苦しながら大股でついてきました。その歩き方は跳ねるようにといった方がよいくらいでした。若い娘の足取りというよりむしろ野生動物が飛び跳ねている感じがしました。一言もしゃべらぬまま七番街にある古い様式のアパートに着きました、七番街は二十三番街よりも近いくらいでした。彼女は容赦ない勢いでドアを押すと、わたしの手をつかんだまま、ビルの中心部分からすると裏側にあたると思われる上階のおそらく四階部分のあたりまでわたしを引っ張り上げました。ほどなくして自分が中くらいの大きさの部屋にいることに気づきました。ランプが一つ点っています。片隅にあるみすぼらしい板張りのベッドの上に伸びてじっとしているものがあったので、わたしは患者の姿だと思えるそれを見つめました。

「父はそこです」と娘が言いました。「父のそばに行ってください。父が死んでいるかどうか確かめてください──わたしはこわくて見られません」

 わたしは部屋を散らかしている手入れの行き届いていない無数の化学道具の間を進みました。鉄製の三脚に支えられたフランス製保温皿がひっくり返り、床の上に横たわっていました。そのうえ木炭が、まだ温かい状態でしたが、いろんな方向に散らばっていました。坩堝(るつぼ)、浄化器、蒸留器があちこちの隅にでたらめに積まれて山となっていました。小さなテーブルの上には鉱物と金属が小分けになっている瓶が置いてありました。見たところアンチモン、水銀、黒鉛、砒素、ホウ砂その他でした。それは貧しい化学者のアパートにほかなりませんでした。実験器具はすべて中古のようでした。成功した分析家の研究室にあるような目が眩むばかりの、みごとに精錬されたガラスや磨き込まれた金属の輝きはみじんもありませんでした。困窮をとりつくろう品々がいたるところに見えました。坩堝は壊れ、かわりに薬壷が使われていました。色のある試薬はふつう透明なガラス瓶に入っているものですが、日用品の黒い瓶に入っていました。苦難の中にある科学や芸術を見ることほど心が塞がれるものはありません。みすぼらしい身なりの学者、ぼろぼろの本、使い古されたバイオリンは物言わずわたしたちの同情を誘います。

 わたしは化学の犠牲者が横たわる板張りのベッドに近づきました。男は荒い息を立て、頭を壁に向けています。その腕をやさしく持ち上げて彼の意識を引き起こしました。「どうですか」そう尋ねました。「どこを傷めたんですか」

 一瞬にして、まるでわたしの話し声にびっくりしたように、彼はベッドからはね上がったかと思うと追い詰められた野生動物のように壁の方に縮こまってしまいました。「だれだ? 知らんやつだ。誰がここにつれて来たんだ? 初めて会う顔だ。よくもこの秘密の部屋におれをスパイしに来やがったな」

 彼が恐ろしい緊張感をたぎらせて早口にそう言い切る間に、わたしは青白い歪んだ顔を見つめました。その顔には灰色の長髪がかかり、激怒と恐怖が混ざった表情でわたしを睨みつけていました。

「わたしはスパイなんかじゃありません」わたしは穏やかに答えました。「あなたが事故に遭ったと聞き、手当てをするために来たんです。わたしは医師のルクソーです、名刺をどうぞ」

 年配の男は名刺を受け取るとそれに探りをいれるように見つめました。「あんた内科医なのか?」彼は疑い深そうに質問してきました。

「外科医でもあります」

「患者の秘密を暴露しないと宣誓したはずだな」

「そのとおりです」

「傷を負ったんじゃないかと心配なんだ」彼は弱弱しく言葉を続け、ベッドに半ば身を沈めました。

 わたしはこの機会をとらえて彼の体をざっと診察しました。両腕、胸の一部、顔の一部がひどく焦げているのを発見しました。しかし痛々しいというだけで危惧すべき点はないと見受けました。

「ここで知ったことは一切ばらさないだろうな?」消炎効果のある軟膏を火傷(やけど)に塗るわたしの顔に両眼をかろうじて固定させて彼はそう言いました。「誓ってくれ」

 わたしはうなずいて同意を示しました。

「ならあんたを信じよう。手当てを頼む──金はちゃんと払う」

 わたしはかろうじて笑いをこらえました。もしもロレンツォ・デ・メディチ──金庫にある何百万ものダカット金貨を気にしている──が他人の金を搾り取るかの時代の蛭(ひる)を相手にしたとしても、七番通りにあるアパートの四階のこの住人よりもっと高慢な態度で話すことはなかったでしょう。

「静かにしていてください」わたしは言葉を返しました。「何ごとにもいらいらしないようにしてください。落ち着く薬を娘さんに渡しておきます。娘さんがあなたにすぐに出すでしょう。朝診察に来ます。一週間もすればよくなりますよ」

「よかった!」ドアの近くの薄暗い隅からつぶやきが聞こえました。わたしは振り向き、光の乏しい部屋の暗がりに両手を握り合わせてたたずむ娘のおぼろげな人影を見つめました。

「娘よ!」年配の男はそう叫び、新たまった生命力をもって再びベッドから起き上がりました。「あんた娘と顔を合わせたことがあるのか、え? いつ? どこで? まさか数知れずというんじゃ──」

「父さん! 父さん! そんな──そんなんじゃないわよ。わたしをおとしめないで!」かわいそうな娘は走り込んできて、すすり泣きながらベッドの横にひざまずきました。

「おい、追いはぎよ! そこかい? 先生」彼はそう言って私の方に向き直りました。「おれは世界で一番不幸な男だ。きまって元に戻っちまう石を転がすシシューポス、ハゲワシに齧(かじ)られたプロメテウスの話をしてみな。ああいう寓話はまだ健在だぞ。おれの岩がある、永遠におれを後戻りさせやがる! 永遠のハゲワシもいやがる、おれの心臓を餌にしてる! ほら! ほら! ほら!」そうして呪いと憎しみの身振りを交えて、彼は包帯を巻かれ形を失っている傷を負った手で、縮み込み、すすり泣き、言葉もない傍らの女性を指し示したのです。

 わたしは恐怖に襲われ、彼をなだめようとする余裕すらありませんでした。血に抗(あらが)う血の怒りには傍観者を麻痺させる電気的力があります。

「おれの話を聞いてくれ、先生、」彼は続けました。「おれがこの派手な毒ヘビをだましてる間だ。あんたの誓いは信じる。あんたはばらさないだろう。おれは化学者なんだ。二十二歳の頃からおれはすばらしい、微妙な秘密を追い求めた。そう、恐ろしい棘に守られる謎めいた薔薇を開かせるため、エメラルドの驚くべき表を解読するため、赤い王と白い女王の神秘的な結婚式を果たすため、彼らの魂と魂、肉体と肉体とを永遠に一体にするためなんだ、しかも土地と水の完全な比率の中で──それがおれの崇高な目的であり、成し遂げた輝かしい偉業なんだ」

 すぐにこの理解不可能なごた混ぜの中に本物の化学者の隠語を認識しました。リプリー、フラメルその他の者たちが彼らの業績の中にあの世界を提供していたのです、それが科学的な混乱の場の憂鬱な見世物とともにあったのです。

「二年前、」哀れな男は話を続けました。発する一語ごとに興奮を高めながらでした。「二年前、すごい問題の解決に成功した──卑金属を金へ変換する問題だ。おれと、この娘と神のみがその時までにおれがなめつくした欠乏を知っているんだ。食料、着る物、空気、試験、住まい以外のすべてが偉大な結末のために犠牲になった。成功がついにおれの労働に王冠を授けてくれた。ニコラス・フラメルが1382年にやったこと、ジョージ・リプリーが1460年にロードス島でやったこと、アレクサンダー・セソンとマイケル・スクディボギウスが17世紀にやったことを、おれは1856年にしたわけだ。金を作ったんだぞ! おれは自分に言い聞かせた。『おれはニューヨークをびっくりさせる、フラメルがパリをびっくりさせた以上に』やつは貧しい筆耕業者だったのが、突然荘厳な雰囲気の中に乗り出していったんだ。おれは背中にぼろきれをちょっとしょってるだけだった。それがメディチ家と張り合おうってんだ。おれは毎日金を作った。夜も朝も精を出した。なぜかというと一度に一定量しか作り出せなかったからだ、しかもそれまでずっと参考にしていた書物の中に示唆されていたのとはまるっきり違う過程が必要だったんだ。だが、経験を積めば楽になってくる、そしてそのうち地上でいちばん豊かな君主をしのぐほどになれると確信していたんだ。

「だから精を出しつづけた。来る日も来る日もこの娘に製造に成功した金をやり、必需品をまかなった後は貯め込んでおけと言った。おれは自分たちの生活の貧しさに気づいて仰天したんだ。だがおれはとくと考えた。それは娘のつつましさのほめるに足る一端ではないかとな。たしかにおれは言った、娘はこう主張するんだ、出費が少なければそれだけ早く楽に暮らす資本が蓄えられる。それを賢いと考えたおれは、娘のけちぶりをしかることはせず、仕事に励み、貧困に身をおき、唇を閉じたままだった。

「おれが製造した金は、すでに述べたように、一定の大きさを持っている、すなわち小さな塊であり、それはおそらく三十か四十ドルの価値がある。二年の間、そういう塊を五百個作ったと見積もった、となると一個あたり平均三十ドルだとして一万五千ドルに上るわけだ。二年間分のわずかな出費を差し引くと一万四千ドル近くが残るはずだ。何年も苦しみ続けた自分を免責すべき時が到来したとおれは考えた、財産が許す穏やかな安逸をむさぼっても罰は当たらんとな。おれは娘のところに行き、少しの蓄えをかじりたいと思っていると説明した。驚いたことに娘はわっと泣き出し、一ドルも持っていないと言いだした──われわれの財産はそっくり娘に盗まれたということをだ。この新しい不幸に打ちのめされたおれは虚しくもどういうふうに蓄えがふんだくられたのかを娘から聞き出そうとした。娘はまったく説明できず、ただただすすり泣き、怒涛のように涙を流すばかりだった。

「苦い打撃だったよ、先生、だが『絶対に諦めるな』がわたしのモットーだ。だからるつぼ仕事に復帰したよ、以前にも増した情熱を注いでな、ほとんど二日ごとにひとつの塊を製造したのさ。今度はそれらを安全な場所に自分で置くようにしようと決めてな。ところが計画のために実験器具を整えた最初の日に、マリオンが──それが娘の名前だ──泣きながらおれのところにやって来ておれたちの財宝を扱わせてくれと頼み込むんだ。おれは断固拒否した。おまえが信頼に応えられないことはすでに判っているじゃないか、再びおまえを信じることはできないと言ってやった。だが娘はしつこく言い張るわけだ。首にくっついて、おれを見捨ててやるとおどす始末だ。手短に言えば、女が知るところである、がらが悪いがなんとも抵抗しがたい口の利き方をやって見せたのだが、おれはそこまでされてなおも拒否するつもりはなかった。娘はその時から金塊を手にし続けている。

「見てくれよ、」形容しがたいほど悲しげなまなざしを悲惨なアパートに向けながら、老いた錬金術師は続けました。「おれたちの暮らしぶりを。食い物は不十分だし中身もひどい。服なんてぜんぜん買わないしな。このあばら家の家賃もなきにしもあらずだ。この悲惨な状況におれを陥れている哀れな娘をどう思うべきなんだ? 娘は守銭奴か、どうだい? それとも女賭博師かな──それでなきゃ──えー──おれの知らない所でじゃんじゃん浪費してんのか? なあ、先生、先生よ! おれが娘の頭に呪いをかけたっておれを非難なんかするなよ、おれは苦しんでるんだ!」哀れな男はここで両目を閉じてうなりながらベッドに沈みました。

 この並外れた語りが私の中にとても奇妙な感情を引き起こしました。わたしはマリオンという娘に目をやりました。彼女は貪欲さをめぐるひどい告発を我慢づよく聞いていましたが、わたしは彼女の顔に輝くものよりも天使的な、諦めの気配を目にしたことはありませんでした。あのような純朴で透明な瞳、落ち着いた広い額、子供のような口をした人が老人が述べたような強欲と欺きの怪物であるなんてありえないのでした。真実ははっきりしています。錬金術師が狂っているのです──そうでない錬金術師がいたでしょうか?──加えて彼の狂気は形を成しているのです。言いようのない憐れみがこのかわいそうな娘に対するわたしの心を動かすのを感じました。娘の若さが悲しみに重みを加えました。

「あなたの名前は?」わたしはその震える熱っぽい手をわが手に取りながら老いた男に尋ねました。

「ウィリアム・ブレークロックだ、」彼は答えました。「古いサクソン族の血統だ、先生、これまで正真正銘の男と女を生み出してきた血筋だ。神よ! それなのにわが血統からあんな娘が生まれるなんていったいどういうことなんだ?」彼が彼女に向けた嫌悪と軽蔑のまなざしにわたしはぞっとしました。

「ご自分の娘さんを誤解なさってるんじゃありませんか?」わたしは穏やかに言いました。「錬金術に妄想は、少なくとも歴史的には、つきものでしょう──」

「なんだと、先生よ?」老人はそう叫ぶと、ベッドの上ではね返りました。「なんだ? 金を作れることを疑うっていうのか? 知ってるか、先生、M・C・テオドア・ティファローは1854年パリでM・レボル、帝国の造幣局の試金者の前で金を製造し、その実験結果はその年の十月十六日に科学院の前で読み上げられたことを? ちょっと待ってくれ。確かめてもらおう。金塊のひとつであんたに支払おうじゃないか、そうすりゃあんたはおれが良くなるまで面倒をみることになる。金塊を持って来い!」

 この最後の命令はマリオンに向けられたものでした。彼女はまだ父親のベッドの脇にひざまずいていました。この命令が発せられたとき、わたしは彼女を好奇心を持って見つめました。彼女は青ざめ、両手をわなわなと組み合わせましたが、身じろぎもせず、返事もしませんでした。

「金塊を持って来い、って言ってるんだ!」錬金術師は熱を込めて繰り返しました。

 彼女は大きな両目を嘆願するように彼に合わせていました。その唇は震え、怒涛のようなふた筋の涙が白い頬をゆっくりと転がっていきました。

「言うとおりにしろ、このあさましい娘が」老人は興奮した口調で叫びました。「さもなくば、なにがなんでも、おまえを永遠に呪ってやるからな!」

 わたしは一瞬、割って入り、明らかに悲痛を味わっている娘を救うべきではないかと感じました。しかしこの奇妙な場面がどんな結末を迎えるのか見届けたいという強い好奇心がわたしを抑えつけたのでした。

 父親のいちばん後の脅し──ものすごい熱情を込めて発せられました──がマリオンをおののかせました。彼女は突然飛び起きました。ヘビにかまれたかのようでした。そして内側の部屋にかけこみ、小さな物体を手に携えてもどってきました。それから部屋の離れた隅にあった椅子に倒れ込むと、ひどく泣きじゃくりました。

「見ろ──見ろ」と老人は皮肉たっぷりに言いました。「あいつめ、手を焼かせやがった。さあ取ってくれ、先生。それはあんたのものだ」

 それは小さな金属棒でした。わたしは念入りにそれを検分し、手の中でバランスを取りました。色、重さ、そのすべてが本物の金だと告げていました。

「本物だということを疑っているんだろう」と錬金術師は言葉を続けました。「向こうのテーブルに酸がある──試すがいい」

 正直にいうとわたしは本物であることを疑っていました。しかし老人の提案を実行に移した後は、それ以上疑惑を持つことは不可能でした。物は純金中の純金でした。わたしはびっくりしました。ということは、とどのつまり、この男の話は真実だったのか? 彼の娘は、あのきれいで天使のような見かけをした生物が、強欲の悪魔あるいは劣情の奴隷だというのでしょうか? わたしは当惑しました。こんなにわけのわからないことに出くわしたことはありませんでした。わたしはあぜんとしたまま父親から娘へとまなざしを移しました。わたしの表情はわたしの驚きを示していたと推測します。というのは老人がこのように言ったからです。「びっくりしてるようだな。まあいい、自然なことだ。わたしが正気だということをわたしが証明するまでは狂ってると考える権利があんたにあるというものだ」

「でも、ミスター・ブレークロック」わたしは言いました。「本当にこの金を受け取るわけにはいきません。その権利を持ってません。こんなに巨額の料金をいただくのは公平に反します」

「取れ──取れ」彼はいらだたしそうに言いました。「おれの具合がよくなるまでにあんたの報酬はそれくらいになるだろ。それに、」彼は謎めいた付け足しをしました。「あんたの友情を担保したいんだよ。娘からわたしを守ってもらいたいんだ」そして彼はぶざまな、包帯を巻かれた手をマリオンに向けたのでした。

 わたしの目は彼の手ぶりの後を追いました。そして見返すまなざしを──恐怖と不信と絶望のまなざしでした──とらえました。美しい顔が歪んであからさまな醜さへと変わっていました。

「ぜんぶ本当なんだ」わたしは思いました。「彼女は父親が形容したとおりの悪魔なのだ」

 わたしは去ろうと立ち上がりました。家庭の悲劇に気が重くなっていました。この血に対する血の裏切り行為はあまりに恐ろしく、目に留められそうにありませんでした。老人のための処方箋を書き、やけどに当てるものの交換方法を指示し、おやすみの挨拶を彼にしてから、そそくさとドアへ向かいました。

 階段の暗くて心もとない踊り場でまごまごしていると、自分の腕に手が載せられたのを感じました。

「先生、」ささやき声はマリオン・ブレークロックのものだと認識しました。「先生、憐れみをお持ちですか?」

「そうありたいね、」わたしは彼女の手を振り払いながら短く答えました。彼女に触れられることに嫌悪感を覚えたのです。

「ねっ! そんな乱暴な言い方しないで。もしお慈悲をお持ちなら、わたしに返してください、お願いします、今夜父があなたにあげた金塊を返してください」

「とんでもない!」とわたしは言いました。「そんなにきれいな女性がそこまで欲得ずくで恥知らずの見下げ果てたことを言い出せるものなのか?」

「ああ! あなたは知らないんだわ──わたしがお話しできないから! 厳しくわたしを裁かないで! 神に誓って、わたしはあなたが思うような人間じゃありません。いつかわかってもらえるでしょう。でも、」彼女は自らの言葉を中断して言い足しました。「あの金塊は──どこにあります? 必要なんです。わたしの生活はあなたがあれを返してくれるかどうかにかかっているんです」

「取れ、詐欺師!」わたしはそう叫び、金塊を彼女の手に渡しました。その手は恐ろしいほどの情熱をほとばしらせてしっかと金塊を握りしめました。「それを手元に置いとくつもりはない。きみのような人間と同じ屋根の下で作られた金はきっと呪われているにきまってる」

 そう言いながら、わたしを引きとめるために彼女がしたいらいらする努力には目もくれず、つまづきながら階段を下り、早足で家まで歩きました。

 翌朝、仕事場で朝の煙草を吸いながら、前夜に顔を合わせた奇妙な人物について考えをめぐらせていると、ドアが開き、マリオン・ブレークロックが入ってきました。彼女は前夜見たとおりの恐怖の顔つきをしていました。さらに、速く走ってきたかのようにあえいでいました。

「父がベッドから出ているんです、」彼女は息を切らしながら言いました。「おまけに錬金術を続行すると言い張るんです。そんなことをしたら父は死んでしまいますよね?」

「どうだろうね、」わたしは冷淡に言いました。「安静にしている方がよいだろう、炎症を起こさないようにね。でもきみが警告を受ける必要はないだろう。彼のやけどは危険なものじゃない、痛々しいのはたしかだが」

「よかった! よかった!」彼女は叫びました。この上なく感激した口調でした。彼女はさらにわたしが彼女の動作に気づかぬうちに、わたしの手をつかみそれに口をつけたのです。

「もう、よしてくれ」手をひっこめながらわたしは言いました。「きみはわたしへの恩義の下にあるわけじゃないんだよ。お父さんのところに帰るべきだ」

「もどれないわ」彼女は答えました。「あなたはわたしを軽蔑してるわ──そうでしょ?」

 わたしは返事をしませんでした。

「あなたはわたしを怪物──犯罪者だと思ってる。昨日の夜家に帰る時あなたはあっけにとられていましたね。わたしのようなきたならしい生き物が美しい顔をもっていることに」

「きみには困らされるね、お嬢さん」わたしはこの上なく冷ややかに言いました。「お願いだからこの不愉快な状態から解放してくれないか」

「待って。あなたがわたしのことをひどく考えるのに耐えられないんです。あなたはいい人だし親切です、それにあなたの尊敬を得たくてしかたないんです。わたしが父をどれだけ愛しているかあなたはほとんど知らないんです」

 わたしは苦笑を禁じ得ませんでした。

「それを信じないんでしょう? いいです、わたしがあなたを説得します。一晩中もがき苦しみました、でも今はすっきりしています。偽りのこの人生はこれ以上続いてはいけないんです。わたしの弁解を聴いてくださる?」

 わたしは同意しました。彼女の声のすばらしい調べとその無垢な容貌にもう一度魅せられていたのです。すでに半ば彼女の無実を信じ込んでいました。

「父は自分の経歴の一部をあなたに語りましたね。ですが、父を殺しかけた金属転換の秘密の追求において失敗が続いていることは話しませんでした。二年前、父はいつ死んでもおかしくない状態で毎日狂気じみた研究に没頭していました。そのせいで日増しに弱くなり、やつれていきました。わたしは心をどうにかして安らがせないと父は死んでしまうと悟りました。その思いはわたしには狂気そのものでした。なぜなら。わたしは父を愛していたからです──わたしは今でも父を愛しています、以前は父を愛したことがなかった娘としてですが。困窮に苦しんだ数年の間、わたしは針仕事であの家を支えました。つらい仕事でしたがやりとげました──今もしてるんですよ!」

「なに?」わたしはびっくりして叫びました。「だって──」

「あわてないで。最後まで話を聞いてください。父は失望のせいで死にかけていました。父を救う必要がありました。途方もない努力をし、昼夜ぶっ続けで働いて、わたしはお札で約三十五ドル貯めました。それを金に換えたんです、そしてある日、父が見てないうちに、父が金属変換の空しい試みのひとつに使っている坩堝の中に投げ入れたんです。神様はこのごまかしをお赦し下さると信じています。それがもたらす不幸はぜんぜん予想してませんでした」

「かわいそうな父の喜びようったら他に比べられるものがないほどでした。坩堝を空けた時に父は純金の沈殿物が底にあるのを発見したのです。父はすすり泣き、踊り、歌い、空中に楼閣を描きました。わたしの頭は父の話を聞いて混乱しました。父は保存すべき金塊をわたしに渡し、新たな精力をもって錬金術に従事したのです。同じことが起こりました。父はきまって坩堝の中に同じ量の金を見出しました。わたしだけがその秘密を知っていました。父は幸せな、みじめな人で、二年近く、幸運を集めているんだという信念の中にいました。父が貯えについてわたしに尋ねたとき、最初の一撃がわたしに振り下ろされました。それから自分の行いの愚かさを知ることになったのです。わたしは父にお金を一銭も与えられませんでした。まったく持ち合わせていませんでした──一方父はわたしが一万四千ドル持っていると信じ込んでいました。父がわたしに対してひどい疑いを心に抱いているとわかったときには、心が破れそうになりました。父にわたしが所有していると信じさせた宝物について説明することもできませんでした。わたしは自分のあやまちの罰に苦しまなければいけないんです。父にほんとうのことを悟らせるのは父を殺めるようなものだと思うからです。それでわたしは沈黙を守って苦しんだんです。

「後はおわかりでしょう。わたしがあの金塊をあなたに差し上げるのをしぶった理由も──自分を貶(おとし)めてまであれを返してくれるようあなたに頼み込んだ訳も。あれこそ父の命を保たせるごまかしを続ける唯一の方法でした。でもそんなごまかしも吹き飛んでしまいました。この偽善の生活を打ち切る覚悟ができました。愛する父からの呪いに心を病みながら生き続けることはできません。今日父に真実を伝えるつもりです。わたしにつきそってくださいませんか、父の弱くなった体に与える影響が心配でならないんです」

「よろこんで、」わたしは彼女の手を取りながら答えました。「それに気遣うべき危険はないと思うよ。ねえ、マリオン、」わたしは付け加えました。「いっときのこととはいえ気高き心を傷つけてしまったことの赦しを乞わせてほしい。きみはほんとうに、教会がその苦しみを祭壇において永続させているような人たちに比肩すべき偉大な殉教者だ」

「すべてを知ったら正当な扱いをしてくださると思ってました」彼女はわたしの手を押さえながらすすり泣きました。「でも行かなきゃ。こうしちゃいられない。父のところに急がなきゃ、そして父の恐怖の元を壊さなきゃ」

 わたしたちが老いた錬金術師の部屋に着くと、彼は忙しそうに坩堝に取りかかっていました。その坩堝は小さな加熱炉の上に置かれ、その中にはなんとも言いがたい混合物が沸騰していました。わたしたちが中に入ると彼は顔を上げました。

「心配無用だ、先生、」青ざめた笑みを見せながら彼は言いました。「心配いらん。とるに足らない体の傷みで偉大な仕事を中断するわけにはいかんのだ、わかるだろ。それにしても、ちょうどいいところだ。すぐに赤い王と白い女王の結婚が完了するんだよ、ジョージ・リプリーが『十二の門』という書物の中で偉大な出し物と呼んだとおりにな。さあ、先生、十分もせずにわたしが純粋な、赤い、ぴかぴかの金を作るところをご覧あれ!」みじめな老人は勝ち誇ったように微笑み、包帯を巻かれた両手にかろうじて握った長い棒で彼のばかげた混合物をかき混ぜました。それはどのような感情を持っていようと目にするのがつらい光景でした。

「お父さん、」とマリオンが低く声を詰まらせて言い、みじめで老いただまされ人の方へ少し歩み寄りました。「赦してください」

「おお、偽善者が! なにをだ? おれの金を返してくれるっていうのか?」

「ちがうわ、お父さん、二年間お父さんにしていたごまかしのことよ──」

「わかってる! わかってる!」と老人は叫びました。顔が輝いていました。「娘は一万四千ドルをずっと隠してきた、今それを元通りにしてくれるんだろ。赦そうじゃないか。どこにあるんだ、マリオン?」

「お父さん──はっきりさせなくてはならないの。お父さんは金なんてこさえてないのよ。わたしが三十五ドルを貯めて、お父さんが背中を向けている間に坩堝にすべりこませてきたのよ──お父さんが絶望して死にそうに見えたからしたことなの。まちがってたわ、今はそう思う──でも、お父さん、よかれと思ったのよ。赦してくれる?」かわいそうな娘は錬金術師に一歩近寄りました。

 彼はひどく青ざめ、よろめいて崩れ落ちそうになりました。ですがその次の瞬間、彼は持ち直し、突然おそろしいあざけり笑いを始めたのです。そしてこれ以上のものはないと思えるほど皮肉な口調で言いました。「陰謀だろ? よくできてるな、先生! こんな話をでっち上げておれと娘の仲直りをもくろんでるんだろう、おれが二年の間、娘の親への思いやりにだまされていたっていう話で。へたくそな話だ、先生、まるっきり失敗だな。おととい来やがれってんだ」

「しかし、請け合ってもいいですよ、ミスター・ブレークロック」わたしはできるかぎり真摯に言いました。「あなたの娘さんの言葉はまったくの真実だと確信しています。あなただってわかりそうなものじゃないですか、彼女は金塊を手元に置いていたから、金を作ったとあなたにいつも信じ込ませることができたんです、あなたの坩堝の中で金属変換なんて起こったためしがないってことはあなたにもわかるはずです」

「先生、」と老人は言いました。その口調は信念に満ちていました。「あんたはバカだ。娘にちょろまかされたんだ。一分もしないうちに天然のものより純粋な金を見せつけてやる。そうすりゃ信じるだろ?」

「そうなれば信じますよ」わたしは答えました。話そうとしたマリオンを身振りで制しました。老人に自ら真実を悟らせた方がよいと考えたのです──わたしたちは来たるべき危機を待ち受けました。

 老人は予期した勝利のせいか笑みをたたえ、坩堝にかぶりつき、棒で混合物をかき混ぜながら、しじゅう独り言をつぶやいていました。「さあ、」彼の声が聞こえました。「変わるぞ。ほら──灰汁(あく)だ。緑色と青銅色もちらちらしてる。ああ、なんとうつくしい緑なんだ! 結末に達したことを示す黄金のような赤の先駆物質だ! おお、黄金のような赤が出てきた──ゆっくり──ゆっくりと! 深みを増し、輝く、目がくらみそうだ。おお、できた!」そういうと、彼は化学者の使う火箸で坩堝をつかみ上げ、真鍮の容器が載っているテーブルへゆっくりと運びました。

「さあ、疑い深い先生よ!」彼は声を張り上げました。「こっちに来て信じるがいい」そしてただちに坩堝の中身を真鍮の容器に注意深く注ぎました。坩堝がすっかり空になるとそれをひっくり返して、わたしをまた呼びました。「来いよ、先生、来て信じるがいい。自分で見てみろ」

「坩堝に金があるかどうかをまず見たらどうですか、」わたしは移動せずに答えました。

 彼は嘲笑するかのように頭を振ると、声に出して笑いました。そして坩堝を覗き込みました。彼はすぐに真っ青になりました。

「ばかな!」彼は叫びました。「おお、ばかな、ばかな! 金はどこかにあるはずだ。マリオン!」

「金はここよ、お父さん」とマリオンが言い、金塊をポケットから取り出しました。「これが今までに手に入ったすべてよ」

「ああ!」とみじめな老人は金切り声を出し、空の坩堝を落とすと、マリオンが彼に差し出した金塊の方へよろよろと歩いていきました。三歩進んだところで彼は顔から倒れ込みました。マリオンは彼の元に駆け寄り、彼を持ち上げようとしましたが、かないませんでした。わたしは彼女をやさしく横に押しのけ、彼の胸に手を当てました。

「マリオン、」とわたしは言いました。「ありのままがよいのかもしれない。お父さんは死んだよ!」

(了)

翻訳 堀内悟(C)2008


フィッツ=ジェイムズ・オブライエン(Fitz-James O'Brien)(1828-1862)
小説家・詩人。アイルランド・コーク県生まれ。ダブリン大学に学ぶ。イギリス士官の妻と駆け落ちをしてアメリカ合衆国に渡った後、北軍の将校として参加した南北戦争で重傷を負い、戦死した。SFの先駆者との呼び声がある。


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