欠けた穴を埋めようと、
傾き過ぎた天秤に平衡を取り戻そうとして、
必死に足掻く。
溺れ死ぬ前に掴み取ったのは・・・・・


月明かりが部屋に差し込み、卓上を明るく照らす。
硯の中の墨は銀色に輝き、波立ちもせずに、底抜けの沼を思わせる。
ちろちろと鳴く虫の音は、耳には優しく、明るく冷たい夜は空気を洗浄したようで、幾許か心のざわめきを落ちつかせる。

「師よ・・・・」

心の中で繰り返された言葉が、口から突いて出る。
既に心の中は飽和だと言わんばかりに、胸の内は重い。
自らの声に驚き、冷えた指先を唇に宛がう。
乾いた唇を、少しだけ押した。
頭の中の大半を食べられてしまったかのように、
鈍重な思考は、単一の信号を発し続ける。

「何故なのですか・・・?」

私を裏切ったのは、それとも最初から欺いていたのですか?
唱えるたびに呪われていくように、体が拒絶し始める。
体が震えた。背中から体温が奪われていく。
染みついた反射的な行動が、体を丸ませた。
震えは既に、自分の力では御せないほどに止まらず、
揃えた膝に嘲りの笑みさえ浮かぶ。

もう、どうしようもないのだと。
この震えのように、声を発するだけでは止まらず、力でさえも敵わないのだと。
けれど、いずれ収まる。


今、この頭に占めている疑問も、胸の痛みもいずれ収まってしまうのだろう。
結果がどのようなものにしろ、自分自身で痛みなど淘汰してしまうに違いないのだ。
けれど、不要なものと排除されたくない想いも、人もある。

「私は、捨てないでいられるだろうか・・・我が・・・・」

師よ・・・と呟きかけて、胸から競りあげてきた痛みで口を閉ざす。
言葉にならなかった音だけは、潰れたように漏れ出ていく。

愛しています。
その気持ちを疑うことは、今まではなかったはずなのに、小石を投じられただけで波立つ想いは、愛などと形にする資格などなかったよう思える。
形になどしなければ良かったと悔いる。

今更、一秒前にだって過去には手出しは出来ないのに、
何かを掴もうと、膝から外した手を、窓に向けて伸ばす。

握り締めた手のひらの中には何もつかめていない。けれど、手繰り寄せる糸の端を掴んだかのように伸ばした腕を引き寄せる。

「お願いです・・・・置いて行かないで下さい」

あの手さえ、握っていれば何処にも迷わずに行けたのに。
世界の端だって、きっと行けただろう。世界の素晴らしいものに出会えただろうに。

別れを知らされた時に、ぐずる赤子のように縋った自分は、正しかった。
離れるだけでこんなにも心が荒れるものだと知っていれば、呆れ果てられようと、追いすがり続けた。

呆れられ、捨てられるのが嫌で、自ら離した手。
結局は、捨てられることになるとは知らなかったから、
優しい嘘を代わりに抱きしめた。

優しい師は、きっといつかは許してくれただろうから、
醜かろうと縋りついて、手を放さなければ良かったのだ。
そうすれば、ずっとゆりかごの中の赤子でいられた。
何故、赤子でいてはいけないのだろう。
夢を見続けてはいけないのだろう。

幸せに浸り続けてはいけないのだろう。

自分の”理想”と現実はあまりにもかけ離れ過ぎて、
夢の中にいた自分を引きずり出してしまった。
夢を夢と認識してしまっていたから、夢は覚めることも知っていたから、
今、この場所で声を押し殺すのだろう。

師と旅を続け、教えを乞い、慈しみの瞳を受けていられたあの時間の中でさえ、
この時間は容易く瓦解するであろうことを、既にあの時の自分は知っていたのだから。

父を亡くし、あっという間に滅亡してしまった時に、体と思考に深く刻まれてしまった。
自分では気付かないくらいに奥深くに。

何故、幸せに浸り続けてはいけないのだろう。

「我が・・・」

師よ、と続けられない。心の支えが消えてしまった。自分の世界の支柱を失ったことと同意義な存在は、
遠い地へと歩き、どんどんを離れていくのだろう。
もう、師と仰げないのだろうか。
捨てられたということは、もう彼の世界には”陸遜”という名は、何の記号も示さないのかもしれない。

それでも、自分が諸葛亮孔明という名を、自分自身から排斥する事は一生ないだろう。

例え、記憶として忘れ去ってしまっていても、”陸遜”という個には既に取り除けないほどに融け合ってしまっている。

師の教えは、自分の思考と行動の基礎となり、自分の願いでもあり、諸葛亮孔明は既に自分が望んだところで消えることも淘汰されることもない存在とまで
なっている。

二択が迫っている。
師のいる蜀へ向かうか、呉に忠誠を誓い続けるか。
不用と言われようが、自分は器用な生き方は出来ない。
必要ないならば、それできっぱりと捨て去って欲しかった。
曖昧な線引きでの別れが、陸遜を迷わせる。
師の本心は何処にあるのか、測りかねる。

冷えた卓上に頭を乗せる。横顔に浴びせられる月の光。
爪あとのように、細い月が夜の空に浮かんでいる。

「いらぬのなら、殺してください。孔明様・・・・」

この想いが醜くなる前に、貴方を傷つける前に、殺してください。
目元からこぼれた雫が、卓上へと落ちる。匂い立った木の香りに眠りを誘われたように、ゆっくりと伏せた目は、再び瞼を持ち上がる事はなかった。

fin.





























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