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月影迷夜
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月が明るい。窓から射す光が全身に当たる。
虫さえ鳴かず、生き物は密やかに寝静まっている。
今日のような、あまりの寂しげな夜は、陸遜の記憶にはあまりない。
このような夜は、例え周りが寂しげで泣きたくなりそうでも、自分だけは寂しくはなかった。
けれど、今夜は明るい月に救ってくれとばかりに手を伸ばした。

月の欠片も捕えることはできない。
指の間から光が溢れる様を無言で見つめた。
口を微かに開けた。喉の違和感に気付いた。
いつの間にか、この哀切な夜に、自分は囚われていたようだった。
何かの拍子で、泣き出してしまいそうなほどに追い詰められている。

(孔明様――…)

声には出さず、心の中で名を呼んだ。
何故、寂しく泣いてしまいそうなのか陸遜は当たり前のようにわかる。

孔明と別れた時から、陸遜は不安を常に抱いていた。
師との縁が耐えてしまうのではないか、玉璽とは何か、
そして、自分は何を成せば良いのか。
陸遜がわかることなど少なく、あまりにも一人でいるのは難しすぎた。
生活能力というよりも、心が折れかけている。
不安が常に己を巣食い、夜さえ満足に眠らせてくれない。

世は滞ることなく流れ、変容している。
それを作る人もまた然り。
しかし、師から離れた陸遜は蹲ることはないもののその場から動けずにいる。

また一人だ―…
陸家の滅亡は、幼い陸遜には耐えられないほどの衝撃であった。
当たり前であった親の庇護、家、生活や人との関係が、
一度に絶え、ただ残ってしまった陸遜が出来たことと言えば泣くことのみ。

立ち上がらせ、手を引いて歩いてくれたのは諸葛亮孔明という男だった。


柔和で、理知的、容姿は端麗な孔明が幼子のなけなしの警戒心をとくのは容易く、
信頼を得るのもそれほど時間はかからなかった。
拾われた目的は、陸遜にはわからなかった。
同情ではないことを漠然と感じていた。
だからこそ、面と向かって尋ねはしなかったし、今も不安の要因となっている。
尋ねてしまえば、関係が変わってしまう気がして仕方ない。

(一人になるのは、もう嫌だ―…)

辛い記憶は、だいぶ薄れ、目をつぶっても甦ることはない。
けれど、思いだけは強く残っている。
二度とあんな思いはしたくないと。

変わらず明るい夜は、刻々と過ぎる。
陸遜が憂わしく思案する様を月は見守る。

夜空を見上げて陸遜は思う。

月は孔明だと―…

移ろう姿も、静かに輝く様も、裏を見せない所も。
(月のような人―…)
掴めない所も似ている。

先ほど伸ばした手を見つめた。
光に照らされはするも、何かが残っているわけではない。

(みな、寝ているだろうな)

凌操の邸に居候している他の者が起きて様子はないようだ。
明かりは月以外になく、物音がするようなこともない。

窓から見える邸を見つめ、それから辺りを見渡した。

仲間が出来た。
孔明と陸遜だけだった関係は終わったことを孫策と対峙した時に知った。

親の敵、この男に膝を屈しなければいけないという思いは、
師を懐(おも)うことには勝らなかった。
逡巡するも頭を垂れた。

思い返し、記憶と同じように頭が下がった時だった。
人の気配を感じて、部屋の奥を自然で探る。

「諸葛謹…」

「寝ないのかい?」

いつものおどけた態度を潜め、理知的な顔を晒す。

「…月が明るくて、なかなか眠れない」

「だからって月見かい?」

奥より、陸遜のいる窓に近付いてきた諸葛謹は、
月を慈しむように目を細めて見つめた。
その様子に、陸遜は戸惑う。

「諸葛謹は…月が好きなのか?」

陸遜が声をかけると、彼は悲しそうな顔をした。
すでに空を仰ぎ見ることを止めた諸葛謹は、代わりに邸の庭に視線を移していた。

「嫌えはしないさ」

「?」

何か別のものの事を言っている。陸遜は、そう感じ、もう一度、月を見た。

(孔明様―…)

変わらぬ月が、孔明の姿と重なる。先程、見つめていた時より、ずっと強くそう感じる。

「見過ぎだよ、陸遜。月の光は、人を惑わせる」

「あっ…」

月に見入っていた陸遜を諸葛謹が抱き込んで、手をかざし視界を奪ってしまう。
「諸葛謹!!放して下さい」

「駄目だよ…まだ抜けてない」

片手を目の上に置き、もう片手で諸葛謹は自分より小さな体を抱き込み、
頭を小さな肩に乗せる。
抵抗しにくくなった陸遜が、身じろぐ。
戸惑い混ざる緊張が、諸葛謹にも伝わる。

困惑して諸葛謹の気配を窺う陸遜の様子に、諸葛謹は安心を覚える。

(あいつのことを、考えるのは毒だ)

「諸葛謹…」

「もう少しこうしてれば眠くなる。じっとしてな。あたしが寝所まで、運んであげるからさ」

優しさの滲む声に陸遜は動揺して、顔をずらして視界を取り戻そうとした。
しかし、諸葛謹に胸元を押さえこまれ、より強くなった抱擁に陸遜はさらに追い込まれた。

「子供扱いしないで下さい。一人で行けます…手をどけて下さい」

「子供さ…子供は月が毒とは思わず、見続けて、心に闇を宿してしまうものさ」

「月が…?」

毒―?と、陸遜は不思議そうに呟き、不自然に黙り込んだ。
何か考えついてしまったようだ。

「月見は一人でするもんじゃないよ。するにしても、月に酔っちゃいけない。
酒にでも酔ってなければ、駄目さね」


月から隠れるように、窓から数歩だけ移動する。
影に入ったところで、ようやく諸葛謹は手を放して陸遜を解放する。

「諸葛謹?」

「あまりアレに入れ込んではいけないよ」

「……それは月の…?」

視界が戻っても、諸葛謹が言われた手前、窓を見るのをはばかり、
代わりに諸葛謹の様子を窺う。
どうも、月を諸葛謹も何かに、あるいは誰かに例えている節がある。
答えには思いついてはいるものの、兄である諸葛謹からはっきり聞きたくなくて、
最後は尻窄まりになり、上目に見上げ視線で続ける。

「どうだかね」

諸葛謹は、薄く笑った。自嘲めいているのに、悲愴しているようにも見える。
はぐらかそうとしているのか、彼自身わからないのか判断しにくい。

「だいぶ体が冷えたね。戻るよ」

「諸葛謹っ!!」

肩を掴まれ、無理矢理方向転換させられる。
ぐいっと押され、お喋りは終わりだと知って、思わず呼び止める。

(はっきり言われたくない―…)

「陸遜ちゃん、あんた、だいぶ体が冷えてるよ。さぁ、戻りな」

「あっ…」

ためらう様子の陸遜に構わず、諸葛謹は背を押して陸遜を歩かせる。
振り仰ぎ、諸葛謹の顔を見た陸遜は、そこでようやく諦める。
いつもの飄々とした表情に戻っていた。

「………」

気まずい雰囲気に押し黙る。足だけは動かしているものの、心は何処か虚ろ。

すがるものは、師しかいないのに、否定されてしまえば、何を頼りにすればいいのかわからない。
また、恐怖めく。


「人間は、地上で生きるもんさ。それ以上、どこにだって落ちやしないさ」

「えっ…?」

「歩いてれば何処かに行ける。月は好き勝手行けやしない。あたしは、人間でいいさ」


足を止めて振り返る。苦笑した諸葛謹が、陸遜に手を伸ばす。
ゆっくりと、頭を撫でてから、その手で前を指し示す。

その方向に、陸遜の寝室があった。

「おやすみ、陸遜」

「おやすみなさい…」

背を向けて、自室に戻る諸葛謹を陸遜は見送る。
角で曲がった所で、ぼやついた思考が戻ってくる。

(我が師のようだった―…)

師がするように、頭を撫でられ、反射的に目を細めて受け入れていた。

「歩いていれば、何処にだって行ける…か」
戸を開ければ、開いた窓から光が差し込み、部屋の中を明るく照らしていた。
窓に近づき、腕を伸ばす。


「おやすみなさい、我が師」

窓を閉じた途端に、闇が落ちた。
横になって、目を瞑る。

不安は、もうなかった―…。




fin.



























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