アリスの娘たち〜  フレイ/永遠の時とともに(2)

教授は2人を自分の研究用の個室に招じ入れた。端末からアリスを呼び出し、
フレイの過去のデータをまとめるように命じた。ディスプレイに表示された医療
データを見ていた教授は、やがてこう告げた。
「この子は、しばらく私が預かろう」
「ええっ?でも、このコはまだ性転換してやっとひと月なんです。まだお勤めで
きるような時期ではありませんし、第一男の人に預けるなんて」
「別に伽をさせるわけではない。治療のためだ」
「その、一緒となると……。パートナーの方とはどうなさるんですか?」
「私にはパートナーはいない。この研究用の個室で暮らしている。隣の保管庫
を片付ければ、この子用の個室も作れるだろう。部下に用意させる」
「しかし……。この子にはまだ覚えなきゃいけないこととかありますし」
「では、毎日ここへ通わせるかね?」
姉は黙らざるを得なかった。科学研究部のあるブロックはフレアたちのいる
中央ブロックとは農業区画を隔て、さらに後部居住ブロックも越えた機関部側
にあった。船体を縦断する交通システムは、先週老朽化が原因の事故で使え
なくなっており、修理が完了するまでまだ2ヶ月はかかるということだった。
加えてセキュリティの厳しい科学技術部と機関部への立ち入りは厳しく制限さ
れており、今日だってここへ来るまで手続きを含めて2時間半もかかった。
その間、フレイはずっと好奇の目に晒されることになり、心配した姉は何度も
人目に付かない場所で休憩を繰り返しながら、ようやくたどり着いたのだ。
毎日通ってくるなんて論外だった。
「お姉さま、私大丈夫です。心配しないで」
「フレイ……。わかりました。教授、このコをよろしくお願いいたします」
そういうと深々と頭を下げた。フレイの手を握り、それでも心配なのか、最後に
フレイをぎゅっと抱きしめ、中央ブロックへと帰っていった。

「アリスの姉妹のパートナー関係は、特別とは聴いたことがあるが……、
君たちはいつもあんなに、相手を思いやるものなのかね?」
「お姉さまはいつも私のことを第一に考えてくれるんです。大切な時期だからって」
「そうか、では私もなるべく君の事を考えているようにしよう」
服を脱げと言った時に顔を赤くした時以外、あまり表情の変化が見られないフレイに、
教授は疑問を感じながらも、姉がしていたようにフレイの手を握りながらたずねた。
「私が怖いかね?」
「よく……、わかりません。だってまだ会ったばかりだから……」
「では、私のことから話そうか……」
教授はフレイに自分の略歴と、今手がけているプロジェクトの話などをかいつまんで
説明した。フレイは黙って聞いていたが、自分の何倍もの時間をこの船の中で過ごし
てきた教授の話は、難しくてよくわからなかった。

「……以上だ。何か質問は?」
「教授。教授は今、幸せですか?」
「何だって?」
予想外の質問に、教授は聞き返した。
「私、お姉さまや他の人たちにもたくさん心配かけているんです。私、誰の役にも立っ
ていない。迷惑かけているだけなんです。誰かのために役立つことが、この船で暮ら
す人の幸せだって、お姉さまは言っていたけど、それならたくさんの人の役に立って
いる教授は、とても幸せなのかなって……」
「君は、いま自分が幸せではない、と思っているんだね?」
「よく解りません」
「ふむ……」
教授は、この娘が快感を感じない以上に、もっと根本的問題を抱えているので
はないかと感じていた。

部屋が準備できるまでの間、教授はフレイに部屋のものは何を使ってもよいから
と言い残し、科学技術部の執務室で溜まっていた事務的な作業を片付けていた。
教授は数時間後に「準備ができました」との部下の報告を受けた。仕事の区切り
が良いところで作業を一度中断し、フレイを自室から用意された部屋へ移そうと
個室へと戻った。フレイは教授が部屋を後にしたときのまま、椅子の上に座った
ままだった。教授は確信に近い不安を感じながら尋ねてみた。
「ずっと、そうしていたのかね?」
「はい。ここで待っていろ、と教授がおっしゃったので」
フレイは表情を変えずに答える。
「……のどは渇いていないかね?」
「はい」
「お腹はすいているかな?」
「はい、少し」
「トイレへは行きたくないかね?」
「はい、行きたいです」
「わかった、ではまずトイレへ行って、その後で飲み物を少し飲んだら、食事にしよう」
「はい」
質問の間、フレイはほとんど表情をかえなかった。
(思ったとおりだ。この子には快感どころか、情緒表現とそれに伴う動作そのものが
非常に弱い。だから感じたことを動作で表現することができないんだろう。だとすれば、
これは私の領分ではないな。まだ伝助先生のほうが適任と思えるのだが……)

結局教授はその日執務室へは戻らず、自室でフレイと簡単な食事を済ませると、
いくつかの簡単な質問をした。見慣れない機械が部屋にたくさんあるせいか、
時折小型の表示器などが明滅するたびに、フレイは落ち着かない様子を見せた。
1時間かけてようやく問診を終え、結果をレポートにまとめて伝助医官へとメールし、
早々にフレイを用意された隣室へ寝かせた。そしてヴィジホンで伝助医官を呼び出し、
自分の所見を簡単に伝える。

「……以上です。先生、私には手に負えそうもありません。いえむしろ、"アリスの娘"
をたくさん診てきている、先生のほうこそ適任なのではないかと思うのですが?」
「レポートは読んだ。君の所見は的確だとワシも思う。だが、いろんな意味で、
これは君が適任ではないかとも思っておる」
「なぜです?確かにここでも薬物治療なら行えますが、心までは治せません」
「フレイには、自分が無い。白紙状態じゃ。彼女に必要なのは楽しいときには楽しいと
感じ、悲しい時には涙を流すことなのじゃ」
「ですから、それは私には……」
「キミは昔、アリスに人格を持たせることに成功したではないか」
「人格と呼べるほどのものではありませんよ。そう見えるだけで、単なるフロントエンド、
インタフェースです。端末用のクライアントですから、アリス本体に人格があるわけじゃ
ありません。そもそも管理コンピュータに人格など不要です。勝手な判断や思い込みで
処理を始めでもしたら、大変なことになりますからね」
「いいのじゃよ、それで。フレイはコンピュータではない、生きている人間じゃ。
アリスと違ってやりがいがあるだろう?」
「そんな乱暴な。第一私に子供の面倒を一日中見ていろ、とでも言うのですか?」
「子供子供というが、この船では誰もが作業に従事し、役割を果たしておる。
あの子だってきちんと基礎過程は修了し、暫くはしっかりと仕事についておったのだぞ」
「それは、普通の場合でしょう?第一、15歳以下は見習いです。それに、性転換を終えた
ばかりのアリスの娘は子供同然だと、おっしゃっていたのは先生ではありませんか」
「あの子は頭が良いし従順だ。言われたことは忠実にこなせるし、逆らったりすることも
無い。一日中付き添ってやる必要はない」
「自分でトイレにも行けないんですよ?」
「トイレの場所を教えなかったからじゃろう?」
「……確かにそうですが、頭が良いのならば自分で、それに部屋のものは何でも……」
「何でも使って良いと言ったが、その中に用を足せるものは無く、その部屋でおとなしく
待っていろ、と命じた。そうじゃろう?」
「……おっしゃるとおりです」
「あの子に何かを教えることは確かに難しい。言われたことしかできんからな。笑え
といえば 笑うことはできるが、それは単に他人がやっているのを見て真似ているだけじゃ。
しかし、そうなってしまった原因は……」
「先生、そちらで患者か誰か、苦しんでいませんか?」
「いや?」
「おかしいな、確かに泣き声のようなものが聞こえたような気が……」
教授はもう一度耳を澄ませると、微かだが確かに聞こえる。それはどうやらフレイの
寝ている、隣の部屋からのようだった。
「先生、また明日ご連絡します。とにかくそちらで彼女の受け入れをお願いします」

教授は隣の部屋のドアを開けて中に入った。照明の落とされた部屋のベッドから、
確かにすすり泣く声がする。
「どうしたんだ!どこか具合でも悪いのか?」
教授はつい大声を出して、毛布に包まり震えているフレイに近寄った。
「ごめんなさい! ごめんなさい!ボクが悪いんです!ボクがあの時、モニターを
見落とさなければ!」
「なにを言っているんだ?寝ぼけて怖い夢でも見たか? アリス、少しだけ明るく
してくれ」
暗闇から少しだけ明るくなった照明で、目を真っ赤に泣き腫らしたフレイの呆け
た顔が浮かび上がる。
「……誰? ボ……、私……。 教授?」
「目が覚めたか? ひどい汗だな。タオルを取ってくる」
教授は腰掛けたベッドから立ち上がろうとすると、意外なことにフレイは教授の
左手を両手でしっかりと握って離そうとしない。すぐ戻るからと言いかけた教授に、
フレイは俯きながら小さな体を振るわせ、
微かな声で教授に懇願する。
「……お願いです。少しのあいだ、手を離さないでいてください」
あまりに小さな願いに、教授は無言でフレイを自分に引き寄せ、しっかりと抱き
しめた。一瞬、フレイは体をびくんとさせたが、やがて自分からも教授にしっかり
と抱きついて、嗚咽に体を震わせていた。
(こんな小さな子が、声を殺して泣くとは…。一体、この子に何があったのか?)
「落ち着いたか?」
「取り乱してすみませんでした。教授」
ようやく落ち着いたフレイを自室に連れて戻った教授は、温めたミルクを与えて、
フレイの不安要因となる部屋中の表示機器類を片っ端から消したり、テープを
貼り付けたりしていた。
「さて、さっき見た夢の内容を話してくれるかな?」
「……思い出せません」
「フレイ。私は君を責めたりはしない。この部屋にはアリスのモニタもない。話し
てくれないか?」
「……」
教授はフレイが夢でうなされたのは、彼女の過去に原因があるのではないかと
推測したが、端末にアクセスしようにも、モニターの表示にまたフレイが反応す
るかもしれないと思うと、本人に直接尋ねるしかない。
「質問を変えよう。君は今何歳かね?」
「12歳です」
「12?生まれたのは?」
「2年前です」
「……君の元の名前、性転換前の名前は?」
「ジュン」
「では"ジュン"君。仕事をしていたそうだが、何の仕事かね?」
「EVA(船外活動)です」
「パートナーの名前は?」
「……」
「……"ジュン"君のパートナーの名前は?」
「……ト、……トオヤです」
「トオヤ君も、EVA要員だったんだね?」
「……そうです」
「さっきは、トオヤ君のことを思い出していたのかな?」
フレイはそう尋ねられると、はっとしたように目を見開いたが、すぐに下を向き、
やがてまた声も出さずに泣き始めた。
「思い出させてすまない。今日はもうやめておこう。部屋へ戻ってもう寝なさい」
教授は自分の探究心を優先させたこと後悔した。フレイがなかなか椅子から立
とうとしないため、手をとって立ち上がった。しかし、フレイはぎゅっと教授の手を
握り締めて、立ち上がろうとはしなかった。
「……私、一人で寝たことが無いんです」
(うっかりしていた。12歳で、しかもひと月前に娘になったばかりなら、普段寝る
ときには常にそばに誰かいたに違いない。一人で寝かせたのも不安要因のひと
つか……)
「わかった。一緒に寝よう。君のベッドでは私には小さすぎる。わたしのベッドで
良いかな?2人では少し狭いが」
フレイはこくんと頷いて立ち上がった。教授に手を引かれ、続きの小さな部屋に
入ろうとしたが、入り口で立ち止まってしまった。
「踏まれると困るものもあるからな」
そういうと教授はフレイを抱き上げ、乱雑に散らかされた狭い部屋の中を埋め尽
くす、得体の知れないガラクタ群を器用に避けてベッドにたどり着き、フレイを横
に寝かせた。教授も上着を脱ぎ、フレイのすぐ隣に横になる。
「あの……教授。手を……握っていて、くださいますか?」
「ああ、いいとも」
「それと……、今日はできれば……その。あ、明日はちゃんとしますから……」
フレイは少し顔を赤くしながら、教授を上目遣いに見る。
(バカな、こんな子供に……)教授はフレイの言わんとしている事に気づいたが、
それを明確に否定すると、せっかく開きかけたフレイの心の扉が再び閉じてしま
いかねないのではないか?とも思った。同時にこんな小さな子供のうちから、
そういったことを学んでいかなければならない、娘たちの境遇にも憐れさを感じた。
「君は治療中だ。治るまではそんなことは考えなくていい」
そういうとフレイは安心したように、教授の手をしっかりと握り、目を閉じた。教授が
フレイの髪を撫でてやると、安心したのかすぐに寝息を立て始めた。
(この子は決して感情が無いわけではない。自分を表現することを知らないのか、
それとも何かの原因で自分を閉ざしてしまったのか……)
そう考えながら、教授もやがて深い眠りに落ちていった。

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