20:30をまわっていた。
僕は早足でバス通りへ出た。
(あの男は?)
振り返ると、男はタバコに火をつけながらこちらの様子を伺っている。
僕はいよいよ気味が悪くなり、男の視界から離れようと、仕方なく交差点をいつもの逆に移動した。
見ると20mほど先に奥が痛くなるほどキラキラした場所だった。
店内の壁やフロアーの棚一面には、いかにも高級そうなクリスタルの食器や陶器が並べられている。
上品で整然とした雰囲気。
「何かお探しでしょうか?」
若い女性店員が優しく声を掛けてきた。
「あ、あの…いえ…」
必死に息を整えながら、そう応えるのがやっとだった。
店員の落ち着いた応対に平静を取り戻していく。
考えてみれば僕は場違いな客だった。
着つぶしかけのダボッとしたシャツに色褪せたジーンズとスニーカー。いつもの見窄らしい格好。
「このお店は何時までやってるんですか?」
気恥ずかしさを誤魔化すように、僕は意味のない質問をした。
「21:00までです。」
「そうですか じゃぁもうすぐ…」
また意味のない相槌を打ちながら、何気なくショーウインドゥに目をやった。
「キャーーッ!!」
僕は驚きと恐怖のあまり、カン高い叫び声をあげた。
そこには、こちらをじっと見つめる人影――あの男だ。
ガシャーン
けたたましい音をたててガラス食器が床に砕けた。
驚きによろけた僕の肘が棚の商品を倒してしまったのだ。
店員は目を見ひらいたまま硬直している。
再度ショーウインドゥを振り返った時、そこにもう男の姿はなかった。
「ウチへいらっしゃいよ」
濡れた髪の毛をバスタオルで無造作に拭きながら、僕はあの店の女社長の言葉を反芻していた。
(もうそろそろ、変わらなきゃいけない)
東京に戻って2ヵ月、このマンションに引きこもりながらそう思い続けていた。
このままでは本当に死んでしまう。
いや、死なないまでも、このままでは一生どぶネズミの様に人に怯え、夜の闇に這いつくばり、惨めに生きていくしかない。
僕は窓の前に立ち、閉じられたカーテンを開いた。
そしてゆっくりと頭にかかったバスタオルをとった。
暗闇の窓に髪を濡らした若い女の姿が写る。
「奈緒…」
色素の抜けたガラス玉のような瞳と、小さく柔らかそうな唇。
僕は奈緒の――自分の顔を、これほどまじまじと見るのは初めてだった。
美しく整った顔だちなのかもしれない。
しかし、それが今の自分の顔だと思うと気味の悪いマネキンのようにも見えくる。
そして一度目を閉じ、バスローブの紐に手を掛けた。
再び目を開いた時、そこには全裸の女性が立っていた。
その肢体を見て、僕はまず意外な印象を受けた。
自分が思い込んでいた身体よりはるかに豊満なイメージ。
首、肩、ウエスト、手、足はどこも折れそうなほど細い。
しかし、同じ身体に付いているとは思えないほど豊かな胸と抜けるような白い肌が視覚を膨張させていた。
一年前のようなショックや落胆はなかった。
僕はだんだん自分の気持ちが軽くなってきているのを感じ始めていた。
下に目を落とすと、たわわな乳房がある。
(けっこう大きいな)
なぜか妙に可笑しさが込み上げてくる。
僕は全裸のまま、声をあげて笑いはじめた。
こんな乳房にやたら興奮し、いざ自身がそうなった途端、思い悩み塞ぎ込んでしまった。
いま、そんな自分が滑稽で仕方なかった。
僕はクローゼットの奥から幾つかの段ボール箱を引っ張りだした。
それは奈緒の実家――由崎家の家政婦が勝手に送りつけてきた彼女の“遺品”だった。
中には衣類や装飾品、書籍など、奈緒が以前使っていたであろう品々が入っている。
僕はその“遺品”を取り出しなだら、少し明るくなり始めた部屋で、自分の“命日”でもある、あの日を思い返した。
朝もやの立ちこめる海岸沿いの国道と真赤なBMWのテールランプ。
バイト仲間達の浮かれた笑顔と頬にあたる冷気の感触。
スローモーションで流れていく女の横顔と超然とした眼差し。
絶叫とともに浮き上がる感覚。
薄暗い病室の白い天井と壁。
涙ぐむ初老の女と何か問いかけている看護婦の顔。
ため息をつく医師と顔覆う初老の女。
鏡に写る蒼冷めた女の顔。
海の見える高台の古めかしい洋館。
ひっそりとした二人だけの食卓。
男達の野卑な視線。
夕日の射す病室と母の葬儀。
窓の外は青白く光りはじめていた。
その光は、ローカウンターに置かれた古めかしいオルゴールを照らしている。
それは東京に戻る時、唯一、僕が由崎の家から持ち出したの物だった。
オルゴールのフタを開けると、どこか物悲しく不思議な旋律が流れはじめる。
曲名は知らないが聞き覚えのある旋律――。
僕はゆっくりオルゴールのフタを閉じた。
「困ったわねぇ」
女社長は呆れた表情で僕を見た。
「これじゃ、お店に出てもらうわけにはいかないわね」
僕の格好に問題があったようだ。
部屋を出る直前まで必死に考えた、精一杯のワーキングスタイル。
ダークグレーのパンツスーツに黒のコンフォートパンプス。
奈緒の“遺品”からどうにか探し当てたものばかりだ。
何が悪くてどこがおかしいのかさっぱり解らず、僕はただキョトンとした顔で立っていた。
「とりあえずこれに着替えてちょうだい」
渡されたのはクリーム色の制服らしきスーツだった。
「スカート…ですか?」
社長は見ての通りという顔でうなずいた。
それまでスカートを履いた事はなかったが、こうなったら着るしかない。
右前のブラウスのボタンに手間取りながら、僕は何とかスーツに着替えた。
しかし、その制服姿を見た社長の表情はさらに曇った。
「全く身に合ってないわね…背かっこうはこのくらいだと思ったんだけど」
確かに着丈はさほど違わないように思えたが、胸と腰まわりが窮屈で、逆に肩とウエストがブカブカだ。
ブランド物のコンシャスなスーツなのに、着た感じがだらしないのは僕にでも分かった。
「仕方がないわね。制服はリフォームするとして、あなた、ふだん髪型とかメイクは?」
「…化粧とかはあまり…というか、ほとんど…」
呆れた社長の表情が驚きに変わっていく。
「ひょっとして、下着も全部そんな感じなの?」
「はぁ、そういうのもあまり興味がないので…」
「昨日…あなたの格好を見て少しイヤな予感がしてたのよ…」
社長は目頭をつまみながら首を左右に振った。
「ちょっと出てくるわ。…夕方にはもどれるでしょう」
そう言って、社長は僕の腕をつかみ店を出た。
それからの半日、僕は女社長に街中を連れ廻されるはめになった。
まず開店したばかりの美容院で明るい色のミディアムレイヤーにカットされ、手足の爪をいじられた。
それだけで2時間もかかった。
午後からは百貨店に行き、洋服、靴、バッグ、アクセサリー、下着からパンストまで、
およそ女性が身につけるであるろう全てのアイテムを、まるで特売の食料品を買うようにポンポンと買っていった。
僕は後半さすがに気兼ねして、社長がレジでカードを切るたびに遠慮しようとしたが、彼女はまったく取り合わなかった。
気疲れしていく僕とは逆に、社長はこの買物を楽しみ始めていた。
「ほら、イイじゃない。素材はホントにイイんだから」
試着や小物のコーディネートを確認するたび、社長はこの言葉をくり返した。
そして、最後の化粧品売場で美容部員に教わりながらメイクを終えた時、一層大きな感嘆の声をあげた。
「由崎さん、あなた本当に綺麗よ!」
美容部員も得意気にうなづいている。僕はただ気恥ずかしい思いで俯いているだけだった。