君が最後の答えをくれたのはある雪の日の事だった(カット部分)
水分を多く含んだ雪は、風に流される事なくただ淡々と真下に向けて降り積もっていく。街の真ん中にいるというのに、大学の広大な土地の中心には時折、驚くほどの静寂が訪れる事があった。今がその時。雪がほとほとと降っている。重く、漸く目を覚ましたような、少し寝ぼけた雰囲気で。この冬初めての雪は、けれどギルベルトの視界を遮るには十分な量。
イヴァンの背が見える。研究棟の入り口にぽつんと一本、立っている街灯の下。厚い雲が覆った外は、夕方だというのにもう暗い。街灯の灯りもまた、雪でふっふっとその光量が変化していく。ランタンのように、ろうそくのように。不安定に揺れる灯りの真下、イヴァンもまたギルベルトの目には何処か儚いものに見えた気がして。慌てて外に飛び出した彼は、けれどそれ以上進む事が出来ないでいた。
故郷にも雪は降る。肌を刺す冷たさも、痺れる指先も体感として知っている。それでもなお降り続ける雪は、ギルベルトをイヴァンから遮断しているようだった。ギルベルトが知る冬ではなく、その世界に彼は属していないかのよう。ぐずぐずとだらしない、中途半端な自分を嘲笑うようだとすら思えた。
イヴァン、イヴァン、イヴァン
名前を呼んでその手を取りたい。なんで外で待っていたのだと、ロビーの椅子に座っていればよかったのにと、苦笑を漏らして抱きしめてやりたい。それはギルベルトとイヴァンの関係において、なんら問題がある行動ではない。後輩としても、恋人としても。どちらでもいい、気安く話しかけて、肩にうっすらと積もった雪を払い、湿った髪を撫で付けて。馬鹿だなぁと笑えばいい。
後輩としても…恋人としても。
その事実を思い出すたび、ギルベルトの胸がぎゅうと締め付けられ、一歩も先に進めなくなる。望んだこと、喜びを持って受け入れた事。それなのにもう、ギルベルトは一歩も前に進めない。イヴァンが好きでどうしようもなくて、その気持ちを今は隠す必要がなくて、もうメールを故意に無視することも絶望的な気分で電話を無視する必要もない。それなのに。
イヴァン、イヴァン、イヴァン
今名前を呼びたい。イヴァンはきっとすぐに振り返り、何時ものように優しい笑みで近付いてきて、名前を呼び返してくれるだろう。先輩としても、恋人としても。そうあるべき行動として、ギルベルトの肩に積もり始めた雪を払い、濡れた頭を撫でてくれるはず。わかっているし、そうされる事を望んでいるというのに。
何故一歩を踏み出せないでいるか、その理由がわからない。これならばまだ、苦しい胸の内に堪えながらセフレをしていた時の方が、ずっとましだ。ずっとずっとまし。
イヴァン、イヴァン、どうにかしてくれ。俺はもう、一歩も進めない
本当は、抱きしめられたい。キスだって、それ以上だってイヴァンとする行為は何よりも大切で、でもそれだけではなくて、こんな雪の日は白いヴェールに隠れて手を繋ぎたいと思う。雪がまだ全て溶けていなかった出会いの頃、違う意味で繋ぎあった手は今、繋げばとても温かい。
ああそれなのに、今2人を隠してくれるはずの雪は、ギルベルトとイヴァンの間に立ちふさがる白い壁。一歩を踏み出せないギルベルトはただ、愛しい恋しいと胸の内、冷え切り凍えた言葉をただ真下に積もらせて、溶けて泥にするだけだ。風に運ばれ軽やかに、澄み切った空を舞う粉雪ではない。この気持ちはまだ曖昧で、多分に水分を含み固まりもしない。片鱗を覗かせているだけで。
泣いては駄目だと思う。今はまだ、水分が凍ってしまえないから。泣いてしまったら涙はただ流れるだけで、きっとイヴァンはそんなギルベルトを見て、切ない悲しい顔をするだろう。
「ギル君」
指を噛み、皮膚を食い破り、理性を保っていた夏から一歩も。ギルベルトは一歩も前に進めない。漸くギルベルトに気付いたイヴァンが、何処か恥ずかしげな顔で笑っている。もたれかかっていた街灯から背を離し、ゆっくりと近付きながら。怒られるだろうか、そんな顔をする彼がただ愛おしい。本当にそれだけなのに、出せないでいる。
「なんで外で待ってた。お前ならこんな気温序の口だろうけど、鼻の頭は赤くなってんぞ」
イヴァンの望み通り、少し怒った顔で高い鼻に、そっと触れるくらいは出来るのに。何でもない事のように、冷えた指先をイヴァンの頬に押し付ける事は出来るのに。ギルベルトはまだ、気を張り詰めていないと泣きそうで。
くすぐったげに笑うイヴァンが、ギルベルトの冷えた手を取り唇に押し当てる。そんな密やかな戯れにすら、鼻の奥がツンと痛い。嬉しいはずなのに、今塞き止められた涙は喜びのそれではなかった。
何故だろう、何をまだ、間違えているのだろう。全ては自分の望む方向に向かったというのに。
「寒ぃ、冷たい。先輩コーヒー奢れ」
自販機でいい
言いながら、何でもない事のように。少しだけ身を引いて、イヴァンの唇から指を引き抜く。すぐにジンと感じる冷たい空気に、ただただ唇が恋しいと思うけれど。少しだけ気落ちした様子のイヴァンには、心から申し訳ないと思うけれど。ギルベルトはまだ、持て余した感情に押し潰されそうで。それだけが怖い、怖い。
「ちゃんとしたの飲みに行こうよ。折角の初雪だよ、ギル君と見たかったから」
それでも、ひとつだけ確かな事はある。
イヴァンはなんの躊躇いもなく、離れたギルベルトの手を握った。握ってそのまま、積もるでもなく溶けていく、黒く濡れたアスファルトを進み始める。目の前には名物ではないただのポプラ並木、研究室しかないこの一帯に人はほとんどいない。奥にあるテニスコートはもうネットがない。その横を抜け、大学のメインストリートまで。イヴァンは確りと、ギルベルトの手を握り続けるだろう。
「この温かい初雪の中、君と歩きたかったんだ」
何でもない事のようにそう言って、ふふと笑うイヴァンが。好きだ、どうしようもなく、ただ好きだ。
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