祖国を撃て(ギル君カリグラさん)



澄み渡った透明な午後の光が、演習場という名の広場に薄らと膜を作っているようだ。吹き抜ける風が肌に刺さり、ひりひりとした痛みを感じる。雲ひとつない晴天の空はけして蒼くはない。靄がかかったように白くぼんやりとした水色。薄く薄く水で溶いたような、凍てついた氷の色。
降り積もった雪が更に凍り、硬い硬い大地になる。演習場は見渡す限りの白、白、白。膜を張った光は今、乱反射して目が霞む。
それでもギルベルトは演習場の中心を見つめ続けた。司令室がある建物の、薄汚れた壁に凭れかかって。
イヴァンが立っている。
硬い雪の大地にひとり、演習場の中心に。笑みを浮かべながら、何でもない事のように立っている。見つめる先には一部隊。エリートと呼ばれる、最も頂点に近い特殊部隊。彼らは一様に、銃口をイヴァンに向けていた。



今か今かと号令が鳴り響くときを待つ、その緊張感は肌を刺す冷たい空気の非ではない。ギルベルトはその緊張の中に、明らかな悲壮感を感じ取っていた。
何故、何故、何故
愛国心を覆す、それは彼らにとって最も辛い命令だろう。祖国を撃てなどという、最も執行したくないだろう命令。
初めてその現場に立ち会ったときは、イヴァンの上司は本気で頭がおかしいのかと思ったけれど。イヴァンは命令されるたび、苦笑だけで軽々と表舞台に足を踏み入れる。
「僕の愛する子達」
慈しみ、温かい視線を投げかけながら。柔らかく幼い笑みで、ひとりひとりの顔を見つめながら。
「躊躇わないで。僕の心臓はここ、だよ」
とんとひとつ、胸を叩く。
途端鳴った号令。散々叩き込まれた動作でもって、響き渡った多数の銃声。透き通るような透明な午後、遠くの方で鳥達が、一斉に羽ばたく音がした。



ギルベルトはいつの間にか、手で口を覆っている。
命令は祖国を撃つ、だけではない。全弾叩き込む事だ。良すぎるギルベルトの耳は、銃声に負けないほどはっきりと、嗚咽を聞き取っていた。
祖国を愛する事が最上と叩き込まれた者達が、祖国を傷付ける事への罪悪、悲壮、懺悔。
途中でイヴゥンが半歩後ろに、左足を下げた。けれどそれだけ。胸を狙え、言われたままに狙われる胸はそろそろ大きな穴が開きそうだ。照準をそれて当る腕、肩、喉。その衝撃全てを、イヴァンはただ受け止め自身の力で吸収していく。
顔は俯いていて見えない。硬い硬い氷の大地が、衝撃で少しだけその表面を削られている。イヴァンの靴に削られて、削ぎ落とされている。ギルベルトの目には、それしか映らない。



血は出なかった。正確には、全身を打ち抜かれたにしては、少量しか出なかった。それはそうだろう、イヴァンが心臓を指し示したその場所に、心臓はない。最初からない、ギルベルトが預かっている。
以前噴出した血の量に耐え切れなくなった軍人の1人が、その場で自身の頭を打ち抜いた。見事な愛国心、見事な忠誠心。けれどそれは、国にとってもイヴァンにとっても望む結果ではなかった。それ以来心臓は、ギルベルトが預かっている。
とくりとくりと鼓動を続ける心臓を手に、ギルベルトはただ手で口を覆う。撃たれて千切れて粉砕されながら、その場で即座に再生を開始するイヴァンの強靭な肉体を見つめながら。目は反らさない、反らせない。
銃声が収まり、鳥達の羽ばたきも聞こえなくなり、まるで真空のようなぼわんとした余韻が空を覆う。透明な光の膜は、ボロボロになったイヴァンの姿を余すところなく浮き上がらせていた。
喉を何発か貫通している。イヴァンは暫く話す事すら出来ないだろう。話そうとしても、ひゅうひゅうと空洞の音がするだけ。 やがてゆっくりと、俯いていた顔を上げたようだ。口から何かを吐き出した、それはきっと喉に留まってしまった銃弾だろう。 吐き出して、半歩下がった左足を元に戻して。
「僕は倒れない、僕は膝を付かない、僕は滅びない。愛しい子達、それが僕だ」
普段よりも掠れてしまった聞き取り辛い声で。それでも告げたイヴァンのそれには、秘めた力強さと自愛が感じられるようだった。
嗚咽、祈り、崇拝
ぼわんとしたその何もない空間に沸き起こった激しい感情が、熱意となってギルベルトの胸にまで届く。国の象徴たる存在が、最も欲する力が今、イヴァンの穏やかな声によって最高潮に達しようとしていた。
素晴らしいデモンストレーション、素晴らしい効果。感動で笑いが止まらない。



グルグルと喉が鳴る。どうしてもにやけてしまう事を止められなくて、毎回ギルベルトは口を隠す。熱意のおこぼれをもらい熱くなった胸、どくりどくりと激しい脈動を繰り返すイヴァンの心臓。何もかもがギルベルトの感情を高ぶらせ、堪えなければ叫び出してしまいそう。
ゆっくりとした足取りでギルベルトの元へ戻ってきたイヴァンは、ちょっと表現できない外見になってしまっている。けれど俯いていたからか、顔は綺麗なもの。頭皮を掠ったのか、少しだけ額から血を流しているだけ。
イヴァンはただ、手で口を覆い続けるギルベルトに一瞥くれただけ、何も告げずに司令室に入っていく。来いとは言われなかった、けれど勿論ギルベルトも後に続く。漸く離した手、口元には相変わらず笑みが乗っているけれど。多分もう、ギルベルトが笑っていようが誰も気にする者はいない。








ギルベルトが室内に入り扉を閉めると同時、ごつと大きな音がした。フローリングの床に、イヴァンが崩れ落ちたから。
痛みはある、当然ある。呼吸だってしている、穴だらけの体では息が出来なくてとても苦しい。イヴァンは再生が早い方、けれどそれ以上にちょっと口では言えない程ボロボロで。数百発、その身で銃弾を受けたイヴァンは多分、もう痛いというレベルではない。貫通しなかった銃弾が、ぼろぼろと床に零れ落ちていく。異物を排出するように出来た体は、異物が残っている間再生しない。
それでもなお、絶対に。イヴァンは彼らの前で膝を付かない、けして倒れない。苦痛に顔も歪めない、笑ってすら見せる。そうあれと、事前に命令されているから。
国の化身はけして、けして倒れない
今後軍の上層部に食い込んでいくだろう若い幹部候補生に、その事実を叩き込み奮い立たせるため。
なんて笑えないお遊戯、けれど最高に化身を有効活用している。頭がおかしいと思うほど。
頭がおかしいと思いながら、それでもギルベルトの口から笑みは消えない。
「はっ…気に、食わない」
両の手を床につけながら、苦しげな呼吸の合間を縫って、イヴァンがそう呟くほど。



屈んで顔を近づけたギルベルトの頭を、イヴァンの手が掴む。ずたぼろになってすら、その強さは変わらない。ギチギチと髪を握りしめ、ガチと音が鳴るほど、歯が当るほど性急なキス。唇ごと食い千切られそうなほど、なりふり構わない獰猛なそれ。
ギルベルトの喉がグルグルと鳴り続けていた。どくりどくりと鳴る心臓を胸に抱いたまま乱暴な口付けを受け、歓喜が全身を駆け巡る。ガチガチと歯は当り続け、喉の奥まで届きそうなほど深く深く入り込む舌。ぐちゅりと溢れた唾液がとめどなく口の端から流れていく。
鉄の味と、熱い舌。ギルベルトの腕がイヴァンの頭をかき抱いて、鼻がぶつかるほど激しく舌を絡める。ぴりと感じた痛みは、唇にイヴァンの歯が当って切れたからか。
構わない、イヴァンの痛みに比べれば、唇が切れるくらい構わない。
突然始まった口づけは、唐突にまた髪をひっぱられる手荒な方法で終わりを告げた。それでも離れがたいギルベルトは、笑みを浮かべたまま額にこびり付き乾き始めた血を舐め上げる。鉄の味、ぼろぼろと乾いた粉末。
「ッ!…あぁ、たまんねぇ」
どうしようもなく興奮する。



現役の顔だとイヴァンは言う。ギルベルトが最も力を持っていた時代の顔だと、当時浮かべていた冷酷な笑みだと。
ボロボロになり指も動かせないイヴァンを見下ろして、向けてきた笑みだと。
それをギルベルトは否定しない。けれどどうしようもなかった、ボロボロになり力なく膝を付いていた当時のイヴァンは、それでもなお壮絶な睨みを利かせていた。どんなに泣き言を言おうが、挫けようが、結局はけして諦めない。チャンスがあれば確実にそこを突かれる、ただ自身の理想を追うというその一点だけで。
今思えばギルベルトは、そんなイヴァンの顔を見るたび欲情していた。緩い緊張を維持しながらも一定の平穏を叶えている現代において、もう滅多な事では見ることの出来ないイヴァンの姿。
「たまんねぇ…抱いてくれイヴァン、俺をめちゃめちゃに抱いてくれ!」
欲情しすぎてわけがわからない。心臓を押し付けて、漸く床に座り込んだイヴァンの股間に顔を埋め、頬を擦り付ける。
盛りのついた猫?だらしない犬?なんとでも言え!
それでもイヴァンは淡々と、唇でペニスがあるだろう場所を擦るギルベルトを放置したままコートを脱ぎ捨てる。中に着込んだ軍服も、シャツも。勲章だけ取り焼却炉に投げ込むだけになった、穴だらけの衣服達。



息をつめる気配、ごぷりと溢れてギルベルトの頭部に滴ったそれは、心臓が体内で動いた事により溢れ出した血だ。閉じ切っていない傷口から滴るそれに、顔を上げたギルベルトは喜んで舌を差し出す。
「床に這いつくばって」
ぽたりぽたりと首から落ちた雫が、ギルベルトの舌を濡らしていった。
「そんな目で媚を売って」
イヴァンは呆れ返っているようだ。雫を喉に流し込み、唇を舐めるギルベルトが完全に発情してしまったから。
「勝手に腰振って」
そんなギルベルトの額を無造作に押しやって立ち上がるイヴァンは、よろける様子もない。
「そんなはしたない子、家までお預けだよ」
本当は、ギルベルトの前でも膝など付きたくないのだろう。それはもうプライドとか意地ではなく、純粋に、ただ純真に弱った姿を見せたくないという愛の成せる技。表面は大分塞がった傷、けれど内面はまだまだ時間がかかる、それをギルベルトは経験として知っている。知られていると知っていながら、それでも痛みを隠すイヴァンが愛おしくて仕方がない。
髪を赤で染めながら、床にごろりと寝転がったギルベルトは相変わらずグルグルと喉を鳴らしていた。イヴァンはもう一瞥もくれず、用意していた軍服とコートに袖を通し、穴の開いたマフラーを一瞬だけ悲しげに見つめてから。
「帰るよ」
何でもない事のように、普通に扉を開けたから。ギルベルトも飛び起きて、上機嫌に後を追う。



普段はゆるゆると緩くて不器用、凛とした姿勢の中にも甘えを含むイヴァンが最大限、やせ我慢をするこのくだらないデモンストレーション。イヴァンの上司は頭がおかしい、化身をなんだと思っていると思わなくもないけれど。背筋を痺れが走るほど、惚れ直すと毎回律儀に思うほど、厳格なイヴァンを見せ付けられるためならば。
ギルベルトは思う、沸騰し熱を帯びた体を切なく火照らせながら。
軍人達、祖国を撃て。







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