5――
ルートヴィッヒは喫茶店の常連客の中では、バウムクーヘンの人、で定着している。内科医という立派な職業があり、小さな町唯一の町医者であるにも関わらずだ。イヴァンのお客様は神様ですプロジェクトを知ってから、喫茶店に顔を出すと決めた日は、律儀に毎回面倒くさいバウムクーヘンを焼き続けている。イヴァンが毎回ばーむくーぅへんと不思議な発音をするそれに、律儀に修正を入れ続ける堅物さ。
もし知らなければ、誰が彼をギルベルトの弟だと思うだろう?



ルートヴィッヒは、自由奔放な兄を愛している。兄として愛している。時には樽に詰めて坂道から転がしてやりたいと思う時もあるけれど、それはきっとお互い様だということも理解していた。何故ならギルベルトに、時々お前を麻袋に詰めて顔がギリギリ出る位置に固定して三日三晩放置したいと思う、言われた事があるからだ。多分一般的な兄弟の中でも、標準とまではいかないまでも大きく外れる事はないという認識である。
その自由奔放な兄が、特に理由もなくふらっと訪れた小さな町で恋人を作ってしまい、一緒に住みたいと言う。会ったその日に関係を持った?!その日にプロポーズ?!絶対騙されている!いけない、それはいけない!そんな気持ちで会いに行ってみれば、相手は男だった。しかもどちらかというと、兄が妻だった。この時ほどギルベルトと縁を切りたい、思ったときはないだろう。
それでも愛する兄は、頬の腫れに湿布を張りながらも頑なに言い張ったのだから、仕方がないではないか。

お前の指を折っても俺の脇腹が逝ってたって、何回だってお前が納得するまで殴りあうからな!お前が納得しねえと、俺にはなんの意味もねえんだ!!

兄弟が姉妹しかいないイヴァンにとって、壮絶な兄弟喧嘩はかなりのインパクトを残したらしい。暫くの間、お医者さんになったのはそのせいなの?自分の怪我を治すため?合理的でかっこいい!言うものだから、目をキラキラさせて言うものだから、一縷の不安がなくもなかったけれど。
仕方ない、そこまで兄が惚れ込んだのだ。しかもイヴァンは不動産をたんまり持っている。近くに鉄鋼業の工場群があるおかげで、田舎にしては土地もなかなかいい値段だ。工場勤務の家族が多いため学校設備が整っており、開業してみれば提携病院として収入も安定している。開業する時の土地もイヴァンから身内価格で購入した、設備を整えるために渋々した銀行の借金も保証人は兄ではなくイヴァンにして一発で通った、ちょっとそろそろ足を向けて眠れない。
そんな理由を経て、ルートヴィッヒは2人を祝福している。堅物で合理的、使える物は何でも使う。兄が同性の妻になって毎日クッキーを焼くという、ホームドラマ顔負けの絵に描いた良妻に納まっているくらいなんだ。微笑ましい事じゃないか、聞くに堪えない惚気だとて町民で分担していると思えば諦めもつく。
これだけの自分に対する言い聞かせと諦めとちょっとした戒めを、ルートヴィッヒは毎朝行っている。毎日毎日思い出しては、これでいい人生何があっても安定が一番と言い聞かせ、そこから漸くルートヴィッヒの一日が始まる。
それが日課だった。それ以外には今のところ、自身の心を惑わせるものなどないと思っていた。





「フェリちゃんがにっこり笑って、ルートぉって言いながら走ってきたら?」
ギルベルトの囁きに、胸がぎゅんと締まった気がする。くっと漏れた呻き声に、周りの空気がざわついた気がした。
「それじゃあフェリシアーノ君が、ルートのクーヘンあーんしてほしいであります!って言ったら?」
カウンターが大理石でよかった。脆い石だが衝撃には滅法強い。ガスンと拳を打ち付けても、ビクともしない。
「じゃあさ、フェリちゃんがさらさらスケスケのシルクを纏って頬を薄ら桜色に染めながらモジモジと寝室の扉を開けルート起きてる?ってか細い震え声で」
具体的に過ぎる!!
これは拳を振るっても仕方がないだろう。フランシスが負傷しても、責任持って治せる資格はある。なんて合理的なんだ!
「シルクってどうなの、初々しさを出すには狙いすぎててちょっと下品じゃない?ギル君にはあまり似合わないと思うな」
「いや俺の話じゃねえだろ。着る気もねえし、お前のせいで俺もう初々しくねえし」
本当弟の前でそういう話止めてくれないか!兄の性事情など知りたくないし心からどうでもいい!!
兄と義理の兄(なのだろう扱い的に)と町民のタッグはルートヴィッヒにとってそろそろ鬼門だ。店に入るなりぐるりと店内を見渡して、少ししゅんとしてしまったのがいけなかったのだろう。何を言うでもなくによによと、笑って手招かれてカウンター。いい加減認めろよ〜、から始まった恋愛相談(?)は苦痛以外の何物でもない。
苦し紛れに頬張ったクッキーはチョコチップ。ココア生地にホワイトチョコのそれはほろ苦く、それでいてこってりと甘い。
横で勝手に復活したフランシスが、眉を寄せたルートヴィッヒを見てふふんと笑う。こういうときの彼は、ろくな事を言わない。
「苦くて甘くて癖になる、恋の味って奴かもね」
バチンとウィンク付きで言い放たれたその言葉に。ルートヴィッヒは罪悪感のひとつもなく、もう一度拳を振り上げた。
そんな可愛い弟を、ギルベルトとイヴァンはニコニコ笑いながら見つめている。堅物で律儀で融通の利かない弟に春が来た、これ以上に嬉しい事はあまりない。




6――
イヴァンの前髪が、さらりと頬に触れた。少しだけ息を整えるよう、上下し続ける背が熱い。
同じく、もしくはイヴァン以上に。浅い息を繰り返すギルベルトは、それでもさらさらと零れ落ちる白金の隙間から、すっと覗いた菫色の目を見るのが好きだった。朝の薄い透明に近い光に照らされて、青の強い紫が淡く光るその瞬間が好きだ。
その目を見た瞬間、力を失った両の腕がすとんとベッドに落ちて、もう何もいらないと思う。
イヴァンから欲しかった物は全部貰った、だからもう何もいらない。
思うのに、すっと細まった目が何処までも優しくて、近付いてきた鼻先が自分のそれに触れ、互いの湿った唇が触れ合うとき。少し張り付くように、触れた唇がくっつくとき。やっぱり何もいらないとか嘘だと思う。
ぷるぷるとした唇が触れるだけなんてもどかしい。頭のまあるい輪郭に沿って滑る指も、小さな笑みを零すために震える喉も、繋がったままじんわりと広がる熱の感触も。ひどく満ち足りるというのに、足りないとも思う。それがおかしくて、ギルベルトは小さく笑った。
「何?」
少し場違いだっただろうか。イヴァンが訝しげに顔を上げる。それでも頭を撫でる手はそのままだから、たいした事ではないとわかっているのだろう。
少しだけ努力をしないと持ち上がらない手を、イヴァンの頬に伸ばし撫でてみる。それだけで彼は気持ち良さそうに目を細めるし、幸せそうな顔をする。
なんて素敵な朝だろう。
「今日のクッキー、何がいい」
ぽろぽろと零れた声はかさついて、何時も以上にざらざらとしている。けれどギルベルトの問いは、彼が最高に機嫌がいいときにしか聞けない物だから。イヴァンはもっと嬉しそうに顔を綻ばせ、すぐにあれこれ考え出した。そういうイヴァンの子供っぽいところが、ギルベルトは好きだ。朝目が覚めた瞬間から盛ってお互い腰を擦り付けあった事など、なかったようにすら思える。勿論抜かれていないペニスはまだ、どっしりとギルベルトの中にいらっしゃるわけだけれど。
「チーズ。チーズのやつがいい。今日誰かシチューかボルシチ持ってきてくれないかなぁ」
何故貰う前提で話を進めるのか。シチューだってボルシチだって、ギルベルトは作れる。言ってしまえばイヴァンだって作れる。それなのにイヴァンは、誰かが持ってきてくれる事を望む。



多分、なんとなく。
イヴァンは誰かに何かを貰いたいのではなくて。誰かが何かをくれるために、来てほしい。そんな気がする、ギルベルトは別にイヴァンからそう打ち明けられた事はないけれど。極端に方向性の違う妄想ではないだろう。
普段は強引で強気なイヴァンだけれど、何故かその、誰かが傍にい続ける事に関してはとても臆病。好き放題するくせに最後の最後は弱腰で、残るか残らないかは全て相手に委ねられる。そんな時のイヴァンは何処か、諦めきった顔をしていた。
だからギルベルトは気分がいい。とても気分がいい。イヴァンを知れば知るほど、最後を委ねられた事がない自分の立ち位置が、どれほどイヴァンの奥深くに根付いているのか実感するから。
君はクッキーを焼ける?
初めて会った時の、何てことのない問いが。イヴァンの何かを委ねられる合図だったと、今でも信じて疑わない。
「おまえって結構、シンプルな方が好きなのな」
漸く整った息、戻った声でクスクス笑うと、イヴァンは決まり悪そうな顔をして。それでもうんと、素直にひとつ頷いて。
「だって、お母さんの味、でしょ?」
僕覚えてないから、凄く欲しかったんだ
告げた声は何処までも平らかで。それがイヴァンの何にもならない言葉だと、感情を揺るがす事はないのだと、ギルベルトに伝えてくれた。
「もう僕にとってはギル君の味だもん、だから何でも好き」
それはもう、蕩けるような笑み付きで。見てしまったギルベルトが気恥ずかしくなるほどの笑みで言い切るから。お前のちんこまだ入ってるときにそういう事言わない、言いたくなる気持ちをぐっと飲み込む。流石にこの空気で言ってしまったら、自分が痛くて暫く立ち直れないだろう。





フィンガークッキー
サクサクして粉チーズが香ばしいそれは、菊が眺めている間にもコンロから出ては焼かれ出ては焼かれを繰り返している。どれほど焼くのか、何故ギルベルトは本日絶好調なのか。
「ね、怪しい匂いがするよね」
左隣に座っているフランシスが囁いた途端、菊の体が右に引かれる。
「近い、うざい、死ね」
右を見ればアーサーが、怖い顔をしていた。アパートの向かいに事務所を構えるこの弁護士は、気付けば菊の傍にいる事が多い。それなのに、曖昧に笑うと慌てて顔を背ける。
何でしょうねえ?
近付きたいのか離れたいのか、それではわからない。
「ギルベルト君がクッキーを焼いている姿って、何だか落ち着きますよね」
とりあえずというように、言って笑うとアーサーもうんうん頷くから。菊はとあるCMを思い出してクスクス笑った。
「クリームシチューです」
冬の日の、家族の象徴
台所が開いたら、クリームシチューを作りましょうか。声をかければ頬杖をついたイヴァンが、嬉しげに頷いた。







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